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2005 - 07 - 16(土)〜07 - 25(月)
 


7月16日(土)晴れ。
 午前10時30分発。中央道の恵那山トンネルを過ぎるまでは予定通りに行くことができると思っていた。トンネルを抜けると正午を過ぎていて、ここから逆算すると高井戸までは順調だろう。が、そこから首都高速で上野まで行く所要時間のために入館時間をすぎてしまうかもしれない。諏訪湖を過ぎるころから車も増えてきた。今日は土曜日だったのだ。上野はあきらめたが、そのまま首都高速にはいるのはやめて、八王子市、あきるの市から圏央道を狭山市に出て久喜市から東北道にはいる。


17日(日)晴れ。
 山形自動車道を走って午前10時前に山形県立博物館に着く。例のすてきな土偶<図>はフロアに独立させたガラスケースに貴重品のように収まっていた。ところが、これもまた複製品だった。聞くと、本物は別に仕舞ってあって、この土偶の関係する特別展が開かれる場合ぐらいにそこから出されるだけだという。いま、特別展の予定はわからないという。博物館のしおりに「土偶 重要文化財(舟形町・西ノ前遺跡出土)」としてカラー写真が印刷され、その下に、「大形で高さが45センチある、縄文時代中期の立像土偶です。各部は5片に割れ、離れて出土しました。接合によって復元されたものです。造形的には人の姿を抽象化して表現しています。海外でも展示され、その優美さが評価されています。」とある。どの国の人々がこの4700年前の造形を見たのかわからないが、人々はこの彫像を不思議なあり得ないこととして眺めたのではないかと思う。いまでいう抽象化とか造形とか優美とかいう語をかつてこの人物像をかたちづくった人々の感性とどう結びつけることができるか、少し気になる。
 縄文時代中期の土器<図099に追加>。(気づかなかったが、これは先回訪問時にも見てホームページ上に掲載している。)口辺に回廊を設けた土器<図>。上の渦巻きを支えるように逆V字の柱が並ぶ。何がここを通り巡るのだろうか。それは、渦巻く流れに誘われるように自由気ままに出入りしているかのようだ。
 午後は、博物館で聞いた県内の資料館を見てまわることにした。最初の展示館では郷土のかつての繊維産業について熱心に解説していて展示もおもしろい。蔵の隅に円筒埴輪の大きいのがおいてあるのを見た。ただ、土蔵の中がひどくかびくさくて、すぐのどがおかしくなった。つぎのは大石田町の資料館だが、ナビではたどり着けないので場所をたびたび聞いて探し回った。「坂をあがってくだって…」と聞いてもどの程度の坂なのか分からないから、よそから来たものには「これがそのくだっている坂なのだ。」とは判断しかねる。「もう、すぐこの下なんですよ。」と崖っぷちの茂みを指さされて、それでも、広い道路の4つ角を曲がったり横町を巡ったりしてようやく着いた。「奥の細道」には、芭蕉が最上川上流のこの地へ来て船に乗ったという記述がある。「奥の細道」の写本など関連の箇所の資料が丁寧に見せてある。考古資料は収蔵庫に仕舞ってあって出されていない。そこで今日の予定は切り上げた。


18日(月)晴れのちくもりのち雨。 
 秋田自動車道を湯田で出て国道を横手市へと走る。この自動車道の湯田の先にも長いトンネルがあるので国道に出るときっと山の中を走るだろうと期待したが道は黒沢川という川に沿っていて、わりと平坦だった。
 大曲を経て角館市に向かう。橋を渡って街にはいると、やがて黒板塀の続く大通りに出る。大通りといってもそれは江戸時代としての幅広い通りだ。いまは大勢の観光客でにぎわっている。人々はかつての武家屋敷の佇まいを見にこの街にやってくるのだ。どの屋敷でも塀の中の大きな樹木が塀の上に高く枝を伸ばす。盛んに茂った枝は通りを両側から覆って道路のほとんどを日陰にしている。この大木の中には桜の木もたくさんあるらしい。いつか、「角館の春」の見事に満開な桜の花の写真を見た。黒塀の続くところどころに門や木戸が開いていて、屋敷によっては観光客が出入りしている。車をゆっくり進めていると運転席が少し高いので塀の内側がときどき見える。なかには、屋敷の建物はなくて草むらに何でもない小屋がぽつんと建つのもある。そのままでは雰囲気を壊すので黒板塀だけは立てている。通りを抜け出るとすぐ、そこは開けた現代の町で車は並木さえない広い国道を走る。昼の陽が暑い。
 午後は、田沢湖町から八幡平のふもとを通って鹿角市へ抜ける。雲が出てきて日が陰るようになる。まだ時間に余裕があるので八幡平を経て岩手県側へ出る道にはいってみる。大沼のビジターセンターで雨が降り始める。センター入口に掲示している気象情報によると、ここ数日の八幡平の天気は曇りで霧が出るとある。雨はたいした降り方ではないのでさらに車を走らせる。やがて、雨はほとんどやんだが霧が濃くなる。それも本格的な濃霧になって、すぐ先を進む乗用車の赤い尾灯さえ見えなくなる。それで、よほど間近に前の車に寄るとようやく薄赤く見えてくる。道路を示す白いラインは車の直前にだけ見えていて、それだけを頼りに左右へハンドルを切る。前方に先導車のいない前の車は先に進むのがこわいに違いない。ようやく駐車場の表示があって、どうやら県境に到着したらしい。ところが、駐車場にはいるつもりが別の分かれ道に入ってしまったらしい。道はどんどん下っていく。なんとかしてどこかで引き返さなければならないが、ターンする場所がない。仕方がないので、霧で周りが何も見えない下り坂だが危険を承知で車の向きを変える。上の駐車場に戻ってみたがちゃんと料金所があって中に人がいる。何も見えないところで駐車してもつまらないからさっさと大沼に戻ることにする。大沼のセンターが見えてきて霧は消えたけれども、また雨が降っていた。


19日(火)晴れ。 
 大湯ストーンサークルには午前9時に着いた。展示室の様子は前に来たときとそれほど変わっていなかったが、あの器の側面と底に同じ模様を描いた浅鉢<図>はなかった。「発掘された日本列島2005」の巡回展示に出されているという。パンフレットによると来年1月に尾張一宮の博物館でその巡回展示の予定がある。あの鉢は、ここ1、2年のうちに発掘されたものではなく2002年の夏にすでにここに置かれていたのだけれども。
 今朝は開館したばかりなので、しばらくは他に誰もいなかったが入口の方で何人かの会話が聞こえてきた。小声で誰かに説明をしている声と、その内容を英語で伝えている人の声がする。どうやら聞き手は2、3人いるらしい。そのうち、若い男が一人、カメラで土器を写しながら展示棚に沿ってこちらへやってくる。目につく展示品を適当に選び取っては次々にシャッターを押している。そうしてはまた仲間のところへ戻っていく。訪問客と解説者は入口付近で熱心に質疑応答しているようでなかなか姿を現さない。
 今、フロアに立つ独立ケースに入っているのは壺形土器<図>。首から上が失われている。もぎ取られたような折れ口をしていて、首はある程度の高さがあったように思われる。胴の上下を絞ったかたちからもそんな気がする。硬く引き締まった胴には、思い切り大きく図柄を描いている。図柄は二つの寝かせたS字型を順に描いていって、この図の右側後方付近(D)で左右から出会って重なっている。ここで描線がぶつかりそうになったとき、ここだけ図柄を縮めたり、最初からやり直したりはしなかったのだ。この柔軟さに思わず微笑する。口を広く開いた深鉢(その1)<図>
 これは、汁物を頻繁にすくい上げたりするには便利なかたちだ。文様はタマネギを縦切りにしたような図柄。この図柄にはいろいろなバリエーションがあって、鱗茎が開いたのや、左右に一片ずつのものなどを描いた土器もある。今、われわれには草花の側面を描いたようにも見える。彼らは具象物をあまり描かないようだから、実際には左右対称の性質を持った何かの想念を描き出したということらしい。側面上部に失われた部分が多いので分かりにくいが全体の文様構成ははっきりしている。鱗茎状の図柄はかならず水平線上に置かれる。
 口を広く開いた深鉢(その2)<図>。上部に楕円形の囲みが並ぶ。その枠外をたくさんの細かい点を配した面で区別している。このように特徴のある地肌を作ることで面と面を区分けし互いを際だたせる。これが絵の具で彩色する代わりになっているようだ。この場合は、いわば華麗なヒョウ文色というところ。このとき彼(彼女)はこの「色彩」をここに使いたかったのだ。
 口を広く開いた深鉢(その3)<図>。ここですぐ目につくのは平らな口縁部である。ふつうは器の状態としてごく当たり前なのだが縄文土器に限ってこれは異例なのだ。この姿は口縁部のさまざまな突起を見慣れた目に何か異様な単純さと映る。水平にカットされた口縁をわざわざ避けるという1万年もの長いあいだ続いた根強い嗜好については、見る者にその由来について限りない興味を抱かせる。これは、その気持ちを裏切るように見事に平らなのだ。口縁部以外でも直線に近い輪郭線や四角を組み合わせた図柄などを見ると、作り手がもともと単純なかたちを好んだ結果とも考えられる。その場合に、あの「根強い嗜好」は心の中でどうなったのだろう。あるいはこうも考える。口縁部のかたちにはいくつかの決まったおおよそのかたちがあって、「立つかたち」、「伸びるかたち」、「包むかたち」、「流れるかたち」などの中の「何もないかたち」を用いたのがこの鉢だったのかもしれない。
 背後の壁面に側面の文様を展開した図がいくつか掲げてある。その中の1つはあの器を取り上げている(写真)。底に描かれている文様は例のバリエーションの一つで。これもなんだか花模様のようにも見える。だが、こうして側面を開いて見ると、やはりこの文様は具体物の花とは別のもののようだ。展開された図に並ぶ文様には位置や順序があるように見える。そのように表された文様は当時の誰にでもそれと分かるような確固としたイメージの何かなのだろう。基底線上に置いた中央の菱形から左右と上に向き合って出た2本のつの。この一組の図形がそのままくりかえされる。つの状の先が尖っていたり、角を作って切りおとしたりしていてもそこは適当だ。彼らにはそうした細部はあまり意味がないのだ。それにしても、この側面に描かれた図形の配置や、内側の底にも同じ図形を置くなどは、近代、現代の装飾家が好んで採用するデザインと何も変わらないではないか。
 もう一つの展開図(写真)。球面中央に連続する波模様がはっきりと写し取られている。太い曲線には植物のまきひげ様に小曲線がいくつも分かれていてかたちを華やかにする。ここに掲げられた展開図は、土器面の凹凸を拓本をとるように直に押し付けて写し取ったもののようだ。よくあるように写真技術を駆使して無理に開き伸ばした無機的な展開図ではない。そのために土器表面の様子が素直に伝わってくる。もっとも、こんなふうに開いて見られることが分かっていたら、彼らはもう少し模様の配置に気をつけて描いたかもしれない。この土器の実物を展示棚の中に見つけようとして探したが見つけられなかった。受付に行ってこのことを聞いてみたが、いまちょうど学芸員さんは来客の応対をしていて土器がどこにあるのか確かめることができないという。そこでもう一度展示棚へ戻る。
 単純化された波、あるいは何かをつなぎ続けるイメージ<図>。文様の構成はきわめて明解。文様の上下は水平に仕切られて何も描かれない。その余白の比率は気持ちよく眺めることができる。
 口を広く開いた深鉢(その4)<図>。口辺部に七つの低い峰が連なり、図柄はその下に一つずつくりかえされる。文様は簡素で静かな表情だがこれでも動きがある。横にずらした平行四辺形の左右へ連続する動きだ。それには側面上部のわずかなふくらみが線に与える効果もあって、作り手はおそらく無意識に利用しているのだろう。対角に添えたちいさな渦はその動きにあまり役立っていない。この図柄を使い始めた頃は対角線上より少し内側にずれて平行四辺形に卍形に似た動きを与えていたのかもしれない。ここでは、ただ文様に変化を与える遊びのように見える。縄文の器が原始・古代のデザインに時折見られる頑迷で固定的な表情から逃れているのは、このようになんらかの動きや変化をいつも持っているからなのかもしれない。
 上下に不思議なつながり方を見せる文様<図>。この文様の由来を知りたい。このように整理される前は曲線のS字型や渦巻きなどを使っていたものが繰りかえされるうちにしだいに変化したのかと考えたりする。もしそうなら、その傾向はたいへんおもしろく、その途中のものを是非見つけたいものだと思う。口辺に五つの峰ができていて図柄の内部はその峰の位置に呼応している。この峰はすでに上に伸び上がろうとする気配を感じさせる。それはそれぞれの峰の上部の高まり方や峰の開く角度によるものと思う。
 じょうごのように口を開いた壺形土器<図>。この口辺部は大部分が欠けて出土したようだが図の左後方には出土部分がある。この壺のかたちを見て、もう一度初めのガラスケースの壺を見に行く。胴の輪郭線はたいへんよく似ている。折り取られたような首の部分も同じ造りに見える。この壺も口辺部が同じかたちだとしたら思いがけない開き方だ。石膏で補った方の壺の口縁部はほぼ水平に整えられている。細部などはともかくこの姿だけ見るとまるで弥生土器のようだ。胴部は地肌のちがう太い幅の折れ線模様が側面を覆い尽くす。大胆な表現だ。この表現は、慣習として何度も繰りかえされた結果の一つかもしれないし、それゆえ、この表現を壺の作り手個人の感性に結びつけるには無理がある。それはともかく、このようにモダーンなデザインを見せられると、何かの実用的な材質に変えて、また、時には彩りも添えて今でも十分好ましく使えそうに思う。
 円弧を使った装飾<図>。小学生の頃、コンパスを使ってこんな図案を描いたことがある。下向きの円弧はしなやかな紐状のものが両端から垂れ下がったイメージ。彼らはこのような場面を日頃からごくふつうに眼にしていたのだと思う。そしてそれをここに写し取ったとするのは無理だろうか。一定の幅の布を垂らして両端をたくし上げても同じかたちができる。一時的にこんなふうに軒を飾ったり、部屋を区切ったりすることは今でもよく行われている。この器では隣り合う円弧の境にも同じ円弧をのぞかせる。これを上下対称にし、さらに円弧をつり下げて側面を巡る。これとほぼ同じ図案は歴史時代に入って以来のデザインに何度も現れる。それほどこのかたちは人々の眼に古くから馴染んでいたかたちなのだ。
 かくも過度な装飾<図>。われわれにはどうしてもやり過ぎとしか見えないこの突起の役割は何だろうか。もともと、この器の本体は容積が小さく実用に向かない。祭祀など幾分かは精神的な活動を高め補う道具だったらしい。そうすると、この突起はその重要な部分を表しているのだろう。突起の複雑なかたちはほぼ螺旋状で、細部では例によって紐状に、また、峰状に巡り上るものがある。とてもかなうことではないが、できることならこの心の中身を知りたい。
 熱心に学芸員の説明を受けている来客は、どこかの国の東洋人の男性と白人の女性、彼らの案内と通訳をしているらしい日本人とさきほどの写真係の四人だった。彼らは、土器の展示の前ではあまり時間をかけないで、会話を交わしながら棚を眺めて通り過ぎていく。出口の方の「世界の巨石遺跡」のコーナーでは再び熱のこもった質疑応答がはじまる。ぼくは、また土器の展示棚を独り占めにして写真をたくさん撮る。
 外は午前の陽が高くあがってまぶしく、また、暑い。以前に来たときはもう日暮れ近く、それでも「縄文祭り」とかで人が大勢出てにぎやかだった。たき火や明かりの点いた出店のテントがあったのは道路の向こう側だったが、ストーンサークルの遺跡は道路のこちら側で展示館前の駐車場の向こうに二つあるという。通路の途中にも小さな展示館があって、ここには大湯以外の鹿角市の各遺跡から出た土器などが展示されている。入口は開けてあるので入っていくと、展示館の前で何かの準備をしていた人たちの一人がやって来て部屋の明かりをつけてくれる。
 「歌内(うたない)遺跡 (平安時代・約1,200〜800年前) 歌内遺跡は高速道路鹿角八幡平ICの南側にある平安時代の大規模な集落跡です。…。」と説明するパネルの下に「甕(土師器)」と表示した深い鉢がある。口をそれほどすぼめていないので縄文時代なら深鉢というところだ。目を引くのはその表面で、輪積みをしたあとらしい横線がそのままはっきりと側面全体に残されている。内側をのぞき込むと線は消されて平らな面にしてあるから、外側はわざとそのままにしたもののようだ。表示カードなどにこの点についての説明はない。
 「台付土器 明堂長根遺跡(縄文晩期)」。この外形は瀬戸内地方で見たものとほとんど変わらない。よほど使いみちが似かよっていたと思われる。文様や細部を検討すると、遠く隔ててどちらかが伝わったものだといえるのかもしれない。それでも、使い方がほとんど同じだったからその結果としてかたちも同じになったのだと思われてならない。用土を調べて、向こうで作られた土器そのものがこちらに来ていたということが分かったりするとまた別だが。となりにも同じかたちの土器が並ぶ。
 ストーンサークルの一つに近づくと、その向こう側にさきほどの四人がすでに来ていて学芸員との質疑応答を続けている。遺跡のまわりにはロープが張られていて来訪者がそれ以上に中に踏み込まないようにしてある。周囲の一箇所に物見台のような台が作ってあるので、そこにあがって見渡す。
 ストーンサークルはその広がりに圧倒される。無数の石は明らかに用意周到に計画され配置されている。展示館で見たパネルでは、二つのサークルの距離や各部分の間隔が一定の規則に基づいていると説明している。当時のこの空間に立った人々が距離や方角に大きな関心を寄せていたらしいことが分かる。これだけ大きな円でも一人が中心に立って、そこから距離が常に一定になるように大勢の人を立たせたらほぼ正しい円ができる。そうして、人々が立った位置に石を置いていく。すると、ここにあるような自然にはあり得ない人工の巨大な空間が現れる。これだけのことでも、人々を魅了するものがあったに違いない。ここにある二重の円の広がりの中に見上げるような背の高いものがあるわけではない。これは誰か一人のためとか、限られた一部の人々のための建造物ではないらしい。人々は、この神秘で魅力的な空間に一族先祖代々の墓を一定の規則で順次並べていったのだろうか。
 午後は三内丸山遺跡を目指す。ここからは黒石市を通るか、八甲田山のふもとへ出るかのどちらかだ。まずは街なかを避けて十和田湖の西へ出る。湖畔の道路はどこまでも濃い緑が影を落としていてさわやかだった。そのまま八甲田山に向かい、南側から青森市にはいる。
 三内丸山遺跡の展示室の建物は駐車場から近い位置にあるが、今は右手奧に別の大きな建物ができていてそこが入口になっている。その新しい建物の中を通り過ぎて遺跡側へ出てみると、あの展示室はなだらかな丘の向こうにずいぶん離れて建っている。初めて来たら広い遺跡を順に見て回るのだからこれでいいのだろう。展示室の中も以前はとりあえず仮に並べたという様子がまだうかがわれたがいまではだいぶ整備されている。
 ガラスケースに1つだけ収めた浅鉢<図243>。「台付浅鉢土器 縄文時代中期前半(約5000〜4500年前) 円筒形主流の時代に作られた、数少ない浅鉢形土器です。煮炊きに使った跡が見られないため、盛り付けなどに使ったものと思われます。」上からのぞくと四角に近いかたちだ。文様の表現では、粘土ひもを置き、その上に細かい線をきざみつけることで実際に縄を張りめぐらせたように見せている。縄は交差し、うねり、潜り込み、跳ね上がる。作り手は縄にありそうなあらゆる姿を試している。この飾り付けのために器の側面ははなはだしい凹凸を生じている。この点でもこの器はあまり実用的ではない。何かを盛り付けたにしても、それは飾り棚に置いておくような使われ方だったのかもしれない。展示室にはこの浅鉢のほかにも多くの円筒土器や深鉢の上部にこの方法が使われている。これは一定の地域の一定の時代にかなり頻繁に行われた技法なのだ。

 <図244>。 「中期末頃(4000年前)の、集落の終わり頃の土器です。縄目模様(縄文)を様々な形に磨り消して模様が付けられます。」 全体のかたちは目立つ凹凸もなく、器の厚みもほぼ一定でシンプルだ。口縁部の内側は浅い段差を付けて縁取られる。その部分の外側には浅いくさび形の穴が並ぶ。これは、細い円筒形の先を斜めに押し付けたか、あるいはヘラ先を下にすくったか。文様はこの穴の並びと縄文、それに細い区画線で構成される。口辺部には、その線を引く際のヘラ先の行き違いがそのまま残されている。このつくり手も細部にはこだわらない。
 <図245>。 「同上。」低い峰状の線が文様を描く。この、器に確実にへばりついたような線、内部から表面に浮き出てきたような線は何を示そうとするのか。この線を描くには、細い粘土ひもを置いてから指先で両側に流すのか、または器の表面そのものから寄せていくのか。これは線が脱落する心配がないという点で実際的なのかもしれない。しかし、われわれから見ると何か意味ありげな描法だ。器の表面はひどく荒れている。これは明らかにつくられた当時の状態ではない。
 <図246>。 上部の縄模様はそれほど突出していないが、その他に細い角材の先を押し付けて並べたような模様が加わる。陽と陰の組み合わせが模様に変化を与える。この派手な上部とは対照的に胴部は平板な縄文で大部分を埋め尽くしている。矢がすり文とでもいうべき縄文が交互に積まれて落ち着いた面をつくる。口辺を少し開いた鉢そのもののかたちは日頃から使い続けるのに適している。両手に持って運ぶとき、手のひらに上部の深い凹凸を感じるだろう。
 <図247>。 この文様も同じ流儀であらわされている。ちがいは鉢のかたちと上下の文様の面積比率ぐらいだ。この鉢では、縄の細かい刻み目は目立たない。つくり手は、矩形の穴を押しつけて並べることに意を注いでいるようだ。かたちは更に整えられてほとんど格式張っている。少しつかいみちが違うかもしれない。
 <図248> 「中期前半(約5000〜4500年前)の、 盛土遺構ができ始めるころの土器です。口の周りを中心に、立体的な飾りが付きます。」 この上部の文様はきわめて精緻にできている。張り巡らせた縄状の厚みはうすいが、間に細かく並べた押印がたくみに立体感をおぎない強めている。目立つ口辺部の下は対照的にひかえめで、すべて細かい「矢がすり」縄文を並べている。これは、華やかな飾りを誇りながらすっきりとした姿を見せる器。失われた底部はそれほど深いものではないように感じられる。口辺に小さな取っ手のようなのが4つついているが、これなどはひもでも通したくなる。しかし、この程度のものでは重い本体をぶら下げることは危険でできないだろう。「飾りひも」かもしれない。
 ここには円筒形土器がたくさんある。たいていは口縁のやや下に細い帯を1本巻いていて、そこを境にして縄文の付け方を上下で変えている。この、いろいろな変化の付け方を見ていると、当時の人々もわれわれと同じようにマチエルの違うおもしろさを味わっていたに違いないと思う。
 <図249> 口辺部は太いひも状のものを立体的に組み合わせて表している。口縁で「ひも」の一部は上を乗り越えて内側に入ったかに見える。しかし、それは外側のみの演出で内側を見るとその部分のかたちは無表情に処理されている。4つの突起もそうしたものの一部だが、この突起の凹部は向かい側に棒でもさしわたしていたかに見える。それはともかく、「ひも結い」については、彼らは日頃から草で編んだ縄や林の中で絡まる蔦などをいろいろなかたちに結んだり組んだりしていたにちがいないと思う。この技術は繊細な仕組みをもつ構造物を組み立てたり、大規模な建造物を組み上げることも可能にしていたと思われる。
 <図250> 胴の細く深い容器の上で4つの突起が開いている。この突起の出る口辺の文様はなかなか構築的だ。胴を巻く基底線の上にすべてが組み立てられる。あの「縄状のもの」が口縁部を這い、二手に分かれて二槽の突起と1つのアーチをかさねる。それを下から幾種類もの左右に開く線が支えている。ずいぶん手の込んだ造りだが、この開いた4つの突起とその下の派手な組み立てによって口辺は豪華にさえ見える。
 <図251> 口辺部はゆるやかに弧をえがく線条を巧みに組み合わせたデザイン。器の上部のこのあたりには何かにこすれて摩滅したような箇所がそこここにある。しかし、よく見ると作り手のもともとの作業は細かく精密なものだ。帯状の幅もそれほど広くなく全体から見ればわずかな部分だが明らかに特別な注意がはらわれている。
 ここでは、幾筋もの線が無理なく流れたがいに重なっていく。すじすじが細まって去っていく流れの下から別の線条が流れ出るのだ。こんなにも繊細なかたちが数千年前のかれらのどのような日常から生まれるのだろうか。
 あとから加えられたような短い縦線が3本ある。左右の対称性を強めるために、ここにどうしても欲しかったようだ。
 <図252>「前期中頃(約5500年前)の、 集落の始まりの頃の土器で北の谷などでたくさん見つかっています。最も円筒型と呼ぶにふさわしいかたちをしています。」 口辺部の帯に特別な文様はない。ここでは上下の質感の違いとして見せようとしている。肌触りの違いは、手を触れなくても目を十分に楽しませる。境に巻かれているのは確かに縄だ。
 <図253> これは高坏。「模様の割付に失敗した土器」として側面の展開図を添えて展示されている。こういう例はほかにもときどきある(232)。
 <図254> 器は、今では非常に荒れている。上に網目模様、下に鳥の羽のような模様を配している。浅い穴を開けた「細帯」は模様の境界よりもやや下に垂れ下がる。わざわざこんなことをするのはなぜだろうか。
 <図255> 細やかに、ていねいに、一面に押印された文様。口辺では、転がす円筒の向きを変えて、そこに現れる模様を楽しんでいる。
 浅虫の共済会館には何とか日暮れ前に着いた。JR青森駅に電話で問い合わせて明朝の乗車列車の予定を立てる。浅虫温泉駅午前7時3分発。


20日(水)くもり、昨夜から明け方に雨。 
 青森駅から午前7時30分発の特急に乗ると函館には午前9時25分に着く。列車は津軽の蟹田をすぎるとトンネルが少しあってそれから青函トンネルにはいる。三厩も竜飛崎もトンネルの上だ。列車がこの長いトンネルを出るとすぐ、農家の大きな赤い三つ折り屋根や円筒に屋根をのせたサイロなどが見えてくる。それで、ああ北海道に来ている、と思う。ときどき、畑の中で干し草をぱんぱんに詰めて丸く張り切った黒い袋がいくつか視界を過ぎていく。ただ、そういう景色は間もなくなくなって、山の迫った海沿いのところどころに集落のある風景が続く。渡島半島はどこも山がちでまとまった平野は少ないのだ。
 函館駅の構内案内所で乗るべき市電と降りる停留所を聞く。青柳町という停留所で降りて函館公園正面まで来ると、そこは先日も車の中から博物館に電話をしていたT字路だった。園内の案内図を見て目指すところまで行く。保存されている洋風白ペンキ塗りの旧博物館が二つほどあって、目的とする市立函館博物館はその一つの陰に隠れていた。
 「新しい函館の文化財−縄文時代−」という特別展。函館市の市域がより広くなって管轄下に新しく加わった遺跡出土品も含めての特別展だという。ここには旧戸井町や旧恵山町など、渡島半島のもう一つの先端部の遺跡が含まれている。展示室では縄文早期から擦文までのすべての時代の出土土器を網羅して展示している。
 早期土器の中に文様をたいへん細かく描いたものがある<図273>。図柄の要素は規則的に並べたたくさんの細い線と小さな点だ。一つの囲まれたかたちの外側に同じ輪郭線をいくつもずらしては並べ広げていく。それは、かたちが何枚も重なったように見える。中のかたちの面のとなりに線の集まりができて、それもまた面をつくる。これと同じことをぼくは暇つぶしの落書きで何度もやったことがあるように思う。細かい点の列は線の並びの中に混じって精緻な印象をいっそう強めている。
 椴法華遺跡出土尖底深鉢形土器<図274>。この流れる線はどんな方法で描くのか。文様は不思議な線の流れを見せる。一見、同じような線の重なりは全体を単調にさえ感じさせる。気をつけて見ると中程の三本の線はまとまってとぎれずに一周している。また、全体の中の各部分はすべて上の四つの頂点に呼応している。これらの規則は緩やかな流れの中に隠されてすぐには目立たない。そのためにこの土器の不思議な雰囲気が醸し出されるのかもしれない。
 パネル「−−縄文文化早期 BC 6,500〜BC 4,000 年−− やや寒冷な気候の中で、竪穴住居を造り、定住が始まります。海辺や海岸段丘に居住し、漁労採集を中心とした生活を営みます。そのため、貝殻の文様がつけられた尖底土器や、漁労用の石錘が多くみられます。また、早期末頃には撚糸・縄文の平底土器へ移行し、地焼炉の竪穴住居も出現します。…。」
 サンペ沢遺跡深鉢形土器<図275>。胴の輪郭線がしなやかに心地いい。その側面の線をそのまま伸ばした四つの突起を勢いよく空に広げている。ここでも大湯と同じ縄模様を巡らせる。口縁をふちどる縄目は思いつくかぎりのいろいろなところでつながり降ろされて、いかにも熱心に分岐し結合して胴を包む。あまり規則的には見えないが文様全体は4つの突起ごとに繰り返されているようだ。
 臼尻B?遺跡出土深鉢<図276>。 突起は明確に出ているがその頭は平らにひしゃげて遠慮がちだ。ここには、勢いや空間の占有、上昇への渇望などはない。一風変わった線で文様を描く。細い粘土ひもを貼り付けて、そのうえに縄文押印のための円筒を転がしたようだ。ひもの進む方向に転がしていて、なかには横へそれている部分もある。この線にはやや頼りなげな弱々しさがある。また、線そのものがわらのように浮き上がっていておもしろい。これも北部地方の「線嗜好」の1つだ。東北地方や中央高地の縄文土器にも線表現へのさまざまな試みは見られるが、北海道ではこの執着がいっそう強いように思われる。
 「縄文文化中期」のコーナーに掲げるパネル「−−浜町(はまちょう)A遺跡 戸井地区 縄文文化早期末葉から後期中葉−−  浜町A遺跡は、戸井貝塚の対岸、津軽海峡に流れ込む熊別川河口の左岸にあたる標高15m程の段丘上にあります。…。 遺跡で特筆されるのは、縄文時代後期の集落に隣接して、ストーンサークルや甕棺墓などさまざまな形態の墓が発見されたことです。墓壙には上部に環状に石を並べ、大きな棒状の石を立ててありました。また、甕棺墓は、含口甕棺という4個の土器を入れ子にして使った墓で、亡くなった人が骨になってから掘り出し、骨を土器に入れなおして再び埋葬する「再葬」という風習の産物でした。「習慣を同じくする」という背景には、言葉と意志を共有する必要があり、この時期に同じ習慣を持っていた「北東北の人たちとの交流や人の移動」があった拠点的な集落であったものと考えられます。遺物は廃棄された竪穴住居から大量に出土しました。遺物で特筆されるのは、青龍刀形石器が他の遺跡に比べて群を抜いて多いことです。…。」
 その下に置かれた大きな深鉢形土器(浜町A遺跡)<図283>。口辺と上部の文様には例の縄状粘土ひもが使われている。口縁部には、その縄が外側で細かくはみ出す以外に突起はない。向きあった二つの渦巻やその配置などはきわめて規則的だ。外形は、擦文土器にふつうに使われるものとよく似ている。時代は遠く離れているから何かのつながりがあるはずはなく、するとこれは使用目的が似ていた結果なのだろうか。こんなかたちは縄文土器にもよくみられるから、時代に関係なく何にでも使える深鉢の平均的なかたちなのかもしれない。
 「絵画土器 臼尻B遺跡」と表示した土器。文様は2本線で簡単に区画されていて中の図柄は極端に省略され孤立している。それで、異様なほど暗示的でもある。下部には、ここに見えている限りで区画線はない。こういう文様は他にも出土しているのだろうか。展示壁面にこの文様を拡大した精密な写真が掲げてある。それと見比べると展示された土器の方は補修した白い部分が再度覆ったようにやや広がっている。あるいはこの土器は複製されたものなのだろうか。下部のこれが鹿を描いたものだとしたら、動物の表現は弥生時代の場合よりもさらに記号のように簡略化されている。縄文の具象は、省略や変形を施してはぐらかしたようなところがあっても多くは生々しく生き物らしいのだが。
 パネル「−−石倉貝塚 函館地区 縄文文化後期初頭−− …。遺跡が利用されていた期間はおよそ100年間、遺跡の中心は古いお墓がある広場で、数百個の自然石による配石によって囲まれていました。広場の外側には多数のお墓や掘立柱建物などが同心円状に広がり、これらを囲む盛り土遺構からは80万点におよぶ縄文後期の遺物が出土しました。 お墓の数は197基、土器を棺として子犬までが埋葬されています。土を掘っただけのもの、土器を棺とするもの、板石で棺を造ったもの、墓の中に組石を置くもの等の違いから、さまざまな習慣の違う人がこの遺跡を利用したことが考えられます。 墓には立石・配石・柱などの墓標が立てられ、時間をおいて玉石や土器が供えられる行為も確認されています。 縄文文化後晩期、北海道に特有の埋葬形態と本州のストーンサークル(大規模配石遺構)の両方につながる特徴を持った遺跡といえます。」
 棺に使用した土器に描かれた文様は大湯の展示館でみたものとよく似ている。<図277>。この壷の文様構成はたいへんはっきりしている。すべては3本組の線で描かれる。3つの重なった円弧が上下で向き合い、その中に縦に並んだ渦巻きがある。この円弧模様が胴の周りを3回繰り返し巡っているらしい。整然として、そしてなかなか華やかな葬送のデザインだ。図278>。いかにもやわらかそうなかたちが面を埋め尽くす。かたちには相手があってたがいに入り組んでいる。これは縄文の渦巻きの基本形だ。あの、流れるような連続模様の目立ってきた部分が独り立ちしたのだろうか。できてしまった隙間には1つか2つのちょうどよい形が入れてある。蓋<図279>。蓋といっても、この大きさでは目の前の容器のどれかに合う蓋ではない。左右に伸びてはUターンする線は結局のところ向こう側までとぎれずに続くのかもしれない。しかし、ひび割れのラインが目障りに絡んで線をたどるのに苦労をする。この、その場その場でしなやかに流れて向きを変える曲線は単純な構成の中にいかにも縄文らしい軟らかい表情を出している。ほかの文化文明のもとにこの構成が用いられたら、まっすぐな平行線と厳密な円弧による模様にしたり、ただの直線の稲光模様や、中華皿にあるような直角の模様にしたりするかもしれない。
 図<280>では、文様の線を主として描き色や陰影のほとんどを略した。実際に容器に描かれている文様の線は細く、また、彫りが浅いために長い間に消えかかったところや削り取れたところがたくさんある。線の表現はなかなか繊細で、それぞれがなめらかに進み隣り合う線とのあいだもかならずしも一定ではない。模様は迷路のように連続するのではない。上下のかたちの隙間として腰高に締める細い帯が現れる。謎めいたかたちが上段にならび、下段にはさまざまなかたちが垂れ下がる。横にたどってみると繰り返しもあるが規則的ではない。容器のかたちも、簡素だが慎重に細やかな神経を注いでつくられている。面や輪郭線の急激な変化を極力避けている。八つの峰が低く波うつ口辺部はわずかに開いて上の空間を迎える。ここで、内と外がごく自然に溶け合うかのように。
 これ<図281>は、擦文土器と間違えそうな文様。もっとも、口辺部のかたちや文様からみて間違えるはずはないか。
 端正な連続模様に目を見張る<図282>。大きな壺の横帯の中にクランク型の短い線が一様に細かく描かれている。たぶん、文様は一つ一つの独立した線を描いたものではなく、この線の間に生じて一定の幅で続いていくかたちの方を描いたものだ。このクランクのすき間をたどっていくと、U字型に折り返す模様が浮かび上がる。この文様の帯がもっとはばひろいものだったら、やや右下がりに重なっていく模様をあきらかに見ることができるだろう。このためにクランクはどこまでも規則的に並んでいくのだ。だから、これを几帳面に削り取った人物はこの模様のイメージを思い浮かべながら作業を進めたにちがいないと思う。
 大きな深鉢形土器<図283>。口辺と上部の文様には例の縄状粘土ひもが使われている。口縁部には、その縄が外側で細かくはみ出す以外に突起はない。向きあった二つの渦巻やその配置などはきわめて規則的だ。外形は、擦文土器にふつうに使われるものとよく似ている。時代は遠く離れているから何かのつながりがあるはずはなく、するとこれは使用目的が似ていた結果なのだろうか。こんなかたちは縄文土器にもよくみられるから、時代に関係なく何にでも使える深鉢の平均的なかたちなのかもしれない。
 「縄文文化後期」のコーナーに掲げるパネル「−−戸井貝塚 戸井地区 縄文文化前期から後期後葉−− …。遺跡の中心となるムラサキインコやタマキビなどの貝を主体にした深さ1mにも及ぶ貝層からは骨角器をはじめとするたくさんの貴重な遺物が発見されました。銛先・釣針などの漁労具、へら・針・針入れ・刺突具・リタッチャー・錐・ハンマーなどの生活用具や工具、儀礼用具や人形といった特殊なものやかんざし・垂飾品・装飾品など、通常では残りにくい遺物が738点という他に類例がないほどの量で出土し、当時の生活を復元する上で貴重資料となっています。中でも角偶と呼ばれる鹿の角で作られた「人形」は国内でも類例がありません。また、貝層の周辺部からは舟のかたちを模した土製品が出土し話題となりました。10pほどの大きさで、側面には波よけの板、底には船底を思わせる線刻があります。エゾシカやヒグマ、オットセイやトド、イルカなどの獣骨も出土しています。」
 複雑な文様を線で刻んだ深鉢形土器(戸井貝塚)<図284>。刻み進むヘラを持つ手は描くべきかたちをよく心得ていて細部にこだわらない。裏面は見えないが側面のまわりに同じ図柄が三度連なるようだ。その図柄自体はほぼ左右対称になっている。それは結果として左右対称に見えるだけで、描き手にそのつもりはないかもしれない。側面上部には六つの頂点の下にそれぞれ一つずつ区画が並ぶ。区画の中には何もなく、文様全体に粗密の変化をつけている。上部の区画はこうして何も描かないでおくか、または下の図柄よりさらに細かく何かを詰め込むかどちらかなのだ。区画にはどんな意味があるか分からないが口縁部のかたちを支えて全体を安定した組み立てに見せている。
 函館市指定有形文化財 注口土器(八木B遺跡)<図285>。東北地方でよく見る注口土器だが、これは上部がおもしろい。容器上部に段を付けて段ごとに独特のふくらみを出している。最上段には細かい刻みを入れて肌合いを変える。その境にきつく巻いた帯がある。さらに鋭く入ったくびれがある。くびれから広がる模様がある。下のふくらみは敷かれた布団のように胴の上にある。口辺に施されているすべての細工がふくらみをを強調している。これらがかたちのいい胴の上に乗っていて全体にどっしりとした量感を感じさせる。かれらのこの感覚はどこから来たのだろうか。かれらは、日頃からこのような印象を与える何かをよく見ているのではないかと思う。注ぎ口にも丸みを出してはいるが、ここだけが硬さを欠いてよそから持ってきたような違和感がある。土器の下に敷物はいらない。
 口縁を派手に飾る深鉢形土器<図286>。かなり大きな土器で、めずらしく九つも頂点を持つ。頂点はいかにも欠けやすいかたちで、事実、出土したのは二つのみ、五つが白く復元され、残った二つはなぜか折れたままにしてある。この土器は下の丸みのある胴と、そこから急に上方へ飛び出す部分からなっている。その勢いを視覚的に見事に表しているのが九つの頂点だ。各頂点は、上部輪郭線の作る直線の延長線上にあって、上に玉をつける。水滴が水面で跳ね返る様子を高速度撮影した写真をよく見るが、あの王冠のようなかたちがこれと同じだ。あの瞬間の様子をふつうに眼で見ることができるものかどうか知らない。けれども、この土器を見ると、彼らは心のどこかにあの様子に非常に近いイメージを持っていたらしく思われる。そのイメージを表すためにわざわざ下部に対照的な丸みをつけている。上部のかたちがたまたまできてしまっただけなら、その必要はない。ただ、頂点に乗る玉には内側を向いた平面がある。ここに何か大切な意味があって、すべてのかたちはこの部分のためにできているのかもしれない。その場合は、我々が持つイメージなぞを勝手にあてはめるべきではないだろう。
 また、どう考えてもこのかたちは実用的ではない。胴のくびれた土器の使用法についてよくある説明に、下部に水を入れて途中にすのこを掛け、上部をせいろうのように使うというのがある。上から湯気の立ち上る様子にこの並んだ突起は好ましい感じを与えるのかもしれない。しかし、どんな使い方をするにしても中身を出し入れする際には明らかにじゃまで、そのいらだちのためにこの好ましさは打ち消される。
 はっきり模様の浮き上がる壺形土器<図287>。これだけはっきりしていると、表したかったかたちは隙間の方ではなく縄文を残して浮き上がらせている方だとよく分かる。もようは似たようなかたちを繰り返しながらどこまでも続いていく。文様の上と下では左右から間近に寄り合っては反転し、中で流れているかたちがいずれこの左右どちらかに流れ込むようだ。この部分を工字文というそうだがこの場合は隙間の方をさしていっていることになる。文様全体はやや堅い感じがする。短いままに鋭く反転する部分が多いせいかもしれない。 
 流れるような文様の壺形土器<図288>。 この文様には、縄文時代の人々のかたちについての感じ方を見ることができるように思う。それはかたちのさまざまな動きや配置、そのまとめ方や広げ方などに表れる。この文様を渦巻く流水と見るのは現代人の勝手な想像かもしれない。けれども、ここにある線やかたちそのものから受ける感じは昔も今も同じなのではないかと思う。ここには、長いゆるやかな線、しなやかに向きを変えては丸まるかたち、その入り組んで向き合う配置、隙間の鋭く尖る角となめらかに引き延ばされた輪郭などが描かれている。そんな様子に見とれながら独特の心地よさに浸る。当時の人々も同じような心地よさを味わっていたのではないかと思う。
 縄文を置いて浮き上がらせたかたちを子細に見ると、二つのことに気づく。その一つは線の進み具合だ。線はあくまでなめらかに無理なく進む。不自然なふくらみや唐突な終わり方を極力避ける。このことは、文様以外にも多くの壺や深鉢の輪郭線にも見られる。二つ目は方向の変え方だ。これには、鋭角に折れるのと丸くターンするのと二種類ある。鋭角の部分は二本の線がしだいに接近して合わさり消えていくようにも、また何もないところから生じて二本に分かれていくようにも見える。丸く向きを変える部分にもそのまま平行するのと、二本そろってさらに向きを変え内側に陥入するのと二種類ある。われわれが渦のように見ているのはこの深く陥入した部分なのだ。
 パネル「−−続縄文文化 BC200〜AD700年−− 本州は弥生・古墳時代で、水稲農耕が行われましたが、北海道は寒冷な気候のため、弥生文化の影響を受けながら、縄文時代と同様に狩猟や漁労を行いました。 弥生式土器の影響を受けた続縄文土器、骨角器、魚形石器などの漁労具が作られ、渡来した鉄器が使用されます。 この時期の主な遺跡は、恵山貝塚・西桔梗B遺跡・西桔梗E2遺跡などがあります。」となりに掲げるパネルの説明には、「…。…(恵山貝塚から出土した)一群の土器は続縄文時代前葉の標識資料として『恵山式』という名称で呼ばれることになります。…。」とある。
 深鉢形土器(恵山貝塚)<図289>。側面では、首のくびれにきざまれた模様から真下に細かく密な線が下がる。この表現は胴のふくらみをいっそう柔らかく見せる。器のかたちもよく整っている。すべてがひかえめで繊細な作業だ。しかし、ここに縄文の野生はない。弥生土器の場合と同様に、ここでも感性の背後で何かが変わったのだ。
 深鉢形土器<図290>。 口縁部の処理は容器を硬く強固なものに見せる。口辺ではくし様のもので線を刻むことで、首をめぐる点線を強く締めている。文様は装飾的。胴の側面をめぐる模様ではX状に組まれた図形が4つ続くらしい。少し右手からのぞくと5つ目のX字が半分だけ描かれている。これはもともとこういう予定のものだったとは考えにくい。帯状の連続模様はそれ自身が一体のもので、図形がどこでおわっても気にすることはないのだ。これは縄文時代にもときどき見られることでおもしろいと思う。完璧な対称図形をえがく文化においてはありえないことだろう。

 中央の柱の間に土偶が一体だけケースに入れて展示されている。まわりにはロープが張られている。写真撮影はなぜかだめといわれた。スケッチをする時間はないし、しかたなく記憶にとどめようと全体や各部をしっかり眺める。この土偶は「中空土偶、縄文時代後期、著保内野遺跡、国指定有形重要文化財」だという。遮光土偶とは大きくちがって、この土偶にはちゃんと長い足がある。体の各部は丸く張り切って充実した量感を持つ。全身の各比例は自然に近く極端な省略はない。両腕が欠けている。胸から上の部分と腰から下の部分は着衣を示すように細密な模様が覆っている。細かい点の連なる部分があって、聞いてみると縫い目ではないかという。
 外に出ると、車回しの中の築山で巨大な赤松が枝を四方に低く張り出している。赤松にほぼ占領されたその築山を見ながらベンチに掛けて少し休憩をする。JR時刻表のページを繰っていると、夕方までに浅虫へ帰る列車は二本あって、すぐ函館駅に戻れば浅虫に午後四時、そのつぎは浅虫に午後七時近く着くことが分かる。それで、すぐ停留所に向かう。函館駅では早い方の列車に間に合った。


21日(木)くもりときどき雨。
 あの草創期の土器<図>を見るために六ヶ所村に行く。途中、野辺地の町を過ぎると陸奥湾に臨む海岸に出る。高台の駐車場から見下ろすと下の浜は海水浴場になっていて休憩場の屋根などが見える。けれども、海岸に人は誰も出ていない。海は、雲が厚く垂れてもうすぐ雨が来そうなのだ。しばらく海岸沿いに走ったあと国道を離れて東海岸に向かう。地図を見ると、斧を振り上げたような下北半島が太平洋側でその柄をぴんと伸ばしている。その海岸線に沿って大きな小川原湖といくつかの沼が南北に縦に並んでいる。一番北の尾駮(オブチ)沼には白鳥飛来地と記される。その尾駮沼から流れる川を渡るとすぐ六ヶ所村役場がある。
 役場でもらった簡単な地図を見て車を走らせるが目指す郷土館にすぐには行き着けない。予想以上に広い村内を走っていると新しい広い道路や、企業の立てたばかりの建物がたくさん現れる。それでこの車の古いナビは全く役に立たない。整備されて間もない住宅団地や幼稚園、小学校がある。大きな会社やその研究所がつぎつぎにできて、たくさんの人々がこの村へどんどん来ているらしい。ここは北の果てのひなびた村ではないのだ。何度も先方に電話してその道案内をたよりに何とか郷土館の敷地にはいる。
 展示室には、中央に六ヶ所村の地勢模型と竪穴式住居ができている。周囲が考古・民俗の展示で竪穴式住居の奧に縄文土器の展示棚がある。その棚の一番端に草創期の土器はあった。狭い棚の中に収めてあるので真横から見ることはできない。出土部分がどこなのか確かめたいといろいろな角度から見てみる。復元の際に全体に濃い色で着色していてそれをなかなか見分けられないが、どうもこの土器も出土した部分はかなり少なかったようだ。容器全体を綿密に復元したこの優美なかたちや細かい波線の確実性について聞いてみたいと思った。口縁部を見ると、青森の博物館にあった複製を見て記憶している様子と少し違うようだ。これはへりを内側に押して浅い段をつけたのではなく、細かい波線が付けてあるように見える。写真撮影は許可していないという。館長さんが今はたまたま不在でそれ以上は聞けなかった。
 午後は三沢に向かう。右手にはあの真っ直ぐな太平洋の海岸線が続いているはずだが一度も眼にしない。市役所で展示館の場所をたずねる。小川原湖の方へ少し戻ることになった。大きな飛行場を迂回してやがて松林の中の道を走る。三沢市歴史民俗資料館は木立の奧にある。
 「尖底深鉢形土器縄文早期」と表示した土器がいくつか並ぶ。文字通り鋭く先の尖った土器<図291>。こうして逆さ円錐状にした土器の使用について、とくに底を尖らせた理由についてはあまり見聞きしない。学者は単なる憶測をことばや文字にしないということらしい。しかし、こうした土器を前にして、それがどんなふうに使われたかを想像することはごく自然なことで、その興味からさらに注意深く観察することにもなる。逆さ円錐を見てすぐ思い浮かべるのは「こま」だ。尖り底を軸に回転させるような何かの作業があったのかもしれない。あるいは、底を地面にめり込ませて固定し、手頃な大きさの三つの石の間に立てたのかもしれない。また、こうして上まで真っ直ぐに口を大きく開くのはなぜだろうか。たとえば、底を床や地面につけたまま必要な角度まで傾けるような作業があったかもしれない。この容器などは側面が水平に近くなるまで傾けることが可能だ。あの尾駮沼の草創期の土器のように底部にふくらみがあると傾く角度はそれだけ小さくなる。
 同じ尖底深鉢型土器<図292>。底を補って復元しているがそれほどとがらせてはいない。浅い線はすべて3本にまとめられている。V字型に接する縦の線は気ままに傾く。その点を別にすれば構成はごく計画的だ。水平線の下にはなにも刻んでいないようだ。
 これ<図293>は、すでに口縁部が水平ではない。この、上方に「立ちのぼる」、「はいあがる」、内面に「溶け込む」、「吸い寄せる」傾向は縄文のデザインがかなり早くから持っていた基本的な面だったらしい。なぜか早くから芽生えた「水平を避けたい。」気持ちは合理的な使いやすさなどをのぞむ気持ちを抑えるほどやむにやまれぬものだったということか。この列島に住む人々に何がそうさせたのか。
 器の下の部分を欠いているかたちのいい深鉢形土器(後期)<図294>。もっとも、形のよさは器の失われた部分を勝手に想像したうえでのこと。この器は側面の輪郭を下に無理なくすぼめて円形の平底になっていたと想像される。文様は上部とその下を二様に分けて描いている。どちらの文様も納骨用の容器によくある模様だ。明確な縁取りで続く文様は、ついついあちらこちらと追いかけ眺めてしまう。右側から背後をのぞいてみると下の文様はほとんど同じものが描かれているのが分かる。これが、上の文様の場合は正面の図でほぼ左右対称の模様の一部が順に移動して、背後で別の左右対称図になるようだ。いつものようにフリーハンドで描いていて、順送りにしているうちに思いがけなくこの模様ができたのでたいそう喜んだのではないかと思う。ラベルに、「米軍基地内出土 ピーター・クンケル氏寄贈」とある。
 見事な球形。球面に巻き付いた帯状の不思議なもようの壷形土器(弥生時代)(図295)。もようは巾を変えたり、二叉に分かれたり合流したりする。また、緩やかなカーブの外側では徐々に鋭角に突き出て他に接したりする。端や合流点、分離点では、まるで互いに粘着力ののある液体のような様子を見せる。このような文様は人々のどんな記憶から来たのだろうか。容器の底も白く補われて、それが実際にどのようなかたちであったのか分からない。
 後北式土器<図296>。これは、先日、江別市でたくさん見たのと同じ土器の破片だ。あの、部分を引っ張ってのばしたようなすがたを思い出す。この文様の影響は北は南千島から南は東北地方にまで及んだという。この特長のある文様はよほど魅力的であったらしい。「弥生時代の終わりから古墳時代にかけて北海道で作られていた土器。三川目、小田内沼(2)遺跡、根井沼(1)遺跡から出土し北海道との文化の交流がうかがわれる。」
 パネル「−−先史、古代の三沢市−− 三沢市には、縄文時代から弥生時代、奈良、平安時代にわたる遺跡が数多く所在します。特に早稲田貝塚、野口貝塚、天狗森貝塚など縄文時代早期から前期の貝塚が小川原湖周辺に多く分布しています。 …。奈良、平安時代には東北地方に蝦夷と呼ばれた人々が住んでいました。人々はカマドを設けた竪穴の家に住み、大和朝廷の影響によってもたらされた土師器、須恵器や鉄器を使うようになります。平安時代の和歌に”をぶちの牧”と詠まれたように、小川原湖周辺には古代の牧場があり、日本有数の馬産地でした。」
 午後には雨が降り出した。六戸町を走っていて郷土資料館の案内表示を見る。役場に電話をする。道順を聞いていると「今日は開館日ではありませんが。」という。そこでまた先を急ぐ。明日は秋田市へ行く予定なので国道4号線に出て南下、三戸から西にそれて再び奥羽山地にはいる。


22日(金)晴れ。
 正午、秋田県立博物館の見覚えのある駐車場に着く。北側の植え込みには3年前に来たときに見た庭園用の松が植えられている。博物館はすでに昨年にリニューアルをすませて開館している。今日は石段をあがって二階の正面玄関からはいる。人文展示室にはいると中央に縄文土器の壇が三段ほど積み上げてある。壇は三角形になっていて周囲を順に巡って見る。最下段の手前は低いガラス板で囲んでいる。それ以外は直に土器を見ることができる。
 この文様のなかまはこのあいだも大湯でたくさん見たように思う<図297>。通路で互いをつないでいるような2本線。それは同じだが、こんなにも整然と描かれていただろうか。2本線の陥入によってかたちづくられたS字。その連続模様が上下2段で続く。よく見ると上段のもようは下の小型版ではなく、やや省略されて実はきちんとしたS字をなしていない。ここでは、下と同じ雰囲気でさえあればよかったのだ。こんな表現も繰り返される膨大な試みの中から選ばれ定まってきたのだろう。文様の繰り返しと口辺の突起の位置とには関連があるようだ。
 見慣れないかたちと文様の土器<図298>。 
かたちはともかく文様はどこか異様で、誰かが勝手に置いていったように見える。一見、ばらばらだが舟形の右の端を正面にすると左右対称に近い配置に見える。けれども、両側面がすべて対称ではない。この正面でまっすぐ下におろした明確な線の両側だけは対称にしたかった。それ以外はもっと気ままに置きたかった。そんなふうに感じられる。
 鉢の上に冠をのせたような姿<図299>。 この冠がなければまことに使いやすいかたちなのだが。いま、われわれがそんなふうに思うような使い方を当時の彼らはしていなかったということか。たしかに、冠を隠して見てみるとなんだかおもしろくもないかたちだ。なにか貴重な品を包み込むようにふくらむ胴と、その広がりを繰り返すようにひらく冠。この輪郭を心ゆくまで緻密にえがくために、作り手は何度も何度も器を回して眺めたにちがいない。たぶん、戸外の明るい陰のもとで。
 広い口の注口土器<図300>。水平に思い切り張り出した胴のうえに低く立てた口が開く。この注口土器も注ぎ口の低い位置のために中身の液体はわずかである。容器の胴の半分ほどに溜まるだけだ。それに、ただの飾りにしては大きな注口土器だ。注ぎ口がもっと高くて容器いっぱいに液体が入ったにしても、この底の狭い高台では容器全体をささえられない。これだけ口を広く開けてあることから、たびたび液体が中に注がれたと思われる。使うときは注ぎ口の下を手のひらでささえ、さらに別の手を胴の端に添えて容器を傾けただろう。いつ、この中の液体を注いだのだろうか。よけいなことかもしれないがこの注ぎ口のかたちでは水切れが悪い。いまでも慶事の席でよく見るように、注ぐという行為はほんのかたちだけの所作だったのかもしれない。
 出土した口辺の破片は二つ。その部分は広い口辺の一部に過ぎない。復元作業のとき、この破片のわずかな傾斜からこの口辺のかたちが想定されたようだ。すこしちがったかたちはあり得ないのだろうかと思ったりする。おそらく、このかたちの土器がこの地域でほかにもたくさん知られているからこの想定が採用されたのだろう。
 これもやや大きめの注口土器<図301>。もとの容器は高台のある椀形の深鉢だが、その胴まわりには分厚い文様が張り付く。こんなにもうねり、くねり、そりかえって口をひらくこの物体は奇妙に生々しい。その注ぎ口は文様のデザインの一部である。この注ぎ口のために文様は立体的に表現された。その結果、文様はそのかたち以上の意味を持ち、文様の中の何者かがその口をひらいて液体を注がせるかにさえ思われる。

 パネル「−−北からの文化 南からの文化(弥生・古墳時代)−− 秋田県では弥生時代前期以降の遺跡の発見例が少なく、稲作が大規模に展開された様子は認められません。古墳時代前期には気候の寒冷化にともない北海道の後北式土器の文化を持つ人々の南下があり、その後古墳時代中期には南の土師器の文化を持つ人々が北上してきました。」
 パネル「北の墓地と南の墓地」では、前方後円墳の列島北限、南限のラインが示されている。北限のラインは岩手県南部から新潟県北部を結ぶ。「日本の北では…(土壙墓)地面に掘られた穴の大きさは、1〜2m前後です。北東北から北海道にかけての墓地には、死者に土器や鉄製品を供えて埋葬した例が多くみられます。」
 能代市寒川U遺跡出土第3号墓の副葬品(古墳時代前期)<図302>。この土器のなかまは江別市郷土資料館でたくさん見た。文様は華美。これは当時、樺太南部から本州北部まで広く流行していたかたち・文様だという。北海道南部に住む人々がここまで行き来していたか、あるいは、ここに住みついていたか。この広い地域一帯に住む人々は、もともと同じ祖先の末裔としてたがいに交流し同じ文化を伝える人々だったのかもしれない。注口土器のかたちだがなぜかこの注ぎ口は閉じている。
 写真撮影は申請をしてくださいと表示がある。さっそく申請書を書く。付き添って世話をしてくれた男性が埋蔵文化財センターのパンフレットを渡してくれて、「こちらにも縄文土器が展示してあります。」という。そこで館内で昼食をすませて、中央調査課男鹿整理収蔵室というところへ向かう。
 男鹿市に入って半島の根本近くまで来ると道路工事中のため進入禁止。右手から迂回する。迂回路だと思ったがこの道の途中に目的地はあった。収蔵室は旧県立高校の校舎を利用している。建物は港を見下ろす高台にある。展示室になっている2階の広い教室からの展望はすばらしい。壁際と窓際を使ってL字状に台を寄せて白布をかけ、その上に円筒式土器がずらりと並んでいる。
 その最初の土器はほかと同じように背が高いが円筒ではない<図303>。 全体はごく単純なあっさりしたかたちだ。側面には微妙なふくらみがある。細く優雅にすぼまった胴。底は狭い。上もわずかにすぼまってから浅い口を開く。この口辺のすぼまったところに突き刺したような点を何段も並べている。これはずいぶん上に寄っているので、よくあるようにはっきりした線を境に上下の文様を変えるというほどのものではない。この土器は、口辺部の開き方や胴のわずかなふくらみなどに容器らしいかたちがあって、また、無理のない輪郭線などから柔和な落ち着いた姿を見せる。
 細かい縄文が入れ違いに段を見せる土器<図-304>。この地味な姿の中に刻まれた文様からは、控えめではあるが華やかさを楽しむ気持ちが伝わってくる。口辺にただ1本の線を置いたところもその感じを強める。
 これは木目状の繰り返し文様<図-305>。この文様は、棒の一箇所にひもを止めて、その両側に巻いたものを転がしたのでしょう、と案内をしてくれる彼はいう。何千年も前の人々がこのおもしろい模様の作り方を見つけて土器の装いに使っていた。それがまたなんともおもしろい。いま、われわれが見るような板の木目を彼らも目にしていただろうか。この文様から、われわれはすぐ板の木目を思い浮かべる。彼らはそんな連想には関係なく、ただ、このくりかえし模様のおもしろさを発見して楽しんだのかもしれない。かれらは遠いむかし、粘土でかたちを造りはじめて以来、さまざまな優雅な線やそれぞれに独特な趣のあるかたちを創案してきた。ひもの巻き付いたほそい小枝の切れはしを粘土のうえに転がしてたまたまできたもようのおもしろさにすぐ気がついて、たちまちデザインに取り入れるなど、たびたび起こったことにちがいない。
 教室のなかには北寄りの位置に柱がある。そのまわりに白布を垂らし床に広げて土器を置いている。こんな展示はたいていの博物館ではこわくてできないだろう。床に膝をついて写真を写す。線で文様を描いた土器<図-306>。描線はラフスケッチのよう。描き手は彼自身が思いつくままに描き加えていったのか、それとも、彼の頭にはっきりとしまい込まれているかたちを一定の決められた順序で描いていったのか。
 2段にふくらんで上に広がる土器<図-図-307>。段の境目は、ただくびれているのではない。下のふくらみのすぼむところに2本の線が巻かれて、このすぐ上で二つの容器が重なっているように見える。重なる上下それぞれの輪郭線もそんなふうにできている。
 口辺に5つの波が立つ<図-308>。このゆったりとした波の線と、おおらかに広く開いてかたちづくられる輪郭線とはよく調和している。

 「ちょうど今、体育館で溶鉱炉跡から出土したものを整理していますからご覧になりますか。」という。「それは是非。」と体育館に向かう。作業をしている人たちが休憩時間になっているのでちょうどいいのだという。広い体育館には青いビニルシートが何枚も敷かれて、どのシートにもビニルに包んだものや収納箱がいっぱい置いてある。机を並べた台の上には今整理中の出土品が隙間なく置いてある。それは粘土を太い筒状にして焼いたもので、ふいごの空気を炉の中へ送り込むためのものだという。どの筒も先の方に鉄の溶けたかたまりがこびりついている。元々はもっと長い筒で、炉の中では高熱で筒の先がしだいに崩れていくので、筒の外に出ている部分を順に中に送り込んでいくのだという。「粘土がまだ柔らかいときの指の跡がついているものもありますよ。指紋まで見えます。」と見せてくれる。炉では砂鉄を溶かしていたのだという。
 校舎の出入り口に来ると、廊下の壁を背にして台が置かれている。その上に円筒土器が一つ、その姿に魅せられてか置物のように飾ってある<図-309>。ほんの少し開く口辺をゆるやかに波打たせ、底部に向かっては胴を微妙な曲線で下へすぼめる。全面につけられた縄文は上下で違えている。その境界に線はない。口辺部に帯があるがその上も縄文を変えていない。帯はあとから入れたのかもしれない。上半分の縄文には矢がすり状に積み重なった模様のほかに、向きが変わってそこに菱形の模様も見えている。彼らはこういう変化も楽しんだのだと感心する。
 最後までていねいに案内してくれた男性の話では、埋蔵文化財センターの展示室が「払田柵(ほったのさく)」にもあって縄文土器も展示されているという。もう午後4時に近いので今日は時間がない。ひとまず本庄町のキャンプ場に向かう。


23日(土)晴れ。  
 未明、海岸道路を走り回るバイクの音で目覚める。やがて明るくなり始めると、そのくりかえされる悲鳴のようなメッセージも聞こえなくなる。
 大曲の市街地を横切って仙北町にはいる。盆地の中の真っ直ぐな道を進むと払田柵跡がある。復元された古代の門が見えてきて、その向かいが埋蔵文化財センターになっている。
 壁面はガラスの引き違い戸になっていて中に縄文土器が展示される。前期の尖底土器(鹿角市物見坂V遺跡)<図-310>。ここにも中段以下に矢羽根文が見られる。この容器の作り手はあまり細部ににこだわらない。横線のなかにはV字にはさまれてその部分だけが傾いているのもある。V字を重ねてから手を加えたか、あるいは はじめにV字を刻んで、それからすべての横線を入れたか。矢羽根文のなかに、やや乱れた横線が何本かある。これを見ると、矢羽根文を先に刻んだように見える。容器の底は失われているが、この横線の下にも矢羽根文は底部に向かって続いているようだ。
 深鉢形土器<図-311>。「大館市池内遺跡(前期後半 今から5,500年前)胴部に木目状の縄文様を付けた貯蔵用の土器」。 これはなんと豪華な姿。輪郭の曲線は思いがけない均整を見せる。胴は深いくびれの下でするどく反転して下に流れる。上下の文様は不思議に大胆なくみあわせだ。何かの偶然で凡庸な手が生み出した見事な対比か。上の細かい横線はこれといった主張もなく目立たないものだがこのようにくびれた首にはこれしかない。その下から木目模様がいくすじも底近くまで下ろされる。この華やかな装飾を誰が見つけたのだろうか。容器の口に波のうねりを乗せず、とがった突起も生やさないというすてきな感性。これは貯蔵用の土器だという。口辺のくびれたこのかたちは何かでできた円盤状のものでふたをするのに都合がいいのだろうか。
 これも矢羽根状に積み重ねた縄文<図-312>。 まっすぐに開く側面はあたかも平たい板の上で転がしたかのよう。口辺の帯以外は一様に隙間なく矢羽根文様を積み重ねる。容器のこの簡潔な装いは原始時代とか土俗的とか未開とかいわれるものとはまるでちがう。
 これは中期の口の広い注口土器<図-313>。この容器はおそらくいつも両手に受けて使ったのだろう。この、えぐるように線を引いた道具を知りたい。
 幅広の線文様が分散して置かれた土器<図-314>。これに似たかたちの容器と文様は山形県長井市で見た<図>。このかたちと文様は東北地方日本海側で地理上の同じ範囲を占めるのだ。この広く行われた表現にはいつも共通した意味が込められていたにちがいない。それも、簡単には変化しないはなはだ根強いものとして。こちらの土器は細かく砕かれた破片が何段にも水平に並ぶ。ねんどを巻き上げて成形する際に生じた強弱の差によるのだろうか。
 パネル「−−内村遺跡 美郷町−−  …。 発掘調査によって、縄文時代中期後半(今から約4,200年前)の竪穴住居跡31軒などが見つかりました。31軒の竪穴住居は、立て替えなどで重なっており、実際には、5〜6軒の家で構成される集落(ムラ)だったと思われます。 それぞれの竪穴住居の複式炉は、ムラの中央部にある広場を向いて造られていることから、このムラは、家々が広場を円形に囲むムラだったと思われます。」
 パネル「−−複式炉ってなに?−− 竪穴住居内での煮炊きの場である炉は、地面を少し掘ってそこで火を使用した炉(地床炉)や石を並べた炉(石囲い炉)が一般的です。ところが複式炉とは、土器を埋めた部分(土器埋設部)と石を組み並べた部分(石組部)が合わさった大型の炉です。石組部で煮炊きし、土器の中にはおき火(種火)を入れていたと思われます。 複式炉は、縄文時代の中期後半頃だけに流行した炉の形で、主に東北地方や北陸地方の集落で見つかっています。秋田県内では約80カ所の遺跡から発見されています。」<写真>。何かずいぶん便利な仕掛けのようだし、広く行われた方法ということだが後の時代に伝わらなかったのはなぜか。
 後期の土器<図-315>。この姿はどこかで見たことがあるような気がする。この白っぽい素材が砂混じりの粘土質だったのか、あるいはわざと砂を混ぜたのか。筒状に伸びた突起の横には小さな穴があるが貫通していない。これは細い竹筒の端を押し当てたようにも見える。この見事な丸底は何のためか。
 この上部が派手に広がった深鉢にも矢羽根文様がある<図-316>。ここでは矢羽根の擦り消し文様となる。これがほとんど全側面にめぐらせてあったらしい。胴のくびれには2本の刻み線に端正な帯。残念ながら、出土部分が少ない。この文様を描いた破片がもっとたくさん出土していたら、この優雅な文様の広がる様子を楽しめたのに。

 古墳時代のガラス戸の中には実物展示とは別に何枚ものカラー写真が掲示されている。その中の4枚が寒川U遺跡 第3号土壙墓の発掘状況を写したものだ。県立博物館で見たあの江別式土器が穴の隅に出ている写真がある。パネル「−−寒川U遺跡(能代市)−− 秋田県北部、日本海沿岸の段丘上にある続縄文時代の墓地。江別式(後北式)と呼ばれる北海道特有の土器を副葬した土坑墓が6基見つかりました。土坑墓は東西に長い楕円形で、その長さは1,2〜2m、両端に柱穴があることが特徴です。土坑東端に袋状の穴が掘られ、土器はその中に副葬されていました。弥生〜古墳時代に、東北北部が北海道と同じ文化であったことを具体的に示した遺跡です。」この文化が東北北部でどのような状態にあったのか興味深い。
 外に出て道路向かいにある払田柵跡総合案内所へ行く。今日はいかにも真夏の快晴で陽射しがかっかと照りつける。急いで案内所にはいると、いま人は出ていず自動販売機だけがある。これでパンフレットを買うのだ。お金を入れるとA4の封筒がことりと落ちる。案内所の奧を抜け出ると、向こうの方に復元された外柵南門が建っている。門の下まで歩く。門は二層で見晴らし部分が付き屋根を板で葺いている。門の左右には角材を密に並べた柵が続く。発掘の際に出てきたのは門の柱の木材基部と柵の木材基部だ。門の奧に低い丘があって、そこに政庁跡が発掘されたという。ただし、この払田柵については続日本紀など、どの文献にも記述がないという。
 午後は本庄市に戻って郷土館を見る。104で電話番号を聞くと、「ユリホンジョウシのことでしょうか。」という。別の町のことを聞いても困るからそうではないというと、「ユリホンジョウシでしたら郷土館がありますが。」という。本庄市というのはないという彼女の話を聞いていると、どうやら自治体の合併で本庄市という市名はなくなり新市名がユリホンジョウシであるらしい。聞いた電話番号をたよりに無事に郷土館に到着する。
 ここにも複式炉についての写真パネルが掲示される。その説明パネル「−−複式炉−− 底を打ち欠いた深鉢形土器を埋め込んで炉とした土器埋設炉と、川原石を円形に囲んだり敷きつめたりした石囲炉が複合したもので、中期の後半頃から、東北・北陸地方でさかんに作られる『いろり』です。 この特殊な炉の使われ方としては、埋められた土器の中に石囲炉からでたおきや灰を入れ、そのなかで団子状のトチやドングリを調理したという説や、山菜やトチの実のアク抜きをするために灰を保存していたという説があります。」
 今、奧の展示館では「本庄刺し子展」という特別展示が開かれている。入口は通路の突き当たりになっていて「刺し子」の暖簾が掛けてある。部屋の中には濃い藍色の布に白糸でさまざまな模様を縫い込んだ刺し子布が展示される。説明パネル「−−実用着と刺し子−− 東北地方は寒冷地のため木綿は作れず、長いこと木綿は貴重品でした。しかし丈夫で保温性の高い木綿布は、農家の仕事着としては最適であり欠かせないものでした。貴重な木綿の仕事着を長持ちさせるために、木綿の縫い糸(カナイト)で細かく刺し縫いして丈夫にしました。それが刺し子となったものです。 すり切れ破れてから刺し縫いしたものでなく、新しい木綿に初めから縫い取りしたので、手をかけるだけ長持ちすることになります。こうしたものをただ直線的に縫い取りするだけでなく、幾何学的に刺して実用のみならず見た目の美しさも考えたところに、東北人のすばらしい美的感覚があると言ってよいと思います。 −−生活芸術としての刺し子−− 刺し子は東北に生まれた生活芸術です。衣服の補強のための刺し子模様は仕事着だけでなく、その美的で実用的な生活芸術は手甲・脚絆・足袋・前掛けなど身につけるもの、さらに風呂敷・雑巾・布巾・のれんなど庶民の生活のすみずみにまで用いられるようになりました。 …。」
 6角形に内接する星形連続模様がある。各星形の内部を線で結んでいるので中心には12本の直線が集まっている。この模様の全体を少しうしろにさがって見ると各中心が際だち浮かびあがる。これは、白い糸が中心に集まっているからだろう。その効果がきわまった刺し子模様がある。菊の花弁のように12枚の花びらが中心に集まり、それぞれの花びらの中に更に線を入れて計24本の白線が集中する。これを三つずつ集めた模様が大きな菱形の中にデザインされる。身を引いて全面を見ると布のあちらこちらでは不思議な光が放たれる。


24日(日)晴れ。 
 きのうは南下する途中に思うようなキャンプ場もなく新潟県朝日村まで走ってしまった。ここには以前に泊まった戸建ての宿泊施設がある。午後6時もとうに過ぎていたが温泉棟の受付で聞くと一軒だけ残ってあいていた。
 朝、二階で目覚める。枕元の出窓が明るくなる。今日はよく晴れているのでさっそく出発準備にとりかかる。
 午前9時には三面の展示館に着いた。が、どうも様子がおかしい。砂利をひいた駐車場もあちこち草が生え始めていてあまり使われていない。建物の入り口まで行くと扉の上の看板がない。扉に張り紙がしてあって、それには、この建物は閉館していて別に奧三面歴史交流館というのが7月30日に開館するとある。新しい建物の位置を略図で示している。その位置はもう少し川の上流になる。ともかくそこまで行ってみようかと車に乗る。
 途中で崖崩れで工事中のところを通り過ぎてさらに上流に進むとキャンプ場がある。川はそこで広くなって中洲は島のようになっている。新しい展示館の位置を聞いてみようと管理棟らしい建物のそばに車を入れる。そこはまだ人がいないようなので、下へ移動する。あたりはすでに太陽の陽をいっぱいに受けて暑くなっている。下の建物は店のようだが中に人がいる様子がない。傍らに大きなテントがあって、日陰に入っておばさんが二人、炉をはさんで腰掛けている。炉では串に刺した川魚を立てて焼いている。
 「そうそう、何かおっきい建物ができとる。」「博物館だったか。今度は入場料を取るって。」「建物はできとるけどまだやってないだろ。」「たしか今月の終わり。まだ何日かあるわ。」「また今度だねえ。どこから来なさった。ああ、それは、…。」
 その建物は、いま通ってきた工事現場の手前で脇へ入るのだという。川下へ後戻りをすると、工事現場を過ぎてすぐ左手の奧に建物が見える。車で上流に向かっていると見えないし、まだ表示看板もないのだ。「関係者以外立ち入り禁止」と立て札がある。あの建物の中では、いま開館に向けて展示の準備が進行中なのだ。これからどうするのが一番いいか地図を見ながら思案する。長岡市からさらに日本海側に進むと柏崎市に出る。いつか、道路端に博物館の表示を見ながら、通過したところだ。時間があれば長岡の県立博物館に寄ってもいい。少し元気が出てきたと自分でも思って苦笑いしながら車のエンジンをかける。
 柏崎までは結構距離がある。地図上の直線距離では秋田からここまでより遠い。国道7号線を少し走ってから右にそれて村上市を横切る。そのとき偶然にいつか寄ったことのある保存された武家屋敷の前を通る。市街地を出て広い道路を進むとやがて新潟に向かう自動車道路の入口があった。いま自分の持って来ている地図帳や車のナビが古くなっているから、どちらにもこの道路は載っていない。ナビの画面では、細い道路の巡る畑や空き地のようなところを矢印が心許なげに進んでいる。この道路は片側1車線なので車が何台も連なると一番ゆっくり走る車の速度に合わせることになる。今日は日曜日だから走っている車も多い。
 長岡市に近づいてSAで昼食をとる。午後の時間配分を考えると、結局、県立博物館ではゆっくりできないことが分かる。それではと、国道7号線に戻って柏崎に向かう。
 博物館の表示を見つけて道路沿いにある駐車場にはいると、そこは小高い丘にできている大きな公園の入口だった。博物館へ行くには丘の上から流れてくる小さな渓流を左に見て山道をあがっていくのだ。その道に入ってすぐ、右手の崖が樹木とともに大きく崩れて工事用の柵で囲まれている。陽は丘に遮られて山道を陰にしている。これで風でもあれば涼しくていいのだろうと思いつつあがっていく。水の少ない川は途中からずいぶん下の方に流れている。下にも散歩道が付けられていて川端を人が歩いている。やっと広いところへ出るとそこにも駐車場があった。どこかから別の道があってそこを車であがってくることができるのだ。そこからさらに少しあがると博物館の建物が見えてくる。石段のあるなかなか立派な建物だ。
 入場は特別展以外は無料で、ロビーに受付はなく案内コーナーでは男性が一人で入館者の世話を焼いている。ちょうどどこかの宗教団体がたくさんの子供連れで出ていくところだった。特別展は『文様の「意」と「美」・蜻蛉の意匠』。このポスターはいろいろな展示館で見ている。今日は講演会もあるが予約が必要で、それにすでに開演中。特別展は時間があればということにする。展示室にはいるとそこはこの地の自然を再現した森のジオラマ。薄暗い中に幹の太い樹木が立つ。枯れ葉の上や茂みの陰、木洩れ陽の中に小動物達がいる。生き物の声など森の気配を表す音が聞こえる。たまたま他に入場者がいなくて、涼しい部屋に入ったこともあって気持ちがいい。こういうときは上を見てはいけない。上を見るとすべての場面をぶちこわす天井があり、木洩れ陽を射すためのライトがある。樹木の梢はなく無惨。
 歴史展示まで進むと縄文土器が置き場所にいろいろ変化を付けてたくさん展示される。弥生土器が発掘時の状態を作った場面の中に置かれる。どちらもガラス越しではないが近寄れない部分が多い。案内コーナーに戻って聞くと写真は撮ってもいいという。
 縄文土器を配置したコーナーの奧にもガラス棚を設けて土器が置いてある。口辺部に透かし彫りふうの模様を刻む土器<図-317>。側面では山梨でたくさん見た模様の付け方。曲面で流れる線の変化がおもしろい。容器下部の文様が欠けているのが口惜しい。しかし、側面の半分近い出土部分がそろっているので文様構成のだいたいは想像できる。つぎつぎといくえにもとりまいていく同心円には吸いよせるような力がある。そこへ斜めの線たちが集まっていく。これらは胴の水平線で上下に分けられ、巧みにバランスを取りながらそれぞれ繰りかえされる。土器の側面をキャンバスにした繊細な表現、雄大な構成。口辺の無機的な文様との対比は巧妙。この文様は、細い竹筒を半分に割って粘土の表面に押しつけていったように見える。一つ一つの間隔は不規則だ。ただし、この紐状のものは高く浮き出しているから、列と列の隙間はわざわざすくいとったか。
 これは珍しいヒョウ文柄<図-318>。このモダンな図柄も当時はたくさん行われていたのに、いま目にするのがそのわずかな一部だから珍しいということもあるかもしれない。ともかく、こんなこともやってみて、これも容器を飾るのになかなかいいものだと思った人がいたのだ。
 口辺に帯を巻く端正な姿の土器<図-319>。この幅広の帯に何も飾りを入れなかったところがいい。胴の文様は、するどい直線で削り取ったように見える。その下に、削り取るまえになにか文様があったようだ。おそらく、口辺の縄文と同じものが容器の側面の大部分にあったと思われる。単調な縄文が作り手に気に入らなかったか、あるいは、それはもともとの下地なのか。いま見ると、このするどい線はその下地を消してしまうような荒々しさだ。

 コーナーのまわりは低いガラス板の仕切りが立っていて、見る者の間近にも土器が置いてある。せまい底から朝顔形にひらく深鉢<図-320>。このかたちは広く行われた基本的な器形の一つだ。この仲間の土器は常に輪郭線の流れに注意を払っている。ここにある容器の内側は明確な段を付けて面の傾きを違えている。口辺部の破片の内側には、まるで注ぎ口の痕跡とでもいうように浅い溝がある。外側上部に付けられた装飾は、これに似た器形によくあるようにいずれはもっと派手な貝殻様装飾などに発展するのかもしれない。
 コーナーに別々に置かれた二つの土器<図->。この口辺の開く姿は小樽で見たものと同じだ。
 弥生土器のコーナーにも見覚えのある土器。首から上だけが、それも縁が大きく欠けて転がる。これはあの香川や岡山で見た土器<図>。開いた口をあたかも注ぎ口のようにしたデザインはほぼ同じものだ。この展示は弥生時代における遠い瀬戸内との交流について示そうとしている。このかたちが中国山地を越えて日本海側にまで達していたとしたら、このことは考えやすいし、また、稲作が素早く北上した経路や様子についても関連するのだろう。
 民俗展示のところでは戸外での舞踊の場面が再現されている。背景に樹木の太い幹がすえられてしめ縄が祀ってある。三人の女性が頭を赤い布でつつみ派手やかな袴や着物を着て踊る。手前に置かれた説明パネル。「−−綾子舞(あやこまい)−−黒姫山の麓、柏崎市女谷に500年も前から伝わる芸能で、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定。綾子舞は、大きく囃子舞、狂言、踊りの三種に分けられ、今でも二地区に伝承されている。それぞれ特色があるが中でも初期の歌舞伎踊りの影響が色濃く残っている代表的な二種をここで紹介する。 ◎現地公開日−9月15日(黒姫神社)」展示室を出て休憩コーナーへ行くと、この踊りの実際の場面を写した写真がある。戸外で展示と同じように大木の幹にしめ縄を祀る。その向こうに田が広がる。こちらの三人は赤い華やかな模様の振り袖、腰に赤い帯を結び垂らす。
 閉館時刻が近くなって外に出る。川のところまで来ると白い百合の花があちらこちらに咲いている<写真>。「市の花 山ゆり植栽地」と表示が立つ。白い花は谷の日陰に咲いていっそう鮮やかに見える。


25日(月)晴れ。
 今日は一日かけて家に帰る。国道117号線を飯山市に入った付近で道をそれてしまう。上信越道の下をくぐったあと道が分からなくなる。右へ行くと斑尾高原という標識を見る。千曲川を離れてしまったのだ。少し後戻りをして117号線に戻る。やがて千曲川を渡る橋がある。橋の手前の標識を見て右折をする。たいていの車は直進してそのまま橋を渡っていく。この川沿いの道は確かに117号線だが、どうやらこちらが旧道のようだと思いながらゆっくり走る。なぜか、北から下りてきて長野の町へはいるところでいつもどこかで道に迷って分からなくなる。まだ午前10時を過ぎたばかりだから急ぐ必要はない。
 そのうち18号線にはいる。この先に更埴市があって、いつかアンズの苗木を買ったことがある。それをだめにしてしまったのでもう一度寄ってみようと思いつく。市役所に着くと、そこは新しくできた千曲市の分庁舎になっていた。受付で苗木が手に入りそうな所を聞いてみる。受付の女性は親切にもいろいろ問い合わせをしてくれて、「いま苗木を扱っているところはほとんどないようです。アンズの苗木は春と秋に競り市があって、そのとき以外には苗木は出ないので、店や農協も扱っていないということです。」という。話を聞いていると、前に買ったところは「杏の里」というところらしい。「杏の里」のパンフレットをもらって一応行ってみることにする。 
 「杏の里」というのはアンズの栽培農家の多いその付近一帯をさしている。春になってアンズの花が咲く頃、観光客がたくさんやってきてあたりを散策し花見をする。そこからやや離れた国道沿いに、苗木をうっていた大きな温室のある店はあった。そこも、やっぱり彼女が言っていたとおり苗木はなかった。
 ちょうどすぐそばに県立歴史館がある。苗木を買ったのはあの歴史館を見てそのあとだったのだ。今日は月曜日で休館している。今年は夏休みでもお盆の月曜しか開館しない。
 松本に入って、この先の道はいつも車が多いので山側の県道を通って塩尻に抜ける。塩尻で高速道に入る。夕刻自宅に着く。


             -----------   2006年   -------------


1月21日(土)晴れのちくもり。寒い。
 午後、一宮市立博物館へ行く。国府宮から大江川沿いに北上すると青果市場がある。ちょうどここで一宮市に入り、東名高速道のガードをくぐるとまもなく右手の木立の中に博物館がある。今風の建物ではないが内部は天井が高く床や壁面に磨いた飾り石をふんだんに使っていて豪華だ。常設展示室には機織り機械が展示されている。古い時代の「あんぎん織り」に近い仕組みから中世の糸車や機織り機、「豊田式自動織機」、モーターや駆動ベルトを張りめくらした大規模な紡織機などが展示される。糸をつむぎ布を織る長いながい歴史。明治以降の尾張地方北部では、いまはそれほどではないようだが、少し前までは繊維産業がずいぶんと栄えていたのだ。
 文化庁の巡回展「発掘された日本列島2005」を見る。会場に入るとすぐキトラ古墳の内部調査の際に使ったステンレス製ゲージが置かれている。これは床面の発掘をする際の壁面保護のために内部で組み立てたものだという。縄文時代の遺跡発掘では青森県階上町(ハシカミチョウ)寺下遺跡が興味深い。骨角器として箆(へら)や針、アクセサリー類がたくさん出たという。鹿の角でできた「腰飾り」がある。尖った先端に向けて鋭く反り返っていて、その中程まで細かい彫刻が施されている。角の分岐点も利用していてそこがT字型になっている。あのT字型のステッキを指を分けて握るようにここを強く握ったのかもしれない。腰ひもにはさむにもちょうどいい。当時の護身用の武器がこんなかたちをしていたのかもしれない。全体のかたちそのものがいかにも縄文人好みのという感じがする。彫刻された細かい穴もただの穴ではなくてみじかい尾が三つ出ていたりする。
 あの大湯の器は、「現代によみがえる遺跡」のコーナーにあった<図-321>。ここでは浅い器の底に刻み込まれた文様を明るい照明のもとに鮮明に見ることができる。この器の中の図柄はちょっと見ると花模様のようだし、側面に並んだ図柄も地面に生えた植物のようだ。器の底でそれぞれ二枚向き合って立った花弁状の右側ではその根本で向きを変えて下の段に続いていくように見える。左側でそういうことはない。つくり手は大体の姿を左右対称にするが、描くべき何かのイメージの本来のかたちは残そうとするのか。このことは四つのすべてに当てはまるように見える。四つの「花」はそれぞれ中央の渦巻きの線上に置かれている。この全体はすでに点対称に構成した花柄のようににまとめられているが、もともとは各部分がもっと気ままに伸びて、くねり回って、流れたり合わさったりしていたのかもしれない。この時代の「かたち」には、流動と固定という二つの傾向があるようだがこの文様は固定化されつつあるのだ。その流れの中でこんなにも粋で洒落たデザインが生まれた。制作した彼らにそんなつもりはなかったかもしれないが、この器の姿は彼らの目にも心地よく映っていたように思われる。