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土井ヶ浜・上野原へ                              
            2002.05.22(水)-06-05(水)
 

5月22日(水曜日)晴れ
 朝、7時30分出発。桑名から鈴鹿峠経由滋賀県に入る。竜王町で「妹背の里」の看板。額田王などの歌の故事にちなんで名を付けたキャンプ場。琵琶湖畔に近づいて「せかいのあじさい もりやま芦刈園」を見る。午後1時、琵琶湖博物館着。絶滅危惧種タナゴを見る。オレンジ色がきれいなミヤコタナゴ。びっくりしたような大きな目をしていつも逃げ回るスイゲンゼニタナゴ。外国の淡水魚のところで中国の「オオタナゴ」「トンキントゲタナゴ」を見た。大きく、体高が高い。赤い婚姻色が強烈。5時半、大津市。


5月23日(木曜日)晴れ
 比叡山口を通って北白川経由、今出川通りを京都市街通過。仁和寺、高雄神護寺わきを通って京北、日吉、丹波町へ。屋根の形がおもしろい。次いで兵庫県篠山市へ入る。草山温泉。丹南15:30。


5月24日(金曜日)晴れ
 城之崎を目指す。福知山は起伏の多い町。 まわりの山は優しい形をしている。城之崎の町は道路工事中でなかなか進めない。外湯温泉「鴻の湯」。近くのマリンランドへいく。金額が高いので券売所で水族館の特徴を聞いてみる。トドやアシカのショウがあるという。水性 哺乳類の動物園。それより海岸へ降りて写真を撮る。鳥取砂丘は午後遅くなった。近くの川が運んだ砂が陸に吹き寄せられてたまったものだという。海岸ぎわに大きな砂の丘が一つできていて、登ることができる。小さな資料館〈福部村歴史資料館〉があって、奥の二つ目の展示室に縄文式土器が展示されている。「蛇を表した」土器の破片というのがあった。いかにも蛇らしく見える。出るとき受付で聞いてみた。この資料館はいつ頃できたんですか。12年ほど前です。しばらく休館をしていて再開されたんです。ほう。最近に。2年ほど前です。あんまり聞かない資料館でした。奥に土器の資料があるんですね。ええ。弥生式土器なんか。縄文式土器なんかもっと宣伝するといいでしょう。そうですね。といって彼女は笑った。日没近く美作に。


5月25日(土曜日)晴れ
 まず、倉吉市へ。次いで米子市へ。このあたりは立派な寄せ棟づくりの家が多い。黒く艶のある屋根瓦は北陸・山陰地方共通。ちょっとした家の屋根にはたいてい棟の両端にシャチが乗っている。気をつけて見ていると単純な切り妻屋根にさえ乗っていることがよくある。松江は交通が複雑なところ。二つの湖にはさまれ、そこへ四方から鉄道線路や道が集まっている。今日、宍道湖は濁っている。青い水ではなく嵐の後の川水の色に近い。出雲大社では発掘された宇豆柱を見た。むかし、平安時代まで大社は45メートルの高さがあったという。復元予想図では正面が3本柱、その階段は中央の右側にかけられる。江戸初期に作られた鎌倉時代の構造模型も高さ以外は同じ。念のために実物を見てきたがその通りになっている。当時はあの高さが必要だったのだ。それ以前にも高い建築物には大きな力があった。時間が遅くなって中国山地へ戻る。ほとんどまん丸の月が高くあがって明るい。


5月26日(日曜日)晴れ
 出発は10時半と遅くなった。広島市はすぐ近く。国道54号線で市内に入る。原爆ドームと平和記念館を見る。ドーム敷地内の高さ20メートルほどもある大きな木が、太くなった幹の4,5メートルの高さで皆外側へ枝分かれしている。公園内の大きな木はほとんど同じようだ。修学旅行か、中・高校生が多い。小学生も先生の話を聞いた後、練習してきた歌を合唱している。子供連れの外国人夫婦が何組か来ている。原爆投下があの時期になぜ為されたか、なぜ広島が選ばれたかについて説明するパネルがある。今日は早めに山口県に入った。


5月27日(月曜日)晴れ
 秋吉台へ。秋芳洞はまだ朝早めのせいか人が少ない。土産物店の通りでは、一人ぐらい歩いていても声もかけない。歩いていてこのタイル舗装の道を思い出した。以前の時は雨が降っていてタイルは濡れていた。この洞窟の最大の特徴は広大な空間にある。棚田のような「千枚皿」も見事だ。外の川で糸トンボのような形、飛び方の大ききなトンボを見た。飛ぶと、青く細長い尾と赤茶色の羽が一瞬見える。今日もよく晴れていて、上のカルスト台地は夏のような日差し。丘の下に立って見上げると頂上に木立が一列並んでいる。そこまでいってみたくて登っていった。途中、木立に向かってカメラを構え写真を撮っている人がいる。「草地復元エリア」として立ち入り禁止区域がある。頂上の石灰岩の上に立つと、下で見た木立は通り越して遥か下に繁っていた。近くに「秋吉台自然博物館」がある。ニホン象やオオツノシカの骨格が復元されている。縄文時代の石器なども少し展示される。博物館はできてから大分年数が経っているようで、カラー写真が青くなっている。今でも展示は充実しているのでできたばかりのころはさぞ立派な博物館だったと思う。国や県も自治体を助けて展示素材や展示内容の質を更新すべきだ


5月28日(火曜日)晴れのち曇り、雨
 山口県の二日目。豊北町の土井ヶ浜へ向かう。この辺の新しい家は濃いオレンジ色の屋根瓦が多い。昔からの屋根として時々大きなトタン葺きの屋根がある。この形をそのまま茅葺きに戻せば50年昔の風景になる。この形でトタン葺きではなく瓦葺きでがんばった屋根も見た。この形は植物で葺いた屋根のもっとも基本的な形らしい。この大きな屋根の下にある戸口や部屋の障子などの部分を取り去ったら、縄文・弥生の縦穴住居を復元した姿とあまり変わらない。いつ頃このオレンジ瓦に変わったのだろう。形は田舎風を捨てて町の格式を重んじるものになった。土井ヶ浜遺跡は海岸の砂浜の中にあった。砂の中から2千年以上前の骨を掘り出したのだ。ここの砂には、細かい貝の粉がたくさん含まれていて、その石灰質のおかげでこの渡来人達の化石骨は良好に保存されたのだという。現場は今、ドームに覆われて骨など出土品はレプリカに変えられ、発掘された状態で復元している。下関市立考古博物館の看板を見つけて寄る。弥生土器の立派なのがたくさんある。縄文土器も出土するということで展示されているが、それは全て土器のごく一部のかけらで、しかも、縁は砂や水に長いことこすられて丸くすり減っている。この辺りに縄文土器の出土が少ないのは、当時の縄文人口が少なかったのか、あるいは埋まって保存されるまもなく次の時代の生活者に破壊され消されてしまうことが多かったのか。関門トンネルをくぐって門司、八幡経由、福岡市に入る。雷雨。


5月29日(水曜日)晴れ
 熊本市へ向かう途中八女市に寄る。八女市歴史資料館で30分近くたった一人で解説員の丁寧な説明を聞く。6世紀、「いわいの乱」について巨大な石人の展示を前にして話を聞いた。


5月30日(木曜日)雨天
 熊本市内に入って水前寺公園に寄る。市内の道路は方向がわかりにくい。ナビの画面がいつもと違っていて元に戻せない。夏目漱石旧居を探したが見つからなかった。「名称」を適当に入れて検索すると案内経路が画面に出たが、到着してみると県立熊本高等学校だった。ここは多分、かつての第五高等学校で、ここに何かあるのかもしれない。


5月31日(金曜日)曇りのち晴れ
 えびの高原経由、霧島神社へ行く。朱塗りの神社。本殿の姿はよく見えない。向かって右手に巨大な杉の古木がある。樹齢800年とある。県道60号線で下り国分市役所へ行く。シビックセンターというところにあって立派な市役所。案内所でパンフレットと地図をもらって上野原遺跡へ向かう。まだ正式の建物は11月に開館予定で現場では仮の展示をしているはずという。現地に着くと、高台の広場にちょっと変わった復元住居がいく棟か建てられ、そばにプレハブの展示室がある。中は、よくあるはぎ取り地層とガラスケースの中の修復された土器の展示。貝などを押しつけた紋様以外に数本の平行線による無限大図形!!。近代数学の世界。もっとも、後で出会った解説者はこれらは重要文化財に指定された土器ではないが、と断った。ガラスケースの中よりも室内の方が明るいので反射光で中の展示品がよく見えない。尖石の博物館建築設計は、まだ普通のことではないのだろうか。復元家屋の点在する「縄文の村」を一巡して出口に向かうと男の人が二人、竹箒で敷地内の 芝生からごみを掃き出していた。「いつも思うんだけどね。この箒ほどよく考えられた道具はないよ。実によくできている。ほかのものではこんな風に使えないでしょう。」と感心して使っている。そばを通ると、「こんにちは。どちらから見えたんです。」という。「こんにちは。愛知県です。」「それは遠いところから。」「建物が新しくできるそうですね。」「もうできてますよ。ほら、あそこに。今準備中で、土器やなんかを整理して入れているんです。11月からですかねえ、見られるのは。」「ああ、そう。じゃあ、あのプレハブの展示はごく一部なんですね。」「そうです。重要文化財に指定されたのがいっぱいあるんですが、今あそこには一つもありませんね。」「来るのが早すぎたんですね。また来ます。」「どうぞ、また、いらっしゃってください。」すでに、どこに何ができているか、広い敷地の中をいちいち指さしながら説明する。展示室の脇の説明パネルを見ているとまたやってきて解説をしてくれる。焼いた石を使った調理のこと。続いた二つの穴を使って燻製を作ること。これらは実際にやってみたらちゃんと食べられたこと。


6月1日(土曜日)晴れ
 鹿児島市郊外で高速道路は終わりに近いようだ。本線上に料金所がある。ここまでというところで出て、市内に入る。いつか観光バスで通ったことがあるが、坂の多い町だ。海岸から離れてすこし内へ入るとすぐ登り坂になる。黎明館と称する県立博物館がある。行ってみるとこれは総合的な文化会館で歴史資料館はその一部だ。「写真撮影ご遠慮ください」ということで用具を取りに車に戻ってスケッチをする。簡単に決めつけてはいけないけれども、本州の縄文とは少し違う。デザインは早期ですでに洗練されている。後期・晩期のものが十分に見られなかったが、後期以後は南方からの影響がいっそう強くあったように思う。これは、「南洋民族風の味わい」だろうか。巧みに復元されているので補った部分がはっきりしない。スケッチしていて、本当にこんなにきれいな形だったのかと思い、土器のどこまでが本来の出土部分なのか確かめたいと思った。会場の解説員さんが部屋ごとにいるので、聞いてみる。現場で質問を繰り返すと「さあ、どうでしょうね。そのご質問には、学芸員がいますから。」といってすぐ呼びに行ってくれる。この深鉢の上の部分に整然と並んだ突起は、実際に出た部分があるのだという。ずいぶん早くからこんな紋様を使っていたのだ。左手には、中の深い円筒形の鉢がある<図-012>。複製ではない。手前の上の部分が出土したようだ。こうしてきれいな円筒形に復元したのは何か資料があるのだろうか。聞いてみると、似たのようなのがいっぱい出てるのだという。南九州では、早期から平底が決して珍しくはないとのこと。何か形も紋様も現代的だ。この厚みもこんなに薄くすっきりしている。平底は、焚き火の中や砂の中ではなく平らなところに容器を置くという文化だ。多分、ごく最近数千年間を除いて正確な平面は人類にとって特別なものだった。この大きめのコップのような容器が、たとえば畳の上や机の上に置かれていてもそれほど違和感はない。この突起の意味は何だろうか。文様について、よく、蛇とか蛙とか月とかを表しているような説明がされていることがある。あれは興味を引きやすいけれども実際はどうなのかと思う。具体物に結びつけるよりも、この紋様や形そのものが何かの思いを込めているということはないのだろうか。「先ほど、あの方が、解説員さんがおしゃっていましたが近くに〈ふるさと考古館〉といのがあるそうですね。そこでもこうした土器が見られるんですか。」「鹿児島市の〈ふるさと考古歴史館〉ですね。なかなかいい展示ですよ。ご覧になるといいですね。」すぐに解説員さんがその考古館のパンフレットを手配してくださった。こちらでも、着いてすぐ聞いてみたが写真撮影は出来ないという。ここでは縄文の展示に広い面積、空間をもうけている。展示場の大部分を占める中央には縄文時代の広い丘陵全体が復元され、連なる丘、森や林、動植物、人物がミニチュアで再現される。その一部は動きも用意され一日の時刻によって照明が変化する。多くのテレビカメラがその場面を各受像器に映す。出土物は、旧石器終末から縄文草創期、中期、後期まで展示される。草創期では、掃除山遺跡隆帯文土器というのがある。「粘土ひもを口縁部にはりつけ、さらに刻み目をつけた紋様」ということだ。後期には、市来式土器というのがある。口縁部の紋様を主とするものが多く、また、口縁部に4つの突起を持つものが多い。この辺は、本州の縄文とつながる点だ。南九州の場合、紋様は規則的に並んだ突起や線描が特徴なのだろうか。表現は平面的で立体的表現への関心は少ないように思う。


6月2日(日曜日)晴れ
 佐多岬を目指す。海は南の海だ。浅瀬が透明な緑色をしている。湿気の多い気象のせいか、遠くが青みがかっている。垂水海岸から見る桜島は、明るい空を背景に青白い影で浮かんでいる。午後、日差しが夏のように強い。山々は明るく、木々はまだ若い葉がきらきらと輝く。岬へ出る道は深い森の中。赤い花が咲いている。大きな木の上の方から茶色い根が幾筋も絡まって垂れ下がる。沿道の森は蒸し暑さもまるで沖縄のよう。近くの海面は輝いているけれども、遠くはかすんで沖の島というほどでもない手前の島さえ形がぼんやりしている。携帯で志布志湾海岸のキャンプ場を予約する。

 
6月3日(月曜日)晴れ
 誰もいない松林の中のキャンプ場で目覚めた。きのう、ここへ到着したとき、一人駐在する若い男性が利用についていろいろ親切に説明してくれた。車の中で寝るなら千円ですむ場所があること、ただし、AC電源はないこと、今日はほかに利用者はいないからゾーン内の利用箇所は現場で選べばよいこと、利用規定を遵守すること、すぐそばの「道の駅」で温泉に入れること……。AC電源付きを選んだが、真夜中、車内で明るい蛍光灯スタンドをを点けていろいろやっていてヘッドライトを消し忘れ、わざわざやって来た彼に注意された。朝になってみると大変よく整備された広大なキャンプ場。各駐車箇所は煉瓦を敷いて明示し、全体に通した広い通路は全て木片を組み合わせたタイルで出来ている。
 午前中、きのうは遅くなって寄れなかった内之浦東大ロケット発射場へ出かけた。ここは自家用車で巡回することが出来る。起伏のある広い敷地内には発射場の建物や大きなパラボラアンテナ、ロケットの実物(複製?)が展示されている。守衛室のある建物の近くには、古くなっているけれども立派な資料館がある。その中に入ると自動で説明の音声も流れるし、展示もやや高度だが詳細で丁寧。しかし、係りも観覧者もいない。使用を停止している設備もあるようで、これだけの立派な展示施設を管理者はもてあましているような気もする。工業高校の生徒や、航空宇宙に関心のある若者の欲求に応える優れた設備なのだが。午後、本州への帰り道についてハンドルを握りながら考えた。結局、すぐ近くの志布志港で明日のフェリーを予約した。明後日の朝、大阪に着くという。


6月4日(火曜日)晴れ
 宮崎自動車道で宮崎市へ入る。広い幹線道路の中央分離帯には、背のたかい椰子の木が並び間のポールに外国の旗、水色に白十字の旗が続く。神宮駅のそばに「宮崎県総合博物館」というのがある。駐車場から「明治百年記念 椿の森」を通る。高い樹木の茂った木陰の道で涼しい。玄関の横に「縄文樫の木」が横たわる。縄文晩期から弥生前期に生育していたもので長く地下の水の中で保存されてきたものだという。写真撮影について展示室に入る前に聞いてみた。「館内で一カ所だけ撮影禁止になっているところがあります。歴史資料館の一部です。」それは古墳時代の鏡の展示だという。禁止の理由は聞かなかったけれども、ただ闇雲に全てを禁止するよりよっぽどいい。展示ケースの照明は明るく見やすいので、ガラス越しでもデジカメによる撮影は容易だ。弥生ほど多くはないけれども、特徴のよく示された縄文土器がいろいろある。鹿児島県立博物館でスケッチをした筒状の土器もある <図-013>。こちらは円筒形ではなく四角い筒。口の形は、各辺が4つの角から吊り紐状に緩やかにへこむ。表面にたくさん付けられた垂直のくさび型突起は全く同じ。「レプリカ」と表示されるがよくできている。この側面上部を埋め尽くす突起は、何のためだろうか。手のひらの中で明らかにそれと分かる感触。両手で持ったとき、滑り落ちにくいのだろうか。何かの自然物を借りて、それとの結びつきに期待するのだろうか。並んで進む巻き貝。何度も寄せる波。競って成長する植物。側面をふくらませる代わりに逆にへこませた鉢がある <図-014>。ここには、同じ特徴を持つ土器が三つある。粘土を積み上げていくときに、いったん狭めた輪を置いて内側に反り返らせ、また、徐々に広げ外に反り返らせる。壺の口近くを少しずつ狭めていくときに何となくやってみたというのではない。より意識的に、この立体的なおもしろさを楽しんでいるかのようだ。図の土器は床に置くことが出来る。真横から見ることはあまりないだろう。たいていは中身がよく見える上から、または、斜め上からのぞき込むだろう。果実、雑穀などを出し入れするにはよい形だ。両手で持ち上げるにも適している。
 レプリカといえば、この博物館の展示全体にレプリカが多い。照葉樹林の森の中の様子が広大な空間を使って再現されている。大きな木の幹や枝は実物を処理して運び込み、葉や花、小枝はレプリカである。食草としている葉に留まった幼虫やその歯の食い跡も精巧に作って再現される。台の上に太い幹が横たえてあって、何カ所か半分輪切りにされ、それぞれに取っ手が付いていて開けることができる。中は幼虫の住みかで大きな幼虫とその食い跡、糞などを再現する。これは見るだけとはいえ、不足を言えば、奥深い森の中の湿った落ち葉に覆われた朽ち木を突き崩して中の幼虫を獲得する作業に比べて、あまりに手際がよすぎる。近くにわら屋根の民家が数棟移築復元されている。その一つの屋根の棟押さえは、3カ所で2本の枝を交わらせて神社の千木の様に立つ。また別に埋蔵文化財センターという建物があって、内部を公開している。遺跡の発掘状況について展示ケースで見せ、パネルで説明している。通路側を広くガラス張りにした大きな部屋がある。中では、いくつもの広い机が置かれ、どれにも土器片が一面に並べられて、それぞれ前掛けをした女性が復元作業に取り組んでいる。
 時刻が遅くなった。志布志港へは思っていたより距離がある。都井岬は断念。


6月5日(水曜日)晴れ
 今日は大阪と和歌山の博物館、明日は兵庫の博物館を予定した。各HPで場所を調べた。大阪城のそばに「大阪歴史博物館」がある。難波宮遺構の上に最近建てられた10階建てのビル。展示は飛鳥時代以降らしい。もう一つは、和泉市に「府立弥生文化博物館」。これは国道26号線を南下する途中にある。和歌山市には、県立博物館がある。近くに縄文時代の鳴神貝塚がある。今日は26号線沿いの2つに決めて、弥生文化博物館に向かう。大阪南部は、幹線道路沿いにビルが並び、そこから奥へ入れば密集した住宅と錯綜した細い道がどこまでも続く。ナビは表示画面が見にくく方向を決めがたい。建物は、一度でも来たことがあればすぐ分かるところにあった。杓子など木製品の出土品が多数展示されている。巨大な木の幹をくりぬいて井戸枠にされていたというのがそっくり出ている。「いずみ」という地名はこの大きな井戸から来ているのではないかと書いている。出口近くに大きな土器がガラスケースの中に展示してある。首の細く長い壺で高さが1メートル近くある。口の上部はそっくり欠けているから、高さはもう少しあったわけだ。長い首の上から下のふくらみにかけて無数の細い横線が刻まれている。すでにろくろを使ったのだろうか。和歌山へ向かう。街は、まるで真夏のような日照と気温。高速道路を使ったが出入りに距離があって時間がかかった。ところが、博物館は今日も明日も臨時休館だった。このまま大阪城に急いでも4時を過ぎる。近畿地方は日帰りでも来ることが出来るし、縄文がいかに少ないかを確かめる程度のことだから今回はここまでにしよう。ここから天理市に抜ける道があるようで、紀ノ川沿いに走る。国道24号線だ。いずれ山の中へ入って静かな道になると思ったが、山などなく、大部分人家に挟まれた細い道が続く。そのまま奈良盆地に入った。夕暮れ時に天理Icに入った。


                     ******  メ モ  ******


*1
 近畿地方から西にかけて縄文土器の出土が少ないのは、当時の人口が少なかったためだけではないと思う。出てくるのがかけらが多くて集めて復元も出来ず、それも損傷がひどく水の流れや土砂にこすられてすり減っているのは、なぜか。南九州は特別なところだ。草創期、早期は、たまたま火山灰に覆われて保存されたという。中期、後期のものが豊富に出るのは、なぜか。


*2
 <図-015>の出土品は、鳥取砂丘入り口の福部村歴史資料館で「土器口縁部 蛇の装飾」と表示され展示されていた。こうして図に表して並べると、見る角度によってそれぞれ違った感じを受ける。D図では、口先に当たる部分が明らかに欠けているので、いろいろな角度から見てもっともありそうな形を補ってみた。また、ここで見られるように上の部分に貫通した穴がある。この周囲を盛り上げた穴のせいか、頭部は蛇のようには見えない。口先を補ったためもあるが、側面から見たC、E図では、たとえ補わなくてもその感じは強い。首をかしげた鳥かトカゲの仲間のようにも見える。蛇の顔に見えるのは顔に当たる部分を正面から見たA図だ。この場合は、貫通した穴は用を為さず、一番手前の穴が目のように見える。しかも、きちんと両側にある。この図で口先を補っても同じように蛇の顔に見えると思う。頭部の感じだけではなく、向かって右から左へ曲がりくねって後方へ消える胴体の感じも蛇を思わせる。それを強調するかのように穴が並んでいる。これが置かれている台は、白い樹脂で出来ていて本体の下の断面がすっぽり収まるように成型されている。土器の口縁部として元々の姿勢がこうなのか、「蛇」はわざわざ傾けてある。もし蛇と見るなら、顔はまっすぐで首は直立していた方がそれらしく見えるように思う。方角を変えてF図の形を見ると、もはや単体の蛇には見えない。蛇ではあっても、複合的な視点で合成されたものかもしれない。おそらくFは、縄文の立体表現に適した形なのだ。
 この小さな立体物が示しているいろいろなことには興味を引かれる。一定の決まりで流れるような曲線。それに沿う、意図的に並べた穴。見る角度でトカゲや鳥のようにも蛇のようにも見える生き物の頭部。部分とはいえ、ずいぶん写実的に見えるのは表現に深く関わった人物の個性のせいか。明らかに、彼のイメージは具象的である。幾度となく繰り返されて機械的になり、ついには無機質の繰り返し模様へと昇華された表現ではない。表現は、まだまだ日常的で個人的な感性の範囲に守られている。そこで表現は、時間を超えて人の感性に強く訴える。縄文の表現が、そのための感性も技術も豊かに恵まれていて十分に出来そうなのに、目にするもの全体をそのままの姿で表そうとしないのは、なぜか。本来、それが当然のように。


*3
 これは同じ資料館で見た土器 <図-016>。<深鉢土器(縄文時代後期)国指定重要文化財>と表示される。このような、いかにも絵画的な紋様にこの資料館で出会った。この手足のような図を見たらすぐにこれは人だといいたくなるだろう。容器は上下に分かれて上の三分の二は広く開いている。この部分がほとんど黒くなっているのは炎によるすすだろうか。もしそうなら、胴のくびれも中は広いので、実用的な炊事道具といえる。少し小さい。紋様の続き具合を見たくて、 図-016-B を描いた。線の続く方向がはっきりしなかったり、描線と土器片のつなぎ目との区別に迷ったりしたので、あまり正確ではないかもしれない。確かに、人物らしい部分の集中度は高い。どうしても、一定の幅を持ってくねり曲がる図形に目がいってしまう。描線そのものは不規則に流れて方向を変える。けれども、たいていはどこまでも追うことが出来る。下の図は、その部分以外を斜線で区別したもの。これでも、斜線のない白い部分が目に入る。もともと土器本体では、この白い部分の一部に軽い縄文がわざわざ入れてある。容器の口辺部は斜線になっているが螺旋状の突起の根もとから白い部分が流れ出している(右の図)。このそばには斜めに伸びた袋状の斜線部分がある。これは何だろうか。螺旋状の突起も珍しい。
 鳥取県には、ほかにも縄文土器が出土するところがあるのだろうか。同県内の市町村立、県立の資料館・博物館では、そのHPを見る限り縄文土器についてはあまり触れていない。


*4
 日本列島で縄文時代に暮らした人々の出土人骨は、年代や地域による変化は少なく同じような特徴を持っている。それに対して、弥生時代以後に出土する人骨の地域による形質の変化は大きいといわれる。
 土井ヶ浜の資料館で本を買った。「シャレコウベが語る 日本人のルーツと未来」松下孝幸 著、長崎新聞新書(2001年7月刊)。著者は、形質人類学を専攻する医学博士。本の途中でこう書いている。「……。札幌医科大学で北海道の縄文人骨を見せてもらったとき、本当にびっくりしたものである。私が九州・沖縄で見てきた縄文人と何ら変わりがないのである。縄文人共通の特徴というのは鼻根部にある。鼻骨がその付け根から隆起しており、鼻骨が厚い。眉の上にある隆起が強く隆起しているものや眉間が隆起しているものもあるので、顔を横から見ると鼻根部が窪んでみえる。ホリの深い容貌をしている。このような特徴が北の縄文人にも南の縄文人にも共通してみられる。……。」
 この本で主にとりあげているのは初期弥生人のことだが、本の始めの部分で、<北部九州>、<西北九州>、<南九州と南西諸島>の3つの弥生人タイプについて述べている。北部九州タイプは、山口県西部の海浜部、福岡県と佐賀県の平野部で出土する面長高身長の人骨。西北九州タイプは、長崎県を主とする海浜部や離島で出土する顔が短く彫りが深い容貌、低身長の人骨。南九州タイプは、鹿児島県南端、その離島、沖縄県から出土する低身長、短頭の人骨。(長頭、中頭、短頭とは頭を上から前後に見た長さのことで、一般に、縄文人や弥生人は中頭、中世人は長頭、現代人は短頭で、なぜそのように変化してきたかまだよくは分かっていない。南九州タイプが現代人と同じ短頭である理由も分からないという。)
 著者の調査によれば、弥生時代に縄文人の形質を比較的多く残していると思われるのは、西北九州タイプで、また、それは北部九州タイプに比べると短頭型に近い。
 著者は、南九州タイプの弥生人がどこからやってきたかを調べるために、中国大陸南部、台湾の当時の人骨を調査した結果、低身長で短頭型は見られなかった。そこで、この時期については南から北上してきたことは今のところ考えられない。おそらく、漁労を生業とする西北九州タイプの弥生人が九州西海岸を南下、南九州や南西諸島へ移動したのではないかと述べる。もし、この時期にこのような移動が考えられるとしたら、それは縄文時代から続いていたことなのかもしれない。


*5
 侵入したか混血が進んだかは別にして、縄文人との交代が早く進んだ地域は水田稲作に適した平野部だったと考えられる。本州においても、移動の容易な瀬戸内海沿岸を少しずつ進みながら、わずかでも平野に出れば速やかに定着しつつ近畿地方に達したのだろう。彼らはさらに東進し、おそらく琵琶湖を経由して北陸地方と東海地方の平野部に入った。たとえ、縄文人が西日本の平野部やその周辺で生活していたとしても、住居跡や使われていた様々な道具など生活の痕跡は、地表から沈んで保存されるまもなく大部分が破壊されたに違いない。農耕による生活は、100年も続けばその土地と周辺の風景を一変させただろう。
 彼らにとって平野のほとんどない沿岸部と山間部では、一部試みたであろう稲作は失敗し、やむをえず通過するにすぎない土地だった。そういうところでは非常にゆっくり変化が進むか、あるいは阻まれてそれ以上進展しなかった。そこで、縄文人の生活の痕跡は壊されることなく徐々に地下に埋まり保存されてきた。弥生文化と共に人が外から入ってくることのなかった地域では、弥生人よりも奥深い山地での移動に慣れていた縄文人が、自ら新しい情報を上手に取り込むことによって何世代もの時間をかけて自ら弥生文化の担い手となり、弥生人へと変貌していったと考えられる。この場合は、縄文人の身体的特徴の多くを後々まで受け継いでいった。
 これらの結果として、稲作など生活方法の変化は共同生活の形を変え、ともなって人の意識の形も変えた。長い旧石器文化を受け継いで続いてきた縄文の意識が実生活の中では次第に薄らいでいった。