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 神奈川-大和                              
           2005 - 02 - 05(土)〜6(日)
 

2月5日(土)晴れ。
 縄文草創期のおもしろい器をみた。<図1>。器を所蔵する大和市は相模原台地東側を流れる境川沿いにある。 
 つい先日、満九九歳の母が世を去った。そしてまもなく、母方のもう一人の叔母が湘南海岸の家族のもとで亡くなった。おととしには、三人姉妹のうち、母のすぐ下の叔母を亡くした。姉妹はみな高齢で生を終えた。葬儀のあと、ぼくは集まった親族と別れて横浜を経由して帰った。
 横浜では四つの博物館や展示館を見た。神奈川県立歴史博物館は明治時代からある旧銀行の建物を使っていたが、さきごろ「リニューアル」されたものだという。エスカレーターで上がっていくと「常設展示は三階からご覧ください」とある。大和市の草創期土器のレプリカはその三階にあった。その姿と端正な文様は初めて見るので久しぶりに興味深いものがあった。これが一万年以上前にこの地で生活していた人々のデザインなのだ。ほかにも早い時期の土器がいくつかあったが、この器から目を離すことができなくて何度も前に立って、何度もかがみ込んでは眺めた。
 他の展示を一通り見て、特に大正と昭和の民俗に時間を割いた。売店に寄って企画展の図録を見ていると、そこにもあの器の写真が載せられている。受付に行って3階の縄文土器について学芸員さんの話が聞けないかと頼み込んだ。呼ばれた学芸員さんはわざわざ出てきてくれて、もう一度三階へ一緒に戻ってもらう。「器の口辺ではどこが出土した部分でしょう。」「口辺で出土した部分はあまりないようですね。」「正面のこの三つの部分が一番上でしょうかね。」「そのようですね。」「出土した部分はかなり少なかったんですね。これは底が丸いんですね」彼の話によると、もしかすると底は少しとがっていたかもしれない、そんな様子のものもあるんですよ、という。さらに、これはレプリカなので写真撮影を許可するのはむずかしいこと、図録の写真は本物を撮影したものであること、これを所蔵する大和市にはたしか展示室があることを聞いた。
 受付に戻って大和市の電話番号を聞き市役所に電話をかける。電話にでた男性は展示館の所在、電話番号などをしばらく調べてくれたがわからないらしい。今日は土曜日で市役所は休みの日、彼は当直なのだ。市のホームページを見てもらうとわかるんですが、という。車にはノートパソコンとPHSのカードがあるからやってみようかと駐車場に向かう。PHSで接続するのは一年近くやっていないからすぐできるかどうか確信がない。地下駐車場に向かう通りの歩道を歩いているとビジネスホテルの入り口がある。まだ最近できたばかりのホテルのようだからインターネットの接続ができるかもしれない。一昨日泊まったホテルもそうだったしと思って中にはいる。「ええ、接続ができます。」泊まるのは今夜だけれども、そこのロビーかどこかですぐ接続したいというとそれもできるという。さっそく宿泊の手続きをしてお金を払う。
 市のホームページはすぐ見つかって各組織機関の中に「つる舞の里歴史資料館」のページがあった。大変充実したページで文化財調査報告とか映像記録などはその大部な内容をを実際に閲覧・視聴できるものもある。電話で開館中を確かめて出かける。
 資料館は和風建築を模した平屋建だ。幸いにも建物の脇にある駐車スペースが空いていた。入り口をはいると受付の窓口はあるが職員は奥の事務室で仕事をしている。展示室は無料で公開されている。目指す草創期の土器はもう一つの土器と一緒に透明な四角のケースに収まっていた。明かりが左上から差しているので右側が陰になっている。陰に入った文様も周囲の反射光で何とか見える。これならパソコンで明るさの修正ができると思った。さっそく受付に戻って話を聞いてもらう。館内の写真撮影をすることに特に問題はないという。利用方法のこともあるので許可願いを出すことになった。
 編み目文様をもう一度ゆっくり見る。わずかに盛り上がって斜めに交差する直線はひも状のものを貼り付けたものではないらしい。どの交点にもひもの重なりはない。地と盛り上がりの境目に隙間らしいものはない。これはやっぱり、あの「文様の原体」といわれるものを粘土の表面に押しつけたのかもしれない。V字型の溝を浅く刻んだ円筒状のものを粘土面で上下かあるいは左右に転がしたのかと思う。それにしても、これほど整った模様ができるだろうか。この整った印象は復元された部分がたくさん追加されたせいで、実際の器ではもう少し違ったものだったのか。いろいろと思いながら、遠近、上下から写真を撮る。これほど器を間近で見られるので大変おもしろい。遠いむかしの彼ら彼女らも、ときにはこの編み目を眺めて楽しんだにちがいない。
 展示室には旧石器時代の説明パネルがたくさん掛けられている。『2万年前の日本列島』この地図では黄海が広く陸地になり、南北に連続する日本列島が弓なりに表されて日本海を閉じこめている。「この頃は最後の氷河期ビュルム氷期の中で最も寒い時期でした。シベリア・北ヨーロッパなどには厚さが数千mにも及ぶ大陸氷河が作られていました。その結果、海水面は現在の海岸線より100m以上も下にあり、日本列島は大陸と陸つづきで、多くの動物や人たちが日本列島に渡ってきました。市域は気温が年平均で約8度も低く、現在の北海道十勝平野に近い気候で、ナウマンゾウやオオツノジカなどが住んでいました。」
 『上野遺跡で発見された石器の材料』。材料の採取地について時期ごとに何枚ものパネルで表している。海岸線が沖合に遠く離れていて伊豆半島や大洗では、現在なら海の中になる位置に採取地の印がある。このころの遺跡も現在の海中にたくさんあるということか。
 横浜に戻るとすでに夕暮れの景色だった。風が冷たい。


2月6日(日)晴れ。
 駐車場には午前11時まで車を置いておくことができるという。九時。横浜ユーラシア文化館は近いので歩いていく。ユーラシアというが今の展示に西欧、北欧のものはほとんどない。途中でお年寄りの団体がエレベーターから大人数で出てきたのでやり過ごす。「人面装飾壺(11〜12世紀、イラン)」というのがある。ろくろで成形したらしい胴の上面にいろいろな方法で模様が施されている。粘土ひもを付けたり、押さえたり刻んだり印を押したりと縄文土器と同じようなことがいっぱいやってある。けれども雰囲気はまるで違う。何が違うのだろうか。「ころがす」という技法はない。受付に戻って写真撮影について聞くとそれは許可していないという。図録の見本を見ても載っていない。「どれでしょう。」と受付の女性が壺の前まで一緒に行ってくれる。「ああ、これなら絵はがきの写真があります。」という。一階でその絵はがきを1枚だけ買って出ると時刻はすでに11時に近かった。
 三殿台遺跡へ向かう。ナビの画面で見る限りわかりやすい道順のようだったけれども、通りからいきなり横町に入って曲がりくねった細い道を進む。商店街だが人影がほとんどない。日曜日だからだろうか。道標に「鎌倉街道」とある。そのうち起伏の多い土地になって、指示に従って右折すると車は急な坂道を上っていく。坂道を曲がりながら、このまま上の民家の玄関先に入ってしまうのではないかと思ったりする。上には小学校もあるらしい。やがて見晴らしのよい丘の頂上に出て、そこに三殿台遺跡がある。 胴の側面すべてを区画し模様を刻みこんだ鉢。<図2>。広口のシンプルなかたちもめずらしい。ケースの中には縄文時代中期の土器がたくさん置かれている。口縁部の平坦なものが多い。奥のガラスケースには弥生土器が並んでいる。これはなだらかな輪郭線の壺<図3>。ここは縄文時代中期から古墳時代まで人が住んでいた遺跡なのだという。外にはコンクリート平屋建ての住居跡保護棟がある。いま、入り口には鍵がかけてある。周囲が全部窓ガラスになっていて観覧者は外から中を見るようになっている。しかし、今日は中よりも外の方が断然明るいので、いろいろくふうしてのぞきこんでも住居跡はほとんど見えない。 もう一度展示室に入って写真撮影を頼みたい土器を確かめる。何も表示がないが見慣れないものがある。浅い円筒状のものを、なぜか裏向きに置いてある。上の面は平らだ。側面に指が入りそうな穴が二つ空いている。事務室へ行ってこの土器のことを質問しつつ写真撮影についても聞く。土器のところまで一緒に出てきてくれた係の男性は、この土器の名前や使い道については学芸員さんがいるときに聞かないとわからないという。写真は撮ってもよいという。
 都筑区にある横浜市歴史博物館に向かう。ナビの画面に出た道順は、またわざわざ中区の市街地へ入ってから北へ行く。この都市の道をよく知っていたらこんな道順で行かないだろうと思いながらしぶしぶ従う。目指す横浜市歴史博物館には花見山遺跡の隆線文土器がある。これは都立埋蔵文化財センターの企画展示の際に写真が掛けてあったものだ。
 その土器は独立した大きなケースの中に3つ置かれていた<図4>。よく見るとこれはあのときの写真土器<図5><図6>とは別のものだ。この遺跡では隆線文土器がいろいろと出たらしい。右手に縄文土器が続いていく。『縄文土器の形と用途』の展示のところにきのうの裏返したような土器がある。「器台型土器」。浅鉢のように上向きに置いたはずはないという明らかな理由が何かあるのだろう。これは側面から見ると台形に見える。上面の平らな部分にほかの土器を置いたというわけか。鉢などを乗せるなら上面をなぜへこませなかったのだろうか。
 内面に文様を施した浅鉢がある<図7>。これはいつか土浦市で見た浅鉢<図8>の仲間のようだ。口縁部から少し下に小さな穴が4つ等間隔にあけられている。細い棒かひもを通すためのような穴だ。
 つづいて『土器に見る縄文時代の交流』。壁面の列島地図には中国地方から東北地方までの広い関連が示される。これは東北とのつながりを見せているのだろうか<図9>
 弥生土器の展示に進むと、ここにもあのなだらかなシルエットの壺がある。<図10>
。どのような感性がこのラインを作り出すのか。豊かな量感のある胴、首で細めてから上に開く口。液体を入れた革袋のイメージ。
 明るいうちに横浜青葉インターから東名高速にはいる。