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 足摺岬・舞鶴へ
 
                             
               2003 - 08 - 05(火)〜19(火)
 
 
                  
八月五日(火)晴れ。
 フェリー乗船のため午後二時三十分までに和歌山港到着を目指す。東名阪道では鈴鹿峠にさしかかってふいに空が暗くなり、たちまち雨が降り出した。先が見えないほどの土砂降りだ。ワイパーを最速にしてもあまり効果がない。それも、少し開けたところへ出るとすぐ明るくなって陽が差し始める。亀山では晴れていた。松原Jctで阪和道路に入る。泉南市で南に向かうと急に車が少なくなった。
 フェリー乗船窓口で手続きを終わっても何も説明がないから「どこへ行ったらいいの。」と聞く。窓口の男性は「この少し先まで行って車の中で待ってください。」という。来た道をさらに先へ進むのだと思って車を走らせるが、それらしいものはない。大分走ってこれはおかしいと引き返す。走り出したところまで戻ると、左側にフェリー乗船場の表示がある。窓口の男性がいう「この少し先」は「前の道を横切って少し先」だったのだ。
 船室では、テレビに向かって並んだ椅子席もあるが、たいていの人が平土間のようなところで寝ころんでいる。徳島港まで二時間かかる。車から離れるときに何か読み物でも持ってくるべきだった。デッキに出る。他に誰もいない。午後の日差しが強いのでわざわ出たりする者はいないのだ。船は和歌山港から離れつつある。遠ざかる防波堤の上にもいつもの釣り人の姿はない。しばらく光る波や陸地の影を見ていると船室から女の人がひとり出てきて写真を撮り始める。すぐ、大して撮るものもないという様子で片手にカメラを持ったまま波を見下ろしたりしている。やがて側へ来て、「シャッターを押してくださいませんか。」とカメラを差し出す。「ええ、いいですよ。」とそれを受け取ってファインダーをのぞく。左側に遠い陸地を入れて適当に構図をつくる。つばのひろい黒い帽子のために顔は暗くなると思いながらシャッターを押す。
 船室に戻って椅子席でテレビを見る。テレビの横に作りつけの書棚があって、雑誌や本が少し並んでいる。やや古くなった文庫本も何冊かある。松本清張「馬を売る女」というのを手に取る。途中まででも読んでみようと椅子席の端に行って腰をおろす。競馬の予想情報を流して金を得る女の話。女の出す負け馬情報の元がたぐり寄せられそうになるところで、船はやっぱり徳島港に近づいた。
 
六日(水)
 藍住Icを出て板野町にある徳島県立埋蔵文化財総合センターを訪れる。この町では、めずらしいことに二つの自動車道が限りなく接近している。インターチェンジも高松自動車道板野Icのすぐ南に徳島自動車道藍住Icがある。藍住町はとなり町なのだ。
 
 道路表示にしたがって丘の上へ向かう道を上がっていくと公園ができていて駐車場がある。車を降りて左手の建物に近づくと、それは文化会館のような施設だ。道路はゆるいカーブを描いてさらに上へ続いている。上がりきるとここには「五穀の広場」という看板が立つ。低い石垣で囲んだ畑が二、三段に作られている。正面には「彩りの館」という建物、右手の方にはかやぶきの屋根が見える。この丘一帯が板野町の「歴史文化公園」なのだ。左手奥の方にも新しい建物が見える。どうやらあれが目指す建物のようだ。まだあんな先だ。陽がかっかと照りつけるので、車にもどってやり直そうかと考える。しかし、ここまで大分歩いてしまったしもどるのも面倒だと思ってさらに歩く。歩道のついたまだ新しい道路の左手は「列柱の広場」と表示されて、高い柱が何本も向こうの方まで並んでいる。奥の茂みと列柱のあいだには大小たくさんの石が置かれて、これも柱とともに向こうまで続いている。これは、遠い過去のある風景を再現したものらしいが、その造りや材料のま新しさはかくせない。道路をへだてて右手には大きな瓦屋根と白壁の建物ができている。これは収蔵庫か。本館に近づくと玄関の前で数人が談笑している。きっと、この建物に勤める人が顔見知りの訪問者と考古学の話をしているのだ。
 展示室の入り口では、見上げるように大きい銅鐸が台に載せて展示される。広い展示室に入ると壁面には左手から奥にかけて無数の土器が掛けてある。土器は壁に取り付けられて出ているわっぱの上に一つずつ載っているのだ。各時代ごとにグループ分けがしてあって、「豊かな森の住人 縄文時代」とか、「稲穂の揺れる弥生時代前期」とか掲げてパネルに説明がある。弥生土器の展示はさらに奥の壁面に続いて、古墳時代の土器と共にそこをほとんど埋め尽くしている。
 縄文土器。ほう。ここにあるのは、これまでぼくが見てきた縄文土器とはどこかちがう。何がちがうのだろう。まるみのある輪郭のものが多い。文様は線描が多い。口縁部は高く波うったり四角く立ったりするものも少しはあるが、多くは平らだ。側面の一部から飛び出て高まったり、反り返ったりするものはない。ふとい粘土ひもがそのままはりついたようなものもない。
 どの土器も、出土した部分が少なく足らない部分を補ってかたちを復原している。補った部分はたくみに色を似せたり、かつて刻まれていたらしい線を補ったりしてあるのですぐには区別できない。側面にほとんど文様のないのっぺりした土器があるのでよく見ると、それが出土したのは口辺部と胴のごく一部にすぎず、それでは文様の補いようもなかったものだ。
 双耳壺(後期初頭)徳島市矢野( 図ー195)。な称で固い感じだが低い胴の様子には独特のものがある。まるで厚みのあるベルト様のものを巻き付けたように見える。それは彫り込んだ線が深いのと両脇に続く出っ張ったかたちのためだ。図ではわかりにくいが両脇の「耳」と称するものは前後から接したかたちでできている。そのあいだにできたへこみの上下には小さな穴が開けられている。細いひもか何かを通してみたくなる穴だ。この「耳」はただの飾りではなくて何かの用を足していたのだろう。
 突起のあいだに伸び出る小突起(図ー196)。土器のこの部分では、平面で表現された中に立体的な感覚を見る。出土部分が少ないのでいまはもうはっきりしないけれども、文様の各部分は擦消文として二種に分けられていたようだ。
 口辺部が丸味をもっておおきく波うつ(図ー197)。姿全体には茫洋としたところがあるが柔らかい温和な感じを与える。この文様も面の部分を二種類に分けていたらしい。線は一定の幅と深さで克明に刻まれている。直線部分はあきらかにそのつもりで水平垂直に引かれている。入り組んで巻いたかたちに動きはない。それぞれの模様はほかにつながることなく完結している。この文様はすでになかば記号化された硬い図形に見える。これを伝えてきたもう少し前の人々の描いたものはどんなかたちだろうか。
 丸底のうえに段のある二つの土器(図ー198)。どちらも、「浅鉢(晩期中葉)三加茂町・稲持」と表示される。おや、このあたりの土器はどれも「三加茂町」だ。いま、この段差は透明な釣り糸を巻いて土器を固定するのにちょうどよい凹みとして展示のために使われている。実際には何のために使ったのだろうか。上の浅鉢は、底の丸味に似ず上に鋭く広くひらく。口縁部はほとんど水平だがほんのわずかだけ痕跡のように高さを違えてある。元々はもっと大きな差を付けていたのかもしれない。下の浅鉢も姿は大分ちがうけれども部分の造りは同じだ。
 帰りがけに受付の女性に「このあたり、徳島市の近くで他に縄文土器を展示しているところはありませんか。」と聞く。徳島市には考古資料館というのがあって、そこにも縄文土器はあるかもしれません、という。そこのパンフレットがあればいただきたい、と頼むとしばらく探してから「少々お待ちください。」といって奥へ行く。やがて出てくると「パンフレットがなかったので、そこのホームページをプリントアウトしました。簡単な地図も載っていますから。」と封筒に入れてくれる。ずいぶん手間をかけたので丁寧にお礼を言って出た。
 徳島市立考古資料館を訪れる。国道をそれて、細い道を対向車と譲り合いながら進む。駐車場に車を入れて建物の方へ歩いていて気が付く。裏の駐車場へ車を入れてしまった。建物の表は広場になっていて、その向こうに広い駐車場がある。ここも、大きな公園の一部なのだ。四阿ふうの休憩所でお遍路さんだろうか男がひとり身を縮めて寝ている。
 ここでは、写真撮影許可を申し出ると、女性の係が付き添ってくれる。入り口のすぐ近くに「縄文時代最後の土器」と表示されたコーナーがある。
 写真パネル「三谷遺跡と城山貝塚ー 共に徳島を代表する縄文時代の貝塚遺跡です。眉山の山麓に三谷遺跡、遠くに城山と吉野川河口を望みます。」
 説明パネル「三谷遺跡の貝塚ー 三谷遺跡はかつて眉山の山麓で繁栄した集落遺跡で、今から2200〜2300年前の貝塚が発見されています。 貝塚からは捨てられたおびただしい量の土器や石器、骨角器や装身具、食料として利用した魚介類や鳥獣類の遺骸、埋葬されたイヌも見つかりました。 生活遺物が大量に発見される貝塚には、人々の文化史が詰め込まれています。」
 床に低い段を付けて白い貝殻を盛り、その上に大小の土器がたくさん置かれる( 図ー199)。これをガラス越しではなく直に見下ろす。かがみ込めば横から見ることもできる。もう少し間を開けて置かれると、奥の土器などは重なりが少なくなるがこれ以上の贅沢は言えない。土器のほとんどが完全に近く復元されている。ここのは、出土した部分の割合も多いようだ。補修部分の色まで似せているので出土部分と補修部分の区別がはっきりしないせいかもしれない。手前に伏せたように置いてあるのは大きな壺の一部だろうか。壁際に並んだ大きめの深鉢はすべて口縁部が平らである。たくさんの小さい土器は様々なかたちだが口縁部に突起や波形を持つものは少ない。
 これは、たくみに丸くかたちづくられた小さな容器( 図ー200)。輪郭に余分なものはいっさいない。側面には木の葉状の文様が細い線で描かれていて、それは昔の図工の時間に描いたコンパス画に少し似ている。円弧を組み合わせた構成。中に生じたT字形は、もともとは三角の隙間だったのかもしれない。このように単純化される前にはどんな模様だったのだろうか。
 口縁に低い峰の連なる鉢( 図ー201)。浅く尖る底は丸くまとめられて小さな高台がつく。側面から底を経る放物線は口縁の起伏に呼応する。簡素なかたちの中の洗練。このかたちを身近に置いた人たちは、この心地よさを味わう。
 午後、高松中央Icを出て高松市に入る。港の近くに香川県立歴史博物館があるはず。平家物語歴史館とかいう看板はすぐ目に付くが、博物館の表示はなかなかない。その平家物語歴史館に寄って尋ねてようやく探し当てたのは地下駐車場のあるビルの中だった。この博物館には「縄文の森」というのがあったが土器はわずかだ。ここは弥生時代以後の展示館だった
 まだ陽は高いので屋島ドライブウェイというのを走ってみる。時間が遅いせいかほとんど車に出会わない。何箇所か見晴らしのいいところがあって、がけの上から対岸の丘や下の浜辺を見下ろす。西日を受けてすべてが明瞭に明るく輝く。上の駐車場ではどの店もすでに締めていた。
 五色台の宿へ向かう途中に上り坂のカーブで「歴史民俗資料館」の表示をちらりと見た。フロントで聞いてみると、ここから十分ほど走ったところにある大きな建物だという。
 
七日(木)
 五色台を坂出市側に降りて讃岐府中にある香川県埋蔵文化財センターを訪ねる。和風の白壁の塀を道路から片側斜めに折って門を付けている。広い展示室には壁面に沿って下から上までガラスケースをめぐらし、時代順に出土物が明るい照明の中に展示される。ここも縄文土器は少ないが丁寧な展示と説明になっている。
 出土した部分だけを接合したままの土器が置かれている。櫛の歯を引いたのだろうか、細い線が密に巾をもって刻まれる。胴の部分らしく、このままでもその丸味を十分にあらわしているがぼくには器の姿を想い描くことができない。下のカードには「注口土器(賀曽利BT式)」と示される。壁面には、「縄文土器の分布と移動」と題したパネルを掛けて関東以南の日本地図とともに説明文がある。「今から3,500年前頃、永井遺跡では、甕の口を分厚く作り、そこを中心に文様をつけた縄文土器を使っていました。永井遺跡の縄文土器の文様は、四国・中国地方から近畿地方の文様とほぼ共通しています。ところが、永井遺跡では、こうした土器に混じって九州地方や、関東地方の縄文土器が出土し、当時の盛んな地域間の交流や、文化の移動を物語っています。」とパネルでは説明する。善通寺市永井遺跡では、縄文時代後期の「編みもの」の一部も出土しているという。
 となりの弥生時代前期のところに珍しい土器がある( 図ー202)。この開いた口に見せる線は何だろうか。これは、壺の中に入れた液体や細かい穀物などを傾けて流し出すのに効果があるのかもしれない。そういうことを考えた人もいたと思うとおもしろい。もしそうなら、口の広がりの余分なところを取り除こうとする人はいなかったのだろうか。いや、穀物などを入れるときには、こぼさないためにやっぱり必要なのか。
 古墳時代のところで変わったかたちのものを見た。「須恵器 樽形はそう」とカードに示される。「はそう」というのが分からない。センターの人に来てもらって説明を聞くと「これは中に液体を入れて使ったものらしいですね。」という。なるほど、上に開いた口は液体を注ぐようにできている。くわしいことは分かっていないらしい。横に開いた小さな穴は初めから出土部分としてあったものだという。他にも須恵器について話を聞く。蓋のある浅い椀がいくつも置いてある。「これはろくろを使ったように見えますね。」と聞く。そのとおりで、このころから、今でいう「ろくろ」と同じものが使われたのだという。そうか、この古墳時代から、熟練した職人がやわらかい粘土で滑らかな形を大量につくり出していくことが始まったのだ。
 奈良時代のところに、素焼きの「かまど」が置かれている。太い円筒形の上を少し狭め、焚き口として前を大きく開けたものだ。上に素焼きの土器をのせて展示している。これは煮炊きをするのに都合のよい道具だと思う。縄文時代に何故これを作らなかったのだろう、と思って眺める。粘土で自在に形をつくり、意外なほど大きな容器を焼き上げていたあの人々が。粘土なら必要ないろいろなかたちのものができそうだが、何故か、あの時代には土器や土偶の他に工夫して成形された道具というものがあまりない。自分が知らないだけだろうか。
 車を走らせてラジオを聞いていると、四国に台風が上陸するだろうと予報している。
 
八日(金)雨
 テレビやラジオは朝から絶えず台風情報を繰り返し放送している。台風10号は今夕にも四国南部に上陸するだろうといっている。今日の予定は徳島県三加茂町の歴史資料館だ。台風は大型で暴風雨圏が広い。暴風警報がまもなく出る。資料館は閉館になるだろう。四国の山の中で台風に遭遇するよりも、早く高知に出てやり過ごした方がいいかもしれない。いろいろ考えた末、高知の共済会館に電話をして宿泊可能を確かめる。OKという返事ですぐ出発する。なるべく早く高知市に入ってしまう必要がある。三加茂町は比較的坂出市に近い。岡山に出ることにすれば四国から中国地方に渡る前に三加茂町に寄ることができる。
 高知会館には午後二時過ぎに着いた。三時にチェック・インできるだろうというのでロビーで待つ。表の電車通りはひどい吹き降りで通行人は傘を差すことがむずかしいようだ。
 夕方、台風は室戸岬付近に上陸したという。部屋の窓から見下ろす街は暴風の中という感じがしない。近くに樹木もなくて風で揺れるものが見あたらないせいだろう。暗くなって、遠くに救急車か消防車のサイレンが聞こえる。町の向こうの丘で赤く点滅する光がゆっくりと移動している。
 
九日(土)曇りのち晴れ
 朝、街は朝日を浴びている。台風は大阪湾に向かっている。食堂の外の庭はタイルがきれいに洗われて植物の緑が鮮やかだ(写真)。きのう泊まっていた先生たちが帰り支度に忙しい。
 高知県埋蔵文化財センターに着いて車を降りるとすぐ側で蝉がやかましく鳴いている。車の後ろに植えられてまだ数年の桜の木が何本かある。蝉はたくさん止まっているようで、五、六匹が一斉に鳴いているように聞こえる。これはクマゼミか(写真)。
 センターの入り口を入ると受付の机や参加者名簿などが用意されている。ここでは、今日の午後に「子ども考古学教室」が開かれるのだ。
 このセンターのホームページでは去年八月の企画展「土佐の先史文化交流」がまだ掲載されていて旧石器、縄文、弥生時代を取り上げていた。土佐は、四国の中でも縄文遺跡が多いところということで期待してきた。しかし、展示室では、八月の初めから企画展「弥生時代末の高知を考える」が開かれている。そのために、常設展示は取りやめになっている。縄文土器の展示はなかった。七月中に出発していたらよかったのだ。「弥生時代末」と焦点を絞っているからか、どの土器も似たような雰囲気に感じられる。一つだけ、具同中山遺跡群の中に壺の首に巻いたひもを正面で短いネクタイのように垂らしたのがある。多くの壺や甕がいったん口を絞ったあと大きく開いている。これは縄文にはあまりないかたちだ。米粒や粟粒を大量に流し込むときに都合がいいのかもしれない。写真撮影の許可を申し出たとき「縄文土器を見て回っている。」「ホームページを見た。」と話すと、去年の企画展は各地から借りて展示したものなので今はないとのこと、収蔵庫には土器片が少しありますが見ますか、という。「是非、見せてください。」と、さっそく収蔵庫の中に入れてもらう。収蔵庫に入って驚いた。スチールの頑丈な棚が人が通れるだけの間をあけてずっと向こうまで並んでいる。それが左右に何列もある。すべての棚に箱がぎっしり積み込まれている。「今日はこの担当者がいませんから、詳しいことはお話できませんが。」と、箱の一つを降ろす。中には縄文土器の、多分、口辺の一部が入っている。三角に尖ったところがこの土器の突起の一つなのだろう。他にも、盛り上がって輪のように穴の開いたかけらもある。「私は土器の全体の輪郭や文様の続いた様子がおもしろくて見て回っているんですが、こういうのを見ても全体がどうなのか分かりません。大変残念です。」と白状する。実際、これはほんの土器の一部で、ここに側面の輪郭線や胴のふくらみを偲ばせるものは見つからない。「きっと、これも出土品の整理が進めば足らないところを補修して復元されるんでしょう。」と聞く。これだけではむずかしいかもしれないという。
 収蔵庫を出て、調査報告書というものを見せてもらう。ロビーに出した机の上に書籍紹介というかたちで並べられている。薄い表紙に松ノ木遺跡、居徳遺跡群などと印刷された重く分厚い書物だ。どのページにも土器の細かい破片の写真が載っている。出土地点や番号が付けられたものもある。上下二段の大きな写真で「木胎漆器出土状態」と記された二枚がある。これはいつかカラー写真で見た覚えがある。
 高知県内の他の展示館について聞く。県立歴史民俗資料館は、きのう電話で確かめたところ、やっぱり企画展示のために常設展示を取りやめている。本山遺跡については、プラチナセンターというところが出土した縄文土器を保管している。見せてくれるかもしれないといって、そこの地図までコピーしてくださる。
 県立歴史民俗資料館も、ここから比較的近いので出かける。企画展は「あの世・妖怪・陰陽師―異界万華鏡―」。親子ずれも多く来ている。「カッパのおしりに穴が三つある」という説明を母親が読むのをじっと聞いていた小さい女の子がさっさとカッパの後ろへ回ってのぞき込み、「本当に三つある。」と、真顔で報告する。この企画展示は大人も興味を持って見ている。異様な世界のたくさんの要素を抱え込み、その雑多な素材を適当に並べているから、誰でも怖がりながらおもしろいと思うものが見つかるのだろうか。ここの受付でも県内の展示館について聞いてみる。各地の展示館が出しているパンフレットのファイルを見せてもらう。宿毛に博物館がある。宿毛遺跡の出土品が見られるかもしれない。先ほど聞いた本山町は三加茂町へ戻るコースに組み込む。すると、高知市から西回りのコースをすぐ始めることができる。今日中に宿毛は無理だから宿を探す。
 
十日(日)晴れ
 午前八時、井の岬の宿を出る。十時、足摺岬に着く。駐車場が少ないので車を止めるのに手間どる。今日は日曜日だった。案内所で地図をもらい灯台へ向かう。椿の木のトンネル。ここには早くから灯台が設けられて、「近代的」な今の灯台は二代目だという。あまり風がない。草いきれで蒸し暑い。雑草の茂る中に石のベンチがある。そこに百合の花(写真)。早めに車に戻る。十二時、宿毛市に入る。
 歴史館は宿毛文教センターの中にあるという。入っていくと、まずそこは図書館だった。聞くと、「向こうの出口からいったん出ていただいて、エレベーターで三階へ行ってください。」と教えられる。エレベーターの手前に歴史館の入館券販売機がある。展示室はかなり暗いが。展示物には明るい照明を当てている。宿毛には松田川流域に縄文早期から前期に掛けての遺跡と中期から後期の貝塚があるらしい。展示されている土器はすべて小さな一部分で、かたち全体が復元されたものは置いていない。縄文後期の擦り消し文様の一部、ロート状の穴の一部などがある。どうしてこんなかけらばかりなのだろうか。これらの器の大部分はどこにいってしまったのだろう。目を引いたのは、中期の?状耳飾り。オレンジがかった半透明の石だ。何という石だろうか。これを当時の人が身に着けたとき、昼間の明るい戸外や夜のたき火の盛んな炎などを透かして、耳の下でオレンジ色の光が揺れていただろう。土器について話を聞こうと思ったけれども、今日は日曜日でそういう人は不在だった。
 展示室の中央には、宿毛の城下町が復元される。白壁に囲まれたミニチュアの家々が屋根の瓦まで精巧に作られている。人など動くものは見あたらない。この地は、江戸時代に主家の土佐藩と共に開明に努め、人を育てて明治を迎える。官軍として戊辰戦争に加わり維新政府成立の際に多くの人材を送ったという。展示室の外に「ニホンカワウソ」の剥製がある。思っていたより大きい。太い流木の上で少し口を開けて空を見上げている。昭和四十五年に中筋川で見つかったもの。現在では全く姿を見ないという。
 昼食をとりながらこれからの予定を考える。まだ午後一時を過ぎたところ。今日は日曜日でどこへ行っても人出が多い。さっさと愛媛県に入った方がいいのかもしれない。
 
十一日(月)晴れのち曇りのち雨
 朝、八時に松山を出て四国カルスト台地へ向かう。カルスト台地はすでに南の高知県との境の峰で、四国の中央というよりどちらかというと太平洋側に寄っている。地図で見ると、四国の四つの県は高知県が太平洋側のほとんどを占めて、徳島、香川、愛媛の各県が三方からそれを囲んでいる。高知県(土佐藩)がこれだけの海岸線を得たのは何故だろうか。肥沃な平野が少ないせいか。
  国道33号線は久万町と美川村で川沿いを走る。久万川と下流の面河(おもご)川だ。面河川は高知県に入ると本流の仁淀川となって東に流れ、土佐市で太平洋に流れ出る。美川村で右手に川を見て走っているとき、向こう岸に縄文遺跡の表示を見た。「上黒岩遺跡」。名前はいろいろなところで出てきて知っていたけれども、今日の走って行く途中にあるとは思っていなかった。ちょうど橋があって向こう側へ渡る。すでに来訪者が二人、いま建物から出てくる。二人は金網を張って囲んだ岩の下をのぞきに行く。建物の入り口に甚兵衛を着たおじさんが出てきて外をを見ている。岩の前に車を止め、車から降りて金網の中を見に行く。これが岩陰遺跡なんだ。見たところ、中は岩が少し出っ張っているだけで特に何かがあるわけではない。
 建物の壁面には説明文の大きなパネルが取り付けてある。原稿用紙で数枚分にもなりそうな文章だ。昭和三十六年にここで「田なおし」の土を取っていた父と子が遺物の一部を発見した。昭和四十五年までの五回にわたる調査から、表層から第三層までに縄文早期の押型文土器片、前期の土器片や骨角牙器、装身具類、板状の石の下から石鏃と共に成年女性の人骨、第六層から弓矢発明初期かと思われる小型石鏃、第九層から草創期の細隆起線文土器、有舌尖頭器、川石に線描した女性像、奥壁近くの早期土器出土層から乳幼児を含む成人までの男女人骨十一体、二次埋葬された成人男子骨5体中に鹿の骨製の槍先が刺さった腰部の骨などが出土した。放射性炭素測定により、第九層は12,000年、第6層は10,000年、第四層は8,000年前とされた。五、七、八層を除き弥生時代までここに人が住んでいた、という。見たところごく狭い範囲の岩陰に過ぎない場所から、このように続々と遺物が出土したのだ。
 展示館の入り口を入ると、部屋のコーナーを囲った受付に甚兵衛のおじさんがいる。建物内部の壁面や天井はコンクリートが露出したままだが頑丈な造りだ。川側に窓が並び、天井からしゃれた丸い照明がいくつも下がっている。受付の机にはむかしからの黒い電話機、分厚い来訪者記名簿、記念スタンプのための大きなゴム印が三つ、シャチハタのスタンプ台とともに置いてある。現在は建物も内部の展示設備もすっかり古びているがこれができた当初は、おそらく近隣にはない立派な施設だったにちがいない。
 右手の壁際に低いガラスケースを据え付けて中に大人の人骨が一体分横たわる。足元に「楕円押型文土器」と表示して土器片が二つ。両方とも比較的大きいので容器の側面らしいことが分かる。文様は全面ではっきりと浮き出ている。この容器のかけらはこれだけしか出なかったのだろうか。何世代も続いて住んでいるうちにたくさんの土器が使われて、その大部分は壊れてどこかに捨てられる。あるとき、たまたまかけらの一部が何かの陰になってこの場所に残る。土器のかけらは隠れたまま長い時間を過ごして、埃や土がその上を覆っていく。
 ガラスケースの上のパネルに、表層から第十一層までの断面図がある。それに発掘当時に撮影したらしい土の層のカラー写真が大きく添えられる。ずっと側で話をしてくれている甚兵衛のおじさんが第七層や第八層を指さして「ここからは何にも出ません。土石流か何かの被害があって、この間は人が住めなかったんです。」という。ケースの中の人骨は頭蓋骨と下あごの骨、脊柱骨、両手両足の骨だ。肋骨と腰骨はここにはない。となりに並ぶガラスケースには別の腰骨が置かれる。鹿の骨で作った槍先が刺さったまま出土したものという。「これは後ろから刺さっているんです。ですから、私はこれは事故だと思いますよ。争って刺されたのなら前から刺さりますから。」とおじさんはいう。「このころはまだ槍を使っていたんです。弓の鏃はもっと小さいものですから。」「何千年も前の人の骨が腐りもしないでこんなにきちんと残っていたんですね。」「この辺の地質には石灰分があって骨が腐らないんです。この前を流れている川のずっと上流にカルストといってるところがあります。石灰岩がいっぱい出ていますよ。この辺もその続きで石灰分が多い土地なんです。」
 女神像だという石は河原の平たい小石だ。実物の細かい線はぼくの目ではよく分からない。拡大した写真や図を見ると髪の毛や乳房、腰などの表し方はほとんど記号のようで、実際にそれらを表しているとしたら極めて象徴的な表現だ。前もって説明がなかったらそんな風には見えないかもしれない。「当時はこれが外国でも評判になったそうですよ。」
 奥の壁面に「20000年〜8000年前の瀬戸内海」と題した図と説明文のパネルが掛けられている。「中国地方と四国地方の瀬戸内海が現在のような内海になったのは約8000年前のころである。大昔、日本にナウマン象がたくさん住んでいたころは中国と四国の間の盆地で、そこここに湖があり、この周囲にもたくさんのナウマン象がいたらしい。…。10000年くらい前に西と東から海が入って来ました。最後まで四国と中国を陸橋でつないでいたのは、岡山県と香川県の間です。ここには約8000年前の人々が残したヤマトシジミ・チリメンカワニナなどの淡水産の貝が多い小貝塚があります。」縄文時代のごく初めの頃、四国は本州の一部であり、人々は中国地方や多分近畿地方とも行き来していたらしい。そのような移動は、それ以後も頻繁に、瀬戸内海の多くの小島づたいに続いたのだろう。図の地図では、香川県の屋島と小豆島、岡山県の児島半島を含む部分が拡大表示される。このあたりに縄文早期押型文土器の出土した貝塚があるという。
 館内には白黒の写真がたくさん掛けられている。残念ながら、窓に近い明るいところの写真は変色している。発掘現場で何人かがかがみ込んでいるらしい写真はほとんど白くなっている。窓側のガラスケースの上にもB4大の写真がずらりと並んでいる。その中に、底の尖った押型文土器を大きく撮した写真がある。容器の部分ではなく、全体を復元したものだ。「こういうのも出たんですか。」と思わず聞く。そうです。ここで出たものです。写真のは複製として復元されたもので別の博物館にあるという。あ、あれですか。あちらにあるケースの中の。そうか、この写真はここの展示館の人骨のケースに破片のままで入っているのを復元したものなのだ。もう一度戻ってケースの中をのぞき込む。上下二つに分かれた破片は、つなぐと口辺部から尖った底までの容器の側面をほぼ見せることになる。これだけあれば、容器全体を復元しようと思えばできるわけだ。レプリカでもいいから、ここに復元した土器があればいいのにと思う。
 「縄文時代についていろいろなことをずいぶん詳しいんですね。」とおじさんに聞く。「独学ですよ。好きなもんですから。縄文と聞けばすぐに飛んでいくんです。テレビで放送がありましたでしょう、NHKで。あれも全部見ましたよ。」「ああ、―日本人はるかな旅―、五回シリーズの。僕も見ました。あれはおもしろかったですね。この辺の博物館なんかよく行かれるんですか。」「そんなにいろいろ行ってません。宇和町の歴史博物館には行きました。ちょっと高台になったところにあるんです。大きな博物館で、ここの黒岩遺跡については一番初めのところで展示してますよ。」
 外に出て、金網で囲ったのところへおじさんと一緒に見に行く。「私が子供の頃はここで遊んでましたよ。そんなところだとも知らずに。発掘したあとしばらくは地層の違いもよく見えていてわかりやすかったんですが、今はもう何のことだか分かりません。」「ああ、ここは光が入ってコケも生えるから様子も変わってしまうんでしょうね。」「この先に行くともう一つ観るものがありますよ。昔の住宅で、旧山中家住宅というのが。」と上流の川縁を指さす。「譲り受けてあそこに移築したんです。国の重要文化財に指定されています。同じようなのは、この先の惣川というところにも土井家住宅というのがあります。宇和町へ出る途中なんですが。」と他の例も教えてくれる。さっそく車から地図を出して調べる。惣川は四国カルストから西へ出る道の途中にある。東宇和郡野村町の舟戸川沿いだ。返り道は宇和町へ出るとおじさんのいう博物館へも寄ることができるかもしれない。まだ昼前だし。おじさんに礼を言ってすぐ出発する。国道へ戻ると流れの曲がった対岸に今聞いたばかりの山中家住宅が見えてくる。
 しかし、ぼくの急な思いつきはすぐ怪しくなる。川沿いの山道はたびたび工事中の片側通行になり、とうとう時間を区切った通行止めに出会ってしまう。十二時までは先に進めないという。すでに止められていた車の人は外に出てあたりをぶらぶら歩いている。十二時まであと十五分ほどだ。前の方のマツダのロードスターは、たしか上黒岩遺跡へ寄るときまで僕の前を走っていた車だ。炎天下に一時間以上も待っているのだ。
 国道440号線に入って道幅は一層狭くなり、対向車に出会うたびにどちらかが道を譲ることになる。道は茂みの中を縫うように進む。車同士が出会う場合は相手の車を早めに見つけてはどちらが譲ると一番いいかを判断しなければならない。前を行く車から離れすぎると、譲ってくれる相手によけい待たせることになる。こんな道でも大きなバスが通る。少し雲が出てきて、やがて山かげでなくても日が差さなくなる。
 四国カルストは国ざかいの地芳峠から六キロほど東に延びている。尾根伝いに進むと、道の両側に大きく波うつ草原が広がる。草原のあちこちに白い石灰岩が露出する。ここでは、秋吉台とは違って牛が放牧されている。そのために道に沿って有刺鉄線が続いている。ときどき赤い屋根の建物がある。牛舎か。風力発電の細い羽根がゆっくりと回る。車を降りる。風が出てきた。牛舎のある丘に赤い牛の群れ。遠くの丘の上で黒い牛が二頭草を食む。そのうちに一頭がいきなりもう一頭の腰の上に覆い被さる。車から降りて見ていたおばさんがそれを指さしながら振り向いて大笑い。
 天狗高原というところまで来ると国民宿舎があって四国カルストの道は終わる。昼食をとりながら午後の予定を考える。すでに午後一時を過ぎた。おじさんの云っていた博物館を見るのはとても無理だ。それにしても来た道を帰るのは気が進まない。西の宇和町に出たら大洲から自動車道に入ることができる。
 尾根は霧が濃くなった。天気は下り坂なのかもしれない。地芳峠からそのまま西へ向かう。こちらの道は対向車がほとんどない。ときどき未舗装の部分がある。道は何度か山深いところを過ぎて、ようやくガードレールのある舗装路に出る。山側の崖下に白い花(写真)。背たけは一メートルほど。ここはきれいに除草してあるから、この花はその際にことさら残されたのだ。三時過ぎに土井家住宅に着いた。が、今日は休みの日だった。夏休みでも休館日なのだ。仕方なく茅葺きの家を外から眺める。屋根の厚い大きくどっしりした建物。横へ回ると軒下に古い道具類が置かれている。木製の歯車が二つ。風呂桶ほどの樽。軒下から目の粗い竹篭がつるされている。その浅い篭の片側が背もたれのように斜めに伸びている。赤ん坊を座らせておくのだろうか。厚い板でできた大きな箱がある。その脇口に筆で黒々と書かれた文字「大正四卯年壹月吉日」。
 街道にもどって走っていると雨がぽつぽつしだした。地図を見ると、野村町は非常に細長い町だ。四国カルストの近くから舟戸川と宇和川の長く伸びる谷あいのほとんどをカバーしている。国ざかいの峠から宇和の街に至る街道すじの集落がそのまま野村町という町になったようだ。国道197号線に入ると長いトンネルを通る。雨が激しい降り方になる。午後四時半、大洲市に入る。
 
十二日(火) くもり
 県立歴史文化博物館は、国道から少し上がった丘の上にある。旧街道の町並みを過ぎて新しい広い道路を行くと、おそらく建設されて間もない一群の建物がある。まず歴史展示室1に入ると、そこは後期旧石器時代の展示で始まる。ここにも2万年前の四国地方がパネルの地図で示される。今の瀬戸内海はすべて陸地であり、九州・四国・紀伊の太平洋岸はそれぞれつながって沖合に退いている。縄文時代に入る前まで、九州も四国も完全に本州の内部に含まれていたのだ。次いで復元された情景「上黒岩遺跡に住む人々 縄文時代草創期」。岩陰近くの地面で作業をする女二人、男一人。平たい石の前に座った女が木の実を加工している。それを側に来た犬がのぞき込む。しゃがんだ女の前に尖底土器が三つ、それぞれ石を組んだ炉の中に立つ。何かを煮ている。男も炉の上にけものの脚を置いている。獲物の鹿を焼いているところか。「上黒岩遺跡出土の線刻礫(複製)」が展示される。他に県内各地の縄文遺跡出土土器が数点ある。いずれもよくできた複製だ。そのなかに口の広い押型文尖底土器(城川町穴神洞遺跡)がある。深鉢にしては浅いといえるほど口は広がっていて、そこに押型文が見られる。この土器の主な出土部分は口辺の一部だったのか。
 歴史展示室は四番まであって時代順の展示は立体的だ。実物か、そうでなければ原寸大や縮小の複製を展示している。展示がすべての面で新しいせいかいろいろな工夫がさらに新鮮で魅力的だ。何故か分からないけれども、下の階にも考古展示室がある。ここで弥生時代の器に洗練されたかたちを見た( 図ー203)。首の上で口が広がって胴のふくらんだ、この時代によく見る壺だ。けれども、その姿はこころよい線を大事にする繊細な感性を見せている。首に細かく巻かれたひもは器の姿を一段とひきしめる。
 受付にもどって写真撮影について聞いてみた。特に必要な場合は許可することがあるので担当者を呼びますという。わざわざ歴史展示室1まで出てきてくれた考古担当の方は、複製された土器の場合、元の資料を所持する者の許可がないと当方では許可できないという。こんなに精密に複製されているのだから、なるほどと思う。複製を作る専門の業者があること、作るにはなかなかお金がかかることなどいろいろ話を聞く。考古資料室の弥生土器は担当が別の者なのでその者に会っていただくといいでしょう。今はもう昼食時間ですから一時過ぎがいいです、という。館内で食事をしたあと考古資料室を担当する人に図書室で会う。あの弥生土器は県教委の所蔵なので、スケッチの掲載許可を申し出ることにして撮影許可申請書を書く。ここで図録「平成十三年度企画展 西四国の縄文文化」を見せてもらう。カラーの写真がたくさん載っていて御荘町で出土した縄文後期の土器を見つける。これから南へ引き返すには日程に無理がある。これはまたこの次ぎに来たときまでとっておこうと思う。かれは親切にもこの写真をコピーしてくれる( 図1、2 )(図については、→後掲メモ2)。
 愛媛県には他にも歴史民俗資料館があるというので松山市に向かう。市の中心部に入ると道の両側に提灯などの飾り付けをした屋台が並んでいる。今は夏祭りの最中だ。半天を着て頭にはちまきをした男たちが両手で荷物を運んだり、仕切のロープを引いたりしている。屋台は夜店の準備で忙しい。教えられたように県庁の西駐車場に車を入れて目的の建物を探す。ここは昔のお城の一部のようで、歩いているうちにお堀の堤に出た。左手に市電が走り、右手に図書館がある。時間があればぶらぶら歩くにはいい。どこかに堤を降りるところがあるかと先に行くが降りるところはない。後戻りして電車道から堤の内側に入る。とりあえず図書館に入って尋ねる。資料館はこの五階の教育文化会館の中にあるという。
 五階では、初めの部屋で「ちょっと昔のあそび」という展示会をやっている。入り口近くの机では実際に遊ぶことができるようになっていて、男の人が子ども二人の世話を焼いている。剣玉やブリキのおもちゃなどいろいろある。民俗展示室では、昔の道具が職業別によく整理して展示される。藁草履をなう道具を復元して作業途中の様子を展示している。男が二人、その前で話をしている。かなり年配の男が「これは違うなあ。縄を掛けるところが二本では違う。私もこれを作ったが縄は三本掛けた。確かに。」「ほう。三本掛けるのもあったんでしょうか。」「いや、三本ですよ。」と、彼は譲らない。考古展示室には、ほぼ完全に復元された縄文晩期の土器が一点ある( 図ー206)。この土器は、内側も含めて全体が黒っぽく煤けている。この右上を目指す(あるいは右下に放たれる)激しい線はなんだろうか。上の口辺部には二本線が交差したものと二列の穴がある。これらはたがいにばらばらで、どこかが伸びたり入り込んだりしてつながる様子はまったくない。何かのシンボルを組み合わせたか、ただのいたずらがきか。右側からのぞくと、この場面ははもう一場面つづく。全体では三つか四つあるのかもしれない。
 他に、ここにも御荘町平城貝塚出土の縄文後期土器片がある( 図ー207)。この大きい方の土器片の口辺部は、宇和町の博物館で見た図録の写真と似ている。同じ地方の同じ時期のものなのだ。どちらも擦り消し縄文で特徴のある突起の真下に文様がある。全体もあれにちかいすがたをしているのか。三つとも口辺部の一部だがその様子から見て別々の容器らしい。下の二つの張り出しはトンネル状だが取っ手に使うほど大きくは出ていない。三つの容器はこれだけの土器片では復元できなかったようだ。
 事務室で写真撮影の許可を願い出てカメラに納める。天井の蛍光灯の明かりで背の低いガラスケースの中がやや見にくい。午後五時になったので事務室に顔を出して部屋を出る。出口のところで縄草履造りについて話し相手になっていた男の人と少し話を交わす。/土器に興味がおありなんですか。/ええ、特に縄文時代の土器がおもしろいですね。/そうですか。/あなたはこちらの方ですか。/いいえ、手伝いでちょいちょい来ているんです。県外から来られたんですか。/ええ、愛知県です。/ほう、それはまた遠くから。他にもいろいろ見られて。/ええ。きのうは宇和町の博物館へ行きました。こちらの松山には市の博物館もあるそうですね。/ああ、ありますね。何か事務室にあるかもしれません。…これです。/わざわざありがとうございます。これで明日の予定ができました。/いろいろなところへ出かけられて好きなことができていいですね。見たり写真を写したりして、いずれ本でも出されるんですか。/いいえ。自分のホームページに載せたりしていますよ。/ほう。そうですか。私はパソコンがだめなんですよ。できるといいんですけどね。うらやましいですね。/でも、やってみればそんなにむずかしいものじゃありませんよ。それに、そういう方は他のことでちゃんとやっとられるから。/そうですかね。/そうですよ。パソコンについては私たちはちょうど境目のようですね。四十代五十代の人たちでも、もう、みんなごく自然に使っているようですから。/本当にねえ。奥さんも一緒に出かけられないんですか。/出かけたこともありますよ。なかなか都合もつかなくて。それに、興味関心が同じでないと一緒にはなかなか。/ああ、それはね、あなたがそういう風に仕込まなかったからですよ。/なるほど。
 
 十三日(水)くもりのち雨
 松山市考古館の玄関前に蓮の花が一輪、咲いている(写真)。博物館は大きな池を見下ろす高台に建てられていて、蓮は玄関先に置かれた箱に植えられている。曇り陽のやわらかい光の中で、花は今朝新しく咲いたばかりのように見える。側に立てた台に説明文のパネルが乗っている。これは中国から送られて来た蓮だ。
 展示室に入ると、大きく囲った中に木材を組んだ、遺跡の一部分らしい場面がそのまま展示される。「古照遺跡」から出土した、古墳時代前期の灌漑用の堰の跡だという。
 広くガラスをはめた展示ケースの中は「伊予のあけぼの」で始まる。旧石器時代のナイフ型石器、有舌尖頭器。縄文時代後期の土器片が並ぶ。口辺の文様がはっきり分かる。全体を復元するには、これでは足らないのだろうか。大渕遺跡で出土した彩文土器。丸い胴のすぐうえに小さい口の開いた土器。彩文とは、胴部の赤い色と口の下の肩とでもいうところに何箇所か垂れる黒いぼんやりとした線だ。「大陸文化の伝播」の説明文。「狩猟・採集生活を基本とした縄文時代晩期後半に、大陸から水田、木製農具、鉄器、大陸系磨製石器など完成された稲作農耕技術が北部九州に伝わってきました。農耕生活の開始は、現代に至る日本歴史の基礎を築くうえで大きな変革の第一歩となりました。この新しい大陸文化の波は、近年の大渕遺跡の調査によって、いち早く松山平野に到達したことが確実になり、その後、急速に農耕社会に転換していくものと考えられます。」彩文土器は国内に見られず、よく似たものは朝鮮半島の慶尚南道泗川郡の遺跡から出土しているという。
 このケースの左端壁面と下の台に縄文時代晩期の土器が展示されている( 図ー208)。ほとんどの土器は、尖った底の部分に小さな平底が申し訳のようについている。これでは床に安全に立てておくというわけにはいかない。どの容器も口を大きく開いて、中身の出し入れがしやすいかたちだ。口縁部は平らで側面のひかえめな文様に謎めいて意味ありげなものは見られない。下の台には大きめの深鉢や壺が置いてある。中央のとりわけ大きな深鉢は口辺に三本の直線を斜めに交差させた図が並ぶ。これはよくおこなわれることなのだ。そばに立てられた説明板に「深鉢は安定性がないので半分ぐらい地面に埋めて使う。」と図を添えて示す。炉の中の熾きや組まれた薪はいずれ燃えてしまうから鉢の支えにならないか。それにしても鉢の埋められた部分はあまり熱が伝わらないように思う。炉の中に手頃な石を3つ置いて鉢を支えたら少し埋めるだけ安定し熱も伝わるかもしれない。遺跡の炉にそういう気配はないのだろうか。
 胴に荒い線が入った土器がある( 図ー209)。表面のこの処理は模様を付けたというより独特の粗い肌触り感を出したものだ。これとは対照的に上半分に凹凸ではなく何かを刻んだり押しつけたりした様子もない。図では展示用のひもが邪魔をしているが上下の境目ははっきりと区別される。このコーナーの展示ではこの土器だけが口辺に曲線を見せる。四つの峰が大きく波うつこの曲線は胴の輪郭線とよく調和する。このなかでは多少とも縄文らしい姿だ。
 たいへんすっきりとした輪郭線を見せる深鉢( 図ー210)。図は出土した部分だけを目立たせて描く。これだけの土器推できる資料から復元されたのだ。目に見える限りでは、模様は二段に巻かれた刻み目のある帯だけだ。 
 玄関に出ると数人が蓮の花を取り囲んでいる。これはこの箱の中で育てたんですね。ええ、そうです。ですからこんなふうに小さいんですよ。本当は花も葉ももっと大きくなるはずです。
 松山自動車道を伊予西条Icで出る。ここから、高知県本山町に向かう。国道194号線に入る手前で西条市考古歴史館を見つける。急な坂路をどんどん走りあがると三階建ての建物がある。高い屋根は古代のかやぶき屋根の形だ。館内の展示説明によるとこの高台に続いて弥生時代後期の集落遺跡があるという。しかし、ベランダから見下ろすと西条の平野ははるか下の方に見える。向こうにはすぐ瀬戸内海が広がっている。眼下の平地は十分稲作に適しているが、集落がこんなに高い位置にあるのは何故か。展示はすべて弥生時代以後の内容となっている。
 194号線に入って谷川沿いの山間を進むと真っ直ぐな長いトンネルをくぐる。地図によると寒風山トンネルといって、ここで県境を越える。さらに東に進んでダム湖畔を過ぎると本山町に入る。この行程だけで二時間を要する。
 プラチナセンターは町の公共施設らしい。事務室で来意を告げると、男性が出てきて、ちょうど今大学から土器を調べに来ている人がいるからと二階に案内される。部屋では女性が一人土器片を観察してノートを取っている。じゃまをしてはいけないので別の場所で見せてもらうことにする。彼は奥から箱を出してきて土器片をテーブルの上に出してくれる( 図ー211)。ここへ子どもたちが勉強に来ると、いつもこうして出して見せるのだという。これは深鉢の一部だろう。丸みのある胴につづいてやや広がる口辺。その内と外から引き出されたように輪が乗る。胴部の文様は擦り消し縄文で区別されているように見える。曲がりくねる線は深くはっきりと刻まれる。途切れた線の行き先はいろいろと想像できる。そんなことを話していると、彼は土器全体を復元したものもあるといって出してきてくれる( 図ー212)。ややすぼめた口の縁は、細かく欠けているが上に向けて膨らませたかたちはよくまとまっている。側面の線で囲まれた素朴な文様は、ほぼ同じかたちで四回繰り返される。この線を刻んだ男(女)は、代々伝えられたかたちをただまねただけなのか、それとも、この単純なかたちに込められた意味を知っていて何事かを思い、何事かを感じながらへら先を進めていたのかと土器の周囲、上下を見ながら思う。
 ふつうの博物館ではなかなか認められない観察の仕方ができました、と礼を言ってセンターを出る。すぐ向かいに大原富枝文学館の表示がある。まだ四時少し前なのでもう一度車を入れる。白壁のこざっぱりとした建物。名前はいつか聞いたような気もするが、作品を読んだことはない。案内の女の人の話を聞いたり展示を見たりしているうちに気がついた。土佐についてのいろいろなホームページや宿毛の博物館で見た野中兼山に関連する話をこの人は書いている。江戸時代とはいえ、人間のどのような立場、意欲がこのような仕打ちをなしえるのかと不思議に思う。娘時代からのきめ細かい展示をゆっくり見る。出口で「婉という女、正妻」の文庫本を買う。「ビデオを映すから。」というので、それを見てら出る。高知自動車道に入ると雨が降り出した。
 
十四日(木)雨天
 三加茂町の歴史民俗資料館では、昭和四十年代の遺跡発見による出土資料が展示される。説明パネルによると、いくつかの岩陰遺跡があって、縄文早期から後期まで長期間にわたる居住痕跡が出ているという。吉野川の支流に沿った山の中だ。土器はすべて土器片のままだ。徳島県埋蔵文化財センターに復元して展示されていた三加茂町出土土器も実際に出土した部分は少なかった。「なぜ部分的な土器片しか出ないのか」という謎がある。この地形では、弥生時代になって農耕によって破壊されたということではない。岩の上だから、順に埋まって保存されていくということがないのだろうか。焼失した建物跡が出土したという。交叉した部材が炭になっている。その様子をそのまま箱に入れて置いてある。ずいぶん前からこうして置いてあるもののようだ。
 
 雨の降る山間の道を坂出市に向かう。
 午後、もう一度五色台に舞い戻った。今回は、坂出Icから海岸沿いに半島を回り高松市に入る。瀬戸内海歴史民俗資料館はいくつかに分かれた大きな建物だ。今日は雨が降っているので人は傘を差して建物の間を移動する。ホールのような大きな部屋に実物の昔の漁船や漁具が展示される。縄文土器を探してどんどん通り過ぎる。ようやく縄文土器を三点見つける。早速受付に戻って写真撮影の許可を得る。親切に対応してくれた若い人は、「今日は、たまたま縄文時代を担当している者が来ていませんが。」と現場に付き添ってくれる。
 
 ( 図ー213)。内も外もなめらかな曲面を丹念にこしらえた六つの頂点のある浅い皿。これ似た皿は各地でよく見る。縄文の器の基本的なかたちの一つだ。こちらでよくある丸底は、器の置き場所と関係があるのかもしれない。平らな床や台の上に置くものならば底に高台のようなものをつけるだろう。たいていの場合にこの器は凹凸のある地面、数個の石の上、砂の上などに置かれたのか。
 ( 図ー214)。前面の一部しかないので、とぎれた文様の続きが見られずもどかしい。曲線の重なりは渦のようでもあり流れのようでもある。上の方の線は明らかに折り返して隣にかぶさる。このあたりでは珍しく躍動的な図柄が側面全体に続いているのかもしれない。
 ( 図ー215)。器のかたちそのものは実用的な広口鍋といったところだ。この大きさなら、たとえば両手で持って他の器の上に傾けるなど想像される。文様は、側面を巻く細い帯からつぎつぎに出る蔓の巻きひげのような図柄が描かれていたようだ。
 ほかにも、企画展示中の「架橋の島々の文化財」の部屋があって、そこにも縄文土器が展示されていた。これらの土器は、実際に出土した部分がほんの一部しかないものもあるが、それでも大部分を補って完全な形に復元している。
 ( 図ー216)。これはやや大きめの深い器だ。腰の細くなるところまで入れてもかなりの容量だろう。少し反って開いた口辺には緩やかな峰が四つか五つある。このわずかな高まりはほとんど痕跡のようだ。かつてはもっと高い峰や張り出しが器の上を飾っていたのかもしれない。
 
 吹き降りの雨の中、瀬戸内海の海上を岡山県に渡る。橋の上では、絶えず強い風が吹き、車がひどく脇に流されて驚く。
 
十五日(金)晴れ、ときどき曇り
 岡山市埋蔵文化財センターを訪れる。幹線道路から脇道に入るとすぐ広い敷地に墓地があって、公園のように整備された中に文化財センターの建物もある。墓地には、お供えの花を持った墓参りの家族連れがたくさん来ている。今はちょうどお盆だから。センターの建物はまだ新しくできたばかりのようで、入り口のパネルに「(発掘された文化財を)これからは順次整備されたものから展示して見ていただくことができます。」と書いて意欲的である。展示室に入ると、最初にこの埋蔵文化財センターの活動を説明するコーナーがある。
 「ようこそ展示室へ・最初に展示室の紹介をしておきましょう。ここで岡山市の遺跡の勉強をしていってください。1 発掘作業の流れ、2 立体模型で遊ぼう(遺跡の場所)、3 企画、速報展示、4 常設展示、5 さわってみよう。本物の感触や重さを確かめましょう。さわると昔の人の気持ちが理解できるかも。」この下に、子どもたちを誘う文章と平面図が添えられる。次いで、活動内容を示すパネルが「掘る→ 探す→ 記録する→ 洗いとマーキング→ 復元と実測→ 展示」と続く。これらをそれぞれ子ども向きの絵と説明、カラー写真で表現している。考古学に少し興味のある子どもは熱心に見ていくにちがいない。少なくとも、そのようにもっていきたいという熱意がこのパネルから伝わってくる。
 奥の展示ケースに完全に復元された晩期の浅鉢がある( 図ー217)。「これは文様が全くないみたいですね」と、ちょうど部屋に入ってきたセンターの女性に聞く。彼女は「そうかな」という表情で、すぐ脇からガラスの内側に入り両手に持って出てくる。確かに文様は外側にも内側にもないように見える。「このあたりでは、こういうのはふつうにあるんでしょうか。」と聞くと、「館長がおりますから。少しお待ちください。」といって事務室の方へ戻る。すぐ、おひげの館長さんが出てきていろいろお話を聞く。「このあたりの縄文晩期には文様が控えめになる土器もある。」「縄文土器が西日本に少ない理由はいろいろ考えられる。」「弥生時代に移り変わっていく場合に見られる地域差。」「移り変わる文化には必ずその前段階とでもいうものが醸成されている。」など。県内の展示館では、倉敷の博物館に縄文土器がたくさんあると聞く。
 すぐ隣に続いて弥生時代の土器が並ぶ。前期の土器( 図ー218)。この口は讃岐府中の香川県埋蔵文化財センターで見た弥生土器( 図ー中央)と同じだ。この二つは、一方の線が二重になっていることと、外形では首のラインでやや異なる。前期に瀬戸内海を挟んで同じかたちが行われていたのだ。同じ使われ方をしていたにちがいない。隣の中期の土器にも似たものがある( 図ー219)。これは岡山の場合だけだろうか、かたちはより様式化されたものになっていく。この壺には、ある一定の明確な使用目的があったようだ。
 広くガラスをはめて内部を見せている照明の明るい部屋がある。中にはスチールの棚が並び、棚の所々に「弥生土器 (中期後半)」などと記したカードが置いてある。ここは収蔵室を兼ねているのだ。その「中期後半」のところに、出土しなかった部分を隙間のままにした土器。リング状に重なる水平な線は上部にまとめられ、そのためかやや頭でっかちに見える。中程で大きくふくらんだ胴は十分な容積を感じさせる。
 午後、倉敷市に向かう。教わった場所は、大原美術館などのある観光名所だ。東から町に入っていくと、いつの間にか例の堀端の通りに出ていた。少し離れた市営駐車場に車を入れる。その建物がどこにあるのか分からない。にぎやかな堀端を西の方へ歩いていくと堀に橋が架けられていて三叉路になる。角の案内所で地図をもらう。この川向こうがちょうど倉敷考古館だ。大きな屋敷の隣に建てられた三階建てか、もしかすると四階建ての土蔵風の建物。二階に上がるとすぐ縄文時代の豊富な展示が始まる。展示室の内部は、木の床や柱、階段が鈍く光って、昔の木造校舎の資料室のようでもある。西日本の展示館でこれだけの縄文土器が並ぶのを目にするのは初めてだ。ただ、その量に対して部屋がやや狭い。空間を確保するためにいろいろな工夫がされている。パイプを方形に組んでガラスをはめ、その上にも土器が載せられる。ガラスのはまった戸棚の中には土器が隙間なく並んで収蔵される。部屋の中央と格子をはめた窓の下には、斜めにガラスの蓋をした展示ケースが並ぶ。その中には、数え切れないほどの石器や骨器、貝輪や土器片を一面に並べて、短い説明を記したカードをこまめに置いている。部屋全体に「貴重な古いもの」という雰囲気は十分にある。上の階には外国の考古・民俗に関する資料も収集展示される。何年前のことか、この考古館ができたときはすばらしい展示館だったにちがいない。
 戸棚の中の土器と外の台に載せられた土器は完全な形に復元されている。多くは、出土した部分と補った部分の区別がよく分からない。明かりが不足しているからか、見えない部分が多いからか、復元の仕方によるのか。台に置かれた土器の外形はよく似通っているものが多い。わずかにふくらんだ筒型の胴に、そのまま輪を載せたようなかたちで、その口辺は水平に近い。中には、口辺で四つの峰が開いたのが一点ある。その側面の文様の、この縦に貼られたテープ状のものは何だろう。他に浅鉢が一点、底が斜めにすぼまったものが一点ある。ガラス戸棚の中に「磨消縄文鉢(後期)」とカードに示した椀形の土器がある。この外形、文様は本山町で見たもの( 図ー 右)とほぼ同じだが、大きさはこちらがずっと小さい。この擦り消し文様はいかにも縄文のかたちだ。五つの筒型突起を載せた土器もある。これに似たかたちは東北でも見た( 図ー 左 )。
 ガラス蓋の中をのぞく。数多い土器片の文様には、作業の様子や使われた道具を想像するとおもしろいものがたくさんある。
 階段の降り口に近い壁面に詳細な地図が掛けてある。範囲には福山市から備前市にかけての瀬戸内海沿いをすべて含んでいる。縄文遺跡と縄文貝塚を示す青色の点が根気よく一面に記入されている。これはいつ頃の地図だろうか。海岸線の干拓は、ほぼ現在の様子を示している。山陽新幹線は、計画線かもしれないが線が認められる。山陽自動車道は載っていない。瀬戸中央自動車道は倉敷から鷲羽山まで線が認められる。これも計画線かもしれない。自動車道が作られたとき、当然、遺跡の青印のいくつかに重なっただろう。倉敷Icや玉島Icのあたりにも青い印がある。瀬戸内海に架けられた自動車道や四国の自動車道のように建設予定地で新しいたくさんの遺跡を見つけているのかもしれない。
 市営駐車場へ向かう途中の喫茶店で休憩をとる。他の客は男が一人だ。彼はカウンターにいる男と昨日の雨について話している。そして、もしかするともう一雨来るかもしれないという。そういえば、空はまた曇ってきている。今、午後二時半。近くの総社市には県立吉備路郷土館がある。展示品には籾跡のついた縄文土器があるという。さらに北へ向かうと鏡野町に歴史資料館がある。ここには縄文時代早期の住居跡出土品があるが、そこまではかなり距離があって無理だろう。吉備路郷土館なら時間は十分にある。
 しかし、行ってみるとこの郷土館は事前によく調べてなかったせいで近寄ることができなかった。何度か近くを通り過ぎたのだけれども車が入ることのできる道はない。だいぶ離れた田んぼの中の広い駐車場で看板の地図を見る。吉備路を歩くコースというのがある。どうやら郷土館へはここから歩いて行くようになっているのだ。探し回るために時間を使ってしまったので、今回はあきらめる。
 
一六日(土)晴れ
 鏡野町の役場は、津山盆地の西に続く田園地帯にある。吉井川から分かれた香々美川の堤に上がると、川向こうに庁舎が見えてくる。歴史資料館の場所は分からないので、ナビに頼って役場までは来たが今日は土曜日だった。山間の町役場としては大きく立派な建物だ。正面玄関は閉まっているだろうと思ってドアを押したが開いていた。事務机の並んだ広い部屋の中に女性が二人いる。来意を告げると二人で顔を見合わせて、文化博物館のことでしょうか、以前の歴史資料館は別の建物に移っていて文化博物館なんですがという。そこはどう行けばいいのでしょう。彼女は振り返って窓の外を指さす。あの建物です、ペスタロッチ館というんです、今日も開いていますという。役場の南側に広い駐車場と建物が見えている。
 近づいてみると、これは「斬新な」デザインの建物だ。前庭に面した通路沿いにベンチのついたコンクリートの壁が立てられ、それが玄関まで長く続いていたりする。ペスタロッチ館というのは文化複合施設の名前らしい。この中には、博物館の他にホールや図書館がある。二階に上がると、入り口は開いていて向かい側の窓口で聞くと、そのままお入りくださいという。入ると正面の壁面に尖底土器が一つだけ架けられている( 図ー 394 )。室内が明るく自然な光なのでたいへん見やすい。出土部分がこんなに少なくても全体を復元できるのか。腰をかがめて覗きこむと正面ではかろうじて底の部分も出土している。両側面では、互いに離れた小片がまばらにはめられている。これらの小片をはめ込むとき、作業をする人は容器の上下の位置だけを推定したのだろうか。
 壁面のパネル。「竹田(縄文)遺跡 | 約8,000年前の縄文時代早期中葉の集落遺跡です。二重の杭列が楕円形に並ぶ住居跡六棟と多数の杭穴、炉跡が一か所見つかりました。しかし、六棟の住居が同時に存在したわけではありません。数人の小家族が一定期間ここで生活し、何度も住居を建てかえた跡です。 発見された遺物は、押型文土器・石鏃・皮はぎ・たたき石・すり石・石器の材料のサヌカイト・黒曜石などです。」
 下の透明なケースに「押型文土器片」というカードを添えて細かい土器片がいっぱいに並ぶ。土器を架けた壁面のまわりには、写真や説明文のパネルがある。縄文早期の竹田遺跡で出土した住居跡の写真では二列の杭穴が二重の楕円でめぐっている。中に主柱穴が二つあるという。別のパネルに早期の竪穴住居復元図の例が示される。細くしなやかな材を径二メートルの円形に何本も建てて、上で一点にまとめる。それを水平に何段も縄で止めていく。屋根の傾斜は丸味を帯びる。これなら、屋根を支える柱は特に必要としない。建てる手間も少ないかもしれない。内部を雨から守る屋根材がどんな風に載せられただろうか。「茅葺き」だとしたら、それは十分に機能するか。
 展示は、ここから弥生、古墳、有史時代と順に壁面をめぐる。入り口近くに学習コーナーがあって、書棚には火おこしの道具例や古人類の頭蓋骨レプリカも置いてある。
オーストラロピテクス・アフリカヌスが天井を見上げている。
 館内にはペスタロッチに関するコーナーというのがある。この町は、国際協力の道を開き子どもたちの教育を進めるためにスイスのイベルドン市と友好憲章を結んでいるという。イベルドン市は、ペスタロッチが十九世紀初頭に庶民の教育のための学校を開いた地だ。
 図書館では、子どもたちが女の人に見てもらって歌だか芝居だかの練習をしている。きょうは土曜日だからか外に出てもほとんど人通りがない。ここは町から少し離れているのか。
 神戸市埋蔵文化財センターへ向かう。だいぶ距離があるけれども時間は十分にある。目的地は神戸市の西のはずれで、明石に近い。山陽道まで国道179号線を走る。津山市内の吉井川を渡ったところで国道をそれてしまう。道がよく整備された市街地に入る。後戻りをして東に入ると城跡の堀端に出る。国道にもどると、これは53号線になっているが、やがて右の分かれ道で179号線にもどる。地図ではこの道を「出雲街道」と記している。山陽道三木小野Icを出た先で一車線の細い道になり渋滞。我慢ができなくて東にそれ、遠回りをする。住宅地の端が目的地なのだがそれらしいものが見つからない。センターに電話をかけて道を聞くが要領を得ない。こちらの居場所と相手から伝わる地名や方角とが結びつかない。多分、互いの思っている距離が違うのだ。しかたなく住宅地の中を走り回る。派出所を探すがない。小学校はあるが休みだ。「静かに」と大きな看板が注意する。広い道路を降りて行くとすぐに大きな建物が並ぶ市街地になる。警察署の表示を見て、その道を走り直す。ようやく署の駐車場に車を入れて建物の所在を聞くと、それはすぐ前の公園にあります、この隣が駐車場です、という。
 埋蔵文化財センターの建つ公園には馬の埴輪が立っている。ガラス張りの建物が芝生の中にある。その中に古墳の石室を移設している。
 展示室には、ふくらんだ胴に高く広く開いた口が載る土器( 図- 395 )。黒くすすけている。(図のように見るには画像ソフトで画面を明るくしなければならない。)上下のかたちのちがいが互いを際だたせている。作り手は、この口の開き方に十分な注意を払っているようだ。よく整理された簡潔な輪郭線は偶然にできたものではなく、作り手がそれを望んで作業をしたように見える。しかし、この部分のほとんどが出土後に復元されたものなら、別だ。容器としては実用的なものだ。十分な容量があるし、中身の出し入れがしやすいだろう。口縁部は平らで側面の装飾も控えめのようだ。文様の全体像はわからない。底が狭いので、石の間に置くか穴の中に立てるかしたのだろうか。
 (図- 396)。よく整った姿でたびたび見るかたちだがこれはほとんどまっ黒だ。出土部分を見定めることはできない。全体が出土しているのかもしれないがそれはこの地方ではあまりないことだ。なぜこんなに黒いのか。すすの多い明るい炎の中に長時間おいたか。または発掘されるまでに特殊な状態にあったか。
 そばに同じ遺跡(垂水・日向遺跡)から出た土器片が置かれている。ここには、ごく立体的な口縁部の突起らしいものがある。この突起を持つ土器を復元したら、そばに立つ土器とはだいぶ違った姿だろう。年代は「縄文時代(BC30~BC10世紀頃)」とある。これでは土器の年代を比べることができない。
 弥生時代、古墳時代のコーナーでは出土物がぐっと増えて多彩だ。もっと驚くのは収蔵室で、建物をめぐる通路の壁面を広いガラス張りにして収蔵室内部を見せている。展示の役割も果たしていて、内側で窓際に置かれた弥生時代や古墳時代の出土品を見ることができる。覗きこみながら歩いていくとそれがどこまでも続いている。もうすぐ閉館時刻になるので、急いで兵庫県内の展示館情報を集める。豊岡市に郷土資料館、明石市に市立博物館、姫路市に県立博物館がある。
 
十七日(日)雨天
 明石市立文化博物館に向かう。市の西側から街に入ってお城の堀に沿って南にまわると明石駅前に出る。博物館はナビの画面ではこのあたりにある。「目的地周辺」で案内が終わってもそれらしい建物に到着できないことは何度もあったので、また今日も、と思った。こんなときは、ともかくあたりを一周するしかない。お城の公園から離れないように左に向かう。すぐ博物館の表示があって左に入って行くと駐車場があった。
 復元された「アカシゾウ」の化石骨格。ナウマンゾウよりも少し古い小型の象で、瀬戸内海がまだ陸地であった頃の象だという。「明石人」の腰骨。かつて、中学校の社会科教科書には必ずこれが載っていた。けれども、今では原人である可能性は少ないというのが学者の見解らしい。出土地点の近くを再調査しても確証は得られなかったという。本体が焼失しているので、もはや調べようもないのだ。
 市内の遺跡から出土した縄文時代の細かい土器片が並ぶ。どれも、容器全体を復元できる資料ではないのだ。ここでも、弥生・古墳時代の資料は多い。この地方を示す言葉に「畿内への入り口」というのがある。弥生時代以降、この地は人々が絶え間なく行き来して人口も多く、土地は丘の上までくまなく耕されただろう。ここでは、縄文時代の遺物が倉敷周辺の場合のように隠し残されることは少なかったようだ。
 向かい側の部屋で「河童展」が開かれている。膨大な数の大小様々の河童の人形が集められている。人間の姿に近い想像上の生き物。昔からの、全国各地でほぼ共通なこの姿は何時、何から、何のために現れたのだろうか。こういうのは西洋にはない。
 案内図にレストランとあるので聞くと、そこへはいったん外へ出てから入るのだという。コーヒーを頼んで店内を見回すと、窓に変わった植物の鉢植え(写真)がある。「写真を撮らせてください。あれはなんていうの。」あれはパイナップルフラワーっていいます、もちろん似ているだけでパイナップルじゃないんです、と彼女はいう。まだ時間は十分にあるので、これからの予定を地図で調べる。豊岡市は城崎に近くずっと北に寄っている。できれば鳥取まで行って福良村の土器をもう一度見たい。姫路はここから近いのだから、そこから山陰へ出ると、豊岡市は帰り道に寄ることになる。電話で村岡町のキャンプ場の予約をとる。
 加古川バイパスを走っていると雨が本降りになった。市内に入って「目的地周辺」に姫路城の駐車場がある。そこへ車を入れてナビの示す地点へ歩く。県立聾学校はあるが博物館はない。周辺を歩いてから駐車場にもどる。案内看板で姫路城付近の平面図を見ると、県立歴史博物館は姫路城の向こう側にある。仕方なくお城の公園外周を歩いて行く。今日は日曜日なので人が多い。ここは県外からも観光バスで大勢の人がやって来るのだ。途中の神社で道を確かめる。「どちらから歩いてこられました、ああ、遠い方の駐車場でしたね、ここからはもう少しあるんですよ、この先を左にしばらく行くんです。」という。
 
 原始・古代の常設展示室に縄文土器が復元されている。口縁部の形は様々だが、どれも開いた口の深鉢だ。
(図- 397)。口縁の派手な突起造作が目を引く。上半分に出土部分が多い。各破片はこまかく割れて、ひどくすり減り表面が荒れている。途中で長いあいだ雨風にさらされてはまた地中に埋没するということをくりかえしたのか。かたちよくふくらんだ側面の文様をたどるのはなかなかむずかしい。
(図- 398)。出土部分は少ないが見事に復元された。この口縁の、丸め込んだような表現がこの姿の雰囲気を決めている。文様はかすかに上下する細い二本線。地肌にはこまかい刻みがあるようだ。 
 
 外に出ると雨脚が激しい。駐車場はちょうどお城の反対側のようだからと、堀の外を一周するように歩く。こちら側はビルの建つ市街地ではなく昔ながらの街並みが続いている。左手の木立の向こうにときどき城の屋根が見える。堀だと思ったのは水の流れる川だ。川底に降りたアオサギが雨の降る中で魚をねらっている。昼前から歩き回るのにだいぶ時間を使ってしまった。自動車道に入るとやがて播但連絡道というのに続く。これはすぐ片側一車線になる。終点和田山を出るとすでに午後四時だった。
 
十八日(月)
 鳥取県埋蔵文化財センターを訪れる。展示室では縄文、弥生時代の土器が風景の写真を背景に並んでいる。縄文土器の背後には広葉樹の森、弥生土器の背後には茅葺きの住居に蓮の花。側面に線描のある大きな深鉢(図)。木の実を入れた鉢( 図 )。これは、西日本でよく見る広口の鉢だ。これはたぶん、日常生活で頻繁に使われた用途の広いかたちなのだろう。口縁部に二つの突起が出る鉢( 図 )。この外形は福良村の鉢( 図 )と同じだ。このセンターのパンフレットによると、これに似たような土器は西日本全体に見つかっているという。線描で飾る弥生土器( 図 )。このU字型の取っ手のようなものはどんな使われ方をしたのだろう。これは隣に置かれた土器にも付いている。U字型の取っ手を別にしても、この外形や文様の雰囲気はどこだったろうか、記憶にあるような気がする異国の雰囲気だ。
 受付に戻って県内の展示館について尋ねる。新しい縄文遺跡として智頭町の枕田遺跡があるという。棚には、いろいろなパンフレットが置かれている。県内各市町村の歴史資料館、博物館についてまとめたもの。弥生時代では、今話題の妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡について知らせるもの、など。午後は智頭町へ向かうことにする。
 地図で見ると、智頭町は岡山県との境にある町だ。もし、国道53号線をそのまま南下して岡山県に入ると津山市にも近い位置だ。正午ごろ、智頭町役場に着く。窓口の女性に道を尋ねると観光地図「智頭宿周辺マップ」と「石谷家住宅」のパンフレットを渡してくれる。「実は、遺跡はもう見られないんです。そこには病院が建っているんです。ただ、ちょうど今その遺跡から出たものの展示をしています。」その展示室が石谷家住宅にあるといって道順を教えてくれる。現在の国道から一筋奥に入ると智頭の宿の旧街道がある。石谷家はこの道に面して門を構える。地域の豪農として江戸時代から代々続いた大地主だ。建物は昭和になって改築されたという。土間から座敷に上がると旅行ガイドに引率された団体客が説明を聞いている。二階に上がる階段は何故か接近して二つある。母屋のすぐ西側にいくつも並んで建つ倉の一つが遺跡の展示室に当てられている。
 「掘り出された智頭の歴史 - 発掘調査成果速報展」という十六ページの冊子が用意されている。この冊子の縄文時代早期の項では、遺跡から押型文土器と住居跡が見つかったこと、早期前葉の生活跡は山陰地方ではほとんど例がないと述べている。
 弥生時代の装飾器台とされる土器破片が復元されないまま展開して並ぶ。そばに復元予想図が掲げてある。飾りは密に引かれた水平な線が主だ。ろくろを使うように回転させて刻んだのだろうか。
 次ぎに縄文晩期の突帯文土器破片が展開される。「縄文時代晩期末葉は、…(弥生時代との)過渡期といえます。智頭枕田遺跡からは、稲作に伴う突帯文土器が主体を占めますが、縄文社会を色濃く残す工字文土器や浮線網状文土器も一定量出土し、また、縄文祭祀の代表的遺物である石棒も出土しています。智頭枕田遺跡の調査成果から、智頭町は西日本有数の縄文文化が栄えた土地であることがわかりました。そして縄文晩期ではいち早く稲作を受け入れ、弥生社会へ適応したのですが、なお他地域の縄文社会への影響力・求心力的なものを保持していたのでしょうか。…。」
 「浮線網状文土器(信州地方の土器) …主に彫刻手法による浮線によって表出される網目状のモチーフを持つ土器をさします。長野県を中心に中部・関東地方に分布します。」
 「変形工字文土器(東北地方の土器) …彫刻または沈線で『工』の字を描く土器で、東北地方の縄文晩期に特徴的に認められます。」
 「突帯文土器(山陰地方の土器) …口縁部に突帯をめぐらせ刻み目を施す土器で、西日本に分布しています。この時期には西日本では稲作が開始されており、縄文時代から弥生時代への過渡期であったことが知られています。」
 つぎの縄文後期では、土器片の多くはバラバラに置かれていて、隣との接合を示して置かれたものは少ない。「縄文時代中期末葉〜後期初頭は、磨消縄文の手法を多用した土器を使用する時期であると位置づけられます。太い二本の沈線によって渦巻きやJ字状に描かれた中に縄文を充填しているのが特徴です。…。縄文時代後期は、…(西日本では)確かに他の時期よりも遺跡数は増加しますが、集落そのものの中身を研究できる遺跡がほとんどありませんでした。智頭枕田遺跡の調査によって住居跡の数はもちろん、継続して営まれた集落であることとそれに付随する様々な遺構が検出されたことにより、西日本縄文集落の構造が明らかとなりました。」パネルの左に口縁部で六つの峰の立つ深鉢(上部)が置かれる。全体を復元したとするとかなり大きなものだ。やや大まかで平板な感じのする磨消縄文が明確に表されている。パネルの右に、こちらはずっと小型の深鉢が全体の姿を復元して置かれる。この土器の口縁部は、六つの峰のうちの向き合った二つが大きめになって内側へ曲がっている。容器側面の起伏は、この峰の側面にも滑らかに続いている。
 縄文早期の尖底土器がある。これは、鏡野町の尖底土器とほぼ同じかたちをしている。違いが内側にある。波状の細かい起伏線が底の方へ流れ込むように付けられている。出土部分にも確かに認められる。これはよくあることなのだろうか。下に置いたパネルに押し型文土器片が三種類(楕円、山形、格子目)並べられている。
 出口の女性に写真撮影について聞いてみる。よく分かりませんが、いいんじゃないでしょうかという。一応撮るだけは撮っておくということにする。家の中に花がたくさん生けてありますね。あの青い花は何でしたかね、と聞く。あれはリンドウなんですよ。ほう。色の濃い大きな花ですね。ええ、いい花でしょう。あれはいつも町の人が育ててくださるんですよ。
 とうに昼を過ぎていた。昼食は、以前は食堂だった喫茶室でコーヒーとパンにする。ちょうど来訪者が少なくなっていると思ったけれども、数人の客が途中でこの部屋ものぞいていく。今日のうちに豊岡市の郷土資料館へ向かう予定だが、そうすると福良村の資料館に寄る余裕はないようだ。山陰は改めてゆっくり見なければならない。もう二週間になるからそろそろ終わりにしようかと思ったりする。
 国道178号線は兵庫県香住町を過ぎると海岸線から離れる。先ほどから空模様がだんだん怪しくなってきている。豊岡市に入ってスポーツ公園の駐車場に入る頃は雨が降っている。
 道路を渡るとなだらかな丘へ上がっていく細い道がある。最初の建物に入ると、そこはスポーツ関係の事務所だった。資料館はその上だ。建物の入り口を入って通路を進むと右手の部屋のドアが開いている。部屋の奥に男の人がひとり窓を背にして机に向かっている。「展示室を見せていただきたいのですが。」と声をかけると「どうぞ。」という。展示室に縄文土器はなかった。もう一度、開いたドアのところへ行って、「こちらに縄文土器があると聞いて伺ったのですが。」という。「ああ、そうですか。」と立って出てくると、今はちょうど展示が弥生以後になっていますからね。あそこに少し置いてありますが、と壁際に並んだ土器片のほうを指さす。それから、「まあ、どうぞ。」と隅の椅子を勧めてくれる。この地方の展示館についていろいろ話を聞く。こちらでも弥生時代や古墳時代のものは多いですが縄文土器は少ないです。京都のほうへ行かれますか。それですと、宮津には確かありますよ。復元された縄文土器がいくつか並んでいましたね。あれはいつでも展示しているんじゃないですかね、という。そうですか。宮津市は帰りがけですから是非寄ってみます、と立ち上がる。ちゃんとした玄関があって、入り口と思って入ってきたところは裏口だった。
 雨は本降りになっていた。
 
十九日(火)晴れ
 最初に宮津市役所へ向かう。入ってすぐのカウンター越しに縄文土器の博物館について聞く。この近くに宮津市歴史資料館があります、土器についてはそこで聞くと分かるでしょう、ちょっと変わった建物ですからすぐ分かります、といって案内のパンフレットを持ってきてくれる。
 行ってみると、その建物は屋根を帆掛け船の帆に似せたものだった。「宮津歴史の館」という。四階に上がって、まず資料館の展示を見る。常設展示室では歴史時代の途中から天橋立の資料展示が増える。雪舟の「天橋立図」がスクリーンに大きく映される。これは企画展示なのだろうか。昔の観光案内絵詞は、書き込まれたことばをゆっくり読んでいるとおもしろい。古いポスターがずらりと貼ってある。最近のポスターはきれいな写真や、その合成わざに頼りすぎているから、昔のもののようなおもしろみがない。受付に戻って縄文土器の展示館について話をすると、「京都府立丹後郷土資料館」のパンフレットを渡してくれる。ここには縄文土器についても触れている。きのう、豊岡で聞いた展示館はこれだと思った。
 府立郷土資料館の入り口は、めずらしく外に受付がある。声をかけると、すぐ女性がドアを開けてくれる。
 展示室に入ると右手のガラスケースの中に縄文土器が並んでいる。これが丹後の縄文土器だ。東に若狭湾を挟んで北陸につながる地域。おそらく、この地域は古くから東から西へ、西から東へと行き来があったにちがいない。桜町遺跡にも、糸魚川流域の翡翠にも、奥三面にも、東北地方にさえもつながっていく。山陰の縄文土器、瀬戸内や土佐、徳島の縄文土器へもつながっていく。
 写真撮影はだめということだが、事務室の女性が確認のためにわざわざ出張中の担当の人に連絡を取ってくれる。結局、所蔵先の許可があれば撮影できるかもしれないということになって、さっそく土器を所蔵する舞鶴市教育委員会へ出向く。こちらでも担当者は不在で、仕方なく、今回はここまでと思って、後日、申請書をこちらへ提出することにして辞す。夕方五時、自宅に着く。
 
十一月十三日(木)晴れのち曇りのち雨
 朝、7時半に舞鶴市へ向かう。敦賀Icを出てから空は曇り出す。小浜の街を過ぎて休憩場所を探していると左手に「ぽーたる」と表示した駐車場がある。ここには物産館がある。中には百円を入れると操縦のできる鉄道レイアウトがある。外に小さい蒸気機関車「義経号」がある。先頭にすくい上げるような前垂れを持っている。開拓時代の北海道にアメリカからやってきたものだという。大きな観光案内図を見ていて気が付いた。すぐ柵の向こうがJR本郷駅のプラットホームだ。案内図には大飯町郷土史料館とあるのでそこへ向かう。
 立派な展示室がいくつもある建物だった。図書室の受付にいた女性が部屋に案内してくれる。いかにも重そうな大きな扉が両側に開くと、仏像を展示中の部屋。戦時中に夭折した若い彫刻家の部屋。彫刻家は具象に秀でた人だ。説明に、長じたら抽象彫刻に進んだかもしれないとある。別に抽象彫刻でなくてもよい。エレベーターで二階に上がると郷土史料館の展示室がある。歴史時代は丹後街道の重要な地点の一つだった。床がガラス張りになって、厚いガラスの下に奈良時代の製塩炉遺跡を見ることができる。半島の遺跡から出た縄文土器が四点展示される。いずれも端正な線刻を文様とする。図書室の受付で撮影許可申請をする。外に出ると雨が降っていた。
 午後一時、舞鶴市の文化財収蔵室に着く。見せてもらう縄文土器は府立郷土資料館にあった四点だけではなかった。目を見張るような縄文土器が次々に出される。いずれも丁寧に復元されたその姿を眺めながら周囲、上下からカメラを向ける。山陰と北陸の間に、このような縄文土器が見つかっている。どれも縄文前期のものだという。「なぜ、こんな土器がいくらでも出てくるんでしょうね。たまたま運良く残ったんでしょうか。それとも、当時はたくさんの人が住んでいたからでしょうか。」おそらく、運良く残ったんでしょうという。縄文時代前期にこれだけ洗練された姿、文様を見せるには背景にそれなりの精神文化をすでに持たなければならない。この文化は孤立したものではないから、日本海側の西へも東へも途絶えることなくたどることができるはずだ。弥生以来の鉄くわや、近代以来の開発工事が破壊していなければ。
 ひととおり写真を撮り終えると午後二時を過ぎていた。雨脚が激しくなって、収蔵庫の屋根をやかましく打つ。「今日の予報はこんな雨降りではなかったんですが。返りの坂道は気を付けてください。落ち葉が積もってて滑りますから。」と注意される。雨が降り続かなければ、もう少し西へ行ってみたかったけれどもあきらめて帰る。
 
 
 
      ………メモ………
 
 
一、今日(十月二十六日)、ようやく行程のまとめを終わった。八月十九日に帰宅してから記録の整理に取りかかったが、それがたいして進まないうちに北海道へ出かけてしまった。早く北海道を見たくて、「遅くなると、あちらでは寒くなってしまうかもしれない。」と理由を考えたりした。別の場所へ出かけていって二週間の間を置いたので、記憶の中の細部が曖昧になったのではないかと思う。その日その日の印象は決して忘れていない。しかし、その場であまり関心を持たなかったこと、気をつけて見ていなかったことが記憶から抜け落ちてしまっているのかもしれない。これから、四月以来の写真をもとにスケッチを描く。これは来年にかけて六ヶ月間の十分な仕事量になる。
 今日は「大阪府立近つ飛鳥博物館」に出かけて学芸員の話を聞いた。題は、「壁画古墳の流れ 高松塚とキトラ」という。朝早く出て法隆寺に寄る。百済観音の展示館には焼失前の壁画「阿弥陀如来」の写真が掛けられている。コロタイプ印刷による実物大の精密な白黒写真。
 
二、愛媛県歴史文化博物館図録「平成13年度企画展 西四国の縄文文化」に収録された写真から
 ( 図ー 右 )[ 66 後期の土器(平城T式土器) 復元 御荘町教育委員会蔵 ]浅く開く四つの突起とその稜線が緊張感を出す。東北地方の器のように、突起はこの緊張感のままもっと高く伸びることはないのだろうか。正面の突起の下に特徴のある図形。これは、写真では見えないが各突起の下にあるのかもしれない。
 ( 図ー 左 )[ 69 後期の土器(平城U式土器) 復元 御荘町教育委員会蔵 ]ここには図1のような鋭い線はない。接合された縁に細かい欠きが多く、荒れた表面を見せる。後期の土器でも、文様はなかば記号化しているように見える。
(実物を見たことのないものを写真から描くのはむずかしい。側面や裏側の様子が記憶にないせいかもしれない。別の角度から見たらどうなのかとつい思ってしまう。) 
 
三、時代を経た展示館について
 市町村立の歴史展示館は各地にあるが、そこに縄文土器が効果的に展示されている場合は少ない。縄文土器に限らず文化財を展示すること自体にいくつかの条件が必要だ。当然のことだが、その地域に特色のある文化財があること、文化財が自治体の所蔵になっていること、自治体構成員に展示への意欲があることなど。ときには、当初はこれらの条件を満たしていても効果的な展示を維持できない場合がある。たとえば、何十年も前に遺跡が発見されて出土品の重要性が言われる。当時の人々は展示館を作ったけれども、その後、遺跡の特色を発揮できないで魅力を失ってしまう。そのまま長い時間が過ぎて建物はしっかりしているが展示内容は見るからに古びてしまう。施設にあまり手を加えていないので、入ったとたんに喉が変になって咳が出たりする。換気もできていないから空気がひどくかびくさく、これでは夏休みになっても子どもたちはやって来ない。来館者が少ないので関係者の関心も薄れがちになるのだろう。こうなると、ますます顧みられることなく放置され魅力を失っていくという悪循環。こういう場合は展示館が自治体の厄介者になっている。
 もちろん、古びたショウケースの中の文化財をのぞき込むのも、それなりに時代を感じておもしろい。しかし、大抵の場合に、そこにはマイナスの要素もたくさん含まれている。ほとんど青白く変色したカラー写真。汚れて色褪せたために読みにくい文字。新しい事実をもとに加除訂正されていない説明文(これは博物館にとってもっとも大きな欠点だ。)。これらは、あらかじめ予想されていることなので、当初の維持管理計画を練り直すべきだ。実際にはあり得ない特殊で不自然な照明(これは、見る者に間違った観念を植え付けることになる。)、見る者に無理な視角を強いる配置。収蔵庫が不足しているために「物」がぎっしり詰まった展示室。これは、展示品の持つ価値をよりよく伝えようとする姿勢ではない。設計されたときの展示品に対する考え方が見直されていないのだ。保健衛生上の配慮を欠いた施設。こうなったら誰も来ないから展示すること自体が意味をなさない。
 現在でも、少しだけ視力の弱い者に対する配慮は意外なほどされていない。このことにあまりこだわると新鮮な展示の可能性をひどく減らしてしまうのかもしれない。
 年数を経た展示館の魅力を維持する努力は、子どもたちの体験学習のために入場料を無料化したり、催し物を企画したりする以前に必要なことだ。施設が古くなっていても重要な優れた内容の展示館は多い。展示館をリニューアルするための余力を持たない自治体に対して、教育行政は何らかの関心を示すべきなのだ。写真を鮮明なものに取り替えたり、読みやすく正しい内容の文章に書き換えたり、照明器具や換気口を増やしたり、収蔵庫を追加したりすることは、いつでも、すぐに必要なことで、新しく大きな建物ができるまで待つようなことではない。最近の新しく開館した博物館などが魅力的なのは、建物が大きく立派だからではない。展示が意欲的で見やすいからだ。行政が本来のあるべき姿を学ばなければならない。関係者が行政の指導の手に負えず、派手な見栄えの良さしか理解できなくなったら、展示室は閉鎖して収蔵庫専用に徹底して衣替えしたらいいだろう。