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 関東へ                              
               2002.07.08(月)-07-14(日)
 


7月8日(月)晴天
 朝、8時30分出発。足柄Saで早い昼食をすませる。上野Icで13時30分。動物園は今日は休みで、駐車場のおじさんは「どこでもいいから好きなところへとめていい。」という。「東大までどのくらいの距離。」と聞くと「かなりあるよ。そうだなぁ。どう行ったらいいかなぁ。」「この辺でタクシーは。」「すぐそこに、いくらも来るから。」出口前の通りにはタクシーが連なっていた。赤門の近くで降ろしてもらって、もう少し先だと思って塀沿いに歩いていくと広い通りに出て、大学側は左と思ってさらに歩く。それでも、やっぱりこれはおかしいと思う。また細い横道を戻って、学士会館で聞くと、「このすぐ裏になるのですがこのまま行けないんです。」「ここからはどう行ったらいいんですか。」「この裏に道があるんです。」といって自分でドアを開けて出て行く。「あ、今あの人が行く。あれを行ってこの裏に回ってください。その突き当たりが博物館です。」木が多くて、建物はともかく気持ちのいい道だと思って歩いていくと、玄関のかなり手前から本日は休館日と読める。中を覗くとあちこち明かりはついているけれども人の姿はない。赤門の門衛のところへ戻って休館日が月曜日であることを確かめる。仕方なくまたタクシーに乗って明治大学に行く。
 附属考古学博物館は、通りに面したビルに入口がある。入ると直ぐに記名の机が用意されている。今日は何かの会があるらしい。制服を着た係の人がいて、「私は一般の訪問ですが。」というと「では、こちらに名前と時間を記入してください。」と、やはり机上の記名簿を指す。日傘用に傘を持ってきているのでうろうろしていると「こちらへどうぞ。」と鍵付きの傘立てに案内してくれる。エレベーターで4階に上がって受付をのぞく。訪問者があってもあまりかまわないところだ。声をかけると、近いところにいた女性が「こんにちは。どうぞご覧下さい。」という。最初の展示は旧石器時代。「ナイフ形石器」と表示されて鋭い刃の石器が並ぶ。艶のある黒曜石だ。何々と表示されてたくさん並ぶ中で、あるものは琥珀色に透きとおっている。なかには、その薄い先端をとおして下の布地が透けて見えるほどに透明なものもある。続いて縄文時代だが、すぐ晩期の土器がいっぱいに並ぶ。壁面のパネルに「亀ヶ岡式土器の型式変化」の図が示される。各型式には、すべて浅鉢形土器と壺形土器が並ぶ。鉢と壺とで、どこが共通点なのだろう。文様では曲線のもの、水平な線の目立つものなどいろいろある。
 晩期の土器がたくさん展示されている中に、大洞C1式土器とある朱色の壺を見た<図>。壺は口のところで無惨に欠けるが、胴の線はなだらかに豊かだ。よく見るように文様は各部分で点対称となる。なぜ、点対称なのか。そこには多分、形を続けていくうえで、また、想いを表すために全体を構成するうえで他の方法に変えられない魅力があったに違いない。朱はへこんだところにまだよく残っている。多分、漆ではないと思うが。この、ときには流れるような文様には魅せられる。補修部分ではなくても、線をたどっていくとある場所で途切れてしまう。復元の際のつなぎ目と絡み合い、また、風雨、土砂、川の流れのためか、線は時にまかせて長い間こすられ続けて途切れた行方を曖昧にしている。縄文の線は隠れる相手もなしに途切れるということはない。そこも、かつては確実に刻まれて何かの形を成していたはずだ。区画は、想いを形に表した主となる部分と、その背景かあるいは余白ともいうべき部分に分かれる。この朱がそれを示していたかと思うが今は分からない。いつものように浅い縄文で区別されていたのかもしれない。
 大洞A式土器の一番端に高坏形土器が置かれている<図>.。これなら、今でもリンゴやブドウなど果物を盛りつけてみたくなる。上で開いた丸い口辺には八つのゆるやかな頂点が配置される。隣り合わせた頂点には、稜線でかすかな溝がわたされる。頂点の内側から出て隣の頂点の外側へ。これは、かつて、もっと大げさに表現していた時代の名残で、器の口で何かの意味を表していたのかもしれない。内側周囲に細い棚のような段がある。あたかも円形の蓋を支えるためかのように。側面周囲には薄く折り畳まれた紐だけが描かれる。鋭く立つ台は高い。様式化され均整のとれた形だが堅くはない。口辺の曲線が器の表情を決めている。
 出口の部屋にフランスの岸壁動物彫刻写真。部屋の外の展示ケースに、やや小ぶりのスコップが大切そうに立てかけてある。これが岩宿の切り通しでも石器の探索に使われたのだ。
 ここに入ったのが2時半で、出てきたら4時半だった。今日は、もともと2カ所は無理だった。明日からの予定を調整しなければならない。


7月9日(火)晴天
 東大総合研究博物館。企画展示「北の異界」。謎のオホーツク人。写実的な熊の表現。極細の粘土紐を貼り付けた細かい波模様。彼らはごくあっさりと飾る。アイヌの熊送り。これは、むかし北海道二風谷に住んだ外国人医師(N・G・マンロー)が撮った無声映画。縛られて、ほとんど身動きのできない幼獣を至近距離から射殺す。人類学者マンローについては「アイヌ学の夜明け」という本で梅原猛とF・マライーニとの対談で語られている。アイヌの人々の文化と歴史には本州日本人の文化と歴史と同じように興味深いものがある。共に縄文人を祖先とし、幾多の経過ののち現在に至るまでそれぞれの文化を維持してきた日本人として。
 続縄文式土器を見た<図>。この文様の堀り方には独特の几帳面さがある。これは沈線文というのだろうか。幅のあるなめらかなへら先で、やわらかい粘土の表面を軽く押さえ引いて線を描く。その辿る線は一定の幅の道のようにも見える。その重なり、その囲い込みには丁寧さとへら先から創り出される形への強い関心を感じさせる。
 擦文土器を見た<図>。口で急に広く開いた鉢の上半分には細かく並べた線が一面に刻まれる。折り返すように並んだ数本の線は小さな面となり、V字形に組み合わせた2枚の板のように見える。立体的なイメージ。また、櫛の歯状のもので折り返した線にも見える。しかし、実際には本数や線の間隔は正しい「折り返し」になっていない。もし、始まりが櫛の歯状の道具だったとしたら、なぜその効率のよい道具を捨てたのだろうか。やはり彼らも、それは機械的でおもしろ味のない弱い表現と感じたに違いない。
 市立市川考古博物館。「カメラで写真を撮ってもいいでしょうか。」「名前を書いて届けていただくことになっています。」小さく切った藁半紙に目的、住所、氏名を書いて渡すと、下の半分を返してくれる。「一応、これが許可書なんです。」と笑う。おかげで、ぼくは堂々と写真を撮ることが出来る。二階へ上がるとすぐ縄文時代の深鉢、浅鉢、注口(ちゅうこう)土器が並ぶ。二つの単純な形の浅鉢がある<図>。左の鉢は縄をなったような形がそれだけ口辺の一部に浮き上がっている。右のは、見おろすと四角でも丸でもない、ふくらんだ三角の鉢だ。横から見ると口辺が3カ所なだらかに高まる。どちらの鉢も全体の外形は厳しく簡潔な線を描く。
 注口土器<図>。この注ぎ口は容器の高さまで上がっているので収める容量はいっぱいにあったはずだ。祭祀用にしても用途は形だけではなく実際的だったのだ。文様は随意に引かれているが形の囲み方は平面的。特徴は全体の形の優美にある。縄文の終わりに、文様は固い形式に流れ自由に躍動するかたちが少なくなる。しかしなぜか、容器の外形は洗練された感性を感じさせるものが多い。図は斜め上から見たものだが、真横から見ると胴は昔のそろばん玉のように菱形をしている。やや上半分の方が大きいのでそれだけにどっしりとしている。口の両端に載っていたと思われる突起は何だろうか。注ぎ口の反対側なら穴に人差し指を通して持ち上げ、液体を注ぐために傾けたかもしれない。上に張り出した面は親指を当てるのにちょうどよいのか。または、両側にあるところをみると、穴や上の面を利用して弧状に取っ手を取り付けたのか。いまは残らないけれども、蔦や縄なった植物繊維は目的に合わせて盛んに使われたのだろう。口はやや狭いが全体の形から見ればこれがちょうどよい大きさだ。内部の細工はどうしたのだろう。小さめの手を手首まで入れても思うようには動かせないはず。現代の陶工が使うように適当な形に加工した木片が使われたかもしれない。
 竪穴住居址内の場面復元がある。説明によると、それは一度に地震か疫病で死んだ4人家族の姿だ。


7月10日(水)雨天
 江戸東京博物館に近寄るのは大変難しい。余裕があったら入れる駐車場。企画展「発掘された2002年」。漆塗りの木製品。岩宿Vの尖頭器。常設展示、東京の歴史。ここには中学生と一緒に来たことがある。街の上を大きな爆撃機の飛ぶビデオ映像をじっと見る老夫婦。それを何となく眺めて歩いていく二人の西洋の金髪女性。本を2冊買って昼食。広いガラス窓からビル街と隅田川を見下ろす。雲が速い。台風6号が来るという。

 国立歴史民俗博物館には3時過ぎに着いた。天気も悪いので来ている人は少ない。最初の展示は、縄文土器の巨大な雛壇。沖縄から北海道まで地域別に番号を付けて、その一覧表も示す。上の方のはよく見えない。オペラグラスが要る。手前のは横からもかなり見ることが出来る。出来るだけ写真を撮る。
 ひな壇の下の右端には、中央高地の縄文中期によく見る土器がある<図>。正面を向いた一番大きな突起は、なかなか複雑な形をしている。例によって斜め横を向いた丸い穴が上下に2つある。上の穴は貫通していない。ここでは、やや厚みのあるテープ状のものが大部分の形を構成している。テープは穴の正面の円を作ったり、そのリングの外周を一定の幅で作ったりしている。そうした穴やリングから流れ出たテープは、容器の表面に降りて密着し進む。向きを変えて2つに分かれたり、テープ上で蛇行を極端に押し詰めた模様になったりする。作り手たちは何を想ってこの平たい紐を巻き、くねらせ、這わせたのだろうか。伝わってくるのは個人の想いか、またはこのパターンをあつかった多くの人々の間に昇華された無意識の感情か。ここには、「連続と分離」、「移り変わり」がある。ある時間の経過。何かの行為の経過。
 すぐ上の段に、栃木県の同じ遺跡から出たもので外形の似た2つの深鉢が隣り合わせで並んでいる。左側のものには上端周囲に、ごくあっさりしたひも状の文様がある。右側のものはそれより少し大きく、上部周囲にやや深い縄文が目立つ程度でほとんど文様らしいものはない<図>。これは、お隣のような土器の基本形ともいえるが、これだけで完結したデザインでもある。上も下も丸みを持った形で閉じ、胴部の曲線はあくまでなだらかだ。これらによって全体のやわらかい姿を作り出している。土器の制作について彼らの間にやかましい約束事があって、これは、その中の一つのパターンにすぎないのか。それとも、個人の好みにごく自然に従ったものか。装飾をふんだんに使った土器の中にあって、このような簡潔さを容認することの不思議。しかも、上下を丸めた形は決して作りやすい形ではない。だから、日常頻繁に使う容器で大量に作っていたための単純さではないと思う。
 縄文の器には、丸い底や尖った底がいくらもある。ろくろを使わないで粘土をこねて器を作っていくとき、現在のやり方は台の上に底を作り、その上に側面を組み合わせたり、輪っぱを積み上げたりする。このやり方では丸い底はいかにも作りにくい。必ずしも底から作っていく必要はないとしたら、それはどんな方法だろうか。たとえば、上下を半分ずつ別々に作って胴でつなぎ合わせたのだろうか。同じ大きさの胴部から底部と口縁部に向かってそれぞれを作っていったら十分に可能である。この簡潔なデザインの土器の場合、そのつなぎ目は支持具のあたりかもしれない。もともと上下を分けたくなるような外形のものもある。この土器の直ぐ下、先ほどの土器の隣には基本となる形がずいぶん複雑な土器がある<図>。この胴には水平に続く復元時のひびが見られる。ここがつなぎ合わせた壊れやすい部分だったのかもしれない。もちろん、そうではなくて、胴のややくびれたところで単に厚みが不足して弱かっただけかもしれない。
 ところで、この土器には外形の他にも目立つ点がある。それは表面の文様と曲がったパイプ状の突起だ。ふくらんだりへこんだりしている側面は、その起伏に合わせて適当に区画される。区画の中にも様々な模様が入れられる。特に規則や意味がありそうにないほど色々だ。まるで入れる形の変化を楽しんでいるかのようだ。パイプの方は醜悪になる寸前という感じ。斜めに長く巻いた本体の上にもう1つパイプが開いている。この場合も開口の向きは少しずらされている。対称的に反対側にもあったようで、そちらにも白く補足復元されている。両横に付いたパイプを正面から見るとちょうど容器の取っ手のように見える。位置も大きさも適当なので、これでどうやら落ち着いて見ることができる。穴のあいたリング状のものが外へ少し飛び出しているのはよく見る。これほど長い管になったのはそんなにはないと思う。人々は、この形から何を想うのだろう。生活の中でこうした形を眼にすることがあるのか。ある日、やわらかい粘土をいじっているうちに、いつののまにかできていた形か。
 4時半のアナウンス。隣の部屋に市川で見た縄文家族の姿。縄文人の大腿骨について説明する骨格標本。両国で見たうるし塗りの木製品。質問は紙に書いて届けるということで、この木製品について書いて出した。ホームページ掲載についても書いた。


7月11日(木)晴天
 土浦市考古資料館。「写真撮影は遠慮していただくことになっています。学術的な論文などで資料として使うときは届け出て許可を受けることになります。ホームページの取り扱いについては、まだ検討が進んでいない部分があります。スケッチについては、あまり例がなく個々のケースで検討することになるので後ほど連絡をしたいと思います。」先回来たときに撮影した写真のスケッチをすでにホームページに掲載しているので、それを見て検討してくれるように依頼。ここにあったことを忘れていたけれども、あの半分に欠けた浅鉢をもう一度見た。やっぱり原始の造形などというものではない。このデザインでもっとしっかりした素材で作ったら、現代の器や花器として十分使えると思う。突起の細部で左右対称にこだわらないところがいい。これは、意識的に左右対称を避けたのではなく、連続した線などで何かを表すために必要なことだったのだろう。人は、「そんなに縄文をかいかぶって。」というかもしれない。今回よく見ると、右側で欠けて見えなくなる間際に、もう一つの紋様の始まりがわずかに見える。左側にはない。
 土浦市から入間市博物館は遠かった。きのうの関東地方は、夜、ひどい嵐だったが、今日は快晴で日が照りつけ真夏のように暑い。博物館は広い敷地に大きな建物。写真撮影は事務所で届けを書いて許可を受ければ可。黄色い腕章も渡してくれる。展示室に入る前にバルコニーから見るための展望図を「どうぞ出て行ってご覧下さい。」と手渡してくれる。東側で広く開いたバルコニーに出て、右手から左手へ次第に下りながら丘が連なる景色を見る。このあたりから西や北の方に山が始まる。斜面に茶畑がある。図には富士山が描いてあるが見えない。今日、午前中はよく見えていたのだという。展示室の最初のところで女性の係員が「こども科学室」へ案内してくれる。ここにはおもしろい仕掛けのコーナーがいっぱいあって、彼女が操作などいちいち説明してくれる。見えていて手を出しても掴めない硬貨。仕掛けの理屈は説明しないでそれぞれに考えさせるという。「あなたは分かっていらっしゃるんでしょう。ぼくは大人なんだから教えてください。」彼女は本を持って来て凹面鏡の図を見せてくれる。凹面鏡に手がぶつからないところを見ると、まだ仕掛けはあるはずだ。(のち、博物館からいただいた返信によるとほかに仕掛けはなく、おそらく、大きな凹面鏡なので鏡面に手がとどかなっかったのでは、とのこと。)他に、自分の影が残る壁。回転する車輪を持って回転台の上に乗ると自分の体が回転する現象。水の詰まった円筒から外に出たゴム製の袋(昔の豆腐売りのラッパの)を握ってつぶすと、中の人形がゆっくりゆっくり上下する装置。一番すばらしかったのは「分身ミラー」。自分がいっぱい。これは壁が6面の鏡の部屋に入ること。本当に自分が大勢になって見える。「本当は無限に見えるんじゃなくて、有限なんだそうです。」色鮮やかなきれいな服を着て入ったら万華鏡の中。
 出土した立派な土器がたくさん展示されている。すぐ近くで直に見ることが出来る。「小学生なんかは、つい手を出して触るんじゃないですか。」「ええ、注意して見てるんですが、どうしても触りますね。でも、それはある程度必要なことと考えているんです。ほかの展示でも小さい子の目線に合わせてなるべく低いところにしてあるんですよ。」こどもが触ることもできる文化財。「入間市の縄文土器 …入間市内では縄文時代早期から後期に分類される土器形式が発掘されており、特に前期と中期の土器が多数出土しています。…」。
 ここで勝坂式土器と表示された土器の多くには、蛇や虫のような生き物を連想させる文様が含まれる。なかでも、いかにもこれは蛇だといいたくなる土器がある<図>。口辺部に立つ4つの峰のうち3つは根元から白く補修されている。残った1つには上からこうもり傘の柄のようなものが垂れ下がる。その下の丸い紋章風の形は左手奥にも続いて並ぶ。正面の蛇のような形の右手には、半月型の銛先みたいなものを付けた柄が曲がって消える。その向こう、正面の反対側は見えない。この「蛇」は、頭の部分が丸くなっているが目のようなものは見あたらない。体の模様は斜線で「鱗」ではない。この形がいかにも蛇らしいのは頭の向きと形、さらにはくねり曲がる体の線による。これが蛇だとして、制作者が写実に対して興味または意欲があれば目を付けただろうし、体に斜線だけを刻んですましたりしなかっただろう。彼は、(あるいは、似たような制作を何代にもわたって続けた人々は、)ここで写実表現の必要性をほとんど感じていなかったのだ。ただ、これほどそれらしい形作りを経験した人々のなかに、一人ぐらい蛇の細かい特徴(眼、鱗)を刻んでみるという気を起こした者はいなかったのだろうか。
 立体的な紐の文様を簡潔にデザインした土器<図>。ここでも、表現の原則は点対称のようだ。2つの紐が背中合わせに接するところはやや厚みを持って張り出す。この上部模様を2本の紐で平らに表さなかったのはなぜだろうと思いながら見る。ここに特別な意味を見つけようとしたりする必要はないのかもしれない。粘土で最も簡単にできることの一つは両手で一定の太さのある紐を作ることなのだ。このデザインは、できた紐を装飾として土器の表面に押しつけていくうちにごく自然にできたもの。隣同士合わせるとき、長さが余分にあればとび出す。とびだした隙間を埋めて上下を本体になじませるとこの形ができる。あるいは、右から来た紐を上に重ねただけかもしれない。いま、この形はわずかに、しかし、いかにも空間に張り出している。この確かなかたちをかれらはどのように味わったのだろうか。口辺の上面はほぼ平らだが、そこに浅い段差がめぐる。それは1箇所の側面から上がってきた溝から続いている。上部以外に目立つ文様はない。
 一階へ下りると、そこはまるでお茶の博物館。大きなパネルに、全国各地のお茶の飲み方の写真と説明がある。「沖縄県那覇市のぶくぶく茶」、「富山県朝日町蛭谷のバタバタ茶」、「山陰のボテボテ茶」など。「こういう展示はおもしろいですね。今でも実際にこうした飲み方をされているんでしょうか。」と部屋の女性に聞く。「ええ。ただ、最近は特別なお客さんがあったときだけのところも多いようです。」


7月12日(金)晴天
 桐生へ向かう朝の国道50号線はかなり混んでいる。対向車線はすいている。帰りはまた高崎へ戻るのだから先に北へ行った方がいい。相沢忠洋記念館は、山の端の林の中にある。
 下に車を置いて木立の中をあがって行くと少し開けたところに木造の建物があって、近づくと左手で犬がほえる。中に入ってしばらく待つとお年寄りの男性が出てきた。「耳が遠いもので。犬がほえるので分かるのですよ。」とにこにこ笑う。観覧券を買う。彼はビデオのスイッチを入れて前に並べてある椅子を勧めてくれる。それから、僕がビデオを見ていると、また奥からお盆を持って出て来て茶托に乗せたお茶まで出してくれる。「今、館長は帰ったようで、もうじき出てきますから。午後は出かける予定になっとりますが昼まではおります。」という。このビデオは相沢忠洋の生い立ちと石器発掘の活動経過を描いている。彼が病院に入院していた療養中に制作されたもので終わりの方で病床の彼の姿がある。館長というのは奥さんの千恵子夫人。ビデオが終わって展示の石器を見ていると彼女が奥から出てきて、いろいろ説明してくれる。小型のガラスケースの中に黒曜石尖頭器が縦にして一個、大切に展示されている。「教科書にも必ず写真入りで載っていますが、これは重要文化財にもなっていないんです。」
 50年前、明治大学の学者がやってきて発掘したとき、これと同じものが出なかった。そこで、こういうのが切り通しの赤土の中から出てくることを証明できなかったということらしい。当時はそれほどまでに慎重だったのだが。「相沢はよく、石器よりも、それが出てくる遺跡こそが大事なんだ、と言っていました。」それから、館長の奥さんは最近放送された岩宿遺跡関係の番組ビデオを見せてくれた。みのもんたが司会を進める番組だ。相沢忠洋が書いた本が何冊かあって、最初の「岩宿の発見」をもとめた。「これと同じものは今では絶版になってしまってるんです。文庫本になってるんです。子供さんにも求めやすいということで。こちらはもう33版になっています。」礼を述べて外に出る。奥さんも出てくるとやや耳の垂れた白い犬がすぐやってきて二人の足元に腹這いになる。周りはなだらかな山の斜面で足元には木立に囲まれた窪地が広がる。「あの下の少し広いところでよくボーイスカウトの子たちが来てキャンプをするんです。それから、ここでは今度、石器づくりなんかもするんですよ。笠懸の博物館の方が来て指導されます。」足元の犬が腹這いのまま二人を交互に見上げて一生懸命にしっぽを振っている。「かわいい犬ですね。人なつっこい。」「ええ。まだ子供で、甘えん坊なんですよ。」上がってきた道を下りていくと後方で犬が鳴いている。「お送りしなさい。」とか聞こえる。驚いたことに本当に犬がとことこ追い付いてくる。立ち止まるとじっと顔を見上げる。とうとう車のところまで付いてきて「大丈夫か、帰れるかな。」と声をかけると盛んにしっぽを振る。大きく口を開けて舌を扇ぐ。今にも「わん」といいそう。車に乗り込んで道路へ出たところで振り返ると、白い犬は林の中の坂道を足早に上がって行く。
 つぎの笠懸野岩宿文化資料館は、南へ戻って国道50号線のそばにある。いま、資料館2階では岩宿時代と呼んでいる3万年前から1万3千年前までの旧石器時代について展示されている。また、1階では岩宿時代に続く1万年に及ぶ縄文時代について展示されている。この資料館は、旧石器時代(特に岩宿時代)について大変力を入れて展示しているが縄文土器も大変充実している。きわめて特異な土器が多数展示されている。1階の縄文土器については写真撮影を許可された。
 明るい照明のある展示ケースに「縄文時代(13000〜2300年前)」と題したパネルが掛かる。「縄文時代は、岩宿時代から引き続いて狩りや採集する暮らしをしていたと考えられているが、1万年の間にその暮らしは大きく変化したという。縄文土器は、はじめ煮炊きの道具からはじまるが、盛りつけ、液体を注ぐ土器といった用途に応じた土器が現れるようになる。石器も、はじめ狩りの道具が中心であるが、土掘りや植物を加工する石器に中心がうつっていき、狩猟中心から、植物質食料の採集や管理などに生活の中心がうつっていったと考えられている。町内には20か所以上の竪穴住居が8の字状に巡っている清泉寺裏遺跡や多数の注口土器が出土した阿佐美遺跡、1万年前の大規模遺跡である西鹿田中島遺跡が有名である。」
 特別、珍しいかたちというわけではないけれども、それぞれ特徴を見せる土器が3つ並んでいた<図>。胴の太めな左は、上部で4つに分かれると浅くとがって広がる。控えめに、なんの飾り気もなく開いている。この4つの頂点は何に由来するかたちなのだろう。中央は、深鉢によくあるラッパ型で開いた口辺に何もなく、きれいな線を見せる側面にこれといった装飾もない。右は、上に大きく開いて「貝殻状突起付き深鉢」といわれたりする凹凸の多い器の形に似ている。
 つぎはなんという驚くべきかたちの土器<図>。なぜ、ここまで派手な広がりが必要だったのか。しかも、各稜線は二重になり4つの先端でも二つに分かれて広がってみせる。そのうえに大きい。これは上から何かを受け取る姿か。もっと小さかったらとても実用的な器には見えない。この土器のもう一つ目立つ点は胴の途中のふくらみだ。この骨張ったふくらみは上の特異な形に加えていっそう奇妙な感じを演出する。まるで、ここには輪っぱが入っていてここから上まで何本もの角が先端の皮を突っ張っているかのようだ。胴のこのふくらみは、粘土で形作る途中の継ぎ目なのかもしれない。
 これも、「貝殻状突起付き深鉢」のなかまだ<図>。口辺の突起は厚みのある粘土片を外からかぶせたようにも見える。その中に牙のような形で向かい合い、ひときわ高く立つ一組がある。口辺の輪の中で示される何かの配置だろうか。側面には、この種類に共通する線条と中のへこんだ丸い粘土片がある。底は丸い。同じ種類の中ではこの底のかたちは異例だ。
 これは、浮き彫りを施した器か<図>。焼き肌は茶よりも赤味の強い濃い色をしている。その容器側面の至る所で大小のラッパ型の口が開く。それに続いて曲線がうねり飛び出す。間には深い溝が平行したり、わずかに曲がったりして刻まれる。三角の隙間にギザギザの波線を入れている。丸く囲まれた中に深く刺した穴が並ぶ。これらの配置に何か意味を見つけるのは難しい。下の部分だけは、何も文様のない浅い円筒形。上と少し違いすぎるような気がする。ラッパの口はすべて少しずつ斜めを向く。非常に小さな口もわざわざ開けてあるが少し上を向く。これは何者かの入り口か出口か。いろいろな想いが混乱したまま揺らめき出るか、入るか。
 これはまたかわって、優しく端正な姿<図>。帯を締めた貴公子といったところ。見ている者の気が小さいせいか、こういうのは落ち着いて長く見ていられる。帯の上で左に出た取っ手様のものは右側にもある。取っ手としては小さすぎる。口辺の枠の下に規則正しく並んだ半円は、両端から垂れ下がる紐や幕を連想させる。その下にYの字形など記号のようなかたちが明らかに浮き上がる。これは右にもある。記号ではなくて何事かを単純化したかたちかもしれない。おそらく、たまたま制作者の個性が緻密な表現をさせたので記号のように見えるだけなのだ。ふつうは自分たちだけに分かるぼんやりとした表し方になることが多いのだろう。口辺の上には向かい合って2カ所の峰がゆるやかに立つ。ただし、片方は土器の再生時に補足されたものらしい。帯は腰高に締められる。その下の輪郭線はわずかなふくらみで下に向かい、全体を見事にかたちづくる。
 思いがけない単純な姿で立つ土器<図>。これも3400年以上前の人々の感性なのだ。容器の側面をかたちづくる線はあくまでなだらかに広がり口辺に至る。口辺部の厚みは薄く、それがかたちをいっそう繊細な感じにする。ここで唯一上に引き延ばされた出っ張りには穴があく。その右に小さく浅い出っ張りが縦に付く。これらは全体の中でごく控えめに表される。これはなんだろうか。何か意味があるにちがいない。容器全体のかたちは、これ以上付け加えるものはないほど完全にみえる。表面に線刻された文様もよくかたちにとけ込む。この線をたどってみると、多くの線は一周して出発点につながる。こうして何重にもかさなった線のデザインは、よくあるのかもしれない。ここにそれを選んだ感性は素敵だ。
 フロアの中央に立つガラスケースに収まった土器<図>。これは、上からの明るい光を浴びて真紅のフエルトをかけた台に置かれる。それを四方から間近に見ることができる。上からのぞくと底の部分も見える。実際に出土した部分は底と側面の一部らしい。全体の4分の1強か。丸い器は側面を下っていったん絞り込まれ、再び少しふくらんでいる。それで二重の器に見える。添えられた文に、「…テレビやSF映画でおなじみのUF0によく似た形をしてい(る)…」とある。また、「特殊な状態で出土することが多く、何らかの儀礼に使われた土器または威信財(…)だったとみられます。」という。
 資料館の向かい側に「かたくりの湯」という温泉施設がある。町外の訪問者も利用できる。ここでは、タオルを百円ロッカーに入れてしまうという失敗をした。百円玉は戻らないし、もう硬貨はない。受付の女性たちが見ていたらしく笑って百円玉を持って来てくれる。帰りがけに受付でかたくりの湯の由来を聞く。この近くにカタクリの群生地があって毎年三月は賑わうのだという。「岩宿の里 散策案内」のパンフレットには「山裾に広がる花群れは、足の丈夫でない方でも楽しめます。」とある。
 高崎市に戻って群馬県立歴史博物館を見る。もう午後4時を過ぎている。ここでは受付の女性を困らせてしまった。写真撮影については、なかなかきびしくて、すでにスケッチをする時間はない。「どこでもたいていは許可してくれるんですが。」としつこくたのむと彼女も困っている様子。「だめだったのは鹿児島くらいです。ここは関東の果てですか。」と憎まれ口をきく。悪いことをいってしまって、あとでいつまでも思い出すことになった。彼女が男の人を呼んでくれて、該当者として当てはまるはずのなさそうな許可書を書かせてもらう。彼の付き添いのもとに4点の土器を撮影する。
 1点目<図>。このように豊かにふくらむ土器はどのように作られたのだろう。ふつうに立てたままでは難しい。粘土には重みがあるから、これほど狭い底から広がった器面はそれ自身の重みで落ちて壊れる。できたとしても軟らかいかたちがいつまでもじっと立っているはずがない。いろいろ思いめぐらす。途中で分けて作ったのか。容器の途中に接合面を思わせるような形はない。跡を残さなかったのか。または、たとえば、安定するように下の方の厚みを相当厚く作っておく。ふくらんだ胴部や口辺を作って日陰に置く。そして、乾燥が進み始めたある時期に下部の外側をそぐように削る。または、逆さまにして作ったのかもしれない。この口辺の形は上に向けて立ててから削り取る、というのはどうだろう。もう一つ、この土器の特徴は頂点が2つということ。口辺は、その2点からつり下げられたような形に作られている。その外側に一段さがって棚のような出っ張りが取り巻く。低まった両側には縦に2枚の板が掛けられる。これはなんだ。一部には何か物を小刻みに押しつけたような凹凸。ふくらんだ側面にはいくつも走る2条の筋。これらの形や表面のせいだろうか、土器全体に堅さを感じる。このかたちには、ほかの容器や祭器にない独特な雰囲気がある。これも、当時としては多くの人に何度も繰り返された形式にすぎないのだろうか。
 2点目<図>。これも堅い感じだ。おそらく、この土器の場合も表面の処理のせいだろう。それと、注ぎ口の上で一点に絞られ鋭く尖るかたちへの緊張感。それは、丸みの多いかたちの中で一層強められる。また、ろくろを使うことなく、ここまで口をすぼめるにはどんな方法があるのか。
 3点目<図>。これは、尖石で見た土器をすぐ思い出す<図>「貝殻状突起付き深鉢」。粘土をにぎやかに貼り付けた形状と側面に刻まれる線条という共通点。この形は広範囲に行われていたのだ。糸井宮前遺跡は、群馬県昭和村にある。片品川を挟んで沼田市に接する地。稲荷山遺跡は群馬県笠懸町。丸山遺跡は長野県茅野市にある。新潟県十日町市博物館にもあるという。表現に少しずつ違いがあるが、細く絞った胴から急に上に広がるという基本的なかたちは同じだ。広い範囲で同じ目的に使われていたにちがいない。出土するのはほんの一部だろうから、一定の期間各地で作られたものを合わせたら非常に多い数ということだ。こういう容器には、いったい何を入れるのだろう。長くてよくしなうもの。それをいっぱい入れて広げておくか。
 4点目<図>。この晩期の皿は亀ヶ岡以来各地で何度も見た。円周の中に収められた文様の流れるようなかたちの繰り返し。謎めいて眼が離せない。しかし、いつも照明の不具合、光量不足や展示の向きの不都合でスケッチも撮影もうまくいかなかった。今回は、あわただしい撮影だったけれども何とかうまく3面を手に入れた。    ここには、欠けて隠されているところにもかたちが2つ始まっているとして、全部で8個のよく似た文様が繰り返される。が、何もかも同じではない。というより、元々同じにする気は全くないような表し方だ。かたちの細かい違いはすぐ分かる。また、同じかたちが繰り返されていることもすぐ分かる。このかたちは、円周で区切られた一定の枠の中に巧妙に変形して組み込まれたもので、この流れる線は、ただ、その結果にすぎないのだろうか。彼は、(たぶん彼らなのだが)意図したかたちに斜線を刻むことでそれ以外の隙間を明らかに区別している。もしかすると、その隙間にみえる部分こそ意図したかたちなのかもしれないが。たぶん、この鉢は水平に置いて真横から見ることこそ必要なのだ。当時の人々はそうして見たのだから。だからだろうか、どこかで見たとき、文様はまるで水が流れるように見えた。文様のなぞは裏の3面を何度見比べてもはっきりするわけではない。それでも、これらの向きは彼が制作しているとき見ている向きなのだ。
 帰りしなに受付の女性に「四つ撮影ができました。」とお礼をいう。ありがたいことに彼女は笑顔でこたえてくれた。今日の日程には少し無理があった。


7月13日(土)雨天
 長いトンネルをたくさんくぐって佐久Icを出る。
 佐久市で博物館を探したがここにはなかった。休日受付の市役所で旧小学校の資料館を教わって出かけたが、そこでは出土資料はないという。そこで「子供未来館」を教わって出かける。地球上に酸素を生み出した美しい藻類の化石を見る。月面における地球の六分の一の重力を体験する。諏訪盆地に向かう途中、八千穂村を通る。40年前の学生村。早朝、散歩をしたときの風景を思い出す。段差のある畑や田のあぜ道を歩いたこと。国道299号線は麦草峠へ向かう。雨や霧の中、標高はどんどん上がって2000メートルを超える。茅野市で東京理科大学博物館に出会う。残念ながら、ここは土曜日の午後で休み。諏訪インターに近づいて、諏訪市博物館に出会う。さっさと見たら、そのあとでの昼食でもいいや、と思って入る。ここの展示は諏訪大社との関連が強い。「時間・自然・信仰」がテーマだという。「藤森栄一記念コーナー」というのがある。彼は当時の定説とは違って、すでに縄文時代に農耕があった可能性を早くから提唱したという。そのピラミッド形のガラスケースの中。中央の大きな土器の下に並べられた小さな土器の中に丸いカップ状の土器があった<図>。これは何とかして僕の記録に残さなければ。写真撮影はご遠慮下さいということで、スケッチをするための「許可願い」の用紙をもらう。空腹だし、用具を追加する必要もあってスケッチは明日にする。どのみち、今から家まで車を走らせるには少し元気が足りない。


7月14日(日)曇り時々雨
 今日は日曜日なので博物館開館時間に合わせて早めに出かける。室内や展示ケースはかなり特殊な照明で、スケッチをするのにもやや暗い。この照明は、展示全体に対する演出として意味は大きいけれども、ひとつ一つの展示物をよく見るのには適していない。この形のよいカップの側に「ことば」が添えてある。おそらく藤森栄一が言った(書いた)ことばを引用したものだ。「何を飲むか。水とは思いにくい。やっぱり儀式としての飲酒であろうというほかはないのである。」台の高さや底の広がりは、上部とバランスがよくとれていて安定している。台は、中を満たして短いひととき置いておくためのものだ。たとえば細木を並べて結んだ平たい桟の上などに置いて別の大きな容器から酒や水を注ぎ入れる。人はどのようにこのカップを手にしたのだろうか。口縁部で、やや注ぎ口のようになった反対側に突起が出ている。それは縦に平たい突起で小さな丸い穴があいている。しかし、これをつまんで容器を持ち上げられるとは思えない。この胴の丸みは、小さな子供が両手の中に包むようにして持ち上げるにはちょうどいい。大人の手なら片手でつかむこともできる。どちらの場合も、この表面に積み上げたリングの感触が指に伝わってくるだろう。こうして手に持って、口縁部の注ぎ口から差し出された皿に酒や水を注ぎ分ける。あるいは、カップをそのまま自分の口へ持っていって飲んだかもしれない。このようなしぐさや情景を思い浮かべると、もはや大昔の世界ではない。たとえ5000年前のことであっても、われわれ自身の文化と比べてどれほどの隔たりがあるというのだろうか。容器の中が空の時には、蔦の蔓やじょうぶな縄を口の下のくぼみに巻き、突起の穴に通してぶら下げることもできるかもしれない。
 もうひとつの常設展示室に蛇体文土器というのがある。祭祀用らしい中に明かりを灯すための容器でたいへん精巧にできている。明らかに生き物の頭部と思われる同じような装飾がいくつもついている。どれにも二つの丸い目と深く裂けた長い口。口先の平たい部分に小さい穴が二つ、楊子のように細いもので突いてくぼませてある。この頭部は、鳥取の資料館の蛇のような生き物に比べるとよほど様式化されている。土器の両脇に出たリング状の突起は、長い間、人が触れ続けた跡のように艶がある。カップの年代を学芸員さんに確かめたとき、この艶のことも聞いてみた。あの祭祀用土器は補修はしてあるけれども、艶は出土時点からあったものだという。また、あの土器は、なぜか焼かれた住居址から出たものだということを教えてくれた。
 まだ午前11時前で、時間は十分にある。予定通り高遠、長谷、大鹿、駒ヶ根、飯田、稲武を通って帰る。