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尖石・平出へ                              
               2002.04.04(木)-

4月4日(木)晴天。
 朝、7時出発。尖石縄文考古館を目指す。朝のラッシュを避けて一宮Icから名神高速、さらに中央道へ入る。昨夜からの強風が続く。松川Icで降りる。出口でレンギョウの黄色が鮮やか。町の通りでは小さい子供の手を引く親の姿が目立つ。女の子が紺色のスーツに白いレースの襟を付けてランドセルをしょって行く。ここでは今日が入学式だ。小学校の桜の花もちょうど満開。今年は早くから気温が上がり、例年では今がつぼみのはず。それでも、駒ヶ岳は白い。
 今回は高遠経由をやめて、長野県辰野町で県道50号線に入る。諏訪市に入ってまもなく、「ざぜん草の里」の表示が目にとまり駐車場に入る。ここは、有賀峠矢之澤湿原という。小道を上がっていくと木道を巡らせた湿原に出る。丈が10センチほどの赤黒い植物があちこちに頭を出している。今年はもう、盛りを過ぎたようでほとんどが少ししなびている。この植物体は異臭がするということだがよく分からない。群生の中に水芭蕉が明るい黄緑で混じっている。木道の出入り口にこの湿原について説明板が立ててある。「座禅草(サトイモ科)早春に雪の中から新葉と共に花茎を出す。一般に花と呼ばれているのは紫黒色の仏焔苞であり花はその中に被われている。……株は自生し大形の多年草で葉の直径は60p位で長い柄があり繁茂する。水芭蕉(サトイモ科)多年草で中部以北の湿原に群生しており諏訪地方には自生地はない。当湿原は苗を育成し定植したものである。……美しい花が終わると芭蕉に似た淡緑色の葉が出る。」
 峠を下ると里に出てすぐ中央自動車道をくぐる。すると広がった家並みの向こうに八ヶ岳連峰の白い峰がそびえる。茅野市の街並みは諏訪市の街に続いて国道20号線沿いに広がる。市の中心部を国道152号線が横ぎり北へ向かう。尖石遺跡は八ヶ岳山麓のそろそろ林が始まるところにある。ゆるやかに昇っていく道路には、昨夜来の強風のため樹木の小枝が一面に散らばっている。遺跡南側の道を通っていて建物の表示を見落としたか考古館が分からない。ナビ画面の表示ではもっと北に寄っている。北側へ回って未舗装の細い道を上がると、そこはもう史跡公園の中だった。広がった台地に茅葺きの復元住居がいくつか見える。園内の道は、先ほど通り過ぎた建物の裏手に出る。ここが尖石縄文考古館だった。12時5分に到着。
 思っていたより大きな建物で、中に入ると先ず明るいロビーがある。そこには有名な土偶のレプリカがいくつも並んでいる。4面をガラスで囲んだケースの中に一つずつ収まっている。ちょうど目の高さで見やすく、それも周囲を巡って見ることができる。東京国立博物館収蔵の遮光器土偶がある。他にも山形県のあのスマートな立像などもある。ちょっと見た眼には本物と変わらないように見える。(後日、担当の方の下さった情報では、その後この土偶レプリカは主展示室に移動している。この考古館では、よりよい展示とするために様々な展示替えをこまめに行っているとのこと。)いつだったか京都文化博物館で、アフリカで出土した300万年前の猿人骨格などを見た。あれは人類進化の展示で、これまでに発見された猿人、原人、旧人、新人の主な化石骨がすべて精巧な作りのレプリカで並んでいた。土器や化石を正しく複製して見やすく展示するのはよいことだと思う。貴重な出土品が遠くの博物館に収められて現地にないような場合も、どちらに本体を置くかは別にしてレプリカ作成を考えるといい。
 展示室では照度を下げ、壁面に沿った展示ケースの中を明るくしている。土器がたくさん並べられている。この部屋は主に宮坂という人が昭和の初めから発掘・保存してきた土器を展示しているという。次の部屋は国宝に指定された土偶などの展示。次の3番目の大きな部屋がいわばメインの展示室になっている。ここの土器の多いことはどうだ。両側の壁面にはガラスケースが設けられ、二段のガラス板の上に土器が並べられる。それだけではない。広いフロアには説明のパネルを立てたコーナーがいくつもあって、それぞれの壇にもぎっしりと並んでいる。目に付くものを少しずつのぞき込んでいるだけでどんどん時間が経っていく。縄文式土器は、出土した土器の形や紋様の様式を見ることによってその年代をある程度まで特定できるという。それならば、似たような形や紋様が多いように思うけれども、実際には似たものは少ない。ここにこんなにもある土器の一つ一つがそれぞれ何らかの特徴があり独特の雰囲気がある。それは多分作り手の人柄が自然に出た結果だろう。ある男(女)が一つの土器を両手で土をこねて作り上げていくとき、きまりきった約束事、先祖から伝えられた経験以外にも多くの自由を持っていたらしい。明らかに粘土細工を楽しんでいる。それも、大人の高い感性を発揮して。
 よくある紋様としては区画した面を並べたものがある <図-005> 。最初の部屋のガラスケースにあったもので、いまでいえば大きな花瓶といった器だ。上部に飾りの突起を片側(多分正面)に乗せていて、胴体には、縄状突起紋様が張り付いている。その隙間を区画紋様が埋めている。多くの縄文土器は一面に隙間なく紋様がついている。明らかに区画紋様はそのための方法の一つとして用いられている。区切り方はその都度考えられているようだが、多分、その場合に視覚的バランスも気に留めているだろう。ここにある区画はテープ状の枠と細かく刻まれた線以外に何もなく、線も細く控えめだ。これは、主となる縄状突起紋様を目立たせるための簡潔な表現だろう。
 このように、容器の口の片側に飾りの突起を乗せたものは他にもたくさんある。<図-006>は突起の細工がおもしろい。内側の面を外側へ反転させた部分がある。突起を内から外へ丸めて輪を作ることは多いが、これは面を裏返している。そのために、厚みを持たせた縁が独特のカーブを描く。結果として三次元の世界がいっそう強調されたような気がする。この突起の中央部には大きめの穴があいている。このような例は他にもいくつかある。何のための穴だろうか。縄や棒を通して容器をつり上げるのは無理だ。その場合、重心の位置から見て突起はすぐに折れる。のぞき穴か。片目で十分に見通すことができる大きさだ。容器の反対側に何があるかというと特にない。棒を通して容器の上に置いておくと何かの役に立つだろうか。突起は、容器のいろいろなところに付けられるけれども、その実際的な使い道が考えられる場合は意外に少ない。<図-007>の容器は、形としてはあまり例を見ない。このデザインは、ある不思議なまとまりを見せる。外側にカップの取っ手に似た突起がある。しかし、かなり大きめで指になじむ形でもないから現在のカップのような持ち方はできない。反対側下部を片方の手で支えて両手で持ち上げることになる。取っ手の上部は上へ三角にふくらみ、内側に向いて大きく穴があく。穴な深いようだが抜けるところはない。これは何だろう。取っ手の上ではさらに面を巻いて輪を見せる。他にも器の上部周りに三つの突起があり輪の中に浅い穴がある。しかも、それぞれ斜め横を向いて。下部の高台にも穴が開けられている。四つあって、一組は円形、もう一組は内側にへこんだ四角形である。この四角形は他にあまり見ない。容器そのものは丸くふくらんだ形の二段重ねだ。この容器全体がいかにも立体的表現に満ちている。
 突起そのものが外側に向かって面を巻いたカールでできている容器がある。<図-008>は、実際には出土後に下部を白く補足した丈の高い深鉢である。カールの端の渦巻きは容器の縁が流れ込んでできている。この面の巻き込みで何を表そうとしているのだろうか。
 <図-009>は「貝殻状突起付き深鉢」と呼ばれている。上部は花輪のようでもある。その開いた口は、内側にそれほどの出っ張りはないので、こんなにも装飾が多いけれども全く何も入れられないわけではない。その下の細くなる胴には薄い厚みの小輪がたくさん貼り付けられていて、上に比べると大分すっきりしている。底に近い部分は欠けていて出土後に補われたもののようだ。形は、無数に刻んだ縦線と共に上に開く勢いを持っていて、そのために上部は下から押し出されているかのようだ。これを作る手間と時間は膨大はものだ。これだけの装飾に取り組んだ人物の意欲はどんなことに向けられたのだろうか。何度も途中で手を休め、これからの形を思案しながら微笑する男(女)。傍らでさらに粘土を用意している誰かと小声で言葉を交わしながら一緒に作品をじっと見つめる。
 これらと全く違う土器がある。縄文時代前期のこの地方で表面の紋様がこれほど控えめにされることは珍しいと思う。紋様を適当に、いい加減にしているのではない。確実に刻まれ付加されて全体の中に配置される(-010)。()この形の全てが確かに出土しているのかと、思わず疑ってしまう。この控えめさは、この形にとってもっとも必要なことである。限りなくなめらかに上に開いて、何ものかを受ける形。彼(彼ら)は、この稜線を描くためにどんな感覚を動員したのだろうか。縄文時代の装飾の多い土器に囲まれながら、このような作品を作り出した作者について知りたいと思う。この作品ができあがったとき、心から納得し受け入れた周りの人たちも、優れた感覚を持っていると思う。
 一番奥の部屋では縄文時代の暮らしについて説明し、学習体験コーナーが設けてある。小学生らしい女の子たちが男の人に見てもらって粘土で何かを作っている。その左手は図書閲覧室になる。本も多い。「原始美術 縄文土器」として、20年前の大きく立派な写真集などがある。古書店で見つかるかと思って各奥付を写す。パソコンがあって、縄文関係のwebページを取り込んで見せている。ロビーの喫茶コーナーで休憩し、展示図録を買ってから受付へいって聞いてみる。「どなたか質問に答えて下さる方はみえますか。」「はい。学芸員がおりますからいま連絡をします。」「場所が分かればそちらへ行きますが。」「いま呼んできますから少しお待ち下さい。」後ろのドアへ入って行って、まもなく男性と共に出て来る。「ここで展示している土器は、どれくらいの時代のものが多いのでしょう。」「ああ、そのことですね。どうぞ、こちらでお話ししますから。」と、第三展示室のガラスケースの前へ行く。土器が展示されている中にパネルがあって、縄文草創期からの年代がテープ状の図を区切って示されている。「こちらの考古館で展示している土器は、この縄文中期のあたりのが多いんです。炭素測定法という方法で調べると大体何年前のものか分かる場合もあります。そんな場合は5000年前とか、4000年前とか表示しています。」「四角なんかで区切った紋様のものがたくさんありますね。」「そうですね。区画紋というんですが多いですね。」「この、晩期に当たるものはありますか。」「晩期の土器は少ないんですよ。こちらへ来て下さい。」縄文晩期の土器は一番隅のガラス棚に並んでいた。「晩期のものはこれだけなんですか。」「いいえ。まだこれ以外にもあるんですが晩期の出土品はいま整理を進めている最中なんです。作業が終わり次第展示をする予定でいます。」「晩期までの遺跡で上の段遺跡というのがあるそうですね。」「あ、上の段遺跡ですね。あります。このあたりの遺跡はほとんどここで展示しています。」「この地方で他にも資料館なんかで展示しているところはあるんでしょうか。」「比較的近いところでは井戸尻考古館というのがあります。もう山梨県に近いところですが。」地図があるというので受付へ戻る。
 井戸尻考古館は富士見町の東の端、県境にある。できるだけ考古館に近づいて国道20号線に出ようと、東へ向かう。南下する道へなかなか出ない。やがて車に全く出会わなくなった。林の続く向こうに八ヶ岳を見ながら走っていると、道路は未舗装になった。ひどいでこぼこ道。こうした穴は、雨と車輪のせいで時間と共に深く掘られていくようだ。道いっぱいに隣り合わせでへこんでいて、どれか二つのタイヤがいつも落ち込む。カーブを過ぎてやっと舗装道路に戻る。次第に林が深くなって「八ヶ岳登山口」の標識が立つ。やがて家が多くなり下蔦木で国道に出た。
 「民俗資料館を先にごらんになって、それからこちらへ来てもいいんです。」「今日はここだけでいいんです。ここは5時までですか。」「ええ。多少のことはいいんですが。」あと、30分ほどしかない。展示室は蛍光灯のせいかなんだか青白い。周囲にガラスケースを一面に設けてほとんど足元に近い下から2,3段のガラス棚の上にびっしり土器が乗っている。ケースの中がやや暗い。部屋の明かりがガラスに反射する。それに、展示物は手前のガラス面から離れて奥にある。ケースの中の説明パネルでは蛙のことや月のことがていねいに念入りに書いてある。一回りして元に戻るとそこに縄文家屋の内部が復元されている。上から見下ろす視角は珍しい。
 塩尻市へ向かいながら、今日はこのまま家に帰るか、どこか泊まるところを見つけるか考えた。もう暗くなるので家に着くのはかなり遅くなる。電話で茅野駅近くに宿をとった。


4月5日(金)晴天
 国道152号線を鳥羽山洞窟へ向かう。1年前の今頃、この道を家族で通った。工事中で渋滞の連続だった。今日は工事もなく、まだ9時前だから道は空いている。白樺湖を過ぎると急に道は荒れてくる。大門峠というのがあって、この道を大門街道という。前のトラックに距離を置いてついて行く。工事のための荷物を積んだ大型トラックは、下り坂をゆっくり走って行く。
 鳥羽山洞窟は丸子町に入ってすぐなのだが、道がない。ナビに遺跡の印は出るが、ただ小高い山の中にあってその印に近づく道は表示されない。丘の中腹で行き止まりになって周りを見下ろし、少しでも印に近づけそうな田圃の中の道を進む。山に近づくとどの道もみんな消えてしまう。あきらめて町へ入る。役場で町立郷土博物館の位置を調べる。丸子町はかつて生糸を生産する町だった。百年前からの製糸業の歴史が見事に展示されている。鳥羽山洞窟については古墳時代からの風葬に近い葬送場として説明している。和田峠の黒曜石について展示される。縄文土器の展示はほとんどない。
 松本を経由して平出遺跡を目指す。昼前には「あがたの森公園」のわきを通って川を渡った。県道63号線で塩尻市内に入り、そのまま進むと平出遺跡がある。ぶどう畑に囲まれた広い遺跡。古墳時代の住居を復元し、いくつかの住居跡を保存している。畑の中をさらに南の道へ出ると、その道はゆるい上り坂を森の中に入って行く。まもなく平出博物館がある。建物の向かいの高台でも樹木を切り開いて古墳時代の住居が復元されている。こちらはかなり大きく中はゆったりした広さだ。この博物館は入ったすぐのホールは狭く、左手の展示室もそれほど広くはない。しかし、ホールの先のドアーを通って渡り廊下の先の建物に入ると広い展示室がある。ここが本来の常設展示だ。ていねいな照明の中に縄文・弥生時代の様々な形の土器がたくさん展示される。中央のコーナーには、一つ一つが高い台に置かれてガラス越しではなく直に見られる。奥の土器の遠い距離はもどかしい。2階は塩尻の民俗展示。誰かが入っていくと自然に物音や話し声、せせらぎの音などが流れる。玄関ホールに戻って、もう一度左手展示室を見る。ここは平出遺跡について説明した展示室だ。ここの縄文土器もおもしろい。それほど大きくなく半分欠けた浅鉢がある <図-11>。この土器に表された紋様は永遠に続く紐である。互いに接して平行している紐は、折り返し戻ったり何かの下をくぐったりして続いている様に見える。この、紐状のものをなんとしても連続させたいという意欲は何だろうか。配置された紐による紋様は規則的ですっきりしている。口縁部では、5本の紐がほぼ水平に並んで巡っている。この並んだ紐が突起部でどんな状態にあるかは、上から見下ろさないと確かめられない。手前のなだらかな突起が一つと、おそらく、反対側にも同じものがあると思われる。これは、紐を巻き込むこと以外に上部中央に縦の割れ目を持ち、細いものが1本わずかに覗いている。両側で側面に出た渦巻きを含めると全部で4つの突起を持つと考えられる。いずれの突起にも、横方向に貫通した穴がある。
 玄関の右手にも部屋があって、さらに2階もあった。こちらは特別展室のようで、現在は「縄文土器大集合!」と掲げてある。階段を上がって入っていくと広い部屋中に縄文土器がいっぱい詰まっていて驚く。床にも、床で特に設けられたいくつもの壇にも。壁面や部屋の角では、まるで「高く積み上げた」という感じ。たとえばある角では、唐草文土器ばかりがいっぱい集めてある。説明に「縄文時代中期後葉(約4000年前)に松本・上伊那・木曽地域を中心にみられました。……。」とある。また、別の角の土器では、「焼き町土器 躍動感のある華麗な文様で飾られた豪華な土器で、最初に注目された塩尻市上西条の焼町遺跡の名を取ってこう呼ばれています。縄文時代中期中葉(約4500年前)に東信地方から群馬県を中心にみられることが明らかになってきています。」とある。別のコーナーには、「1軒の住居跡から見つかった土器 塩尻市上西条の剣ノ宮遺跡の発掘調査により数十軒の縄文時代の住居跡が発見されました。その中でも27号住と呼ばれる住居跡からは、これほど大量の土器が発見されました。」と表示・展示される。ここでは、かけらのような土器もわざわざ入れてあるが、ほかの展示に土器片はない。しかも大半の土器が不足部分を白く修復している。
 中央高地には諏訪盆地を中心に、かくも多くの縄文土器が残されていた。夜、19号線で帰る。