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  2006 - 太宰府へ                              

               
2006 - 03 - 24()〜04 - 04()
 


3月24日(金)2:00発。大阪府吹田市へ。


3月25日(土)晴れ。広島県福山市へ。
 福山市にある県立歴史博物館で縄文早期の押出文土器を見た。これまで見たものより大きなものでいちめんに豆粒のような模様が出ている。花形に開いた口とふくらんだ胴、そのうえ底がややとがっている。しかし、ここにあるのは複製で帝釈郷の岩陰遺跡を発掘していて出土したものだという。受付で場所を聞くとすぐ学芸員さんを呼んでくれる。


3月26日(日)晴れ、のちくもり。福山市へ。
 早朝のラジオで女性の生い立ちの話を聞く。彼女の母親は彼女が会ったことのない父親のことを「太宰ちゃん」と呼んでいたという。太田治子という作家の作品をまだ読んだことはない。
 今日は帝釈郷にできた時悠館という遺跡展示館と三次市の県立歴史民俗資料館を見に行く。帝釈郷は、県北部の、もう鳥取県や島根県境に近いところだ。帝釈峡という渓谷があって、そこは紅葉の名所だという。2時間ほどかけて渓谷にはいると陽が陰ってきた。時悠館と名付けられた建物は木造に似せた低い円形をしていてどこか大きな寿司桶のように見える。入口をさがして中にはいると女の人が迎えてくれて「親子土器作りの方ではないですか。」と聞かれる。今日はそういう教室が開かれているらしい。展示室のある2階にはエレベーターで上がる。
 その「桶」の内側は輪のようにいろいろな部屋が並び、中央には円形の中庭がある。中庭をのぞんで建物の円周をガラス張りの回廊がめぐり回廊の部屋側壁面もガラスケースの展示棚になっている。その棚の上にたしかにあの縄文早期の土器がある。それが間近に見られるのだが、残念ながら今は外の明るい光がケースのガラス面に映ってしまう。ぼく自身の影に入ったところだけが鮮明に見える。写真を写してもいいということなので早速カメラを向けた。真後ろから明るい光が入るのでガラスを透かしてのピント合わせが難しい。
 「楕円押型文土器 第3層 早期 約8000年前」<図256>。(映像ファイルの調整が何とかできたのはこの左方向から写した写真のみだった。右方向ら見た場合は押型文が一面に出ている。ただ、復元の際の処理のしかたによるのだろうか、どの部分が出土した破片なのかよく分からない。この左方向の場合は押型文の破片のかたちが出ているように見える。)
 「押引文土器」 第2層 前期 約6000年前<図257>

 ガラスケースの中のパネル。「帝釈馬渡岩陰遺跡 帝釈峡遺跡群発見のきっかけとなった帝釈馬渡岩陰遺跡は、帝釈始終にあり、帝釈川と馬渡川の合流点から、馬渡川を約100mさかのぼった右岸にあります。長さ10m、厚さ4mにわたって、旧石器時代から縄文時代前期におよぶ5つの文化層が見つかっています。…。」同じパネルに「文化層の概念図」が添えられて第1層から第5層までが示される。この地層図の中には石灰岩の分布する様子も表示される。
 「第1層 縄文前期 地表面から0.5〜2m下にありました。前期後半の土器や石鏃、石錘、石さじなどの石器、サルボウ製の貝輪が出土しています。またカワニナが多量に出土しています。」
 「第2層(も)縄文前期(記述を省略)。第3層 縄文早期 第3層の中央部にも大きさが2m、厚さが05mの灰層がありました。楕円や山形の文様をつけた早期の押型文土器や石鏃、石さじ、礫器などの石器が出土しています。食料のカワシンジュガイは多く出土していますが、海産の貝類はまったく出土していません。」
 「第4層 縄文草創期 馬渡遺跡を特長づけるのは、この第4層からの出土遺物です。この層からは、旧石器時代の終わり頃に投げ槍として使われた有茎尖頭器とともに、縄文時代を特長づける土器や石鏃が出土し、旧石器時代から縄文時代へ移り変わっていく様子が明らかになりました。また大きさが10p以上もあるカワシンジュガイが多く出土しており、貝の煮沸用として土器が出現したのではないかと考えられます。更新世の絶滅動物であるヤベオオツノジカの臼歯破片も出土しています。第5層 旧石器時代(記述を省略)。」
 部屋の中にはいると、帝釈峡遺跡全体の資料がたくさんのパネルを掲示して展示されている。帝釈峡遺跡では20キロメートル四方に広がって点在する多くの岩陰や洞窟が発掘されたという。昭和36年に馬渡林道拡幅工事の際に発見されて以来、各大学の研究者が参加して40年近く調査が続いている。この地域の地質が石灰岩地帯であることから旧石器時代の人骨出土も期待されているという。
 外に出ると空は雲が厚くなってきて気温も低い。近くの丘や雑木林の方へ少し歩いて行ってみたが、絵地図に表された岩陰遺跡の位置が分からなくてそれはあきらめた。
 午後、県立歴史民俗資料館を見る。展示ケースの中は明るく見やすい。ここにもあの同じ押型文土器の複製がある。土器の位置が低いのでここで初めて内側を見た。内側も押型文で装う。口縁部に短い縦線が並んでいる。入り口壁面の掲示物の中にこの土器のカラー写真がある。


27日(月)。晴れ。大分県別府市へ。
 島づたいに瀬戸内海を渡った。海にかけられた橋をいくつも渡る。伯方島でICを出て島の北へまわってみる。島の東側には小さな漁村とさらに行くと町がある。道のせまい町中をゆっくり進む。両側に商店の並ぶ道は不規則に交差したり曲がったりするので町を抜けるのに苦労をする。前からきた警察のパトカーが「曲がるときはウインカーを出しなさい。」とスピーカーで警告する。「ふるさと歴史資料館」の表示があるので島の中央に向かう。資料館は城を復元したものだ。この城は中世前期のもので中期以降のものが多い中ではめずらしいのだという。城というより館に近いすがたに見える。月曜なので資料館はやっぱり閉まっていた。城の近くには古墳の石室が復元されている。説明パネルには発掘の際のカラー写真も添えられて壺などの副葬品のある石室が写っている。古墳自体はかつての築城の際に削り取られたようだという。瀬戸内海の島々は早くから豪族の支配下にあったのだ。
 さらに四国から大分に渡る。西日本全体の地図を見ると四国の西端で針のように突き出た半島はそれだけのものではなくて、遠い東の方からまっすぐにのびた直線の先端のように見える。四国の北部を横切って淡路島南端をかすめ、和歌山県有田から志摩半島、渥美半島へとたどり、東の端は御前崎に達するように見える。川や平野、山並みや半島が両端から引っ張られてできた直線のように続いている。まだ自分は知らないが、これは地理学上の名の付いた特徴なのかもしれない。午後3時過ぎに三崎町に着くとまもなくフェリーが出る時間だった。あわてて手続きをして乗船、甲板に出てみるとちょうど船が動き出したところだ。晴れているのだが、すぐ近くに見えてきた半島の岬はかすんで見える。天気予報によると、いま中国大陸から黄砂が飛来しているという。


28日(火)晴れのちくもりのち雨。風が強い。大分県別府市へ。
 大分市に歴史資料館があることがわかった。資料館は大分市街の南端にある。ここには縄文早期と前期の土器がある。前期の土器は大分市内の遺跡から出たもの。早期土器はここにあるのは複製で野津町出土のものだ。撮影のための申請書を書いて写真を写す。野津町は最近の市町村合併で臼杵市になっているという。臼杵市役所に電話をする
       <図258>
       <図259>
       <図260>
       <図261>
 午後、野津町公民館へ向かう。公民館の前の桜の木の下に車を止める。ちょうど桜が満開だ。受付で聞くとすぐ係の男性が出てきて親切に応対してくれる。
      <図262>
      <図263>
      <図264>
      <図265>
      <図266>

29日(水)くもりのち雨のち晴れ。九州道。佐賀県鳥栖市へ。
 西へ向かう途中の町々で資料館を探すが見つからない。筑後川温泉というところに寄る。この温泉は湯の中で肌が少しぬるりとする。鳥栖市へ向かう。鳥栖市は久留米市と隣りあっていて、地図では市街地がほとんど続いているように見える。道路に「佐賀県」の表示が出る。ああ、二つの市街は県が違うのだ。
 鳥栖市役所文化スポーツ(課)で埋蔵文化財関係の展示室について聞く。今のところ鳥栖市に博物館や埋蔵文化財関係の資料室はない。発掘結果の一般向け報告カードを何枚も見せてもらう。そのなかに縄文中期の土器のカラー写真がある。口辺の帯に波模様があってそれで少し華やかな姿に見せている。鳥栖市内に埋蔵文化財の収蔵庫があって係員がいるので申し出れば見せてくれるという。


30日(木)晴れ。風が強い。佐賀市へ。
 鳥栖市文化財収蔵庫は今は使われなくなった小学校にある。階段や廊下に大きな埴輪の馬や瓶が置いてある。開けてもらった教室にはいるとスチールの棚には弥生土器がいっぱい並んでいる。奥の方に縄文土器らしいのが数点ある。けれども目当ての土器はここにはなかった。もう一度市の文化財担当のところをたずねてあの土器について聞いてみるとあれは県が収蔵しているはずですという。「県立博物館にあるかもしれません。あれが展示されているとは限りませんが。」そうか。佐賀県立博物館はまだ見ていなかった。ここからそれほど遠くはないので早速出かける。
 佐賀県博物館は同じ建物に美術館の部分も設けられていてどちらも無料で入ることができる。光を弱めた各展示室は床面積に十分な余裕があって少し素っ気ないほどだが、そのために落ち着いた雰囲気で見ることができる。部屋は薄暗いが展示ケースの中を明るくしてガラス越しでも見やすくしている。常設展示室にその中期の縄文土器はあった。かなり大きなものだ<図-267>。「とすの文化財解説シート」の写真では出土しなかった部分が白い石膏のままだったが今は薄茶色に着色されている。波の様な盛り上がりの上にはすべて小さな穴が連続して開けられている。こうした細かいものの連続はなぜか華麗な印象を与える。波模様がそこに軽やかささえも加える。これは当時の人々も感じていたのではないかと思う。この土器について学芸員さんの話を聞く。この地方の土器はかたちや模様にあまり変化がないのでその点でこの波模様は注目されること。この口辺が同じ模様の土器は二つ分出土していてそれぞれ復元されてこの佐賀県博物館にあること。現在、一方の土器は太宰府の九州国立博物館に貸し出されていること。ここにある土器は口縁部から下の平底まで一通り破片が出土していること。写真を写すことに別段問題はないとのこと。
 <図-268>
 <図-269>


31日(金)晴れ。福岡県太宰府市へ。
 太宰府の国立博物館の駐車場は福岡県歴史資料館のすぐ前だった。そこで先に資料館にはいる。展示室には一昨年も見た縄文早期と縄文後期の土器がある。それを確かめてから受付で写真撮影について聞く。今回は家を出る前に電話で依頼しておいたので受付ではこちらの名前をメモしてくれていてすぐ腕章を渡してくれる。
 <図-270>
 <図-271>
 <図-272>
 早期の土器はこれも押出文のようだが升状の文様だ。


 以前に徒歩で降りてきた山道は今はコンクリートの階段と舗装道路になっている。国立博物館の建物は大きなカイコの繭を縦に切って横たえた姿に見える。その切断面のほとんどにガラスをはめていて、それが鏡のように処理されて周りの風景を映している。パンフレットには、この方法で有害な紫外線を弱めているので展示品を明るい光のもとに見ることができるとある。
 建物の中に入って驚いた。1階の広いフロアはずっと向こうまで人でいっぱいだ。常設展の入り口がどこにあるのかわからない。しばらく歩いていくと奥にクロークがある。聞くと入り口近くのエスカレーターで4階に上がるのだという。大勢の人と一緒に4階に上がる。ここも人でいっぱいだ。展示室は暗い。明るい窓などどこにもない。展示品のための照明は様々な工夫がされている。見る者に独特の印象を与えようと懸命に努力する。その結果、たいていはそのもの本来の姿とはだいぶん違ったものに見せることになる。こう人が多くては、「開館後、途中から写真撮影は禁止にしました。」という事情もよく分かる。
 広いフロアは複雑に仕切られて各コーナーごとに展示テーマを掲げている。ここでは順路というものをはっきりと設けてはいないようで、人々はそのつど思い思いの方向にうごきまわっている。人混みを分けてうろうろしているうちにいつの間にか元の場所にもどっていたり、すでに見覚えのあるコーナーのすぐ横に気づかないでいた展示コーナーの入り口があったりする。展示内容では、ここが九州太宰府の地ということから朝鮮半島や大陸との交流を何かにつけて取り上げている。会場の周辺や中央を行き来するうちにいきなり興福寺阿修羅像の前に出る。全身を朱に塗られて立つこの像は当初の色彩を復元したものらしい。もう少しかたちが正確に作られていたらいいのにと思う。顔の表情が違うように思われる。これがもともとの阿修羅像ですというにはやや無理がある。せめて現在の姿を写した実物大の精密なカラー写真でも横に添えたら、もしかすると生じるかもしれない誤解をさけられるだろう。
 きのう佐賀県立博物館で見た縄文中期の一方の土器は「海、森、火山」というコーナーに展示されていた。あの点線をともなった波模様ですぐにそれと分かる。こちらは口辺が立てた襟のように直線でできている。それが胴のふくらみの感じと合わずなんだか堅い姿に見えて落ち着かない。きのう見た器の印象がまだ強いせいかもしれない。それと、きのうは周囲に誰もいなかったという状況がこことはたいそう違う。この器がきのうの場所にもどった姿をもう一度見るべきだろう。
 さきの新潟地震の際に被害にあった津南町の博物館の土器が展示されている。これらの土器はここへ運ばれてきて修復されているのだという。
 この巨大な空間は観光地のイベント会場に近いものだがいつまでもこうして続けられるとは思えない。この興奮状態が消えた、たとえば5年後にはどんな博物館になっているだろうか。そのときに入った展示物によってはもう一度来てみたいと思う。これだけ人を集めることはなかなかできないことだし、多くの人に歴史上の遺物を見る機会を用意できたこともこれまでの博物館では考えられない画期的な成果だ。ここに来たいくらかの人々がその自分なりの興味を持続させてさらに別の博物館へ行ってみることも大いにあることかもしれない。また、この博物館には文化財を修復する役割が与えられていて、そのための専門的な機能があるのだという。これは各地の博物館との重要なつながりとなってこれからの展示にも生かされていくらしい。こうして各地の博物館とのつながりを持つことは、展示内容をどんどん広げていくことになるだろうが、現在の展示方法はそんな性格とも関係があるのだろう。
 修復の役割も大事なことだけれども、このつながりの中で各博物館の収蔵品のレプリカの展示も増やしていくとこの博物館の性格がさらにはっきりしていくかもしれない。いつか東大総合博物館の展示でレプリカの作り方を見たことがある。なんでも、最先端のデジタル技術を駆使して本物と寸分違わぬ立体物ができるのだという。石膏で型どりすることなく、表面の細かな凹凸はもちろんのこと実物とまったく同じかたちを作ることは、実際にすでに実現されている。書画、図面などもふくめて、本物ではないレプリカにはいろいろなことが期待できる。明るい場所での展示、年寄りや子どもに親しみやすい開放的な展示が可能になる。本物への興味をかき立てるような展示も工夫できる。限りなく本物に近いレプリカによって全国各地の文化財を総合的に大規模に展示する企画も立案できる。
 各博物館では、収蔵する貴重な文化財に代わって常時展示するためのレプリカを必要としているようだ。今のところ、レプリカ制作は相当に費用のかかるものらしい。この博物館で集中的に専門の技術者や機材を充実させることでより多くの精密なレプリカ制作ができるようになるだろう。それが文化財の修復とともにこの博物館の重要な機能になれば、各博物館とのつながりを生かした展示がいっそう充実できるだろう。「文化財の収蔵」という役目にも重点を置かざるをえない従来の博物館とはちがって、ユニークで重要な機能を持った、しかもきわめて活動的な国立博物館が期待できるかもしれない(写真-1)(写真-2)
 遅い昼食のあと明日の予定を思案する。きのうはまだ見ていなかった佐賀の博物館を見た。あと、北九州では長崎の博物館を見ていない。ここまで来ているのだからと長崎県庁へ電話で問い合わせる。すると、博物館はあるが縄文・弥生関係の展示はないという。市町村では平戸市田平町の歴史資料館にその関係の展示があるという。そのとき、「島ではない方がいいですね。」と念を押すから「そうです。」と答える。


4月1日(土)くもりのち雨。
 正午前に田平町立里田原歴史民俗資料館に着く。田平町も今回の合併で平戸市に入ったのだという。すぐ前に平戸島の見える海峡には立派な平戸大橋が架けられてすでに久しい。だいぶ前から平戸は離れ島ではないのだ。
 資料館の展示ケースには縄文早期の土器の一部がいくつか置かれている。係の女性の話では、これらの土器はこの近くの海岸で見つかる。そこは波による台地の浸食が激しくて岩の崩れた中から土器が顔を出すのだという。ここでは、そんなふうにして太古の遺跡が失われていくらしい。ぼくには、残念ながらケースの中の土器片から文様の全体像や器の姿を想像することができない。この地方の同じような遺跡やその出土品を展示しているところについて聞いてみる。彼女はどこかへ何度も電話をかけて誰かにいろいろと熱心に聞いてくれる。「今日は土曜日なので、こちらが聞きたいと思ってもなかなか人が捕まらないんですよ。」といかにも残念そうにいう。それでも佐世保についての情報を伝えてくれる。佐世保市に縄文草創期の土器があるという。ああ、そう聞くと何かで読んだ覚えがある。早速その展示場のある場所と電話番号を調べてもらう。「おかげで明日の予定ができました。」と礼を述べる。
 平戸市松浦資料館に寄る。(写真-3)
 午後4時、長崎県江迎町白岳公園キャンプ場に着く。まもなく雨が降り出す。明け方までひどい風と雨。


2日(日)早朝に濃霧、山を下りて曇りのち晴れ。
 佐世保市中心街で立ち往生をする。駐車場がない。目的の博物館のある島瀬美術センターという建物の付近を何度も走り回る。何度目かに建物の前を通って角を曲がると斜めの筋から車が出てくる。どうも駐車場に通じているようだと中へ入る。入ってすぐ気がついた。この筋そのものが両側にパーキングメーターのある駐車場だ。奥は行き止まり。向きを変えられないのでうろうろしていると、車を止めて奥の建物に向かう女性が「私が先に待っていたんですよ。」と、うつむいたままつぶやいて行く。バックで戻ろうとすると車が入ってきて戻れない。ようやくたがいに横をすり抜けて筋の出入り口に戻る。看板が立ててあって、ここで順番を待つのだということが分かる。ほっとしていると、先ほどぎりぎりの幅ですり抜けた車の男性が出てきて険しい目つきでこちらを見るとやっぱり何かつぶやいた。
 エレベーターで5階に上がると考古学展示室がある。入り口では写真撮影を禁止と明示している。入ってすぐ左手に展示用ガラスケースがある。「最古の豆粒文土器について。約1万800年±450年前。…口縁から胴部にかけて豆粒状の装飾を付けた、高さ20センチメートルの深鉢をなし、土器の表面に厚くススが付いて最初から煮たきに使われたことを示しています。…。」
 その草創期の土器はフットボールほどの大きさで底と口辺ををすぼめている。ガラス越しに見るかぎり豆粒文というのはよく分からない。煮炊きに使ったにしても、このかたちや大きさは腕に抱えてどこかへ持って行くのにちょうどいい。出土した部分は器の上部に多い。破片はたがいに密着するのではなく隣とのあいだを石膏か何かで埋めている。口縁部で見る厚みは薄い。いかにも壊れやすいものに見える。これを絶えず持ち運ぶようなことはできないだろう。それにしても、口辺をややすぼめたのは何のためだろう。やはり、木の実か水を入れて十分に注意をしながら短い距離を運んだのかもしれない。
 一番奥には広い間口と深い奥行きで当時の洞窟か岩陰を再現している。そこに男女数人の人物を配して生活場面が作られている。前に立つと青や赤などの照明が徐々に変化して、どこからかスピーカーの説明の声が流れる。いまは他に参観者はいないが、おそらく、ときどき子どもたちが校外授業でやって来て目を見張りながらこの説明を聞くのだ。手前では若い女性が土器を置いたたき火の前で身をかがめる。この土器の口辺はすぼまっていない。彼女はいま目覚めて起き出してきたばかりの人のように長い髪を乱して異様な姿だ。
 午後は関門海峡へ向かう。


3日(月)晴れ。
 山口県萩市。市役所の受付で縄文時代の資料館について聞くと、すぐ関係の部署へ連絡を取ってくれる。博物館担当の男性は市内の遺跡分布地図で縄文・弥生遺跡について話してくれる。昨年、新しい博物館ができたが考古関係の展示はまだ行っていないという。その博物館への道順を教えてもらってとにかく行ってみる。
 博物館の建物の多くは和風の平屋。広い敷地に大きな瓦屋根の建物がいくつも配置されている。パンフレットには、「…。建物の配置や外観は、かつてこの地区内にあった規模の大きい武家屋敷の特徴にならっています。博物館本体は鉄筋コンクリート造りですが、瓦葺きの屋根をかけ、軒先や柱、外壁などに木材をふんだんに使用し、伝統的な木造建築の外観に近づける工夫をこらしています。…。」とある。この記述が目に触れなかったら、中に入ってからもぼくはこの建物が全部木造だと思っていたかもしれない。たしかに、内部には木造建築では望めない広い空間がある。廊下や建物をつなぐ回廊からは、いくつかある中庭を見ることができる。廊下の分厚い戸袋はガラス戸、障子、網戸を収納する。戸袋は外に出ているのではなく建物の壁の一部に収まっている。こうして外部に接する部分や内装にも木材や紙を使うことは鉄筋コンクリートの建物の性質をよく補っているし、目に触れる部分のほとんどが見慣れた伝統的な材質になっているので心を落ち着かせる。これは、本来は木造であるべき建物でありながら博物館として必要な空間や安全性を確保するためのやむを得ない高価な妥協の産物なのだ。しかし、よくあるコンクリート製のお城やお寺にくらべたら、この建物はよほど巧妙にできている。
 この博物館の展示は一応総合的で自然科学から産業、歴史まで幅広い。柑橘類の栽培に関するコーナーでは、かなり古いもののようだけれども、果物の選別機が組み立ててある。若い父親に連れられて小さな男の子が近づく。ちょうどたまたま展示の担当者がそれを待っていて模擬果物を一つ転がす。果物は自分の大きさに合う穴に出会ってそこから転がり出ると箱の中に落ちる。父親がそれを取って子どもに渡し、子どもがそれを持って行くと担当者は子どもにそれを転がすように促す。
 歴史の展示は毛利氏の城下町に関することと、吉田松陰のこと、高杉晋作のことなど中世、近世の展示が多い。とりわけ、この地が維新前後に新しい日本のために活動した人々を輩出したことは、この地域の誇るべきこととして、この博物館においても他の事柄よりも際だって重要な位置づけがされている。
 日本海に面して深い入り江と山と川に恵まれたこの地には古くから人々が住みついていたようだ。弥生文化が早くから根づいたこの地は、他の中国地方各地と同じようにわずかな平地はすべて彼らに耕されただろう。縄文時代の生活の跡はそのとき以後は散りじりになって消えてしまったかもしれない。しかし、すぐ近くまでせまった山地では人口が急激にふえることなく地面の下に古い名残を保ち続けている地域があると思われる。現在のこの地では縄文・弥生に注目し重要視する人はあまり目立たないようだ。それでも、萩市には縄文・弥生の遺跡があるし、開発にともなって調査されたときの出土品はどこかに仕舞ってあるのだろう。


4日(火)晴れ。
 朝、出発前に、鳥取県智頭町役場に電話で問い合わせる。一昨年の智頭遺跡から出土した縄文土器のその後の状態について聞く。埋蔵文化財を担当している人の話では、その後も出土品のための展示館ができているということはないという。
 家へ向かう。夕刻に帰宅。