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 知床・網走へ                              
            2005 - 05 - 13(金)〜06 - 02(木)
 


  5月13日(金)晴れ。 午後8時、名古屋港発。


  14日(土)晴れのち曇り。
 午前3時過ぎ目覚める。船の揺れが大きい。船室のきしみ音がやかましい。TVの天気予報で現在の各地の波の高さが表示される。関東沖から東北南部沖は3メートル、仙台から苫小牧までの沖合は2メートル。船室は廊下の突き当たりで最前部。船首のデッキに向かって小さな窓が一つだけある。ここは操舵室の上なので「夜は外へ明かりが漏れないようにカーテンを閉めておくこと」と注意書きがある。
 起きあがってみる。立つと体があちこち勝手にふらふらして危なっかしい。横になっている方が気分も楽だ。有り余る時間のために用意した文庫本を読む。横たわる頭上の明かりは十分に明るいが船の揺れのせいで小さな活字を拾うのは難しい。ハムレット荘のドルリー・レーンがはやくも「犯人ははっきりしている。」と述べてサム警部たちを驚かせるところで、気持ち悪くなって本を手放す。船は鋼鉄板をしっかり溶接して組み立てられているのだろうが、それでも、船室中からはげしいきしみ音が出ている。朝、明るくなって窓の外を見ると、船首では波しぶきが高く上がってたびたび緑色のペンキで塗られたデッキを洗う。
 昼になって初めて食事をとる。食堂の客が洋上を眺めながら隣の連れと話している。「それでも朝に比べるとだいぶ波が低くなったよ。朝は白い波も立っていたからねえ。」午後5時、仙台港着。同8時発。


  15日(日)雨天。10:45苫小牧港。 →(新冠町郷土資料館)
                    → 静内町郷土館静内町アイヌ民俗資料館
                        → 百人浜キャンプ場
 苫小牧市内でデパートを探して片手鍋を買う。新冠(にいかっぷ)町郷土資料館を探すも日曜日のため各施設が休みで聞くところがない。街にはほとんど人が出ていない。病院も本日休診だったが中にはいることはできた。何人かの人が白い診療服を着て働いている。二階で聞くと「ここから見えるかしら。」と窓から探してくれる。見当がついて行ってみると休みだった。ここは日曜日が休館日なのだ。静内(しずない)町周辺は馬の産地。道々にウマをかたどった牧場を示す看板が目につく。
 静内町郷土館には底の尖った縄文早期・前期の土器がある。
 パネル、「駒場7遺跡(所在地-静内町柏台、調査年-昭和55-56年[1980-1981])
 駒場7遺跡は、北海道縄文時代早期(およそ8000年前)の集落を研究するうえで、重要な遺跡です。 住居址が二十四軒確認され、これらの住居址からは、貝殻で文様をつけた「魚骨文土器」等が出土しています。 貝殻文土器には、北海道西部で出土する底が尖ったものと、北海道東部で出土する底が平たいものがあります。この遺跡では、東西両地方で出土する土器が混在しています。このことは、日高地方の縄文時代早期遺跡の特徴です。」
 線のあいだに点を置いた文様<図321>。「遺構外出土」と表示されている。二連の突起が四つあるが、どうやらすべて復元の際に補修されたものらしい。
 パネル、「中野台地A遺跡 (所在地=静内町清水丘 調査年=昭和57年[1982年])
 中野台地A遺跡は、北海道の縄文時代前期(およそ5000年前)を代表する遺跡です。住居址、土器製作址などが確認されており、これらの遺構からは、総計10,000点をこえる遺物が出土しています。 出土遺物の多くは「静内中野式土器」で、命名の由来は、中野台地ではじめて発見されたことによります。 静内中野式土器は底が尖っていること、土器の素材である粘土に繊維をねじってからみあわせたより糸がまぜてあることなどがおもな特徴です。」
 曲線をえがいて底の尖る土器<図322>。この下部は底近くで一旦ややふくらんでいる。尖った底まで出土片は続いているので輪郭はこのとおりの曲線だったのだ。口辺のわずかなすぼまりがこの表情に呼応する。口辺と胴の下部をおさえてしぼったか。あるいは、胴をおしひろげたか。このかたちが何かに役立ったのだろうか。
 縄文のくっきりと残る土器<図323>。図の正面で口辺からするどくとがった底まで出土片が続いている。背後はほとんど失われているようだ。
 このように底のとがった容器は底からつくりはじめるはずはなく、さかさに積み上げていったにちがいない。それでも、最後のとんがりはむずかしそうだ。うえに開いた穴が小さくなってきたら、生乾きにしてから平たく敷いた織物のうえに横たえる。口から片手を入れて、内外から両の指先でとがった底をつくる。口辺に波形を乗せたい場合もこうして横たえて作業したらいい。東北地方の早い時期にほとんど円錐形にとがった容器があるのはこの作業のためかもしれない。それにしても、このようにしてまで「とがり底」が必要だったのは何のためか。


 静内町アイヌ民俗資料館では、にぎやかに中国語をしゃべる人たちと一緒になった。入り口近くに鳥捕獲のための「落とし」が展示されている。籠に閉じこめるのではなくて、鳥が籠の中のえさにつられてのぞき込むと体を挟み込まれる仕組みらしい。どんな風に作動するのか案内係の男性に聞く。いろいろやってみてくれるがうまくいかない。どこか組み立てが違うか、何かが足らないのかもしれない。かなり大きな木造船が復元(複製)されている。イタオマチプ(板綴船)という。生活民具の中に揺りかご(揺り板)がつり下げてある。それを中国人の女性二人が見上げて何かいいながら笑っている。「送り儀式」に使われたとみられるエゾオオカミの頭蓋骨がある。これはよそにはほとんどなく珍しいのだという。この地域は古くからアイヌ民族がたくさん住んでいて、特に道内の東西アイヌ文化の接点として注目されているところだという。今、そのアイヌの人々はどうしたのだろうか。昔、次第に和人が増えていって、いくらかは混血も進んで今では人々の区別がつかなくなったのだろうか。それとも、ほとんどのアイヌ人は他へ移ってしまって姿を消したのだろうか。(あとで静内町のホームページ見ると、アイヌ古式舞踊「イウタ ウポポ(ヒエまきの唄)」「エレムン コイキ(ねずみ捕りの遊び)」「タプカル(男の舞)」「ポロリムセ(輪踊り)」などが国指定の重要無形民俗文化財になっているという。そうすると、少なくともこれらの文化を伝える人々は今でもいるということだが。)様似(さまに)町に入って出光でガソリンを入れる。


  16日(月)曇り空。寒い。キャンプ場 → 襟裳岬 → 帯広市
                  → 四駆ランドキャンプ場
 少し後戻りになるが、東海岸に出て岬を目指す。左手に海、右手に丘陵が続く。霧が出ている。早朝というほどでもないのに出会う車はない。岬の町並みをすぎると坂道をあがって高い崖の上に出る。下は太平洋の荒波。強風のなか、沖から寄せる大きな波がしぶきを上げる。空には暗い雲が走って、いつもの沖合のわずかな明るさも今は見られない。うしろにはなだらかな丘が幾重にも続いている。丘に樹木はなく、すべて褐色に枯れた笹原だ。そこをたびたび風が渡っていくので笹原は波のように揺れる。車外に出てあたりを眺めていると、遠くの路上に笹原からキツネが出てきてこちらを見る。口に何かくわえていて、隠れるところを探すように動き回る。こんなに民家に近いところにもキタキツネが現れる。
 「コーヒーが飲めますか。」と聞いて土産物店のテーブルに着く。「今日は風が強くて寒いくらいですね。」というと、「きのうからたいへんなお天気ですよ。しばらくこんなことはなかったんですがね。」と店番の男性がいう。眺望のための広いガラス窓から下をのぞくと、さきほどの荒れた海と笹原の一部が見える。昨晩は雨風がひどかったようで木製の太い窓枠の下段がぬれて、そこに何枚ものぞうきんが添えてある。
 帯広に向かっている途中、車はたびたび濃い霧の中を走る。これが「東部北海道の海霧」か。もっともあれは夏に多いのだという。このへんは今、冬を抜け出したばかりのようだ。どの畑も新たに耕されて植え付けの準備が始まっている。こちらの畑土はみんな真っ黒だ。よく見れば濃い焦げ茶色なのだけれども、明るい黄土色などの畑を見慣れている者にこちらの畑はほとんど黒く見える。
 ビート資料館。これは企業の設立した豪華な専用博物館だ。展示される作物標本を見ると本当に短い大根のようだ。昔の社会科の教科書には十勝平野の特産物として砂糖大根が必ずあげてあった。みんなそれがどんなものかあまり気にもせず名前だけを覚え込んだのだ。いつも大根の煮付けや辛い大根おろしを食べている者に砂糖のとれる大根は考えにくい。展示の説明によると、この作物は実際にはアカザ科のホウレンソウの仲間だという。してみると、アブラナ科のダイコンとは別の植物だ。そういえば、ホウレンソウの赤い根は甘みがある。どんな花が咲くのだろうと思いながら展示の標本や写真を見渡したが見つからない。精糖の工程や栽培の目的に開花した作物は関連してこないのだ。
 他に月曜日でも開館している展示館が幕別(まくべつ)町にある。幕別町蝦夷文化考古館。こぢんまりした建物は横から見ると倉のようだが瓦葺きの屋根はお寺のよう。入り口では、ちょうど係の女性が東京から来たという女の人を送り出していた。中ではストーブを焚いている。「このごろはまた寒くなりましたので、お客さんがあると焚くのです。」という。この展示館は、昭和十五年頃から吉田菊太郎氏が資料館建設を目指して資料を収集してきたもので、十勝地方のアイヌの人々の日用品をはじめ多数の写真や文書を保存している。これらは氏の死後、幕別町に寄贈された。
 奥の壁面に氏の書いた文章が表装されて掛けてある。「蝦夷文化考古館に思う(全文) その昔北海道は蝦夷即ちアイヌ民族の自由の天地であり大自然に恵まれて何不自由なく楽しく住んでいた 蝦夷ヶ島北海道は急徼なる拓殖政策の強化に伴い古譚(?)は村に町にと拓け世は限りなく発展を示しつつあるのに反し激しい生存競争に耐えられぬ同族の中には世の敗残者として家族を失い古譚を離れて行方さえしれぬものが少なくない 
 又 進化向上した者は事業のためその他により都会に移り古譚に停る者も生活様式の改善に依り或は和人との混血により同族本来の姿は年々薄れ古譚は一般和人部落に変わりつつある現状にしておそらく近い将来には全くアイヌ人の姿はこの世から没し去ることであらう 斯くて先祖が起き伏し日頃意を通ずるために用いた言葉や荘厳に行われたカムイノミ(祭典儀式)も殆ど忘れられていることは誠に遺憾の極みである また鎌倉時代から蝦夷ヶ島北海道開拓のため移入する内地の奴僕となって重荷を背負い深い茨を分けて道しるべの役となり或は河に丸木舟を操って交通運輸に努め開拓移民の先駆者として文字通り犬馬の労に身命を曝す 
 その酬いとして与えられた品々及び熊の皮 鹿の角など物々交換により求めた諸々の物を宝として保存し又自ら作った生活必需品など之等貴重な文化財が薄れゆくアイヌ民族と共に失われこのまま放置せんか 古譚にアイヌ文化財は全く消え失せるであろうことを嘆く吉田菊太郎は一族と共に奮起したのである
 而して先祖の遺した文化財を蒐集して一堂に収め長く正しく保存することが先祖に対する餞であり また向後の考古資料にも役立つであろうと考え先ず之等を保存する館を建設するに当たり菊太郎は資金造成のためアイヌ文化史なる冊子を発刊し之を道内外に行脚して販売す 尚家族の資財を含めても足りず残るは幕別町を始め江湖諸賢の後賛助に与り昭和三十四年深秋首尾良く蝦夷文化考古館の完成を見るに至る 以来文化財の蒐集に渾身懸命に努むるや幸い篤志家の御協力と相俟って徐ろに収容しつつあり必ず初志の目的を貫遂する信念に徹す 茲に念願するは菊太郎亡き後の蝦夷文化考古館の維持管理は幕別町において當られるよう切に望むのである 
 嗚呼 思いを後世に轉ず すでに蝦夷はなく蝦夷文化館の一堂のみが往時先住民族アイヌ人居住の跡として此の地に残るのであろう
 吾は先祖と共に蓮華の蔭から蝦夷文化考古館を見守る 合掌
                昭和三十六年五月五日 (一九六一年)
               北海道十勝国中川郡幕別町字千住(元 チリロクトウ古譚)
               蝦夷文化考古館建設者 アイヌ人 吉田菊太郎 印
                        明治三十九年七月三十日この地に生る 」
 自らをアイヌ人と記したこの文章から、先祖とその文化へのほとんどあこがれに近い彼の心情がよく伝わってくる。彼自身がアイヌ文化を直にどれほど引き継いでいたのかはわからない。
 展示物の中に縄文土器の破片も少しある。黒や濃い色の布に刺繍をした品のところで案内の人は「女性の作った物はみな細やかで丁寧なんです。」と言い添える。刺繍糸は赤・黄・白や、緑・青・水色などの組み合わせだ。これらの色相のグラデーションはいつ頃から彼女らの趣味の範囲に入ったのだろうか。これに近いことは、彼女らが鮮やかな刺繍糸を手にする以前の古くからすでに行われていたのかもしれない。パンフレットを置いた中にアイヌ語のラジオ講座テキストがあって、案内の人は「どうぞ。」と渡してくれる。
 キャンプ場に着くのが少し遅れたので、すぐそばのオサルシ温泉というところで受付をする。温泉は午後8時まで営業というので車内の整理をすませてすぐ温泉につかる。薄暮の中をサイトに戻ってくると車のそばにキツネが立ってこちらを見ている。さらに2、3歩近づくと横へとことこと歩いて立木の向こうで振り返る。そちらへ行く気配を見せると今度は走って少し離れた建物の蔭にはいる。そこで、こちらがそっと建物に近づくとあわてて林の中に駆け込む。


  17日(火)雨天。 キャンプ場 → 帯広百年記念館
                       → 浦幌町立博物館 → 虹別キャンプ場
 百年記念館の公園では社会見学の小学生たちがちょうど到着したところだ。先ず、先生の注意を聞くために広場に並んで腰を下ろす。公園では今、あちこちに桜が咲いている。こちらの桜はソメイヨシノではなく、花は濃いピンク色だ。それに加えてえんじ色の新芽がすでにいっぱい出ているので、全体にはいっそう紅い桜に見える。
 展示室の壁にに早期からの縄文土器がたくさん掛けられているので、受付に戻って聞く。「写真撮影は事務所に申し出ることになっています。」さっそく事務所に行って申請書を書くとすぐに許可が出る。照明が少し暗いが、陰影の濃い写真が撮れたと思う。
 図-324 こうした細ひもを置いたデザインを本州ではあまり目にしない。 下地にはきわめて細かい縄文が向き違えて施されている。
 図-325 添えられたラベルに「口の部分が厚く作られ、2段の刺突の文様がある。 」とある平らな上下にずんどう。後の世ではごくありふれたかたちだが縄文の世界ではむしろ数少ない姿だ。ものを出し入れしやすいかたち。平らなものでふたをしていたかもしれない。胴には細かい縄文が一面にていねいに刻まれる。ただ、この復元は出土部分の見定めに迷う。背後はともかく 前面で見るかぎり口辺の一部だけがあきらかに古い。
 図-326 ラベル「約2,300年前の土器。大型の『甕型土器』。この土器はすっぽりと土中に埋められた状態で出土した。」 口縁は、もともと整えるつもりがなかったか、あるいはこの胴のかたちによくあるように上に広くひらいた口辺部がのっていたか。いま、口縁部は摩滅したようにめらかに見える。器の表面のすべてに細かい縄文を施す。あたかも空白を残すまいとするかのように。東北地方の甕棺は、これと同じように胴部全体を文様で覆うが口辺を壷型の口にする場合が多い。口辺部を欠いたそのせいかこの姿は見るからに不格好。これははじめから土中に埋めるつもりのものだったのか。
 図-327 ラベル「約2,400 〜 2,100年前の土器。」 これまでの時代区分でいえば本州では弥生時代前期にまたがる。これもいくらかかたちがゆがんでいるが、それは復元時の成形のしかたによるのかもしれない。上の3本の帯は下に重なるひだのようになっている。
 図-328 ラベル「約6,000年前の土器。厚手で植物繊維や小さな石を含む。底が丸く、表面に太い縄文が付くのが特徴。」 これとよく似たはだざわりの土器を四国松山で見た(図-206、209)。そちらはほとんど真っ黒だった。時と場は大きくちがうが、くらしにどこか似たところがあったからだろうか同じような結果を生んでいる。人々はこの容器を腕に抱えてそのたびにこのごつごつした感触を味わっていたにちがいない。
 無数の破片からこの土器を復元した人は本来失われた部分を周りに接する部分と同じように見せようと努めている。縄文の波の続きを作り、似たような色合いを付ける。隣の破片にまで石膏様のものをかぶせて割れ目をかくす。そこで、もともと出土した部分がわかりにくくなる。これは、失われたかたちをよみがえらせることができる手による重要な作業だが、ここまでやってしまうと本物に似せたまがい物を作っているようでもある。

 「帯広のアイヌの歴史」のコーナーがある。「十勝アイヌ関係主要年表(近世以降)」には多数の項目が細かく掲げられる。「コタンの分布と人口の推移」には十勝川流域の集落分布図と安政2年及び明治4年の各集落戸数男女人数がそれぞれ左右に並べてある。分布図で見ると現在の帯広市はベッチャロ、マカンベツ、チロトのあたりだ。しいて「オビヒロ」に近い名はベッチャロか。左上にオトフケがある。トシベツは現在のJR駅より北に寄っている。利別川との分流点にはチョウダという集落がある。現在の地図を見ると千代田という地名になっている。きのうのオサルシ温泉に似た名のオサウシは河口近くの集落だ。
 人口についての表は集落ごとに細かい数字があげてある。全体には減少している。安政2年にもっとも人口の多い集落はビロウ(広尾)で男女計228人だが明治4年の方では地図にも表にもあげていない。両方にあげてあってもっとも人口変動の大きいのはトシベツだ。安政2年に戸数27戸、男女計141人だが明治4年には1戸、12名になっている。このわずか16年の間に何があったのかと思わせる。あるいは、これらは何かの間違いかもしれない。
 過去の地名はどんな経過をたどって現在に至るのだろうか。和人が徐々に増えていって、その間アイヌの人々と共存する時代が続いたのでごく自然にかつての地名をそのまま使っていたか。または、急激な変化の中でも、為政者がアイヌの人々と関わっていくために必要だったからそのまま使ったか。または、かつての地名を残すという、日本人のほとんど習癖ともいえる傾向があるためか。これと同じことが外国のどこかにもあるのだろうか。民族や文化が大きく入れ替わったようなとき、都市の名を全く別の名にしてしまうということは、外国ではよくあるらしい。
 浦幌(うらほろ)町郷土館を探す。国道を走っているうちにナビの「目的地周辺」を過ぎてしまった。右手にあるはずがその建物も道もない。左に入って少し戻ると国道の下をくぐる道がある。その先には広場があって公共施設があるらしい。しかし、そこは郷土館ではなかった。携帯で郷土館に問い合わせる。だいたい位置の見当がついたと思ってそこへ向かう。広場の左手にある丘をあがって建物の横に車をつける。これが「目的地周辺」の左手にある建物なんだと合点して入り口に向かう。だが、確かに郷土館なんだけれどもどうも様子がおかしい。入り口は施錠されて、ガラス越しに中をのぞくと「がれきが落ちるので危険」と注意書きがある。もう一度携帯で連絡をとると、別の場所に博物館ができていることがわかった。教えられた道順をたどると役場のそばに真新しい洒落た2階建ての建物ができている。1階が展示室で小規模ながらよく整理された展示になっている。
 一番奥に「石器と土器の文化」コーナーがある。上部がガラスケースになった個別の小さい台がずらりと並んで、ケースの中に土器が1つずつ入れてある。見学者は台の間を移動してすべてを見ることができる。土器の下は磨りガラスになっていて下からも柔らかい光を受ける。この明りが適度に押さえられ、拡散されているので、真上から差す光の陰を和らげる。ただし、上からの明かりが消えていたり、はみ出してうまく当たっていないと薄暗い中で下だけ明るいために異様な雰囲気になる。それぞれの展示ケースに天井のスポットライトがうまく当たっていれば台の間に余分の明かりは差さない。それで、ガラスケースのいやな反射光が生じないのだ。ここの照明は、多くの展示館がいろいろ手の込んだ明かりの当て方を試みる中で珍しくよい結果を得ている。
 土器は、縄文時代早期から続縄文時代、擦文時代まで展示されている。写真撮影について聞くために2階へ上がる。応対の女性に縄文土器のことについて聞いていると、「そのことは次長が詳しいので来てもらいましょうか。」という。一階で写真を撮っているとその次長さんがさきほどの女性と一緒に降りてきていろいろ話を聞く。
 図-329 ラベルに、「胴部の張り出した小型土器。口唇部直下から底部にかけて細かな刺突文と曲線文が連続的に施され、独特の幾何学紋様を作り出している。縄文時代後期の土器の様相をよく表している。」とある。意図されたかどうか、華麗な装飾。これは左胴部のように張り出してすぐ上へ絞られた姿だろう。かたちがいびつなのは復元時の手際か。口辺の欠損がそのままになったのはよかった。往時の、かたちのよく整えられた装飾壷としてこれをおもいうかべる。この容器の使い道とはまた別に、多くの人がこの壷をふと眺めて楽しんだかと思う。
 図-330 ラベル「土坑墓82出土品 微隆起線文を直線あるいは曲線状に配置する続縄文時代の後北C1式の好資料。墓内から二個(の土器)が直立したまま出土した。また、25個の石器が一緒に副葬されていたが、すべて故意に折られていた。」
 楽しげな文様と優雅なかたち。容器の下半身は注意深く細められ、いくすじもの細やかな線が下に流れる。何かの物のかたちを描いているわけではないが続縄文時代の土器文様は絵を見るようにおもしろい。それは、にぎやかな構成の図柄が多いせいか、あるいは、あさい峰をつらねてつぎつぎに続いていく線のせいか。彼らが図柄に使うのはいつもこのごくめずらしい特長のある線だ。線は並び、流れ、ときには大きく面を囲み、集まっては何かを支えて見せる。それらが器の表面をおおって不思議な立体感をかもしだす。しかし、線の表現としては非常に範囲のせまい、融通のきかないものだ。なにがこういう方向へ向かわせたのか知りたいと思う。
 図-331 ラベル。「口縁部に8つの突起を持った土器。突起と突起を結ぶ断面三角形の微隆起線が軽やかに施されている。土器の下半分を欠いているが、この地域の縄文早期土器の特徴をよく示している。」
 その隆起線文は、口辺を取り巻くように垂らした半円のように見える。しかし、近づいてみるとそれはいくつかに分かれた線が続いておかれているものなのだ。これは半円を描いたものではなく、こんなふうに続いていく何か(と何か)を表したもののようだ。半円状のものはそれぞれの突起の間にも渡されて大小二重の飾りとなっている。われわれはよくこうした飾り付けを楽しんだりするが 6千年前の彼らの場合は楽しみながらもそれとまったく同じではないのかもしれない。
 すでに午後3時を過ぎたので、釧路方面へ移動する。虹別キャンプ場に着くのが遅くなるかもしれないので連絡をする。到着してそこからもう一度連絡をすると係の者が出向くという。まだ明るいうちにどうやらキャンプ場に着くとセンターハウスはすでにしまっていた。すぐ係の男性に来てもらってサイトに落ち着くことができた。車内を整理しているところへ受付をしてくれた男性がやってきて「ツルがいる。」という。一緒にキャンプ場の脇を流れる沢に行く。彼の指さす方に目をこらすと、茂みの向こうに白い鳥の姿が見える。1羽。あたりがもう薄暗くなっていて姿形はよく見えない。鳥はほとんど動かない。暗くなって雨も降ってきたので戻る。タンチョウはこの根釧台地で繁殖する。1年を通じて見られるのは国内でこの地方だけだという。


  18日(水)雨。濃霧。 キャンプ場 → 釧路博物館 → 厚岸町郷土館 → 達古武キャンプ場
 朝から雨。ツルが来ているかと念のために沢に出てみるが姿はない。釧路市博物館を目指す。釧路に近づくと車が多くなり、車列はたびたび止まる。市内に入ったのは昼近くだった。博物館は広い公園を前にして中央に正面玄関を開く双翼の建物。いまは、細かい雨と共に降りた霧に包まれている。展示は落ち着いたレトロな雰囲気。しかも、内容は豊かでかなり専門的だ。しかし、これが土器の展示となると昔風で、土器本来の自然な雰囲気を欠く。狭いガラスケースの中の、ほの暗い明かりのもとに置かれた何か貴重な物。小さなケースに2つも詰め込まれてそれぞれ耐震用の支え棒に囲まれる。そのケースが隙間もなくいくつも並ぶ。「舟形深鉢・片口」として3つの土器が横たわる。側面の文様を見せるためだが、それ以外の口辺などや全体のかたちはほとんど見ることができない。大事なのは元々この土器はどんなふうに見られていたのか、だが。 
 それでも、縄文晩期の壺状土器<図-332>が、その広がる肩の渦巻文を明らかに見せる。この場合は、のぞき込むことができるガラスケースと上からの照明がさいわいしている。この流れる水のような文様は2400年後の我々にもある感銘を与える。それが、たまたま我々の好みに合うかたちにすぎないのか、または、かれらの持っていた感覚がまさに我々と同じものだったからなのかわからない。いずれにしても、このどこまでもなめらかな線、決して正面からぶつかったり唐突に折れ曲がったりしない線への強い愛着には、いま大いに共感をおぼえる。
 厚岸町に向かう道は時々濃い霧に包まれる。どの車もライトを点ける。地図を見ると厚岸(あっけし)湾に接して厚岸湖があって、それは東から迂回してのびる半島に抱かれたようになっている。半島の先端は短い橋になって湖を閉じている。また、見方によっては半島などではなく、この湖は湾の奥に狭い出入り口を持つ汽水湖である。厚岸の街に入りその橋を渡ってすすむと道は史跡国泰寺跡に至り、そこに郷土館がある。展示室の周囲は大きな木製ガラス戸をはめた展示ケースになっている。国泰寺についての資料展示によると寺はアイヌの人心を安定させる目的などもあって1804年に建立され、鎌倉五山の僧が派遣されていたという。「下田ノ沢土器」としていくつかの縄文土器がある。
 午後3時を過ぎて、達古武キャンプ場に電話をする。今日は気温がかなり低いので手揉みのインスタントカイロを探す。コンビニでは品切れで、店員は「このところ急に寒さがぶりかえしていてどの店も同じでしょう」という。日用品までそろえた大きな薬屋を見つけてようやく手に入れる。


  19日(木)晴れ。強風。 キャンプ場 → 根室市歴史と自然の資料館 → 別海町郷土館
                          ・古文書館 → 尾岱沼ふれあいキャンプ場
 午前8時頃には陽が差し始めた。久しぶりに晴れたが風が強い。キャンプ場には達古武沼の岸辺にサイクリング道を設けたり、レンタルカヌーを用意したりしている。もっとも、今は休業中のようだ。ゆっくりとぶらぶらしていたらタンチョウに出会えるかもしれない。いや、こんな風の吹く日はむつかしいかと思う。そこでまたハンドルを握る。根室半島に入るとますます風が激しく吹く。
 現在ここは、博物館建設準備室という珍しい名は廃止されて「根室市歴史と自然の資料館」となっている。受付で「函館からいらっしゃった方ですか。」と聞かれる。今日はそういう来客の予定があるらしい。建設準備室という名は変わったが、通路に本棚が並んだり、のぞき込んだ部屋が名札つきの資料を積み上げた収蔵庫だったりする。パンフレットによると、現在も収蔵品が増えていてその整理を進めつつあるという。
 展示室にはいるとすぐ大きな衝立があり、リンドバーグ夫妻歓迎の記念写真が掲げてある。根室市のお歴々、あるいは、招聘に関わった人々に囲まれて前列中央に夫妻が腰掛けている。夫よりもはるかに小柄に見えるアン・モロウ・リンドバーグ夫人は膝下まである革長靴をはいた脚をやや交差させて笑っている。夫妻の飛行艇が根室港に着水したのは1931年8月24日午前8時すぎ、展示室の小冊子「ねむろむかしがたりNo.3」巻末地図によると飛行経路は、ニューヨーク、カナダ、北極海、アラスカ、アリューシャン列島、千島列島、根室、東京、大阪、福岡、南京、漢口だった。同冊子9ページ「…二美喜旅館に泊まり、根室の朝の様子をアン夫人は次のように記しています。<旅館で印象的だったのは、朝、多くの人の行き交う下駄の音で目がさめたことでした。小石を敷きつめた道を、みんな木の下駄をからからひきずっていきます。すると手をたたくような、何ともいえない音楽的な音がするのです。> …」この文は当時の新聞に載せられたのだろうか、それとも何かの書物にあるのだろうか。
 展示室の中ほどに「穂香(ほにおい)竪穴群出土の動物意匠付土器」と表示して大切そうにガラスケースに収めたのがある。口辺の小さい四つの突起がクマの顔になっている。この顔は、表面が荒れているし小さいからはっきりしないのだが後のオホーツク人が彫刻する真に迫ったクマの顔とはちがう。どこかテデイベアのような表情がある。作者がたまたま遊び心からいつものふつうの突起を小熊の顔にしてしまったのだろうか。それでも、本州のもののように生き物らしさをなんとなくはぐらかしたような表現ではない。目や口もあっていかにも動物の顔だ。この土地では、すでに四千年前にクマは生活の中で重要な生き物だったのだ。口縁部を取り巻く枠のようなところにはクマの背中のような出っ張りがある。そこに筒口を押しつけたか、小さな円が五つ。
 外に出ると体を持って行かれそうな強風で、車のドアも風圧で閉めることができないほどだ。昼食のあとすぐ近くの花咲岬に出てみる。いまは青空も見えて陽が照っているのに眼下の海は大荒れに荒れている。車外に出ていたひとが車の方へ戻る途中に戻れなくてあわてている。ここでは風のために歩くのも危ないのだ。納沙布岬も野鳥公園ネイチャーセンターもとりやめて別海(ベッカイ)町へ向かう。
 別海町郷土資料館はいまちょうど資料整理に忙しいようだ。昔の民具などが床にかためておいてある。防腐処理に使っているのか薬品のにおいがする。すぐそばに加賀家文書館というのがあって入館は共通観覧券になっている。こちらはできてまだ間もない建物でパソコンによる検索画面や大きなビデオ映写装置がある。ちょうど小学生たちが数人来ていて、パソコン画面を見ながら何かの図をノートに写している。学校から来たのではなく、近くの子が宿題をこなすためにやってきた様子だ。まだ1年生になるかならないかの小さな子もいる。時々係の男性が近づいては静かにするようにと注意する。
 ビデオが始まったので見ていると、いつのまにか小さな男の子が近くに来ていて「ノツケハシッテル。」と独り言をいう。いま映像に出ている野付半島のことらしい。「野付はここから近いの。」と聞いてみる。「チカイカナ。チカクハナイヨ。」という。「ソレニ、ネムロモトオイデショ。」ともいう。だんだん近くに来たので「座って見るか。」と聞くと、もちろん、という顔つきで黙って隣に座る。しばらく画面を見ていて、とつぜん「ネムロニイッタヨ。」という。「そう。根室に行ったことがあるの。誰といったの。」「ネムロニトウサントイッタ。クルマデネ。トオインダヨ。ネムロハ。」と教える。ちっちゃい腕を組んで、ずいぶんまじめな顔をしてみせる。そして「ネムロニマタコンドイキタイ。」という。「野付はいったことがあるの。」「イッタカナ。イッタコトナイ。ノツケモトオイッテイッテタ。」「そうか。野付は遠いのか。」さきほどの係の男性が近くに来ると男の子は大きい子の方へいってしまう。
 加賀家は江戸末期に代々野付半島周辺で開拓に従事したという。3代目の伝蔵が残した文書を中心に展示される。彼はこの地で農業を試み、いろいろな作物を栽培したと伝えられる。展示には原本を複製したものと活字文、現代語訳文が用意されている。史料としての「文書」やこの意欲的に展示された内容については、まだよそではあまり見聞きしない。尾岱(おたい)沼キャンプ場は野付湾に面した海岸べりにある。


  20日(金)晴れ。 尾岱沼キャンプ場 → 野付半島 → ポー川自然公園
              → サケの科学館 → 中標津郷土館 → 尾岱沼キャンプ場
 4時頃にはすでに空が明るくなり始めた。明るい白雲が空一面まだらに広がる。その隙間のように青空が見える。5時には十分に晴れて陽が差し始める。時々浜辺のすぐ上をトビがゆっくりとはばたいて横切る。外に出ると岸辺に降りていた多数のカモが一斉に飛び立つ。
 野付半島は細い釣り針のような奇妙な形だ。車で走ることができて、道路が3分の2ぐらいまでちゃんと整備されている。ここにはいつか海側を船で渡って来たような気がする。そのときは、たしかこの道路の先端まで観光バスが迎えにきていたのだ。
 ポー川自然公園では自転車を借りてカリカリュウス遺跡というのを訪ねる。「熊がでるといけないから鈴をつけてください。」と熊についての注意事項を印刷した紙とともに鈴を渡される。「でも、今までに被害にあった人はありませんが。」と笑う。広い自然公園では長い木道が設けられている。擦文文化に影響されつつ住んでいたオホーツク文化の人々の住居跡がある。半年間寒冷な気候に閉ざされるために竪穴住居のくぼみがいまだに残っているのだという。ポー川といい、カリカリュウスといい、まるでローマ時代のよう。鈴を返すときに木道の花の季節についてたずねる。「このところ特に寒かったから。」季節がもう少し進んでいたら湿原の花々が咲いていたはずという。
 サケの科学館でイトウを見た。親切につきそって解説してくれた男性によるとイトウは肉食魚で自分の体長の半分ぐらいの魚でも丸飲みにしようとする。そして飼育水槽ではそのために自分も窒息死することがたびたびだという。
 中標津(なかしべつ)町郷土館では続縄文時代の突起部分に蛙文様があるという土器を見た。かなり大きな土器がきゅうくつそうにガラスケースに収まる。写真を撮る際は係の男性が明かりを消してみたりして世話をしてくれた。しかし、今、パソコンに読み込んで見てみると肝心の突起はよく写っていない。偏光レンズの使えない狭いガラスケース越しでは細かいピント合わせができないのだ。
 明日、予定している知床半島では横断する道路が午後3時頃には通れなくなるのだという。


  21日(土)晴れ。 キャンプ場 →(羅臼町郷土資料室)→ 羅臼ビジターセンター                          → 知床ネイチャーセンター → 斜里町知床博物館 → 網走道立キャンプ場
 朝3時過ぎに目覚める。すでに空が白みかけている。まだほの暗い浜辺では寄せる波に浮かぶ鳥たちの影が鳴きあいながら揺れている。空は見る間に明るくなって、半島の上に赤みがさす。3時50分頃には東の地平に大きなあかね色の太陽がのぼる。ここは本州よりも東に寄っているから日の出が早いのだ。
 羅臼町郷土資料室はなぜか土曜と日曜が休館日だった。展示品については心残りだが仕方なくビジターセンターに向かう。ここは環境省の関係だから地形や動植物の展示だ。知床半島は新旧2段階に形成された火山の連なりだという。海にするどく突き出て高い山々を持つこの半島は海風を受けて常に不安定な気候を生じている。資料コーナーに本がたくさん用意されている。「コンラート・ローレンツの世界」、これは探して手に入れたい。「小学校社会科副読本(昭和61年改訂)」。副読本には、クナシリ、メナシの反乱などアイヌの人々について触れているが、それは江戸時代の終わりまで。明治以後、多くの本州人が当地に入ってきてから彼らがどうなったかについては触れていない。「図録 サハリンアイヌの工芸展」。この中の写真の「彫刻された盆」を係の人にコピーしてもらう。
 横断道路に入る。ここはまだ冬のような景色。道の両側は高く雪の壁になって、斜面の立木はすべて雪の中。日が沈むと道路が凍って危険なので、それで通行止めにするのだ。雨が降り出す。峠を越えてまもなく知床ネイチャーセンターがある。ちょうどねむくてあぶない状態だったので駐車場に入る。熊の出没について注意を呼びかける展示。半島は至る所に熊がいるという。ここは羅臼岳に登る人が多く寄るところだ。斜里(しゃり)町の小冊子を3冊買う。
 斜里町立の知床博物館でも熊の餌付けの弊害を説いている。観光客が小熊に餌を与えているニュース写真。
 展示室の壁面に大きなガラスケースが3つしつらえてある。その棚にはそれぞれ縄文晩期、続縄文期、擦文時代の土器が納められている。これは縄文時代晩期の土器。その棚におかれたラベルは1つで、「ピラガ丘、ウツナイ、尾河台地遺跡出土」と、まとめて示している。その1つの浅鉢<図-333>。ごく浅く細かく施された縄文はさまざまな向きを示している。作り手が市松模様のように配置していったのかと目を凝らすがよくわからない。手前の4つの突起は何に役立ったのか不明という点で縄文的だ。付け足しのように1箇所に集まった小さな突起は器の上を飾るものとしてもずいぶん奇妙だ。これらが実用ではないとして、また、てきとうにひねっただけではないとして、突起1つ1つのかたちの少しずつ違うところからすると、ちがった4つの意味をそれぞれが表したか。かつてもっと大きくて、非実用の重要な意味を示していたものが時間とともに作り手の代をかさねるたびに小さくなり、一箇所に寄せられて意味もうすらいできてしまった姿のようにみえる。このときは、まだなくすわけにはいかなかったのだ。
 <図-334>。取っ手かと思われる変な出っ張りは別にして、このかたちは円形の升。陶芸の初心者が板作りの新しいバリエーションを試みるときの一つ。この場合の側面は、やはり積み上げていったのだろう。遠い時代のまだ形の定まらないときにこのように単純なかたちを思いつくことはむしろめずらしいことなのだろう。この「取っ手」にも、つけたしのような、痕跡のような、固く生気のない雰囲気がある。本当に取っ手として使うつもりでかたちを工夫したり、ここに何か重要なイメージを込めようとしてかたちづくったとしたらこんなふうにはならない。
 続縄文期の深鉢<図-335>。器形と文様は江別式の仲間。容器の口は口辺をとりまく波線とともに一方向にわずかに傾く。側面では水平に重なる線の上に向きの異なる4本の幅広の線を途中まで載せる。これは、この時代の土器によく見る表現。人々はこの「平面の重なり」がよほど気に入っていたらしい。
この時代の人たちは一種特異な平面構成の感覚を持っていて、これもその重要な1つなのだ。たしかに、この表現は「上下に重なる」、「異なる向きの中に潜り込む」、「押し分けてはいる」、「周囲との明らかな差異」、「平面上の立体感」、などなどおもしろい場面構成を生み出す。(図では消してしまったが、この土器の表面には白い石膏状のものが垂れたり広がったりしていて様子のはっきりしない部分が多い。)
 <図-336>小振りな丸いポット。大事な小物を入れて棚においたか。うまい飲み物を炉の炎で温めたか。装飾文様には動きがなくかたい連続幾何文様。口縁を斜めにカットしてやや内側に鋭い嶺を立てて巡らせる。これが、器をいっそう硬質に見せている。側面では3重円の一部がかけ落ちている。この様子から見ると制作時は表面にねんどの細ひもをおいて、その両側を指で沈めていったかと思われる。この文様のすべての線がその繰り返しで描かれる。平行線が多いのもそのせいかもしれない。
 道立網走キャンプ場は網走湖に近い丘の上にある。


  22日(日)晴れ。 キャンプ場 → 北見ハッカ記念館 → 北網北見文化センター
                    → 道立網走キャンプ場
 車のバッテリー上がり。夜中にルームランプを消し忘れたか、エンジンをかけないで窓の開閉を繰り返したからか。いろいろな人に世話になる。結局ガソリンスタンドでバッテリーを新しいものに替える。
 今日の予定はすべて午後になった。ハッカ記念館では手の甲に原液の油滴をつけてもらってなめる。辛い。精製された結晶を見た。一つ一つの結晶は細い針のように5,6センチ成長している。これを砕いたものを袋詰めして出荷したのだという。当地では昭和56年頃に生産を終えている。原因は海外から絞った油が大量に輸入されるようになったり、ハッカそのものが合成されるようになったから。もうずっと以前から生産のための栽培は行っていない。農家の転換作物はタマネギやビート。当地に酪農農家はほとんどない。
 文化センターは総合博物館である。北海道開発の歴史。炭坑、鉄道の敷設などは強制労働の歴史。江戸時代末から明治初頭まではアイヌの人々への強制労働と搾取と虐待。そのためもあってアイヌの人口そのものが減少すると、つぎは本州から送られてくる囚人。それが不法とされると各地で労働者を募集「たこ部屋」という彼らがなかなかぬけ出ることができない非道な仕組みが行われたという。当事者の一人の身内への手紙が公開されている。戦時中は外国人。原始のコーナーに縄文晩期の土器がある。
 <図-337>もちろん、別のものだがこれはまるで舟の埴輪。となりにも同じ形のものが細部を違えて並んでいる。
 パネル。「中ノ島遺跡の出土遺物(北見市指定文化財 第5号 昭和62年4月指定)(有形文化財) 中ノ島遺跡出土の土器群の中で、約2,200年前の縄文時代晩期末に編年される土器類で2グループに大別可能であるが、第1グループは文様として土器の胴部から口縁部にかけ、巾広磨消帯、沈線、刻線、あるいは粘土による貼付装飾文を特徴とし、器形は底部が舟底を呈するものが多く、舟形、浅鉢、高坏、が見られる。また、器全体にかつてベニガラで彩色したもので、用途としては祭祀等の時に使用する精製土器である。  第2グループは文様として、土器口唇部に波状を施し、胴部から口縁部にかけ沈線、刻線、または撚糸などにより押圧したものが多い。器形は底部が丸みをおびており実用具として使用される粗製土器である。  こうした土器群はオホーツク斜面では海岸地域での出土例はあるが内陸での発見例はなく、この時期の文化伝播等を研究する上で貴重な資料である。」

 その粗製土器。図-338この厚みの薄い容器はむだのないすっきりしたかたちだ。それでも、このさざ波をのせる必要がある。これはここちよい飾りのためか、あるいは代々伝えられて、おいそれとないがしろにできない出入り口の大切な姿か。正面の2つの穴はその位置からみて補修用ではないと思われる。この穴にひもを通しても器のこの厚さではどんな場合に役立つだろうか。

 

  23日(月)晴れのち雨。 キャンプ場 →(網走市郷土博物館)→ 羅臼郷土資料室
                        → 道立網走キャンプ場
 唯一開館しているはずの網走市博物館は、いまでは月曜日が休館日になっていた。通過するつもりになっていた羅臼町郷土資料室に電話をしてから出かける。行きは標津町まわり。こちらでも、道の両側につづく林の中に雪が残っている。郷土資料室はたいへん充実した展示内容だ。
 <図-339> ガラスケースの中におかれたラベル。「東釧路V式土器  約7,000年前の縄文時代早期の終わりころの土器で、棒に縄を巻き付けてころがした文様(絡条体圧痕文)と『く』の字状の、鳥の羽のような縄文(羽状縄文)が特徴です。この土器は分布範囲が非常に広く、全道に見られます。松法町オタフク岩遺跡第U地点6号住居址出土。」 出土した土器破片はほとんど粉みじんになっていたようでそれらが根気よく丁寧に復元されている。容器側面の輪郭では口辺部分をわずかに絞ったうえで開いている。
 <図-340>これもガラスケースの中におかれたラベル。「北筒(ほくとう)U式土器  縄文時代中期(約5,000年前)初頭の土器です。大きな縄目と口縁部直下の竹のような工具による円形刺突紋、非常に厚い器厚、そして筒形の器形が特徴です。共栄町チトライ川北岸遺跡出土。」
 これはとても重そうなので、いつもどこか決めた場所に据え付けていたに違いない。たとえば、3分の1ほど地面に埋めたら安定するだろうがその場合は何に使えるだろう。
 2列目のガラス棚にも土器がずらりとたくさん並ぶ。これらの土器に関連して、部屋を仕切って立つボードに「オホーツク文化」、「トリニタイ文化」についての説明パネルがある。オホーツク人は6世紀頃にサハリンから南下して北海道北部沿岸に数百年にわたってすんでいたという。かれらは続縄文文化や擦文文化を担った人々とはいろいろな面で異なるものだったらしい。数百年というのも今から思えば長い期間だ。前半は大陸とのつながりを保ってその独自の文化を維持したという。その後、かれらの生活と文化は徐々に変化し期間の終わり頃には当時の擦文文化に吸収され、その独自の文化は消滅した。その原因はサハリンで民族間の勢力争いがあって、かれらが頻繁に行き来していた大陸との交流が途絶えたためだろうという。
 北の宗谷海峡は南の対馬海峡よりも人々の行き来が日常的で遙かに多かったのかもしれない。仮にオホーツク人が大陸とのつながりを保ち続けていたらその後はどうなっただろうか。のちのアイヌ人もサハリン周辺を広く行き来し、そこここに住みついていたこともあるという。このあたりでは長い時間、民族があちこちに入り組んでいたが、かれらが簡単に消滅してしまうことは少なかったと思われる。
 図-341。これは「ソウメン文」という装飾を施した土器。細かく軽快な波模様が続く。これはあきらかに「縄文」ではないし、その後のアイヌ文様とも大きくことなる。この装飾に限っていえば表現は単調で表情には生気がない。しかし、かれらはこのソウメン文をかんたんには捨てなかった。のちのトリニタイ式土器は器形は擦文土器だがソウメン文で飾られたという。消えつつあった民族のこころに、それでも深くきざまれて消えない装飾だった。
 木彫のヒグマ頭部<-図->。説明ラベル。「―熊頭注口木製槽― 洗い桶状の容器に山の神様である熊の頭部を彫刻したものです。熊の口の部分が注ぎ口になっています。また、容器の縁には海の神様であるシャチの背びれを図案化した模様が彫り込まれています。12号住居跡出土。材質はカエデ属。」。
 この頭部からすると洗い桶はだいぶ大きなものだ。木材は炭のように黒くなっている。正面から見ると顔を少しこちらに向けている。展示では上あごの出っ張りを透明な円筒で支えている。その正面よりもこの横からの姿のほうがヒグマらしい迫真の表現だ。こうした写実的表現は日本列島の人々のあいだには滅多に見ないものだ。縄文時代の人々やのちのアイヌは生きものをそのまま表すことを巧妙に避けることがおおかった。しかし、北からやってきたオホーツク人にはそうした心の制約はなかったらしい。

 帰りは横断道路を行く。先日と同じように峠への道はまだ雪の中。


  24日(火)雨時々曇り。寒い。キャンプ場 → 道立北方民族博物館
                → 網走市郷土博物館 → ところ遺跡展示館 → モヨロ貝塚展示館
                → 道立網走キャンプ場
 はやめに北方民族博物館へ向かう。一旦キャンプ場から道路へ出るが、ここはいわばキャンプ場の「隣の敷地」のようだ。ここでは写真撮影はできないということなので仕方なくメモをとる。おもしろい展示が多いのにメモをとっていたんでは楽しめない。
 衣服などの文様を見ていると、東アジアの人々の文様には曲線の組み合わせが多い。それに対して、北欧の人々やイヌイトなどの人々の文様は細かい直線による幾何文様の組み合わせが多い。アメリカ大陸北部の人々の文様はこれらとはまた別のものである。この大まかな3つの違いはどこからくるのだろうか。この三つのいずれにおいても左右対称になることが多い。からだに着る「衣服」を見ているせいだろうか。縄文土器の不規則な曲線による文様やそれに近い文様はここにはない。「物」が違うから無理がある。同じ「物」でこのことを見ることはできないものだろうか。
 民族の分布では、サハリンアイヌの北にウイルタとニブフが分布する。ここでの分類では、アイヌは漁労、ウイルタは狩猟・トナカイ飼育、ニブフは海獣狩猟となっている。後の二つの民族の文様は左右対称になる傾向がアイヌの人々の文様にくらべてよりいっそうはっきりしているようだ。使っている道具などは似ているものが多い。彼らとアイヌとの関係をもっと知りたいと思う。
 網走市郷土博物館は落ち着いた雰囲気の木造の建物である。展示室の様子には昔の学校の中に入ったような懐かしさがある。
 縄文時代早期のガラスケースに条痕文土器と表示された細かい文様の土器がある。
 <図-342>。この土器は補修部分もふくめて濃く暗い色をしている。そのうえ、土器復元の手はその補修部分でも巧みに文様を補っている。そのため実際に目にした土器では出土部分がわかりにくい。容器の厚みは薄い。早い時期の土器の多くが薄手にできているのはなぜだろうか。
 パネル「縄文時代のはじまり 長い氷河時代が終わりをつげた今から1万年ほど前、日本列島では初めて土器を使った生活、<縄文時代>がはじまりました。北海道は少し遅れ8000年前頃、網走では7000年前頃に開始し、それ以後、5千年以上にもわたり続きました。 煮炊きの道具である土器と石鏃を使った弓矢の発明は、植物性食料の広い利用と当時増えつつあったエゾシカなどの中小動物の効率よい狩猟法を発展させ、より豊かな食生活をもたらしました。 人々は定住し集落を作り、安定した生活を営みはじめます。地域ごとに独自の文化が残されたのはこのころからで、現在の私たちの文化的な基盤が形成された時代でもあります。 時期区分について 旧石器文化が栄えた氷河期が終わり温暖化した気候は、豊かな生態系をもたらし、縄文文化発展の大きな要因となりました。しかし縄文時代を通じては、小さな寒暖がおとずれ、それに対応するかたちで文化内容もいくつか移り変わっていきました。 その変化は早期、前期、中期、後期、晩期と大きく5つの時期をもって区分され、まとめられています。…。」
 パネル「縄文時代早期 (8000〜6000年前) …。最古の北海道の土器は、貝殻や縄を器面にそのまま押し付けた文様が特徴で、道東では平底、道南では尖底と、器形の大きな違いが注目されています。 網走では網走湖底遺跡に代表される湖周辺の水辺を臨む場所で遺跡が発見されています。しかし、その数は少なく、規模も小さなものばかりです。恒常的な大きな集落は形成されず、いまだに半定住的な生活がつづけられていたようです。」
 続縄文時代の土器<図-343>。一緒にいくつかの深鉢が並び、どれも口縁部は平らか平らにちかい。図の土器には口縁にわずかな起伏があり、それは外へ反転する4つの装飾の上部なのだ。この容器の装飾は、そばに置かれた他の類似の深鉢のものより変化があっておもしろい。他の深鉢のそれはまるでありふれたコーヒーカップの取っ手のようにあじけなく曲線に動きがない。こちらのつくり手は流れる曲線を楽しむ気持ちをまだいくらか持っているのだ。しかし、口縁からのび出たその装飾は左右対称の3本を下でまとめるとすぐに容器の表面に溶け入ってしまう。ここには空間に伸び広がろうとする勢いはない。この容器の側面に刻まれた細い線は不規則にうねる波を思い出させる。線は分かれたりまた合流して表情を変えようとする。縄文人だったら、さらにたびたび線の太さやたがいの線の幅を変えただろう。
 <図-344>。図の角度からみると底がやや右に振れて輪郭線はいびつである。全体にはバランスがよくとれていてすがたがととのっているし、取っ手や側面の装飾にもていねいに手間をかけているのに、これはどうしたことだろうか。同じかたちのとっ手を4回くり返し、その下にほぼ左右対称の同じ文様をくり返す。それでもかたくならないのは、手描きの軽やかさと華やぐ装飾性のせいか。細い線は2,3本、あるいは数本が寄せられてまとまると器の表面を薄れつつめぐる。やわらかい線のまとまりは一種の面のようでもあり、実際に囲まれた強い面を上に受けてそれをきわだたせたり、どこか重たさを感じさせて垂れ下がる鎖の方に引きよせられたりする。
 ラベルの説明には「後北C1式」とある<図-345>よく見る文様の土器。たがいに2本線で接して区画されるもようが容器の表面をおおっている。たんねんに線を留めてはいろいろな区画面を並べていく様子をながめるのは、それだけでおもしろい。もともとは「表面をおおう」意味が何か込められているのかもしれない。けれども、ここではそれはすでにかたちだけのもののように思われる。文様は単純なきまりで繰り返され、余計な思いの広がる場はほとんどない。
 パネル「後北C1式土器」。「続縄文時代の後半にはほぼ全国一円で作られ、使われていた土器。従来の目玉文様を囲むように細い隆起線文が器面をおおう装飾性の高い土器です。道央・道南方面では注ぐ形の容器も使われはじめますが、網走周辺では引き続き深鉢形が主流となっています。」
 <図-346>。二度目に見る口縁
のかたち。まるで鋭く割り出した石器の刃のようだ。短期間にこの口縁をたまたま二つ目にしたのだが、これはほんの一部に過ぎないのだろう。当時にあっては多くの人々がさかんにこれを作っていたとも考えられる。この外から内へ傾斜したかたちの口はけっして実用的な容器の口ではない。目で見た感じとして、ある「ながめ」としてこのかたちが必要だったにちがいない。このかたちは怜悧に、なにかを拒むように屹立する、やさしさのないかたちだ。彼らがここに何のためにどんなイメージを込めようとしたのかとあれこれ思う。
 「続縄文時代の終焉と北大式土器」と題するパネル。「続縄文時代の終末は、土器口縁が円形刺突文で飾られた<北大式土器>が使われた時期です。北海道から東北北部までその勢力はひろまり、特に東北地方の人々は、エミシとも呼ばれ、大和政権との軍事的衝突をたびたび起こしていました。 この時期になるとようやく鉄器が普及し、石器はあまり使われなくなり、道北ではオホーツク文化人が進出してくるなど、つぎの時代に関わる新たな動きが見られるようになります。 7〜8世紀頃、千年近くつづいた続縄文時代は終焉をむかえ、新たな時代、擦文時代がおとずれます。」
 この博物館には動物の剥製がたくさんある。それも優れた技術によって制作されたもののようで、どの生き物も自然な姿を見せている。保存の不備による傷みもない。このようによいものをきちんと展示しつづけることができるのは、日頃から努力が払われているからだと思う。もし大事にしすぎてしまい込んだりしたら、いずれは管理者の目にさえ届かなくなりがちになってよい保存ができなくなるものだから。このような博物館は新しい博物館を作る場合と同じくらいの費用をかけて維持保存をしたらいいと思う。もし建物に傷みが生じていればそのくらいのつもりで修復していまのよさをいつまでも残すといいと思う。
 雨の中を、ところ遺跡展示館へ向かう。どうやら通り過ぎてしまったと思って、電話をする。出てくれた人が「ホテルの大きな建物が見えますか。その道の反対側に駐車場があって、そこを入っていただくとあるのです。」という。通り過ぎたホテルが見えるのでそこまで戻る。そこはずいぶん広い駐車場でバスも止まっている。その奥は林が広がっていてその中に建物がある。近づくと正面玄関の向こうに案内の看板が立っていて、先ずそれを見る。この辺り一帯の遺跡が表わしてある。竪穴住居跡の集まりがいくつも点在する。奥の方には、縄文時代、続縄文時代の遺跡、このすぐ背後の一段高い上には擦文時代の遺跡がある。左手から回っていく小道がついている。傘を差して林の中に入っていくと途中の足元に「遺跡には無断で入らないように。」と文化庁の小さな札が立っている。これは道から逸れてはいけないという意味だろうと先へ進む。着いて見ると、住居跡とその復元されたかやぶき屋根がそこここにある。ここの復元屋根は、葺いた茅の束が上から順に何段にも重なって段をつくっている。こういうのがこの奥にはたくさんあるのだ。ずっとむかし、擦文時代の人々はこの一段高いところに住んでいた。彼らは目の前の草原や湿地、その先に広がる海を見渡してはその日その日を送っていたのだろうと思ったりする。
 展示館「ところ遺跡の館」は竪穴住居をイメージしたという円形の建物。
 パンフレット「ところ遺跡の森」から−よみがえる古代の村−「ところ遺跡の森」はカシワ、ナラ、を主体とした広大な落葉樹の森林で総面積が120,822uに及びます。森の中には擦文文化(約1000年前)、続縄文文化(約1800年前)、縄文文化(やく4000年前)の竪穴住居跡が約138軒あり、住居跡は地表面が大きく窪んでいます。  擦文文化の住居は台地の西側の沢の周辺に、続縄文文化の住居は台地の北側周辺、そして縄文文化の住居は台地の北側から東側にかけてそれぞれ広く分布しています。一遺跡の中で各文化の立地が異なっているのは大変珍しく、平成2年に史跡常呂遺跡として追加指定を受けました。各時代跡地に擦文文化4棟、続縄文文化1棟、縄文文化1棟の復元住居、屋根のない状態の遺構露出展示住居も各1棟建設しています。」
 パネル「石刃鏃文化(縄文早期 約7千〜8千年前) 北海道の縄文文化は東北地方と密接な関係を持っていますが、北海道東部、北部地域では中国東北部、シベリア地域の文化の影響も強くみられます。この石刃鏃文化もその一つです。 この文化はアムール川流域、沿海州、バイカル湖周辺など大陸に広く分布しています。北海道では道北北部を中心に遺跡が発見され、彼らが移動してきたと考えられています。以前は土器を持たないとされていましたが、最近は絡条体圧痕文や菱形の型押文の文様をもつ土器が発見されています。石鏃(やじり)は縦長の石刃を素材に作られた特殊な形状をしており石刃鏃と称されています。…。」
 早期の尖底土器<図-347>。この細かく積みきざんだ線を絡条体圧痕文というのだろうか。この器のかたちと文様は各地の早い時期の土器に広く見られる。その理由は、かたちとしてはどこでも当時は同じような暮らし方をしていて器のつかいみちが同じだったせいか、あるいはこのかたちが作りやすいかたちなのでどこでもついついこうしたかたちになってしまうのか。文様については、この器の表面の凹凸が熱を伝えやすくたき火の上で煮炊きが早くできるからという説がある。実際に確かめてそんなに差が出るものか、人々がその差を実際に感じ取ることができてこうした文様を刻んだのか、と思う。あるいはこの文様も当時の流行の一つで1,000年もの時間があれば列島のどこかから列島各地に広まるものなのか。
 この文様を初めて見たのは青森市の博物館で、青森県内で出土したもののレプリカ<図>だった。こちらは草創期の約10,000年前のものとされている。
 晩期の深鉢<図-350>。奇妙に複雑な器形。このかたちには堅い木材から一気に掘り出したような力強い重量感と質感がある。あいだを区切る溝はまるで丸刀でけずり取っていったように見える。表面の細かいもようがとなりに続く様子はない。これは後からひとつひとつきざんだものらしい。ここにあるのはまさにかたちそのものなのだ。なにかいきもののかたちを借りている気配はほとんどない。もちろん、目玉をぎょろつかせておどす人を怪奇な力に頼ってもいない。見る者に口で言えるような何かを求めていないのだ。彼ら自身のための、ただ見ているだけで、そこにあるだけで受け入れられるようなものだったのだ。
 続縄文時代の深鉢<図-348>。ととのっていて、それでも表情ゆたかな器形。よくある実用だけをめざした容器はこうはいかない。そんな場合はこのようなここちよい比率と曲線を無視されてほとんど無機質にちかい瀕死の表情を見せる。ただ、このくりかえし文様はややかたい。
 <図-349>。何らかの事情でこの土器の側面は荒れていて、すり減ったようにも見える。そのためにこの派手な文様はいちじるしく明確さを欠く。中央のもようは放射状に開いて、さらにその一部がとなりのもようにつながっていくように見える。これはなかなか変化に富んだ複雑な構成になっているようだ。土器をいま作られたばかりのように復元することはふつうは不必要、不適当だが、この容器の場合はできればそれを見てみたいと思う。
 <図-351>。主要部分はそろっているが縁が欠けたりして痛みがひどい。そのうえ、この側面では何かがこびりついてそのままになっている。こういうのは資料としてわざと残されているのだろうか。この注口土器はずいぶんあっさりしたデザインで、器の輪郭も文様も凡庸だ。文様は数本の線でできていて、線のあいだを沈ませるなどはしていない。せんの集まっているところがちょうどかくされているがこの調子でいくとしたら線の端が互いに近づいて止められているだけかもしれない。
 
続縄文の多くは線の造形だ。これを初めて見たのは東京大学総合研究博物館だった<図>。あいだをわずかにへこませて独特の雰囲気を醸し出す2本の線。それがかたちを囲ったり、網目を作ったり、放射状に伸びたり、何本かまとめてそれ自身は勝手に散らばったり、ときには上下に重なったりする。たくさん並んだこれらの土器を前にすると、彼らがこの線の豊かな変化をまるで楽しんでいるかのように見えてしまう。不思議なことに、つぎに続く擦文土器の文様にそのようなことはない。この二つの土器様式が見せる隔たりは非常に大きい。この間に重要な何かが変わっていったのだと思う。おそらく、縄文と弥生の間にあった変化とどこか似たものだろうが、そのことにはたいへん興味深いものがある。
 擦文土器<図-352>。この土器の口辺にはどこか異国風の別の民族の手になるかたちのように感じる。北海道ではいろいろなところで擦文土器を見てきたが、どれも同じように見える。器の雰囲気は堅く文様と器形は変化に乏しい。続縄文土器はなぜか一定の線表現に偏っていても、それが思いがけない展開を見せることがある。それで、いろいろ見て回っていてまだまだわくわくさせるような姿の予感がする。それが擦文土器にはない。この2つの時代が移り変わっていくときのいろいろな様子を知りたいと思う。これと同じことを擦文時代からアイヌの時代に移っていくときにも思う。それは擦文土器のふんいきとその前後の時代の、たとえば文様のふんいきがあまりにもちがうからだ。
 オホーツク文化の土器<図-353>。整形したうつわのなめらかな素肌に極細・極小のねんどをのせている。表面に細工をするのはこれだけ。波もようと魚のシンプルで控えめなおとなしいデザインだ。魚や海獣を追って海峡を渡り北海道オホーツク海沿岸に住みついた北の民。かれらにとってうつわの装いにはどんな意味があったのだろうか。シンプルといえば、このころの擦文土器もずいぶんとシンプルだ。すでにこの時代はうつわに深い思いを込めるということはなくなっていたのだろうか。それではもっと昔はどうか。かつて、列島全体をおおっていた長期にわたる縄文文化の時代にかれらもまた北方にくらしていたはずだ。その時、かれらはどんな土器を持っていたのだろう。
 網走に戻ってモヨロ貝塚の展示館を探す。ごく近くまで来て表通りからはいると何かの工場の敷地に沿って進む。海がすぐ近くらしい。それらしい建物が目につかないまま先ほどの通りの別の場所に出る。1周したのだ。再度試みるが見あたらない。電話をする。いつものことだが、自分の位置がわからないまま聞いているので電話の向こうでも困っている。ようやく通りからはいる目印を確かめると、その入り口は先ほどやってみたのと同じだ。ただし、その途中に左に入る斜めの道があるのだという。確かにそれはあって、やっと目指す建物の横に車をつける。
 受付がすむとすぐ階段を下りる。そこが遺跡の現場だ。地表に出た部分に窓を設け屋根を掛けた広い部屋のようだ。周囲は地表から掘り下げたままに地層が見えている。そこを展示窓のようにしてガラス板で保護している。掘り下げた地面周囲には出土遺物が見えていてそれぞれに小さな説明のパネルが何枚も立ててある。こうして保護されたのは、もうずいぶん前のことなのでそれ相応に展示の古さを感じさせる。最初のパネル「1 モヨロ貝塚第三地点最下層約3米の赤褐色火山灰土層に包含されている貝殻文土器の状体。約6〜7,000年前と推定。」下には鋭く尖った尖底土器が一つとそのほかの土器破片や石器らしいものが散らばる。「2 貝殻文土器層の上、赤褐色土層に見られる網文式土器(左)網走式土器(右)の包含状体。約5〜6,000年前と推定。」右下には、底の丸みを帯びた尖底土器がある。文様はあの密に刻まれた横線(絡条体圧痕文か)。右のがどの破片のことかわからない。
 「モヨロ貝塚略図」というパネルが立ててある。図では、オホーツク海に面して海岸と網走川に挟まれ三角形の範囲が示され、さらに第一地点から第三地点までに区切っている。その中に「指定当時の竪穴住居」跡を示す番号が1〜29まで記されている。してみると、ここは、第1地点から第3地点までのどこか一部を展示のために使って、それぞれの出土状態を再構成したものなのだ。よく見れば、掘り下げた壁面の貝殻の層もそれらしく構成されたものだ。右側のガラス窓の中には、墓葬の状態を示す人骨が横たわっている。


  25日(水)くもりのち晴れ。キャンプ場 → 紋別市博物館 → 興部市 → 名寄市
                         → 和寒Ic. → 岩見沢市
 今日は紋別(もんべつ)市へ寄ったあと、もっぱら移動をする日だ。雨は降っていないが相変わらず気温が低い。道の両側では例の黒土の畑の上に霧が漂っている。それが甚だしく濃いところでは、まるでホカホカに湯気が立っているようにも見える。気温に比べて地面がよほど暖かいからだろうか。紋別市に近づいた頃には細かい雨が降り始めた。
 この博物館もごく最近に新しい建物に変わっている。展示室は、天井が高く床面積も十分に確保している。「旧高野番屋」の復元では広い屋内の様子を実物大で見せている。そこには雇われた漁夫が寝るための2段の寝床がある。漁業の場面には見上げる高い位置に当時の漁船がつり下げてある。船の上の男たちは身をのり出して海上から網を送り出している。歴史のコーナーの土器の展示には、時代ごとの代表的なものが選ばれているようだ。照明は下からあてられていて、土器は明かりを透かす台の上に置かれている。この方法の利点は何なのだろうと不思議に思う。ロビーには書棚があって地誌、歴史についての本がたくさん集めてある。取り出して読むことができるのでここでだいぶ時間を使う。札幌に本社のある新聞社の出した本がいろいろある。電話をしたら買えるところが分かるかと思ってメモをとる。
 興部(おこっぺ)まわりで名寄(なよろ)、旭川に向かう。午後は日が照りだして、和寒(わっさむ)Icにはいる頃にはまるで気候が変わった。


  26日(木)晴れ。   岩見沢市 → 小樽博物館 → フゴッペ洞窟 → 余市町水産博物館
                     → とまりん館 → ニセコサヒナキャンプ場
 小樽博物館には早く着いて近くの博物館駐車場に入ったが40分ほど時間がある。喫茶店が2、3あるけれども店を開けていない。仕方なくガラス細工の店を見て回る。アクセサリーのための小物の中に、いろいろに染めた絹糸をごく細い筒状に織った紐がある。筒状に織るということがおもしろい。むかし、毛糸を筒状に編む道具があった。木製の筒の口まわりに針が何本か立っていて、その針に毛糸を何かの手順で掛けていくものだったと思う。
 博物館の建物は旧小樽倉庫を受け継いだもので市指定歴史的建造物第13号となっている。北前船の重要な寄港地だった小樽は、明治から大正にかけて北海道の代表的な商業都市となった。旧小樽倉庫はその当時のものだという。敷地内では、展示室を移動する際に一旦広い中庭を横切って向こう側の建物にはいったりする。いま、中庭では、屋根に梯子をかけて「展示物」としての建物の修復が行われている。古代のコーナーに「火おこしシミュレーター」というのがある。男子高校生の数人ががやがや騒ぎながら取り組んでいる。その「体験」を少し離れて心配そうに我慢しながら見ている男もいる。
 その反対側の壁面のすべてにたくさんの土器が掛けてある。上の方の土器は見上げるしかなく、口辺のかたちが見られない。器は、たいていの場合は斜め上から見るのが自然なのだが。それでも、少し離れて全体を見渡すと、器のかたちがいろいろあって壮観だ。「忍路土場遺跡出土の土器群」とだけ表示され、他に細かい表示はいっさいない。中庭を横切って受付に戻り撮影の可否を確認する。僕の頭のちょっと上ぐらいにおもしろい文様の土器がある。カメラを上に差し上げたら器の上面が少しは写るだろう。しかし、見上げる液晶画面の角度をいろいろ調節しているうちに腕が重くなる。第一これではピントもなかなか合わない。たまたま近くに腰を下ろすためだろう、木製の台がある。床掃除をしながらこちらの方へ近づくおばさんがどう思うか知らんと気にしながら靴を脱いで台に立つ。そのうち、そばに来たおばさんが掃除の手を止めて見上げている。いきなり、「こういうのトマリンカンに行くといっぱいありますよ。」という。「ほう。トマリンカンですか。そこはどこにあるんでしょう。」「泊(とまり)村っていったかな。みんなでバスで行きましたよ。2時間ぐらいはかかったかな。もういっぱいあるの。これよりずっとたくさんですよ。」
 図-354>口辺は波形に大きく張り出して上方の空間を迎える。波形は緩い弧を描いていてその先端や谷間に鋭さはない。そのうえ波には内側にも縁取りがあって厚みを見せる。それらのためかこの器のすがたは重く堅く動きのない感じを与える。丸くすぼまった底はぬけている。このかたちの土器は大きさや波のようすをすこしずつちがえて下の台に、壁面にたくさん展示されている。当時、この地でこのかたちはさかんにつくられ一定の役割を持っていたようだ。
 <図-355>側面上部には見事にしなやかに華やぐ線描。出土部分がもう少しあればよかった。ここだけは続縄文の器のどれかに近い感覚か。
 <図-356>上部の口辺は無文。下部は確かではないが無文だと思う。やや盛り上げて帯状に刻まれた文様には上下に蛇行する線がいくつかある。うつわ全体は調和のとれた比例配分とすっきりとしてひきしまった輪郭線でよくととのった姿を見せる。

 帰りがけに受付でトマリンカンについて確かめる。他に、この地方で土器の見られる展示館についてもいろいろ聞く。今日と明日は、なかなか忙しくなりそうだ。
 小樽市の西に張り出した積丹(しゃこたん)半島の反対側に泊村というのがある。そこに電力会社の原子力発電所があって、「とまりん館」という原子力発電のPRセンターができている。そのセンターの中に土器の展示室がある。道順を見てみると、そこへ行く途中にはすでに予定していた余市町フゴッペ洞窟もある。
 フゴッペ洞窟の壁画というのは、続縄文時代に岩肌に線などを刻んでなにごとかを表し残されたものだ。人物らしいかたちが多数見られ、なかには、広げた両腕の下に四、五本の細い線が下げられていて有翼人物といわれるものもある。現在は保護のために洞窟開口部を建物で厳重に覆っている。現場に着いて岩面現場だという展示室に入っても暗くてほとんど何も分からない。もともと外にあったものをどうしてこんなに暗くして見るのか聞いてみると、明るくするとコケなどが生えていずれは岩肌をもろくしてしまうおそれがあるからだという。これが考えすぎた過剰な方法なのか必要で適当な方法なのかは、毎日の入場者数によって決まってくる。真っ暗な洞窟から出てくるとその代わりに展示室の手前の部屋に実物大の岩面模型ができている。
 展示ケースの中の説明パネル。「発掘と調査― 昭和25年(1950)夏、札幌からきた中学生大塚誠之助少年が見つけた土器片が発見のきっかけとなりました。翌26、28年と昭和45年(1970)に調査団による発掘が行われ、多くの土器などが見つかりました。利用された道具― 洞窟は灰や土砂が積み重なって埋まり、土器や石器、骨角器など昔の人たちが使っていた道具から、洞窟の時代がわかりました。土器は後北式土器という、3〜4世紀ころのものが多く出土しました。」
 同じケースの中に続縄文の注口土器がある。撮影の許可については少し離れたところにある「よいち水産博物館」に行く必要があるというのでそこへ向かう。この余市町一帯もかつてニシン漁が盛んだった。この水産博物館は、その頃の漁労具や民具を豊富に保存展示している。歴史民俗資料館も併設されていて、ここにも続縄文土器(恵山式)がある。
 棚の陰でまるい側面を明るく見せる土器<図- 357>。このように上下をせばめて胴を球形に近く保つにはうつわの成形にそれなりの工夫が必要だろう。文様は赤く彩色されている。どんな場所をこのかたちと色で飾るのだろうか。
 <図-358>。うつわの側面のかなりの部分は煮こぼれ状態に黒くよごれている。そのよごれを無視して線を強めにおぎなってみたのが右の図。上下の波線のあいだにいく本かの平行線が向きをちがえた帯のように配置される。帯は一種の面を見せてその面の交錯する構成となる。下の波線からななめにくねって降りる数本の線。これは、より糸を巻いた円筒を転がしたものらしい。このもようの表情は胴の柔らかいふくらみによく調和する。このうつわにはこの時代の注口土器によくあるようなはげしい表現はない。この文様のおちついたふんいきは日用の道具にふさわしいし、うつわのかたちも実用的だ。このようにここちよく飾った道具を日頃から使っていたとしたらその感性はすてきだ。
 フゴッペ洞窟の展示ケースにもどって注口土器を見る<図-359>。 これは風変わりな線描をほどこしたうつわだが、そのすがたはつぎ口のある彫刻といってもよい。ある角度からこれを間近に見ると、するどく立ってつらなる峰々がくねり曲がって胴を包んでいる。はげしくおどる波がうつわのつぎ口から胴へ流れ降りる。あるいは突き出されたつぎ口に向かってまわりの奔流が強く吸いあげられているようにも見える。いま目の前にして立つ者も、おそらくむかしの作り手もそのはげしいうごきに魅せられる。つぎ口を正面にしてみると、四本の流れが放たれる。口のうえではかぶさるように甲羅状の板がのっている。このようすは整然としてさらに豊かな広がりを感じさせる。側面にははげしいうごきは感じられない。流れはあいまいに止められて互いのうごきは関連をうしなう。見る者はさきほどこころをおどらせたのはなんだったのだろうとうたがい、あらためてななめから見る。
 人々のどのようなくらし、日々のいとなみがこのようなかたちを作り出したのだろうか。

 とまりん館は広大な敷地に余裕のある恵まれた施設として建てられている。最近の原子力関連施設は各地でくりかえされた大きな事故の記憶から地域住民の理解を不可欠としている。ここでも各展示ではずいぶんお金をかけて原子力発電の仕組みとその安全性についてPRをしている。地域展示として区画された中に「西積丹と縄文文化」のコーナーがあり、広いガラス張りの中に土器を置いた木製の棚がいくつも立ち並ぶ。内部の照明は十分に明るいがこのままで見ることができるのは手前の棚に並ぶ土器だけだ。脇には出入りのためのドアがある。案内コーナーで撮影の可否と部屋の中にはいることについて聞いてみる。係の女性が確認に行ってくれたのでしばらく待つ。やがて彼女は男の人と一緒に戻る。彼に希望を話すとよく分かってくれて土器の部屋の中に一緒に入ってくれる。
 彼は副館長であり学芸員でもある。おかげで撮影をしながらいろいろと話を聞くことができた。発電所の建設にともない、予定敷地や取り付け道路の各地点で遺跡調査が行われた。その結果、縄文時代中期の住居跡や、土器、石器、骨角器、動植物遺体などが発掘された。ロビーの展示ケースを一緒に見に行って話を聞く。石器の黒曜石は成分を分析すると近くの赤井川産のものと道東部の白滝産のものがあるという。さらに遠いところでは、ヒスイが新潟県糸魚川から運ばれていたという。珍しいものでは、穴を開けた小さな真珠が展示されている。展示室内の膨大な量の土器はすべて巧みに復元されている。ただ、色が似かよっていて補修部分はよく見ないと区別がしづらい。本州では見慣れない文様もあるように思う。
 側面にゆるやかな曲線を見せる土器<図-360>。底部が失われているがひだり側面の輪郭線からどんな全体像を想像できるか。うつわの底が欠けているだけではなくて、もう少し側面は続いているように思われる。上下二段に3、4本の横線がずいぶんいい加減に引かれている。まっすぐ水平に引く必要はまったくないのだ。口辺のうちがわにも縄目もようがつけられている。
 <図-361>。四つの突起を持つ土器。出土した突起は手前の一つのみのようだ。本州でよく見る螺旋状突起らしいが表面の摩耗がひどくてよくわからない。この土器でつい目を引いたのは、側面上部の出土部分(拡大部分)だ。中央のA図は文様らしき部分をその気配もふくめてできるだけたどったもの。しかし、これはまるで縄文らしくない。みぎのB図は復元者の表現に似せて線らしき部分をたどったもの。このばあいはおおいに推量を加えている。このどちらかがかつて明確に描かれていたはずの文様に近いのだろうか。
 <図-362>。何かの互いを縫い合わせたような線を文様とした土器。これは容器の側面を分割しているようにも見られ、上部では念を入れてなぜか確実に口縁にまで達している。側面をふくらませてぼってりとしたすがた。口が広く物の出し入れのしやすい実用的なかたちだ。
 <図-363>。スマートな器形にくさりもようのラフスケッチ。

 <図-364>。 側面をかざる線描と数珠状のおび。4つの頂点の下にそれぞれことなる紋章。かつても、この豪華版深鉢はたびたび嘆賞の視線をあびたにちがいない。ここでも縫い合わせ線が側面を仕切っている。底部は出土しなかったようだ。


 駐車場の車に戻ると時刻は午後4時近くなっている。もう、あまり遠くまで移動するのは無理と思い直して、地図を調べる。倶知安(くっちゃん)町やニセコ町近くでニセコサヒナキャンプ場というのを見つけて電話をする。向こうでは「こちらへは1時間ぐらいで着くしょう。」という。とちゅう山にはいるとここにもまだ雪がすこし残っている。そんな道とは思いもせず走っていたら、まもなく道の両側はすべて雪の中だった。どんどん山道をあがっていくと、かたちのいい高い雪山が間近に現れる。今日はよく晴れているので遠くまで見通すことができてすばらしい景色だ。キャンプ場に着くと受付の女性が「道路は3日前に開通したばかりです。あの山が羊蹄山ですよ。」という。


  27日(金)晴れのちくもり、函館に近づいて雨。
           キャンプ場 → 有島記念館 → 倶知安町風土館 → 寿都町
            → 白石公園はこだてキャンプ場
 朝、指先が痛いほど冷たい水で顔を洗って戻ると、あの雪山の頂にそこだけ雲がかかっている。上空は風があるのか、頂の雲は左へ流れていく。白い山も雲も右手から朝日を浴びる。それで高い山の稜線も谷すじも明るい空を背景にくっきりとかたちを見せる。
 出がけに受付に寄ろうと車から降りると、きのうの女性が先にセンターハウスから出てきてていねいに挨拶を返してくれる。「朝からずっと山の景色に見とれていました。」というと、「ええ、景色だけは自慢できます。」と謙遜していう。
 有島記念館は思ったより近くて開館前に着いた。付近は広い庭になっていて幾すじか歩道ができている。すでに朝は9時をまわっているのに人影がない。道を少し下に降りたところに案内所のような建物がある。軒の下では木製の手すりに野鳥が1羽降りていて行ったり来たりしている。白と黒の尾の長い小鳥で名を知らない。自分で勝手にぴょんぴょん近づいてくるが、離れていくときにこちらが一歩出るとさっと飛び立つ。
 館内では、作家の生い立ちやこの土地との関わりについてたくさんの写真と年表などで説明している。この人は、童話集と「生まれ出る悩み」を読んだくらいであまりよく知らない小説家だった。なかなか興味を引かれる。心中事件について内村鑑三はたいそう怒ったという。戦後の農地改革で協同組合も解体させられた理由について展示ではよく説明されていない。
 きのう小樽で聞いた博物館が倶知安町にある。倶知安風土館の展示室にはいると広い床が一面にこの地方一帯の地図になっている。正確には、カラーの精密な航空写真をリノリュウムに印刷したか焼き付けたものになっている。よほど丈夫にできているようで靴で踏みつけてもいいらしい。自然展示のコーナーのフエルトの床にキツネの剥製が置いてある。ふつうはこういうのは手のとどかないジオラマの中とか展示ケースの中にたいせつそうに入れてしまうだろう。このキツネにはかならず子どもが手を触れるだろうし、それをむしろ期待しているかのようだ。昔の暮らしの小さい部屋がいくつかあって、一昔前の懐かしい品々がそこここに目につく。そうした部屋の一つが小学校の教室になっている。小規模だが整理が行き届いておもしろい展示が多い。一回りしたが土器を見つけることができなくて受付へ戻る。聞いてみると、この土地ではすでに特徴のある土器が発見されているのだけれども、その大部分はまだ展示がされていないのだという。普段は土器を一つだけ展示していたがちょうど展示替えで別室にしまってあるからと、そこへ案内される。見ると不確かだが続縄文土器だろうか、口辺に低い突起が四つ高まった深鉢。低い首にひも状の文様が見られる。この展示館の名は、土器の出土した土地として情報は伝えられているが展示には至っていないのだ。意に添えないということで、応対の男性はたいへん気の毒がった。
 午後は、岩内町へ出たが同様だった。海岸線を寿都(すっつ)町まで来て、残り時間が気になって函館に向かう。函館市にはいる手前で雨が激しく降る。夕方のためか車が多い。市街を抜け出すのにずいぶん時間がかかって暗くなるころようやくはこだてキャンプ場に着く。


  28日(土)くもり。キャンプ場 →(市立函館博物館)→ 函館市北方民族資料館
                    → 松前町郷土資料館 → 江差町郷土資料室 → 伊達市
 午前9時前に市立博物館のある公園近くに来た。なんとか一周したが車で入れそうなところがない。公園正面かと思われるT字路に停車して博物館に電話をする。「博物館にはいるために駐車するには、」と聞くと、「いまは休館中なんですが、」という。よく聞いてみると、6月7日から縄文時代についての特別展があるので、その準備もあって現在は休館中なのだという。一瞬、(7日まで…、)と思ったがいろいろ都合をつけるのは無理、と明らかに分かる。気をとりなおして北方民俗資料館へ向かう。
 この資料館では写真撮影ができなかった。仕方なくメモをとるつもりで見て回った。それでも、目に触れた大切なものを忘れないようにことばや略図で残すのは手間ばかりかかって続けられない。このごろはシャッターを押して済ますことに慣れてしまったのだ。はちまきを平たくたたんだようなアイヌの頭飾り「サパウンペ」は、たとえばニブフなど近隣の人々にはないのだろうか。この頭飾りの女性用はまことに華麗、洗練されている。膨大な数の棒酒箆(イクパスイ)が三畳分ほどもある広いガラスケース一面に密集して並べられている。どんな方法でこんなにも集めたのだろうか。このイクパスイは土器が使われなくなったあと、遠い先人の造形と感性をいかにも豊かに伝えているようにも思う。
 渡島半島の二つの出っ張りの一つ松前半島へ向かう。
 松前町は半島の先端に位置し、海峡をはさんで津軽半島をのぞみ本州にもっとも近い町だ。街道沿いの建物は松前藩の城下町の雰囲気を残している。今日は天気もよくて花の季節でもあるので街を行く観光の人も多い。
 松前町郷土資料館には土器が展示されているが暗い照明のため撮影は無理だ。ふつうに眼で見るにも、もはや立派な視力を持っているわけではないので見づらい。こうした「ふんいきづくり」は展示物が本来の果たすべき役割を台無しにしている。
 たいへん引きつけられるパネルが3枚ある。壁面に影絵のような絵が掲げられ、初めの1枚、「アイヌ民族の戦い 封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧にいのちをかけてたたかいました。 そのうち最も大きなたたかいは、康生2(1456)年〜長禄(1457)元年の道南地方を舞台にしたコシャマインのたたかい、寛文9(1669)年日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシャクシャインのたたかい、さらに寛政元(1789)年、クナシリ、根室地方を舞台にしたたたかいです。」15世紀半ばのコシャマインのたたかいについてはパネルとしては初めて見る。添えられた図では、渡島半島から石狩、静内までの範囲を示している。12世紀末に擦文文化の時代が終わっているというから、その間は200余年だ。この期間の状態について何が分かっているのだろうか。
 つぎのパネルは、「アイヌ人口の減少 蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少してゆきました。中でも、道南地方はじめ鯡や鮭漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が最もはなはだしく、鯡漁場で有名な小樽、歌棄、磯谷、寿都などは明治初年には全滅ないしは、わずか数人という状態になっていました。」添えられた図では、「アイヌ人口減少地域別順位」として北海道を5つに色分けして示している。渡島半島の南に飛び出した二股の部分は「和人地」となっている。人口減少の比較的少ない部分は西の室蘭から襟裳岬を経て東の釧路に至る北海道南部だ。白老、静内、十勝などの地名を思い浮かべる。
 3枚目のパネルは、「高利をもたらしたアイヌ交易」 商人の買価と売価をそれぞれアイヌから買う場合と和人から買う場合、アイヌに売る場合と倭人に売る場合の違いを例を挙げて示している。アイヌに対しては安く買い取り、高く売りつける。物によっては数倍の違いがある。
 江差町に入って午後4時半を過ぎてしまった。たいていはこの時刻を過ぎると受付を終了する。せっかくだから念のためにと資料室のある建物を探す。街道からそれて急な坂道をあがるとその建物はあった。着いたときはまもなく午後5時だった。頼めるものなら頼んでみようと受付で聞いてみると「どうぞご覧ください。」という。さっそく展示室にはいると壁面いっぱいに設けた明るいガラスケースに土器がたくさん並ぶ。すぐ受付に戻って中のの男性に写真撮影の許可と少し時間がほしいことを頼むと、「いいですよ。我々もまだ少しはいますから。」といってくれる。
 すぐ目についたのが口辺部が横長の「円筒下層式土器(前期)」<図-365>。それも口辺部は楕円ではなく角の丸い長方形と見える。土器の地肌は焼成時の炎か煮炊きに使った際のすすか、ほとんど黒くなっている。その黒い地肌もふくめて側面全体に非常にきめ細かい縄紋がつけられているのが分かる。これはうつわ成型時の重要な作業だったのだ。この口をなが四角にした容器を何に使ったのだろうか。このかたちにした理由がかならずあるはずだと思う。
 榎林式土器<図-366>。口辺に2本の線を巻く。多少上下していてもあまりかまわないという風情。その線から模様らしいものがつるされている。円が2つつながったものと巻きひげ状のものとが交互に下がっているらしい。意気込んで描く様子はなく、何度もくり返される習わしのように「ここにはこういうものをつるしておくことになっているから。」という描き方。これとは別に、この模様の由来を伺わせるような、作り手の頭の中に模様のイメージが生き生きと浮かんでいて、「これを何とか表したい。」と願うような意気込みで描かれた同じ模様がどこかにあるのかもしれない。
 窓口の奥の人たちが待ってくれるとはいっても、やっぱり落ち着いてじっくり見るというわけにはいかない。それでも、かなりの時間を使って写真もたくさん撮ることができて思いがけない親切に接してうれしかった。礼を述べて外へ出ると職員らしいの女性もちょうど車に乗るところだった。坂を下りて先へ進むとそこは昔風の建物が道の両側に並ぶ。ここも努めて古風な雰囲気を残そうとしているのがよく分かる。(あとでパンフレットを見ると、この道は「いにしえ街道」と呼ばれている。この江差は往時の鯡取引の町、北前船の寄港地、江差追分の地だ。)渡島半島を横断して八雲町に出るころには暗くなった。


  29日(日)くもり。  伊達市 → 室蘭市民俗資料館 → 登別市郷土資料館
               → 金山湖畔オートキャンプ場
 室蘭市民俗資料館。「土器と石器 室蘭の遺跡から発掘された土器は、縄文時代のものとして梁川式土器、苫別式土器、円筒下層式土器、円筒上層式土器、亀ヶ岡式土器、続縄文時のもので恵山式土器、擦文時代の刻文土器や擦痕土器などが数多く出土しています。…。」
 全体にひかえめな表情の晩期の土器<図-367>。ここにも切り出しナイフの刃のようにななめに削いだ口縁部がある。この斜面のために全体の丸みはいっそう強調される。亀ヶ岡式ということだから東北地方にも見られるごくふつうの姿なのだろうか。しかし、このやいばには硬さや鋭さがない。側面にはこまかい縄文がまんべんなく刻まれる。それが刷毛目のように揺れてどこかやわらかい。刃の斜面は6、7本のほそい横線が几帳面に引かれて、それも揺れているせいかなめらかに、またやわらかく感じる。
 この口縁部の刃のうえには刻みが根気よく入れられ、突起が1つ乗る。正確には突起は1つではなく、刃のうえに痕跡のようにわずかに突き出る部分がいくつかある。目立つのを1つにしたのは仰々しさをさけて簡素化したのか、散漫になるのをきらって凝縮したのか。
 <図-368>。
6つの突起の下にくり返される模様。ラインが一周してそれだけでかたちを作るものと道のように平行したラインがある。道といってもすぐ行き止まりになるし、2つ接して3本のラインが平行するものもある。ラインによってできるかたちに特に意味はないようだ。しかし、ほとんど同じ模様がくり返される。1単位模様には意味があるのかもしれない。
 かたちも文様も華やかな器<図-369>。5千年以上前の人々がこの器のすがたを間近に見つめていた。それから3千年以上を経た弥生時代にも同じかたちではないがこれに似た華やかな器はあっただろう。その場合に高坏の台はこのようにゆがんではいなかったかもしれない。しかし、華やかな器のすがたを見つめる人々の眼におおきなちがいはなかっただろう。
 <図-370>。口辺部と胴部の見事な対照。内側に湾曲した口辺には、ゆるやかな曲線が複雑に交差する模様を描く。こんな所に押印するにはどんな用具を使うのだろうか。長めの胴は上から下まで水平な線でほぼ等間隔に区切られ、細かい縦線を押さえている。この飾り表現は簡潔で、かれらがそれを意識的に目指したかのようにあいまいさがない。

 「輪西遺跡出土の土偶(レプリカ) 実物は大正時代に輪西で発見され、現在東京の国立博物館に収蔵されています。 縄文時代晩期(約三前年〜二千年)のもので中空。東北・亀ヶ岡文化圏の影響が見られます。 このレプリカ(模造)は実物写真を元に、実物の二倍の大きさで制作されました。高さ32p、肩幅18p、厚さ8o、重さ1.5s。輪積み法で成形されたのち、露天の野焼きで焼成されました。 地元の粘土と鳴り砂(石英粒を多量に含む特殊なイタンキ浜砂)が原材料に使われています。…。」制作は昭和62年だという。衣のかたちと文様に興味を引かれる。(ただし、国立博物館の収蔵写真と比べると細部にも違いが見られ、今でいう「レプリカ」とは意味が異なる。かつてはこうした資料展示が工夫されていたという点で、これも大切なのだと思う。しかし、今でいう「レプリカ」も欲しい。)
 登別市郷土資料館。建物は広い公園の一角にある。今日は最近にない晴天で、それも日曜日なので広場には家族連れも多い。受付の女性は「でも、このごろのお天気は変わりやすいんですよ。」という。写真撮影の許可についてはなかなか難しいらしい。応対してくれた男性がどこかに電話をしてくれてしばらくしてようやく「写していいです。」ということになった。
 <図-371>。出土した部分はたくさんあったようで、そのこまかい破片をていねいに接合して器が復元されている。細く浮き出た縄模様がうねって不規則に器全体にほどこされている。この「浮き出る」模様はどうしたらできるのだろう。この場合も、このうつわができたその時そのままに鮮明に模様が浮き出たすがたを思い浮かべてみる。できれば、そういうすがたを実際に復元してこの目でみたくなる土器だ。
3階へ上がる階段の踊り場から4階にかけて知里幸恵・真志保姉弟についての展示がある。知里姉弟は登別が生誕地なのだった。3階の机の上に幸恵の「アイヌ神揺集ノート」が複製されて展示されている。これは何冊かのノートを同じ意匠の箱に入れたものだ。となりに北海道教育委員会と表紙に記した復刻版「知里幸恵ノート」という赤い冊子がある。
 夕方、南富良野町の金山湖オートキャンプ場に着く。


  30日(月)晴れ。キャンプ場 → 美瑛町 → 旭川市旭山動物園 → 岩見沢
 キャンプ場は南側に湖をのぞむ斜面に広がっている。新芽をふいたばかりの
ような芝生が朝日を受けて黄緑色に輝く。丘のすその方では、ちょうどいま山桜が咲いている。木立の白樺の幹が真っ白に見える。キャンプ場を出るとき管理棟に寄ると、入口の横に花のないしだれ桜のようにしだれた木が1本植えられている。今は建物の陰に入っているが幹は明らかに白い。きのう、ここに到着して受付の人に聞いたとき「白樺ですよ。ああいう品種なんでしょう。」といっていた。
 美瑛町は富良野盆地の北に位置する。盆地は南北に細長く延びているので金山湖からでもかなりの距離がある。美瑛町に入って幹線道路からそれるとまもなく広い駐車場がある。まわりはずっと遠くまですべて畑が続く。それも、小さな丘がいくえにも重なるようにうねりにうねった畑だ。むこうの畑ではいま機械を運転して土を耕し畝を作っている。まだ畝のないのっぺりした畑や、すでに何かの作物が芽を出して緑を強めつつある畑もある。起伏の間に見え隠れする道路ではトラクターに引かせて作付けのための苗か、播種のための道具かを運んでいる。起伏の中を縫う小道の所々に立木が並んで陰を作る。遠くの丘の上に木が1本だけ葉を茂らせているのも小さく見える。かなたの白く鋭い峰の山々は石狩岳、十勝岳、富良野岳。
 見事なのは、畑のできあがった畝だ。広く整然と並んだ畝は曲面のためにその先の方でそれとなく狭まり、そろってわずかに曲がりながら向こう側に消える。その向こうにはまた別の斜面が現れる。それがあちらこちらで向きを変えてはくりかえされる。起伏に刻まれたこの線がそれぞれの起伏を強調し、たがいの重なりを際だたせ、風景全体を分割しながら遠近感を強める。まるで風景の中で画面構成をしているようなものだ。
 ここは、まわりの風景の眺望のためにつくられた観光用の駐車場だ。これがないと観光客が車を路上駐車するために農家の作業に支障を来すのだろう。このように起伏のはなはだしい農地は動力機械でなければ栽培は難しい。他と同じように、ここでも農作業には土地が平坦に近いほどいいに違いない。われわれ観光客が見に来るのはこのやっかいに高まりうねる農地ではなくて、変化に富んだ起伏そのものなのだ。結果として、その土地で生活する者と、そこを訪れる者の思いはひどくかけ離れているのかもしれない。
 さらに別の脇道に入っていくと道路に面して広場があり、いま花盛りの桜の老木が2本大きく花枝を広げる。広場の背後には林が続いている。ここは、だいぶ以前に何かの記念のために作られた公園のようだ。もともとは樹木の間を巡る道がつけてあったのだろうけれども、いま、鮮やかな若葉を広げはじめた木々の根もとはすべて落ち葉に覆われている。落ち葉の間から種子が芽を出して、すでに小さな葉をつけていたりする。一方、広場の桜は葉桜になって咲き乱れる。昼の明るい陽光のもと、いま満開の桜の大木は萌え広がる野や畑を前にして風が吹くたびに花びらを盛んに散らせている。それが隅の方に吹き寄せられてあちらこちらに薄ピンクの吹きだまりをつくる。ここでは、つぎの季節も重なっていっそう色濃く春が過ぎていく。
 午後は旭川市に出て旭山動物園に寄り、それから高速道にはいることにする。
 今日は月曜日だというのに動物園の駐車場は満車で、手前の有料駐車場に車を入れる。園内も人がいっぱいだ。家族連れの他にお年寄りや学生などの団体客も多い。入園してまもなく右手に金網で大きく囲った鳥類舎がある。人は2重の扉を開け閉めしてその中にはいる。中には広い池があって周囲の道を歩きながら放たれた白鳥や鴨類の姿様子を見る。
 すぐ注目したのは、対岸でちょうど餌をまいてもらった白鳥たちが餌を食べる姿だ。水際に浮かんだ、何か白い細い餌をくちばしの先ですくって食べている。それも岸にしゃがんで。白鳥は少し段差のある水面に首を伸ばすようにおろすとくちばしで捕らえた餌をすすぐようにしてから首を上にあげ水と共に飲み込む。そばで岸に立つ仲間も、地面の餌をくわえるとわざわざ水面におろして同じようにして食べる。餌はいつも水と一緒に摂るらしい。この2羽を比べると、水面近くに餌が浮かぶ限りしゃがんでしまった方が効率がいい。なんだかものぐさで横着な鳥だが。これは白鳥が水面に浮かんでいるときに餌を摂る姿に近いのかもしれない。餌はこちらの岸にもまかれて、見るとモヤシだった。
 すぐそばの松の葉陰につがいの鴨が目をつむって休んでいる。雄の頭は濃い青紫色で短い羽毛が光っている。雄のくちばしは黄色いが雌はこの部分さえ鈍い色をしている。つがいは低い柵の向こう側で手を伸ばせが触ることできるほど近くにいる。
 猛獣舎の外でライオンが仰向けに寝ているのを上から見下ろす。もっとおもしろいのは、下から見上げるヒョウ。猛獣が金網の上で体の伸ばして寝ているのだ。動物の檻の一部分が観覧者の通路の上に出ていて、彼(彼女)は風通しのいい場所がさも気に入ったように眠り込んでいる。動物の重みで押し付けられた毛が網目の6角形からはみ出している。ぬれた鼻孔が開閉するのまで見える。手が届くような高さではないがふつうの人が生きた猛獣に接近する希有の機会だ。これなど、よそから展示の参考のために訪れた人はいろいろ心配してしまうのだろう。
 ヒグマが外に出ていて、観覧者は屋内からガラス越しに動物を見る。ガラスの向こうでヒグマは何かいらいらとして鼻息荒く行ったり来たりする。中にいる者は安心してそれをのぞき見る。彼(彼女)は近寄りざま急に前足でガラスをばしっとたたいて中の観覧者を驚かせる。
 ホッキョクグマの建物の中で人々が列を作って上に上がる順番を待っている。なかなか時間がかかりそうなので外へ出てみる。外から見ると広い運動場の岩陰にシロクマが寝ていて、ずっと離れた位置に透明な半球が設置されている。その小さな半球の中で人の頭が出たり引っ込んだりしている。ゆったりと寝そべる大きなシロクマと地面に出た半球の中で入れ替わっては外をのぞく人。それをさらに柵の外から見るというどこか奇妙な図。あの半球がクマに負けないほどもっと大きかったらもう少し違った感じになるかもしれない。
 「鳥−大空にはばたけ」と、鳥類の特徴について説明したパネルがある。体の構造から、生態、祖先まで図を使って詳しく説明していておもしろい。「…。鳥は高度に発達した筋肉とすばらしい機能とデザインの翼を持っています。また体は空気抵抗を少なくするため流線型で、骨格はじょうぶで、しかも軽く食べたものはいつまでも体内にとどめることなく、消化と排泄が非常に能率的におこなわれます。 これらは、すべて飛ぶためのメカニズムです。…。」
 カピパラの顔は口や鼻の幅が広くてふつうのネズミとは違う。それに、ふつうのネズミは腹を地面につけるようにして動き回るがカピパラは四肢でぴんと立つ。だいいち、とんでもなく大きい。それでも、ネズミの雰囲気はちゃんとあるから感心する。
 オランウータンの野外運動場で説明会が開かれている。いま、オランウータンは三匹。大人の雄と雌と子供。付近に集まって聞いている人々は何事かを待っている様子。やがて、説明内容にあった生態の一部分が再現される。運動場の中に樹木の幹を模した高い塔が立っている。もう一つ、運動場の外にも囲いができていて、そこにはジャングルジムのような遊具と中と同じ高さの塔が立っている。二本の塔の間には丈夫そうな鉄骨の橋が架かる。橋にはジャングルの蔦の役目をするロープが垂れ伝わせてある。どうやら、人々の頭上にもうけられたこの仕掛けはオランウータンが行き来するためのものらしい。係の人は「たまに上から糞を落とすことがあるから気をつけてください。」と観衆に危険を予告する。それから長い竿先に何かをぶら下げて外の囲いのどこかに置く。するとそれをじっと見ていた大きな雄の方が待っていたように塔に登りはじめる。体の毛がずいぶん長いのに驚く。橋のロープにぶら下がって渡っていくときには長く垂れ下がった毛は大きく動くたびに風になびく。彼が橋を渡り終わると下から見上げる観衆が拍手をする。人々はジャングルジムまで降りた彼の顔を間近に見る。小さな目鼻に対して両の頬がとんでもなく広い。目的のものを手に入れた彼は、またさっさと元に戻っていく。
 だいぶ歩き回って疲れてきて出口の方角が気になりはじめる。午後の日差しが強くなった。みんな飲み物を手にして日陰を探している。団体らしい人たちは忙しそうにすぐどこかへ移動していく。それに比べて家族連れはゆっくりと休んでいる。こちらの人の髪は黒い。とりわけ、少し波うって両肩まで豊かに伸ばした女性たちの髪は艶やかに黒い。


  31日(火)晴れ。   岩見沢 → 江別市郷土資料館 → 恵庭市郷土資料館
               → 苫小牧フェリーふ頭
 今日は二つの資料館を見る。そして、もし時間があれば登別の館長さんに頼んで赤い表紙の「神揺集ノート」の中身をデジタルカメラに収められないかと考える。
 江別市郷土資料館の展示室にはいると、広い壁面に設けられて段に土器がどこまでも並んでいる。部屋の角にくると折れ曲がってさらに続く。段の一番上に赤い帯を巡らせて、そこに「縄文時代」とか「6500年前」とか記されている。帯の色は続縄文時代になると青、擦文時代になると紫にそれぞれ変わる。よく見ると、下の各段にも少し細い帯がつけられていて同じ赤でも明度や色相を変えて土器形式などの移り変わりを知らせている。それが縄文時代早期から、擦文時代まで絶え間なく続く。照明が斜めに当てられたスポットライトなので、暗い位置になった土器はよく見えない。横から照らされた土器は側面に濃い影を作る。受付で撮影について聞くと、「どうぞ。」という。まもなく男性が現場へ来てくれて少しの間いろいろ世話をしてくれる。
 縄文前期の「萩ヶ岡式」。これは口辺の突起や文様に共通の特徴がある。縄状のものが口縁部を巻いたり突起の下に垂らしたりと装飾的だ。
 縄文中期の土器<図ー372 >。高く厚く盛り上がった4つの突起にすぐ目がいく。きっとこの部分は作り手にとってもおろそかにできない重要な部分だったのだ。側面を仕切る2本線はできる限り正確に交差させようとしている。この地は文様の幾何的な傾向が本州よりも強いのだろうか。
 あきらかに縄を飾った土器<図ー373 >。これは、「当時の人々のあいだに流行していた文様の1つがわれわれにはたまたま縄飾りのように見える。」というのではないだろう。当時の人々の生活の中に、紐状のものの途中で輪を作って垂らすという場面がごくふつうにあったにちがいない。また、鉢や壺の首に縄を巻いて使うこともよくあったのかもしれない。
 サツマイモを繋いでさげたような模様の土器<図ー374 >。実際には、垂直線がイモの中に含まれているのもあるから繋いでさげるというつもりはなかったのかもしれない。このイモの様なかたちとその間におかれた線は一組の記号なのかもしれない。この図形のバリエーションをたくさん見ることができたらおもしろいと思う。この図形をもった器がたくさん出て、その構成に少しずつちがいがあって何か決まりらしいことも伺うことができれば、すくなくともこれは記号にちがいないということになるかもしれない。この土器の4つの突起の下にはそれぞれこの図形が配されていて、図のひだりがわの図形も見ることができる。こちらの図形の構成はたしかに上下の順序がことなっている。しかし、この部分の場合は復元された箇所との区別がつけがたい。
 続縄文の「アヨロ式」。突起は目立たない。器形、文様ともに控えめだ。このあたりの土器は壁面のうえの方に「恵山式土器群」と表示されている。こちらはその丸い壺形<図ー375 >。 縄文時代も含めて、球形の器はなんどもあらわれている。いかにも大事なものの入れものというごとくに。このすぼめた口は、たいていのばあいに閉じられたにちがいない。
 「江別式」。これはこれまでもよく見てきた続縄文土器だ。ここにもたくさん並んでいるし、特に別の明るいガラスケースの中に「江別式土器 江別市指定文化財」としていくつも収められている。その中の説明パネル「道南部の恵山式土器と道北東部の宇津内・下田ノ沢式土器との特徴を合わせもち、江別で作られ始めた土器。4〜7世紀ころまで使われ、文様によりA〜D式土器に細分される。最盛期のC2式土器は、北海道全域はもちろん千島・樺太、そして東北地方・新潟県までもひろがる。 細い粘土紐で描かれた三角・菱形・円などの幾何学紋様は、アイヌ文様のルーツともいわれている。 やがてこの土器は、実用性におもきをおいた土師器・須恵器の流入により消滅する。」となりのパネルに「江別式土器の拡がり」の図がある。A式は石狩地方、B式はほぼ全道に、C1式は国後島南部と青森県まで、C2式は樺太南部、択捉島南部、東北と新潟県まで。そのころの新潟県にまでこの土器形式があるというのはたいへんおもしろい。ぜひ新潟県や東北で探してみたいと思う。細い粘土ひもを置いただけではこの雰囲気の紋様は表せないと思う。また、もしこれがアイヌ文様のルーツだとしたら、その間にあるおそろしく無機質な器形、文様の擦文土器についてどう考えるのだろうか。おそらくは、日常の何かが大きく変わって土器文様の果たしていた役割も変化し、それまでの文様の役割は何か別の対象に移っていったのだろう。
 棚におかれたラベルに江別B式と表示する土器の1つ<図ー376 >。うすくひかえめに盛られたひも状の線が器をつつんでいる。線は結び付いては模様をえがき、たがいに引き合いながら表面に張り付く。中央に線をあつめるこの模様が4面連続して器をめぐる。側面の模様はおもに上半分をかざっている。ひとはよく、ななめうえからこの器を見たのだろう。この器の当初のすがたはかたちも装飾もきわめて均整のとれたものだが硬すぎるということはない。いまでも、こんなふうにひもを編んで器をつつむことがあるかもしれない。
 すぐれて装飾的な器<図-377>。この土器には口縁にわずかに出っ張った突起が4つあるがそれは相対して二通りの突起である。器の側面にはそれらの突起の下に4つの模様を描き、それも1つおきに二通りになっている。ひだりに見えかけている模様は菱形を下に3つさげたように見えてやや硬い感じがする。右に見える模様は上にひらく曲線と下でひらく対角線状の直線に上下からはさまれた構成になっていて、よりはなやかに見える。上下の境界は少し上に寄って下にはたくさんの細い線が丹念にさげられている。それが器の細くなるにつれて底に集まっていく様子は優雅である。それは器形の流れをいっそう強調している。
 側面全体が豪華にかざられている<図-378>。上部がすすけているのかよごれているところを見ると日頃から使われていたものと思われる。これも口縁に同じ二通りの突起がある。器のかたちもほぼ同じだ。しかし文様は別で6角形に近いかたちが小さい2重円をあいだにつながり側面をめぐる。この連続した6角形はまるで何かのシンボルマークのようにほかの器でもよく使われている。
 <図-379>。
この文様を描く手順と方法を考えてみる。縦と左右に開く線を描いてその上に円を描き下に帯を巻く。むかし、ガラス板にチューブの絵の具を出してゆびを使ってこうしてあそんだことがある。ただ、ねんどの場合はかなりやわらかい必要がある。うすく溶いたねんどを塗って描けばいいが、それではこれだけの厚みを出すと乾いていくうちにひびが入ってしまう。だから、器がやわらかいうちに描かなければならない。道具は、たとえば適当な太さの筒の切り口が使えるかもしれない。切り口がこまかく波打ってこしが強くしなやかに変形するものがいい。
 赤く着色された土器<図-380>。側面には指でも入りそうな穴がはじめからあいているし奇妙なかたちの突起がある。それらはいずれも文様の中の予定されたあるべき位置らしいところに配置されている。文様も当然こうあるべきだと思っているかたちを大まかに一気に描いたらしいようすだ。これはあきらかに実用品ではなく、みんなが以前からよく知っているある目的のために制作されたものだ。この文様には彼らが大切に思ったその目的にかなう意味がこめられていたにちがいない。それはもはや知ることはできないがこの器のかたちや文様の持つおおらかで明るい雰囲気は感じることができる。それは拒否、脅迫、恐怖ではない。たとえば、赤く塗られることがあるという埋葬用の容器だが、このかたちでは骨を入れて地中に埋めるには口がひらきすぎている。
 <図-381>。この時代の注口土器はどれもほとんど同じかたちをしている。しかし文様はというと出会うたびにちがった表情を見せる。勢いのはげしい流水のような彫りの深い立体表現(359)。帯のかさなる、いわば仮想立体表現(379)。この381も仮想立体の仲間だが円を中心にした放射状の模様が下部でくりかされる。文様全体の流れが注口部に向かう勢いで表現されるものと、この図のように文様が注口部にとらわれず側面に展開するものとがある。
 <図-382>。よく整った器形と文様。この時代はこうしたデザインの器がたくさんつくられていたのだと思う。文様のうえの方が口縁部まではみ出している。いや、はみ出しているのではなくて、この時代はもともと口縁部も文様の一部であったのか。
 終わりの方の展示室に「チョウの世界」という部屋がある。あの鱗粉が真っ青に光るチョウからはじまって様々な珍しいチョウの標本が壁面に続く。
 10時50分、恵庭市郷土資料館へ向かう。地図を見るとほぼ真っ直ぐ恵庭に向かう道がある。11時40分着。
 ここは、一昨年に来たとき休館日だったところだ。あのとき代わりに紹介されて見たのが発掘されて間もないカリンバ遺跡の出土品展示室だった。いま、ここにはカリンバ遺跡の展示コーナーが広く設けられている。縄文晩期の壺型土器と樹皮などを基材とした漆製品が大切そうにガラスケースに収まっている。
 <図-383>。ラベルに「縄文時代後期末〜晩期」とある注口形土器。この器は非常に手間をかけて制作されたものにちがいない。器の本体はまるでろくろで成形したかのようになめらかで整っている。全体にあっさりしたひかえめな表情だ。文様らしいのは首と胴に巻かれた帯状のもののみだが、それ自身も何かを圧縮したかのように単純化されている。口縁の低く波うってややそりかえったすがたがわずかにはなやかで、そのために晩期の土器によくある硬さからのがれている。注口部の位置からすると、この器の上部球形の容積はまったく役だっていない。注口部の根もとに割れ目がある。これは器の本体をつくってから注口部をとりつけたものらしく、その貼りつけが不十分だったためらしい。この土器の底面積はごく小さいので安定して置くには指示台が必要だ。当時はどんな置き方をしたのだろうか。支持台に相当するものが出土しないならば、考えられるのは砂、砂利の中に立てたり3つ以上の適当な大きさの小石のあいだに立てる。あるいは組み合わせた小枝や木片のあいだに立てる。もしかするとこれは置くものではなくうえからつり下げたかもしれない。その際のひものとりつけ方はさまざまあろう。
 晩期のきわめて装飾的な線模様<図-384>。器の側面で胴の周囲4点を基点にして二重の弧が大きく跳躍する。もっとも、下向きの弧も描かれていて全体としてはなにかのやくそくごとに関係のある図柄なのかもしれない。そのなにかを離れても結果として、われわれにとってもはなやかな装飾なのだろう。はなやかな線描につい意欲的になるのはこの地の特徴だろうか。
 <図-385>。展示写真の中にこの土器の出土状況を写したものがある。土を掘り下げた穴の壁面でさかさまになって、ちょうどこの図の背面にあたる側を見せている。器は細めて伸ばした口にだけ文様をつけている。実際に使われていたときには片手でこの部分を持って皿に液体をそそいだのかもしれない。すっきりとまとまったデザインだがその文様はかたい。アンデスや中国の古代文明ならここに奇怪な生き物の顔などが恐ろしげに入りそうだ。それは極東の列島に展開した縄文時代にはあまりありそうにないことだ。文明のある時点で王が民を支配するようになると、ときには恐怖心を与える表現がその手段となる。列島の古代では古墳時代にいたるまでついにそれはなかったようだ。
 <図-386>。首に2段の帯を巻く。下は6つの結び目、上は4つの結び目だが上の場合はこの図の正面で結び目の間隔が広く5つの結び目だったかもしれない。この帯はこの時期の土器に頻繁に見られる。もともとは上下に向かい合う円弧がはば広に連なったものの細めのバージョンだろうか。晩期によくある圧縮されて痕跡のようになった文様の1つではないかと思われる。この土器の注ぎ口のまわりはねんどひもをそのままおいた子どもの粘土細工のように見える。
 <図-387>。この器ができたばかりのときのすがたをみたいものだ。せめて、この左の空白が文様の続きですべてうまっていたらとつくづく思う。器はちょうどよい比率で2つの量感がかさなり、そのくびれに細い帯を絞めている。しかし、ここではなによりも文様こそが主役となってはれやかに器をいろどる。揺らめきながらひろがる模様があちらこちらに配置され、まるで器の表面にふいに風が吹いたか、水の中でゆるやかな流れにさらされたかと思う。この線を引く手の持ち主はそれに近い感覚に身をまかせてこのように自由に描いたにちがいない。
 <図-388>。文様はこまかい点の連続をたのしんでいるかのよう。これはころがして押印した文様によくあるものだ。この場合はそれと同じものを手で刻んでいるかもしれない。ネムノキやアカシアのこまかい葉に似て軽やかに華やぐ独特の魅力のある装飾だ。
 こちらは常設展示の棚か。続縄文土器<図-389>。このはばひろの帯は重なり方で描かれた順序を示しているが下になった帯の続きがずれている場合がある。また、帯ははばのあるへら状のもので表面のねんどをかき分けるように引いたものらしい。しかし、その内側の数本の線は少しずつちがいを示しているところからみると別の道具でその後に入れたものらしい。ただ、どちらの道具も何でできていてどんなかたちのものかはっきりしない。すぐとなりにこれも続縄文土器<図-390>。続縄文としては意外にも細い線描のひかえめな文様。こうした文様はこれまで目にすることが少なかった。これは実際に珍しいのか、あるいはあまり目立つものではないから展示されることが少ないのかどちらだろうか。いや、その目立たないせいで自分自身がこれまでこうした土器を見落としてきたか。これは縄文土器<図-391>。側面には本州でもよく見る文様をきざむ。(そう思ってT〜Wまでを順にふり返ってみる。ところがこれと似たような文様が出てこない。しいて近いといえばUの<図-144>だ。これは縄文晩期の平たく固まって様式化された雲形文様の一部に似ている。いつも見ていて、それでもあまり取り上げなかった文様だった。どうしてだろうか。)
 奥の展示室の年表の下に縄文土器が展示される。棚の下の方だけをガラスで囲っている。土器は整理されて代表的なものを置いているようだ。コッタロ式という早期の土器がある図-392。側面では太めのねんどひもが斜めに並んで降りてくる。これは円錐の曲面を飾るためのデザイン。うえにひらいた円錐の下部にすこしひろげた底をつけている。このかたちが確かなら器は平らな場所に置かれたのだ。この器のかたちをつくるときも円錐をその平らなところでころがしたのかもしれない。そうしないと輪郭線はもっとゆがむだろう。
 こちらは口縁部のかたちが変わっている土器<図-393>。北海道では草創期の土器は出土しないという。土器の出土は縄文時代早期から始まって、その早期はおよそ3千年のあいだ続いたことになっている。この図の土器はこのように手の込んだかたちや文様から思うに、たぶん、その3千年間の後半に作られたものではないか。早期の土器作りの始まったごく初期にいきなりあらわれるかたちや文様ではないはずだ。あるいはまったく別の経過をたどったのかもしれない。たとえば、当地でも定住に近いくらしが可能になったころに土器作りが始まり、まもなく本州ですでに何千年も続いていた土器作りのノウハウが伝えられると当時の最新のかたちや文様がたちまち行われるようになったというのはどうだろうか。それでこのようなかたちや文様の器も早くから作られたということか。
 ところで、この口辺の
かたちはあまり実用につながらないようだ。効率よく液体や穀類を貯めたり、出し入れしたりするのにふさわしいとはかならずしもいえない。しかし、なにかのためにどこかに置いて眺めていたということはあるかもしれない。この器を眺めていると、そのかたちはわれわれにはどこか双葉の萌芽のある時期のようなおもむきがあって結構おもしろい。文様は縦横斜めの線が作る面を配置したもののようにみえてこれもおもしろい。直線の長さをそろえてならべ、その段をずらして縦横を組み合わせたりしている。折れ曲がった斜めの線をくり返したり、2等辺三角形を置いたり四角を積んだりする。これは幾何学模様の羅列ではなくて、まるで画面構成なのだ。もっとも、われわれは勝手にそういうふうに思って感心しているが彼らが同じように考え意図していたかどうかは分からない。数千年も前に、人々のくらしの中の何がこうしたかたちを作らせ、このような文様を描かせるのだろうか。
 パネル「土器と弓矢と丸木舟 約1万年前頃に氷河期が終わり、気温はだんだん暖かくなってきた。地上を覆っていた氷がとけはじめ、海水面が上昇して北海道は大陸と海でさえぎられ、現在の形になった。 陸地だった所が入江や沼地になる。恵庭の周辺も北からは千歳の長都沼まで、南からは美々までが沼地または海岸だった。 恵庭で最も古い人びとの生活の跡は、ユカンボシE8遺跡。約7千年前のもので、縄文文化の初め頃のものである。この時代の人びとは、ユカンボシ川や柏木川などの小さな川沿いに地面を堀込んだ半地下式の竪穴住居を作って住んでいた。…。」
 アイヌ文化のコーナーに漆塗りの杯(トウキ)の上に棒酒箆(イクパスイ)を置いたのがいくつも並んでいる。このイクスパイに刻まれた文様は非常に変化に富む。文様がほとんどないような簡素なものもあれば、全面を精密に細かく彫込んだものもある。文様の様子も様々だ。アイヌ文化の中では広く行き渡った基本的な道具のようだ。これはいつ頃から使われていたものだろう。この道具の古いものと新しいものとをくらべてみたいものだ。この文化の始まりのころのものが「出土」するということがあるのだろうか。
 見終わると午後1時近い。登別へ行って作業する時間はほとんどないかもしれない。昼食をとっていて、札幌の新聞社の出した本のことを思い出す。札幌ならば行き来してもフェリーに乗り遅れる心配はなさそうだ。さっそく電話をしてどこで手にはいるか聞いてみる。少し待つと、「こちらにも在庫があります。」という。さっそく出かけたが、新聞社は駅前のビル街にあって昼過ぎなのにラッシュアワーのようだった。なんとか道端に車を着け停車ランプを点滅させてビルの中に駆け込んだ。


  6月1日(水) 晴れ。
 午前9時、仙台。穏やかな航海。航行中、海面に小さな波が広がっている。フェリーはその海面を左右に分けてゆっくり進んでいる。海は平穏なのにこの大きな鉄の船はゆるやかにゆれる。小さな波をつぎつぎに吸収しながら、その過程のどこかで共鳴して自ら低い大きな波を生じさせる。廊下を歩いていると、ふいにフエルトの床につまずく。船がゆるく上下にゆれて、それが歩く歩調にたまたま重なると十分あげているはずの足が思いがけなく床にぶつかる。船中の立ち居振る舞いが思うに任せられないのは、体がふらつくばかりではなく、肝心の足が普段のように床との距離を測れないせいなのだ。ながいあいだ広い場所を動き回っていたあと急に狭い場所に閉じこめられると頭も退屈するのかこんな妙なことまで考える。
 午後は何度も大浴場に行って湯につかる。湯は浴槽の中で幅いっぱいに大きくゆれる。肩までつかると湯が勝手に行ったり来たりしてからだをゆらし、それはそれで心地よい。湯の中では船の発動機の振動が直に伝わって内臓に響く。それであまり長くは入っていられない。日が暮れると船室のシャワーを使う。


  2日(木)雨天。午前9時20分、名古屋港着。