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 関東へ U                              
           2003.04.18(金)-04.21(月)
 


6月30日()晴天
 叔母の本葬儀があるので再び関東へ向かう。
 昼食後に出発。恵那山トンネルを抜けて飯田市を過ぎるとまだ桜の花が咲いている。駒ヶ岳の峰は白い。中央道は名神高速に比べて走る車が少なく快適だ。甲府南Icに午後4時前に着くことができたら、そこを出てすぐの博物館を見ることができる。諏訪南Icを過ぎたところで「標高千メートル」の表示がある。今、高速道路では最も高いところを走っているのだという。すると、これからは下りが多くなるのだ。山梨県立考古博物館にはちょうど4時に着いた。

 ここにも、あの上部の空間を包み込むような高坏形深鉢がある<図>。容器の表面は鎖状につながった細かい模様で覆われる。これは細竹のような管を縦に半分に割って、その切り口を粘土の表面に小刻みに押し付けたもののようだ。細かい半円の連続でできた線は思いがけず立体的で、じっさいに盛りあがった線のように見える。 技法は単純だが効果は絶大だ。細密なラインが豪華に容器の全面を彩る。こうして流れ巡る文様は、さらに様々なかたちを呼び覚ますのだろう。この時期、この技法は広く行われていたようで、同じ技法による装飾がこのあたりのたくさんの土器に施されている。
 そうした中のもっとも華麗で優美な鉢<図>。鉢は胴の下の方がややふくらんでいて、帯のような横の線が胴を軽く締めている。やがて口は思い切り広がって四つの先端を鋭くのばす。器の表面はこの細やかな装飾で満たされる。これらのせいか、容器は全体にゆったりとした姿を見せる。何重もの円が表面にいくつも配置されていて、それがすべてこの細かい押し型で丹念に刻まれている。特に規則的に並べたわけではないが、この文様はある角度で見ると胴のふくらみをより豊かに装う。この円は中心からたどっていくと実は渦巻きで、巻いた線は隣の図形に重なったりしてたいていは途切れてしまう。この技法の可能性は作り手の意欲をたいそうかきたてるのだろう。彼は大きな成果を期待してへら先を慎重に運びつづける。できあがった土器を身近においた人々は日々大いに満ち足りていつまでも愛でる。ここには現在と何も変わらない感性を持った人々がいる。
 口辺に四つの突起をもつ鉢(注口土器)<図>。どの突起もトンネル状になっていて口辺をとりまく斜面は通路を思わせる。向かい合った二つは対になり、通路の上で八の字を描くもの(このうち1つが注ぎ口らしい)と面を巻いてトンネルを作るものとに分かれる。それぞれの突起は巧妙に口辺の斜面に続いている。ここでも流れる線と面が立体的にデザインされていく。作り手はまるで細いテープ状の紙片を容器の口で操作しているように見える。おそらく、彼(彼女)にとって線と面の連続はことのほか重要事なのだ。
 この、どうしても線をたどり面をたどるというデザインは、長い時間をかけて伝えられた形式の一つなのかもしれないが心の奥から自ずからわき出る衝動のようにも思われる。造形につながるこの想念は長い時間にわたって多くの人々が共有してきたものだ。彼らが日々生きている中のどのような部分がそのようにし向けるのだろうか。先祖以来、代を重ねて生活してきた中にこの感性を根強く育む何かがあったはずだ。

 彼らはこのデザインのヒントをなにから得たのだろう<図>。図形の配置に迷いはなく単純明快、よく均整のとれた姿だ。このころ、定型として広く行われていたものなのだろう。規則的に並ぶ曲線の効果をよく心得て難なく配置している。容器の大きさとともに見事な図形ではあるけれども深い心の忍び入る隙がない。側面で曲線の列のおわりが起きあがっているところはいかにも縄文的。よく見えないが曲線の這い上がった口辺の作りがおもしろそうだ。
 文様の少ない奇妙なかたちの容器<図>。持ち上げられた上部はなにか大事なものを包み込んでいるよう。頂点の背面に植えられた一本の線はその伸び上がる方向を強める。帯は上下を区別するくびれ目に巻かれる。女性がウエストにではなく、もっと上で帯を締めるのと同じだ。これなど、本当は少し下にずらした方が作業がしやすいのだろうけれども。下部の表現はいかにも丈夫そうだ。このデザインは、ただ文様を控えめにしたのではなく強調したいところを厳しく選んでいる。
 対面する突起に人面の付けられた容器<図>。これは、「蒸し器として使われたかもしれない」という展示に例として置かれている。ああ、これはたった今通り過ぎてきたパネルの写真にあったものだ。すぐ戻ってよく見てみる。写真には、集めて捨てられていた土器を掘り出した直後の発掘現場が写っている。いろいろな土器が割れて土が詰まったままあちこち向きを違えて露出している。パネルの説明に、
 [一の沢遺跡 (山梨県東八代郡境川村小黒坂字一の沢) 遺跡は、甲府盆地の南側に広がる扇状地の扇頂部に広がっており、標高約410m付近に立地しています。  調査は県教委と町教委によって実施され、縄文時代前期から後期にかけての住居跡20軒と共に多数の土器などの資料が発見されています。その中でも際立って注目に値するのが中期中葉の土器群で、人面や獣面といったものなど、他の地域より遙かに優れたその豊かな装飾性が、ここ山梨に住んでいた縄文人の感性や心の豊かさをとてもよく描写していると思います。  発見された土器や土偶、石器や石製品は、その学術性と共に芸術性の高いことが評価され、国指定の重要文化財となっています。] とある。
 展示の土器は向かって前面と右側の一部が欠けている。ほぼ左右対称の器形を想像する。左手で手前に下る細い面からすると、口辺の前部はやや低まっていたのかもしれない。人の顔だということは、二つの深い小穴で表す目と額からかすかな稜線で盛り上がる鼻でそれとわかる。心憎いほどの省略。顔の下は板状に処理されて両方の口辺に広がる。左手には蛇風のものが置かれる。右手に何があったのか知りたい。完全な左右対称をさけて別のものだったかもしれない。全体は見事に構成的で、細部の作りは精巧だ。すでに実用から離れたもののようにも思われる。
 午後五時。閉館時間になった。置かれたパンフレットには新しい県立博物館を計画中とある。


19日(土)晴れのちくもり
 朝8時に出発。今日は、北から利根川を渡り佐倉市の国立民俗歴史博物館を目指す。取手市までは順調に走った。大利根橋を渡ると、地図に「青山バイパス 利根水郷ライン」というのが続く。この道はラッシュの幹線道路を避けて来る車でいっぱいだった。左側が堤防に沿った片側1車線なので赤信号のたびになかなか進まない。堤防では、菜の花の仲間が花盛りだ。風が強くなって黄色いかたまりが何度も激しく大きくゆれる。右手は、向こうの林に挟まれて草地や畑が続く。背後が山になるところは森のように深まって、林の端から狐でも現れそう。その後も途中「木下街道」というのに迷い込んで遠回りをしたので、博物館に着いたのは9時半を過ぎていた。今日は土曜日だからか駐車場はすでに満車に近い。去年の夏に来たときは台風が接近する雨降りの日で、ほとんど誰も来ていなかった。館内の写真撮影については、先回はどうだったか、今回は撮影できないところが明示されて、その他はフラッシュを焚いたり他の観覧者のじゃまをしたりしなければ自由だという。
 山形県の土偶(複製)をゆっくり見る<図>。このごろの複製制作技術は大変優れているらしい。この立体のように触感も含めて表面の処理に成功していれば十分本物の代わりになる。ただ、この展示は照明がかなり特殊でそれで眼をごまかされているのかもしれない。頭部の処理はやや奇異な感じがするが、肩から下半身にかけてのすべてはいつ見てもかたちがいいと思う。このかたちには、どの角度から見ても思いがけない処理がされている。何カ所か、大胆にカットして作り出した面がある。わずかな曲面が必要で十分な量感を出す。むだなくひきしまってたちあがる胴。腰骨の上に施される装飾。横線を密に刻んで特殊化した面。えぐりとられた空間。そうして、これらのすべてがなんの無理もなく流れる線や面でかたちづくられている。この図のちょうど反対側、斜め後ろから見た姿もすばらしい。作り手(あるいはこのスタイルを始めた人々)は、背中をすらりと伸ばして立つこの人体の美しさを知っていたにちがいない。
 約1.2万年前 円孔文土器 複製<図>。これは「有鍔」ではないけれども、口辺ぎわに小穴の並んだ草創期の鉢だ。すでにこの早い時期に、入れものとして何かの工夫したのだ。表面に文様らしいものは見えない。薄手で底はほぼ平たい。穴の間隔は不揃いだ。器がまだやわらかいうちに小穴をたくさん開けることはそれほど難しいことではないだろうが、何のためだろう。口辺近くではやや外に反る。向こう側から紐か枝をわたすか、口を覆うものを止めるか。つよくひっぱれば割れてしまうだろう。
 装身具のコーナーに巨大な耳飾り 複製<図>。つくりは精巧だ。透かしは、粘土がかたまりかけたところで鋭利なヘラで隙間を削り取ったのだろう。表したかたちに具体物を連想させるものはない。曲面や曲線の流れがさまざまに入り組んだ、どこまでも立体的な造形遊びのよう。
 壁面のパネル[放射性炭素14CのAMS法による年代測定]を読む。「放射性炭素14Cが5730年で半減する性質を利用した年代測定法は、1950年代から用いられている。最近では、少しの資料で、しかも誤差の少ないAMS法(加速器質量分析機による測定法)が開発された。そして、土器に付着した炭化物の分析により、縄文土器の年代も推測されるようになった。ただし、炭素測定年代と実年代は異なる。そこで、その測定結果を実年代に変換すると、たとえば日本の縄文草創期は紀元前約14000年にさかのぼり、縄文中期は紀元前3500年頃から2500年頃の約1000年間と推定されるようになった。」そして、縄文中期と後期のたくさんの測定例が図で示される。(平成15年4月現在の展示)
 さきごろの新聞報道では、この測定法を採用することにより縄文時代と弥生時代の境目が数百年さかのぼるかもしれないとして話題になっていた。
 「土偶群像」のコーナーとして多くの土偶(複製)を展示している。その中に目立って写実的な背中を見せる座像がある<図>。両肩から背なかにかけて見せる姿は人体そのままだ。腰を下ろしてつよく丸めた背中に背骨が張り出している。ふつうは、ここまで描写することはあまりない。首の部分に頭がとれてしまったらしいあとがある。前から見ると、ひざのうえで両手を組んだ姿勢に見える。人体の構造上からは無理なかたちだが不思議な実感が伝わる。ちがうかもしれないけれども、うつむいた顔を想像する。

 館内で昼食をとって外に出ると12時半。敷地内の「くらしの植物苑」へ向かう。この植物園については、博物館のホームページで毎月のように替わる花々の写真を見ていた。今、季節の伝統植物「春」―伝統のサクラソウ、という展示をしている。駐車場から降りていく遊歩道がある。階段を下り始めるところでは、大きな木が桃色の花で満開だ。八重桜だ。下りていくと木の茂る陰の中に鮮やかな黄色い花がちらほら咲く。山吹の花。道は一度降りきって草原があり池がある。姥ヶ池。その名の由来に「むかし、姫の子守をしていた姥が誤って姫を池に落として死なせてしまった。困った姥は自分も池に身を投げた。」という。彼女に思いもよらないとんでのないことが起こってしまった。その計り知れない心の痛みに眉をひそめる。続く遊歩道は上り階段になって、上がりきると植物園のある道路に出た。
 庭の中にこぢんまりとした囲みが南向きに開いて作られ、棚に幾鉢も置かれたサクラソウがいまちょうどよく咲いている。見たこともない大きな花、濃い紅色、縮れたり霜降りになった花弁など。すべてにそれぞれ名が付く。近くのフレームの中にもたくさんの鉢が並ぶ。囲みの中で咲いているのとよく似た花も、どこかちがうのか名が異なる。フレームの中には花木の鉢もついでのようにに置いてある。鉢の中に差した札には「エリナ」とある。花や葉は細かいが雄しべの形と葉の形や艶のあるところが椿に似ている<写真>。フレーム内の札に「この中で日傘をささないでください」と書いてある。中は暑いから、せめて日射しだけでも避けようとする人がいるらしい。早々に出てもう一度囲みの花を見る<写真>。中年の夫婦がやってきたので写真撮影を中止する。「あんなのはサクラソウじゃなくてまるでカーネーションみたい。あっちの紅の小さなのなんかいいわね。」「ぼくに一鉢くれるっていうだったら、こっちのがいいよ。この白いの。いかにもサクラソウらしいから。」「やっぱりねえ、サクラソウらしいのがいいわ。」どうやら、この人達は本来の可憐なサクラソウのほうが好きなのだ。今年は伝統植物の企画展示として、春に続いて夏はアサガオ、秋は古典菊、冬はサザンカを予定しているという。
 すぐそばにシーボルトの里帰りの木が数本植えてある。彼がオランダのライデンへ持ち帰った木の子孫が帰ってきたというものだ。その先に白と紅のボケの花が低い垣根のように仕立てられてちょうどいま咲いている<写真>。説明に、「…。果実は長さ8〜10cmの楕円形で、8〜9月に黄色に熟す。これを酒に漬け、薬酒を作る。」とある。酒の効能には触れていない。これと同じ色合いのものがボケにはめずらしく大きく立派な木になって遠州の寺にある<写真>。先に進むと、ミツマタの花が咲いている<写真>。これはすでに2月のホームページで紹介されていたけれども別の種類だろうか。この苑の展示は、「織る・漉く」「食べる」「治す」「染める」「塗る・燃やす」「道具を作る」のに使われてきた植物を実際に植えて育つ姿で見せている。足らないとしたら「遊ぶ」ぐらいか。これは大事なことだけれども、たぶん、地域によってちがう文化だから展示はむずかしいのだ。大きな花を付けた椿の木<写真>。もちろん花は終わりに近く、木の根元は最近にも散った花弁で一面に赤い。少し距離があるので近づきたいのだが、一帯が低い生け垣で囲まれている。何かの細かい枝葉を茂らせた生け垣はすぐ跨ぐことができる高さだ。けれども、途切れることなく巡らせているところをみると中へ踏み込むことを禁じているようだ。あの赤い椿の花は径が10p以上あるだろう。
 屋根のある休憩所で人が集まって何か説明を聞いている。あれが毎月開かれる植物苑観察会か。来た道を戻ると、池の反対側の草原に白い花がたくさん咲いている。おしべもほとんど白色だが、日差しを受けて花弁にくっきりとその影を落とす<写真>
 帰り道で、事前に調べておいた日帰り温泉に寄る。ここの湧き出る湯はほとんど赤に近い色をしている。
 ナビの地図によると向かい側が広い公園になっていて「風土記の丘」というのがあるらしい。こちら側からは、田の端まで行っても中に入る道はない。線路も越えて大回りをする。公園の林の中を進むと、「県立房総風土記の丘」と名付けられた博物館がある。このあたりには前方後円墳、円墳などが互いに接するようにいっぱいある。古墳が密集する中にできた博物館だ。
 二階の展示室では、大きなガラスケースが壁面を埋めている。縄文前期と早期の展示の下段、これは早期の土器か<図>。二段のひだの中のこの線と小さな円は何だろう。生活の中の何事かを暗示しているのか、記念しているのか、それとも数千年前の人々の容器を借りた遊びか。
 下段の左手、これは前期の土器か<図>。側面には荒々しく並ぶ直線が深く刻まれる。四つの頂点を鋭く広げるかたちがここにもある。このかたちは広い範囲で繰り返し行われたもののようだ。初めて尖石で見て以来、これまで中部地方から東北地方にかけてたびたび出会っている。縄文時代の人々にとってこのかたちは何を意味していたのだろう。勢いを込めて空に広がろうとする感覚。見方によっては、高いところから降りてくるものをなんとかして受け取りたいような、また、のびた先端が内側に向いていると宙にある何ものかをつかみ取ろうとしているような。このかたちは、ただ純粋に感覚的な産物だ。目指す対象がはっきりしていて、そのための暗示や記念のためであればもう少し具体的なしるしになるはずだ。ここには、方向性のあるなめらかな線と面を見つめつづける視線だけがある。これは、ものごとを立体的に空間的に感じ取る感性から生まれた根強い形式の一つのように思われる。
 口辺が大きく波うつ後期の鉢<図>。浅い胴もまるみをもって全体を柔らかい姿に見せる。
 優雅な曲線が繰り返される晩期の深鉢<図>。まるで「波がしら」のデザイン。
 弥生時代の壁面ケースには、おもしろいかたちや文様の弥生土器がたくさんある。壁面に掛けられたパネルでは、
 「…。弥生土器は地域によって、形や文様に変化が見られ、千葉県では、弥生時代後期に北部地域で細かい縄文を施した土器が盛んに作られ、地域の特徴となっております。」と説明している。ここにある弥生土器は、西日本ののっぺりとした壺類とはだいぶちがう。ただ、口辺にはわずかな突起も載せてはいない。
 閉館の時間が来たようなので建物を出る。外の道に出ると、入り口近くでピンクの山桜が満開。駐車場へ向かって歩いていくうちに雨が降り出した。


20日(日)雨天
 上野の国立博物館に向かう。ちょうど9時半に正門前に着く。入場券売り場に人がたくさん並んでいる。今日は日曜日だから人が多い。別に入り口に並んでいた人たちが動き出した。すでに券を持っていた人たちだ。いま券を買った人たちが急いでその列に加わる。やがて端の販売機が空いて入場券を買う。カラー印刷の券で、大きく西本願寺展とある。企画展と一緒になった券だ。ともかく本館に入る。制服の男性が一人いるだけで他に誰もいない。受付に着席する人もまだだ。企画展は別の場所で、入場した人は皆さきにそちらへ行ったのだ。制服の男性に入場券を差し出す。「私は西本願寺展は見ないのですがこの券が出てきてしまったんです。」「ああ、それでしたら門へ戻って取り替えるといいですよ。」「そう。本館だけのときはいくらなの。」「420円です。今ならまだ間に合いますよ。」と勧めてくれる。
 本館だけの入場券は正門の左側で買うのだ。本館に戻る。あまり時間がないから展示場所に直行するつもりで平面図を見る。縄文土器の場所がが分からない。日本の考古関係の部屋がない。場所について制服の男性に聞く。「以前とは展示が変わっているんです。」いまは別棟に平成館という建物が新しくできていて考古展示室はそちらにある。開館したのは平成11年という。以前来たのもちょうどそのころだが、まだ縄文土器をこんなに追いかけていなかったから見に行かなかったのか。しかし、亀ヶ岡の土偶はそのとき見た覚えがある。
 霧のように細かく降っていた雨が本降りになった。平成館では玄関の傘立てがいっぱいになっている。企画展はこの2階で開かれているらしい。考古展示室は1階に広くとってある。大きなガラス板をはめた展示ケースの中は大変明るく見やすい。まず、一通り順に眺める。この博物館のホームページの写真でいつも見ていた土器が並んでいる。「巻貝」「人の顔の付いた変わったかたちの注口土器」「亀ヶ岡の片足の土偶」など。草創期の土器が4つ。あの細かい横線をいっぱい入れた土器がある。再生したときの補修部分が多く、出土部分が離れてわずかずつはめこまれたように見える。色がよく似せてあるので区別しにくい。ちょうど赤い制服の女性が近づいたので聞いてみる。「この土器の実際に出土した部分はどこだか分かりますか。」このことはあまり詳しく分からないらしい。「質問に答えてくださる方はいらっしゃいますか。」学芸員さんは今日は休みだった。質問は、あとから電話でもできるという。
 晩期の土版<図>。図柄は晩期の土器にもよくありそうなものだ。ここでは、作り手はかなり細かいところまで左右対称を目指している。それでも、幾何模様のように機械的ではない。親近感という点では容器は使いみちから、土偶は人のようなかたちから近づいていくことができるが、土版にはそういうことがなさそうだ。余分なものを含まない遺物か。
 巻貝形土製品。これは開口部の先端部分が欠けている。この部分はもう少し伸びていたはずだ。これは本物の巻き貝をよく知っている者たちの作品だ。多少は飾りを加えているようだけれども、いかにも巻き貝という姿だ。当時の人々は生き物を写実的に描くということは少ないけれども、貝殻の場合はすでに無機的なものということだろう。供え物かもしれない。
 草創期の土器<図>。きわめて実用的なかたちだ。実用性をどこまでも求めていけば波線の文様はいらないだろう。けれども、彼らにはこの飾りが必要だった。波線の下に二組ずつ並ぶ出っ張りは、模様か、記号か。
 もう一つ、草創期の土器<図>。出土したと思われる部分を際立たせて描くとこうなる。こうして横線を密に刻んだ土器は、青森の博物館で見た。あれは複製でその出土部分についてはわからなかったけれども、本物はやっぱりこんなふうに隙間だらけに散らばっていたのだろうか。かつて、どんなふうに作られ、どんなふうに使われたかを思うと遠い昔だけにいっそう興味をかき立てられる。
 先のとがった円錐形の土器<図>。外国のどこかなら動物の角のカップに似ているといわれるかもしれない。口辺はゆるやかに高まる四つの頂点を持つ。側面の横線は何となく適当に引かれたように見えるが、中には斜めに交差した部分が二段あるようにも見える。底に向かって異常なまでにとがらせているのは地面に立てるための実際的な必要から生じたものらしい。
 簡素で、しかも見事なかたち<図>。完全な円筒ではなく口径をほんのすこし狭めているなどは、たまたまそうなってしまっただけなのだろうか。上下の枠のような部分や側面の文様の付け方などを見ると、上手にできた竹細工製品をまねたようにも思われる。
 二本線模様の深鉢<図>。この二本線は、竹などの管を半分に割って端にできる半円を利用して描くのだという。斜めに上下する直線と曲がり込む曲線。この線は乱暴に書き散らしたように見えるけれども一応の予定はあったようだ。
 繊細華麗な深鉢<図>。側面の模様は細やかな織物にときどき見られるように華やいでいる。口辺には上をU字型に開いた注ぎ口がある。注ぎ口の両脇に突起が立っているがこれは側面の続きとして厚みを変えないで上に出ているだけのものだ。この表現が側面上部の模様とともに立体の雰囲気を決めている。作り手は、この雰囲気を壊すような余分なことをいっさいしていない。
 これは珍しく単純な姿の深鉢<図>。口辺に数条の線が目立つ程度だがよく見ると側面に縦に垂れる文様がある。同じ形が連続して押しつけられているようだから、かたちを彫りつけた小枝を上から下へ何度も転がしたのだろう。極度に抑制されたかたちと文様。
 カーテンを両脇に開いたような文様の深鉢<図>。この部分を軸にして全体はほぼ左右対称だが、細部まで対称性を維持する気はないようだ。構図としては左右対称による安定感を求め、その中にいろいろなかたちを気ままに配置している。口辺には突起が一つ立つ。反対側にもう一つ立てられた様子はない。小さな渦巻きが線の終端などにできている。分けられたカーテンを主役にしてなかなかにぎやかな内容だ。
 一面に線が這いまわる壺形土器<図>。これと同じような文様を秋田県大湯の展示館でたくさん見た。大湯では土器棺にも見られる文様だった。文様の基本となる要素は一定の幅の二本線だ。この二本線は短く独立していたり、先端を丸めて終わったりしているからあまり迷わずたどることができる<図>。何を表しているかは知るよしもないが、少なくともこの線の流れがわれわれに与える不思議な感覚は味わうことができる。このわれわれにはとらえどころのない感覚が当時生きて生活していた彼らと同じものなのかどうか。
 左端に晩期の浅鉢が斜めに立て掛けて裏を見せている<図>。底が丸い。これと同じスタイルの鉢はたいてい裏向きに立てかけている。この雲形文様を見せるためだが、してみると表には何も文様はないのだろう。当時の人々は、ふつうはこんな風にして見ることはあまりなかったと思う。この文様は二つの要素からできているように思う。一つは、ある程度の幅を持って延びていく線。この鉢では横方向に引き延ばされている。他の線と合流したり分かれたりして囲まれた三角をつくったりする。線はできる限り無理なくなめらかに引かれる。もう一つは、線の終端につくられる丸めた部分だ。この丸い部分があることでわれわれにはこの文様が雲形に見える。これがないときには、文様は流れ渦巻く川の流れのように見えるだろう。これらの文様は見る者に何か心地よいものを感じさせる。すでに形式化された堅さはあるが、かたちの心地よさを味わう気持ちが人々にこの文様を続けさせたのではないかと思う。
 はじめに戻って一つずつ写真に撮っているとたちまち11時になった。もう、ここを出なければならない。
 午後、青山の共済会館に車を置いて本郷に戻る。西教寺のそばに新しく地下鉄の駅があるというが、表参道からは乗り換えが必要なようだ。不案内のために無駄な時間を費やすのを避けて千代田線に乗り根津で降りる。15分ほど歩くつもりでいいはず。
 西教寺は母方の家系の菩提寺で、浄土真宗本願寺派涅槃山究竟院とある。雨の中庭では牡丹の蕾が紅色に大きく膨らんでいる。


21日(月)くもりのち晴れ
 今日は月曜日だが、東京都埋蔵文化財センターは年末年始を除いて毎日開館している。朝の開館と同時に小学生が先生に連れられてやって来る。展示室で座り込んで説明を聞いている。まず受付で写真撮影の届けを書く。「今日はなかなか繁盛してますね。」「ええ、この時期だけですが毎年のことです。」「ああ、そうですか。教育課程の関係でちょうど今なんですね。」「そうですね。あとの半分は今ビデオを見ています。このあと入れ替わります。」そこで、子ども達が動き出す前に先に見られるところを見る。
 今年の企画展は「縄文草創期の世界―前田耕地遺跡を中心に―」としている。パネルの説明によるとこの遺跡からは草創期の多くの石器と2軒の住居跡が出土した。そこは、あきる野市の秋川が多摩川と合流する位置になる。これは八王子市の北に当たる。土器の出土はわずかだったらしい。別の展示で、八王子市の下柚木遺跡出土の「細い隆線文土器」(片)を見ることができる。写真パネルでは、神奈川県大和市上野遺跡と横浜市花見山遺跡出土のの隆線文土器、町田市のなすな原遺跡と川島谷遺跡出土の土器を掲示している。草創期の土器は、口辺に突起を生じる前のものとして大変興味深い。
 はじめて、本物の土器を両手で持ち上げた。こんなことは土器の研究者にはなんでもないことだろうけれども部外者にはめずらしい特別な経験なのだ。これが特別なのは、縄文人が両手で持ったりいろいろな触れ方をしていたのと全く同じ土器を全く同じように自分の手で触れるところにある。これは、見るだけとは大違いなのだ。とりわけ、粘土を手でこねたり紐にしたり押さえたりちぎったり刻んだりして作る土器の場合は。
 このためにここで用意されているのは、土器の入れられた透明な樹脂の箱に穴を2つ開けたもの。操作する者はこの穴に両腕を通すのだ。持ち上げたとたんに土器の肌、凹凸の感触が直に手のひらに伝わる。ひんやり冷たく、意外に重い。この大きさで2キロあるという。これは大きさの割に分厚いのだろうか。これは、何か書いた小さい紙が貼ってあったり、補修の具合から見てどうも本物らしい。草創期や晩期の厚みの薄い土器もこうして持ってみたいと思う。受付の女性に「あれは本物ですか。」と聞いてみる。この質問のために、このあと確かな人に聞いておいてくれたらしく「あれはやはり本物だそうですよ。」と伝えてくれる。
 奥に向かう通路で片側を大きく開いてガラスをはめ、収蔵庫の中も見せている。大きな木製の棚があって、大小さまざまな出土品が所狭しと並ぶ。「前期の土器」と表示された棚の中にやや小振りの形のよい鉢が鉄枠の台に乗っている。あの台に乗せたままときどき展示室にも出されるのだろう。丸みのある胴が口辺でさらに少しすぼまる。口辺を水平にひも状の線が取り巻く。そのすぐ上に点々と穴の列もある。小さいが有孔顎付土器のなかまだ。少し距離があって詳しく見ることはできない。ここは、やはり収蔵全体の様子を見せているのだ。
 動き回る子ども達の隙間をねらっては土器の写真を撮る。
 「縄文時代早期の土器」と題するパネル。「約1万年前から火山の噴火回数が少なくなると気候は少しずつ暖かくなり、しだいに草や樹木が茂ってきます。この地域では、シカやイノシシなどを生け捕りするためのおとし穴がたくさん作られます。また狩りの新しい道具として弓矢が使われるようになります。 当時の人々がくらした家の跡は、少ししかみつかりませんが、縄文土器で煮炊きをし、いろいろな植物が食べられるようになり、食生活は豊かになりはじめます。そして近畿や東北方面の土器などが少しずつ見られるようになります。」
 このコーナーには、先のとがった砲弾型の胴をした深鉢たちが置かれる。どれも口辺に刻み目が付けられる程度で突起や文様はほとんどない。一つだけ目立つのは、大きな深鉢の上部だけを復元したもの<図>。「高山寺式土器 和歌山県田辺市高山寺貝塚から出た土器に名前が付けられました。九州を除く西日本一帯に分布する押型文土器です。」「八王子市越野(No.105遺跡)出土」とある。中から何かがあふれ出るような文様だ。どんな道具を使うとこのみごとな押型文ができるのか。
 「縄文時代前期後半」と題するパネル。「前期も後半(約5,500年前)になると、気温も少しずつ下がり始めます。海だった谷も干潟となり、海岸近くでは貝なども採れるようになりました。 八王子市南大沢のNo.451遺跡などでは、東海西部からの土器が見つかっています。また、畿内、北陸から甲信越、北関東から東北西部の広い地域で似た模様の土器や道具が使われるようになりました。土器の種類は、深鉢のほかに食物を盛ったり、こねたりする浅鉢などが増えます。…。」
 パネルの下に、たおやかな姿の二つの深鉢<図>。まるで水を入れた袋のように胴がふくらみ上に広がる。唐突な激しさはどこにもない。誰がこんなにおっとりしたかたちを想い描いたのだろう。ぼくは初めて見るけれども、右の上にひらいた不思議なかたちはよくあるものなのか。
 コーナーの奥に立つ大きな深鉢、曽利式土器<図>。「長野県諏訪郡曽利遺跡から出た土器に名称が付けられました。中部地方、関東東部を中心に分布する土器です。」この名称が容器のどの部分をもとにしているのか知らないが、この密集したラインは山梨県考古博物館の巨大な深鉢と同じだ。カメラを上の方へあげて口辺部をのぞく。容器の口は内側へ傾斜した面がつくる輪になっている。側面のすべてのラインはその傾斜面まで入り込む。口辺部の実際に出土した部分は少ないようだ。胴の側面は縦に細かく刻む線の上に細い粘土紐がのせられて模様を見せる。くびれの上に開くラインの部分と下の胴の部分の対比がおもしろい。
 周囲で鍔のように張り出す浅い鉢<図>。ぴんと張った糸で押さえられているが、ふつうに置いていつまでも立っていられるかたちではない。文様は鍔の上だけのようだ。これは記号に近いまでに簡略に形式化されている。張り出した鍔は少し前の飯釜を思い出させる。この時代に、もし奈良時代のようにかまどがあったら、これなど載せるのにぴったりなのだが。
 二つの深鉢<図>。手前のものは角張った感じが強い。胴のくびれはそんなに強くないのだが円や菱形の背後に刻まれた縦線がこのくびれを強く見せる。向かって右手の鉢は文様が大変細かい。この模様とほとんど同じものを千葉の風土記の丘で見た。同じ早期でも器形はちがう。ここでも、いろいろに接続された平行線には意味ありげに小穴が並ぶ。擦り消したらしいところを拾ってみたりする。これはひどくあいまいだ。もともとあいまいなのか、復元の際に境目が消えたのかどちらかだが、たぶんはじめから適当に擦り消しを入れたのだろう。
 「縄文時代後・晩期」と題を付けた説明パネル。「中期末から富士山の噴火回数も多くなり、気候は涼しくなります。多摩丘陵の遺跡数は急に少なくなります。 後期も中頃になると、人々は低地に下りてくらしはじめたようです。 中期末ごろから東北地方南部で見られた抜歯の風習も伝わってきます。 また西は瀬戸内方面の土器や東北方面から運ばれてきた注口土器なども見られます。 土器の形は、中期のものと較べると機能的ですっきりした形になります。」
 「称名寺式土器」と表示されたコーナーに数点の土器が置かれる。側面におもしろい文様の注口土器<図>。口辺の両脇には取っ手を付けるためらしい穴がある。ただの穴ではなくてそれぞれにヘラ状のおおいがかぶさる。このヘラ状のものを付けた注口土器は前にもどこかで見たような気がする。容器は分割した面にはめ込んだような四角の文様で覆われる。中を通っている線は斜めに下りていって容器の反対側に行く。このために上下に配された四角形は様々なかたちになる。これには、われわれがまだ知らない何かの理由があったのだろうか。理由はあったかもしれないが、それにしても人々は同じ四角が規則正しく並ぶよりもこちらの方を好んだのだろう。
 下から上に向かってきれいに開く土器<図>。段を付けた二つの突起もそのラインの傾きで立つ。口辺はせまいはばで内側に折り込むようにかたむく。内面に段差ができて、器の厚みがいかにも薄いように見える。割れ目の境に穴が二つ。ある日、ひびが入ったので紐でしばって補強したのだ。
 広くひらいた口辺はそのまま引き延ばされて鳥の頭のような突起が立つ<図>。トカゲの頭にも似ているけれどもこのような姿勢は無理。この頭部であきらかにそれとわかるのは目とくちばしだ。彼らが日頃から見ていた鳥のうちどの鳥だろうか。頬やあごの下の肉垂れからすぐ連想するのはニワトリだがそれは当時にはあり得ない。ではヤマドリかキジか。もしかすると、どんな鳥でもないように、トカゲでもないように見せることが彼らにとって重要だったのかもしれない。写実的な表現をごまかすために彼らの表現力は十分なものだったのだというのは、どうだろうか。
 丸いテーブルに一つだけ置かれた土器<図>。これは誰が見ても人物を描いたように見える。しかし、明らかにふつうではない状態がいくつかある。両手の指が3本指。腕は反り返った1本の太い綱。腕と胴のつながりは全く考慮されていない。頭部は何重もの同心円。その上に後光のような飾りがのぞく。「羽根飾りを付けた人」か。頭が上にとがっていたり、指の間に水かきでもあったら「カエル」といわれるだろう。縄文の人々は具体物をその通りに描くことをわざとさけているように見える。そのほかの側面を埋める区画文の中には時間が過ぎるままに思いつきを刻み込んでいったように様々なかたちが置かれる。が、多分そんな個人的な行為ではなくて、これは人々が一定の形式で何度も行った一つなのかもしれない。
 外に出ると、「遺跡庭園 縄文の村」がある。縄文時代の木々を植えた林の中に、竪穴住居が復元されている。その一つの屋根の端から煙が出ている。作業服の男の人が炉の世話をしている。住居に入っていくと、「こんにちは。学校の先生ですか。」という。「いいえ。私は一般の個人です。実際に炉で火を焚いているんですね。」見ると建物の中は黒くすすけている。いつも見学者のために炉に火を入れて見せているのだ。奥の棚に置かれた注口土器には植物の蔓で土瓶のように手が取り付けてある。「ああ、やっぱりこういう手が付けられたんでしょうね。」「ええ。まあ、確かなことは分かりませんけれども、きっとこうして付けて使ったものもあったと思いますよ。」こうして日頃から実際の様子をいろいろ工夫して見せているので住居がいかにも健康に生きている。よくあるようなかびくさい廃屋ではない。そのような廃屋は当時の生活の基本となる部分を大きく誤解させるもので、こうした健康な展示ができないなら竪穴住居に限らず住まいの展示はやめた方がいい。
 遊歩道の途中途中の植物に説明の札が取り付けられている。「トチノキ」「アマドコロ」「タラノキ<写真>―(説明)日の当たるところに生える典型的な陽樹で、春の若芽が食べられる。採取時期は4〜5月。二番芽まで摘めるが、摘みすぎると枯れてしまう。」さらに進むと、鉄塔のそばに住居跡の窪地が樹脂かコンクリートで固定されている。その先はすぐ下がもう市街地のようで、だいぶ際まで削り取られたように見える。庭園の出口(いや、たぶん入口)に立つ看板にこの遺跡の説明文がある。看板の背後は濃い黄緑色の中に咲く山吹の花。
[   東京都指定史跡 多摩ニュータウンNo.五七遺跡
 多摩ニュータウンの建設にともない遺跡調査が始まった昭和40年から、本遺跡は多摩丘陵における代表的な縄文集落として保存が検討されてきた。
 昭和45年、台地の先端側にあった送電鉄塔が現在地に移設されるために遺跡の主要部分が発掘調査された。このとき、多量の土器や石器とともに竪穴住居跡(縄文前期・中期)・敷石住居跡(縄文中期末)それに獣捕獲用と思われる陥穴(縄文早期)等が数多く発見され、遺跡の重要性が裏付けられた。昭和62年に開園した「遺跡庭園」の復原住居は、この調査で検出された住居跡を基に設計されたものである。
 庭園の下には、未調査の住居跡がまだ何軒も埋蔵文化財として眠っている。
  平成元年3月31日 建設
                          東京都教育委員会 ]

 これで今日は帰宅するだけなのでまだ時間がある。昼食後は相模湖まで丘陵地帯を走ることにした。ところが沿道は丘陵地帯のイメージではなく、どこまでも市街地や住宅地が続くばかりだ。道路は広くなったり狭くなったりして神経が疲れる。こういうことなら、むしろ相模湖から山梨県内を一般道で走るべきだった。相模湖Icを入ってしばらくすると眠くなってきた。長いトンネルを出た頃はもはや危険状態で、早く車を止めるところが必要になった。ようやくパーキングエリアがあってすぐ仮眠。暑くなって周りを見ると日が照っている。すぐ車の向きを変えて、もう一度背もたれを倒す。もう眠くない。そろそろ走り出そうかと思っていて気がつく。パーキングエリアの建物の後ろの高台に台形の屋根が見えて、看板に「釈迦堂遺跡博物館」とある。釈迦堂遺跡が近いのだ。念のために車から出て近づいてみる。階段が通じていて「休憩にもぜひどうぞご覧ください」とある。上がっていくとかなり高いところだ。上にも一般道から入る駐車場がある。
 休館日は火曜日だ。ここに見たいものがあるかどうかはともかく、ここまではたまたまいろいろと運がいいのだ。この博物館は、この地域で高速道路が作られる際に発掘された遺跡からの出土品を展示している。
 「縄文早期末の土器」と表示されていくつかの土器が並ぶ<図>。「底が尖っていることと粘土の中に植物の繊維を混ぜることがこの時期の特徴である。文様は口辺部のみに簡単につけられる。」文様として貼り付けられた紐はまさに縄である。図のほかに、ごく低い突起の下に縄状の文様で突起の代わりのように同じ三角形を表しているものもある。4箇所に置かれたこの小さい三角がその後の何千年も続く縄文突起の始まりなのだろうか。この三角が移り変わっていく様子が実際にあるものなら是非見たいと思う。
 これとほとんど同じかたちの土器が「土器の交流」と表示したコーナーにある。長野県や、関東、東海、近畿地方の土器と同じ形式のものがここでも出土していて、ある土器では、使われた粘土を調べてみると当地方で作られたものであることが分かったという。その一つ<図>。「天神山式土器 東海地方早期末の土器。厚さが2〜4oと薄い。」と説明される。天神山という地名は名古屋市西区にある。縄状文様はないが同心円状の弧が波模様のように配置されている。偶然に似たにすぎないものだろうけれども、このような波の模様は時間のかけ離れた歴史時代の日本の図柄でもある。少なくとも、このようなかたちとその配置に彼ら(の何人か)も関心を持ったということはいえるかもしれない。
 「埋甕」と表示されたパネル。「埋甕とは土器とほぼ同じ大きさに掘り込んだ中に埋設されたものである。山梨地域では中期初頭五領ヶ台式の時期から見られ、釈迦堂では藤内式の段階に出現する。盛行するのは中期後半曽利式の時期で三口神平地区で曽利式期の住居跡123軒中37軒に埋甕が埋設されていた。埋設される位置、正位か逆位か、埋設される土器の底部・口縁部状況などによって様々な種類に分類できる。釈迦堂を含めた山梨地域では住居の入り口に正位に埋設され、底部を欠くものが多い。また住居の入り口に逆位に埋設され、底部に穴がうがたれるもの(逆位底部穿孔埋甕)も見られ、これは山梨を中心に分布する。これらの埋甕は従来から小児埋葬説、胎盤収納説、貯蔵説が唱えられていた。釈迦堂の埋甕からはミニチュア土器や土製円盤が収められていたものもあったが、その性格を決定づけることはできなかった。現状では逆位底部穿孔埋甕に類似したものの中から小児の骨が出土した例もあり、小児埋葬説の可能性が高い。」
 その「逆位」に置かれたやや大きな土器<図>。この土器の文様は、すでに縄文の張り出しと線の連続をはっきりと見せている。胴の表面から大きく離れ出たこの立体的造作は容器の制作段階のすべてにおいて大いに気を遣わせたにちがいない。それにもかかわらず線はあくまでなめらかにうねる。この大きな土器がこれほど丁寧に処理されていくにはどれほどの手間と時間を要するのか。
 ここまで表面の凹凸を楽しむか<図>。楽しんだのではなく、作り手はきまりに従ってただ熱中しただけかもしれない。とくに口辺のふくらみに注意して多くの手を入れている。それに較べて胴部はかなり大まかな処理だ。道具は先の平たいヘラと5本の指。
 「藤内式土器」<図>。すぐ目を引くのは容器の上の突起だ。出口のような穴が斜めを向いて小さく開く。このかたちは広い範囲で長く続けられるかたちだ。こういうイメージを彼らは何から借りてくるのだろうか。海岸ならば貝類だろうか。しかしここは海から遠く離れている。植物、たとえばキノコはどうだろう。容器のもう一つの特徴は胴に置かれた厚みのある文様だ。機械的なものではないおもしろさがある。すでに形式化と簡略化をくりかえしてきたようで意味の見つけようはない。土器は巧みに復元されているのでどの部分が追加されたのかわかりにくい。この図の上半分は出土した部分らしい。
 全面に隙間なく図柄をはめ込んだ土器<図>。これには古代中国文化かアステカ文化の写真集に出てきそうな雰囲気がある。2つ並んだ穴や、角張ってはめ込まれた文様の一部がそんな感じを与えるのか、それとも、この図の角度で見るとほぼ左右対称になる固い姿のせいだろうか。
 盛り上がった突起の中に口が埋もれた土器<図>。それぞれの突起は、それ自体が一つの部屋のように空間を包み込む。複雑に入り組んだこの立体は、もし現在作るとしたら雌型を利用して流し込みで作りたくなるだろう。ひも状の物体で構成されたこの立体は確かに縄文のかたちの延長線上にある。しかし、これはどう見ても日常生活の道具ではない。これは縄文時代にときどき生ずるひどく特殊な形式の一つだと思う。
 これとは別に、この突起がさらに発展したと想われる大きな土器が大切そうに一つだけガラスケースに収まっている。それは「水煙文土器」と表示されて下から光を浴びる。
 外に出ると風も出て一層強い日射しだ。桃の苗木か、赤と白の八重咲きが並んで風に吹かれている。すでに午後4時をとうに過ぎた。


メモ

1 今回は思いがけずたくさんの収穫があった。縄文草創期は、とらえどころのない面があるが縄文の感性の始まりとして強く興味を引かれる。たとえば、あの簡潔な文様の隆線文土器が遠い昔に東北の北と関東の南にほとんど同時に存在したのだ。その後の経過も考えると、列島全体の感覚的な傾向の一体性は相当に確かなものであるらしい。


2 スケッチにしなければならない写真がさらに増えてしまった。今回の分はぎりぎり少なく選んでも20枚はある。去年の東北の分はまだ北上市が終わったばかりなのに。それがまだ30枚はある。(03-04-24)


3 帰ってから国立民俗歴史博物館「くらしの植物苑」のボケと遠州のそれを写真で比べてみると、植物苑のは赤みがところかまわず出ているが遠州のそれは花心の近くと花びらの縁に多いようだ。そこで全体に白みがまさって淡泊に見える。(03-04-26)


4 縄文のかたちをエネルギッシュだが粗野で未完成で土俗的なものとする見方があるとすれば、それは自分自身の眼で十分に見る機会に恵まれなかったからだ。そんな風に思ってしまった人には、均整のとれた構成、優美なまでの省略、流麗な線と面、軽妙繊細な装飾、などと縄文を評することはおもいもよらないことだろう。(04-06-21) 


5 テレビ画面でホシガラスがハイマツの実を食べているところを見た。丈夫そうなくちばしと頭の様子は、東京都埋蔵文化財センターで見た鳥のような突起によく似ている。(04-07-28)