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 奥三面へ                              
               2003 - 07 - 17(木)〜21(月)
 


17日(木) 曇りときどき晴れ
 朝、早めに起きて準備を始めたのに出発したのは午前11時だった。当日にいろいろ思い付いてあれこれやっているとこうなる。日が照り出すと景色はすでに夏だ。道路は照り返り、木々の葉はきらめく。恵那山Saで昼食。ウイークデイの昼間は年配の二人ずれが多い。走り出すと、やっぱり眠くなった。昨日はアイスボックスの中の中蓋を作っていて、つい夜半まで起きていたからあまり眠っていない。また、駒ヶ岳Saに入ってうとうととする。30分ほどして車から出るとすぐ前の垣根の下にオレンジ色の百合の花が咲いている。(写真)



18日(金) 晴れ
 信州中野 Icを出て117号線を走る。途中、ナビの表示に従って進んでいくと脇道に入ってしまう。両側に民家の並ぶ細い道。道路の中央に融雪用の水を出す設備が続いている。これは地域の生活道路なのだ。今朝はまだそれほど急ぐ必要もないから、しばらくこういう道を走るのもいい。やがて線路の踏切に出る。これまで右手の民家の裏を列車が走っていたのだ。踏切を過ぎると千曲川に近づいて橋がある。ナビの表示に従ってそれを渡ると117号線に戻る。「道の駅さかえ」というのがある。ここはまだ長野県だ。店の前に土地の人が野菜を並べている。たまたま、2,3人でカボチャの話をしている。「揚げるより煮た方がいいっていうから煮たら、やわらかくておいしいっていってたよ。」カボチャは小振りで黒っぽいほど濃い緑色をしている。
 津南町歴史民俗資料館は国道から少し離れたところにある。ナビのゴールは国道沿いの役場だった。役場では「少し戻っていただくと秋山郷へ向かう表示がありますからそれを左に行ってください。その途中にありますから。」と教えてくれる。歴史民俗資料館の敷地に入っていくと目の前に大きな民家がある。茅葺きの屋根には、正面から見たちょうど中央に横長の穴が開いている。(ああ、あれがトタン屋根に吹き替えたときの流れ高まるもとだったのだ。)と、おもしろく思う。資料館は白壁の大きな土蔵のような建物で、渡り廊下で収蔵庫に続いている。
 窓口で入場券を買う。お金を出していて側に立てかけてあった道具を倒してしまう。受付の女の人が「こちらこそすみません。」といってあわてて出てくる。「土器などたくさんありますか。」「ええ。中国に行っていた火炎土器もちょうど帰ってきています。」「ほう、中国まで持って行ったんですか。」「ええ。でも、例のSARS騒ぎで実際には展示ができなかったんです。」「庭にある民家はいつ頃ここに移築されたんでしょう。」と聞く。あの民家は2百年も前からここにあって、しばらく前まで実際に住まいとして使われていたものだという。展示室は3階だった。階段を上がったすぐの戸棚に、もう白く補修された土器が並んでいる。入り口を入ると、室内には壁面周囲の展示と中央の展示棚があり、その間を一周して入り口にもどるようになっている。
 空間にあふれ出す立体<図>。かたちが定まらないで今にも溶け出しそうな姿だ。石膏でたくさん追加しているが全体はみごとに復元されている。器の赤い肌はひどく粗い。これは粒子の粗い粘土が使われたか、ながい時間を経るうちに表面のわずかなやわらかい部分だけが失われたか。出土した部分によってほぼ原型を見せているのは四つの大きな突起のうちの一つだけだ。あとの三つは大部分を石膏によって追加している。これは、遠いむかしの作り手のイメージを追うことのできる復元者との共同作品だ。追加部分は着色されていない。どんなにみごとに復元してもその作業にはかつてこのかたちをつくり出した者への謙虚な気持ちが必要だろう。追加する部分に白を使うことは復元時の追加部分を明らかにすることとそれが実際のかたちではなく実際に近いかたちであること示すよい方法なのだ。
 華やかに縁を飾る浅鉢<図>。こんなかたちを後の時代の材料で作り替えたら立派な盛り皿になる。たとえば白磁か青磁。それなら、縁の張り出しはもう少し控える。
 文様が側面から張り出した土器<図>。四つの突起は、口縁部に立つというよりも側面の張り出しが上に出たというふうだ。張り出しのラインの多くは例によって側面や口辺の文様から這い上がっている。どこもかもつながっている。だから、すべては部分ではなくて全体の一部なのだ。ラインの太い紐のわきに細い紐が沿う。その変化が容器の姿をおもしろくする。上からのぞくと中は二段にくびれて十分に広い。
 これは「火焔型土器」と表示される<図>。この姿はなぜか固い。縄文のなめらかに流れるラインやその不思議な連続は目立たなくなっている。全体が意匠の展示場だ。何世代も重ねてかたちを伝えてきた人々が次々にこれらを加えてきたのだろうか。容器の側面では口辺の模様をそのまま下に影のように写している。伝えていく途中の誰かがこの気の利いたことを思いついたのだ。あるいは、この模様には意味があって、もともとそれぞれの場所に置く必要があったのか。
 これも口辺で大きく広がっている土器<図>。しかし突起の姿は大きくちがう。まるで生き物のように流れゆらめく立体。これなら、燃える炎の中に見える「ある瞬間のイメージ」といえるかもしれない。これはねんど紐を付けるのではなく、溝を掘ったり穴をうがったりして内部に掘り進むことによってできているように見える。そこで、回転する部分の中心では掘り残された壁が立ったり、うがたれた穴は中空部分まで進入したりする。凹部の空間に魅せられる立体。この土器の出土部分は容器の下部と四つの突起の一部だったらしい。図の正面の突起は、さいわいにもそのほとんどが出土したようだ。
 ここではめずらしくほっそりとしたやさしい輪郭の土器<図>。側面の細かい文様は同じ幅の二本線で描かれる。上に載せられた中空の立体はぎゅっとにぎったらつぶれそうに繊細な造りだ。ほっそりとした輪郭も細かい文様も繊細な立体もここまでひかえめに表される。その姿をしばらくながめる。
 両脇にあるのは取っ手か注ぎ口か<図>。この大きさなら、両手に持って中の液体を回し飲みすることもできる。いや、もっと大事なことに使うのかもしれない。下でふくらんだ胴の文様は直角と巻いた円だ。少し固いが位置をずらした配置がおもしろい。
 部屋をめぐって出口の近くにこれを見つけた<図>。少しガラス棚が高いので見やすいとはいえないが明かりは十分だ。こんな雰囲気の土器をどこかで見たように思う。右上から斜めに下りる模様は反対側にもあるようだ。意味のある記号が詰め込まれているようにも見えるがそんなことはないのだろうか。容器の上にも何かが載っている。残念ながらよく見えない。
 昼頃、土器を一通り見終わって民具が展示されているという収蔵庫へ向かう。正面の入り口は開け放してあるが、内側には木の引き戸でできた頑丈な網戸がある。「この戸は必ず閉めてください。」と張り紙がされている。目の細かい網戸を立てて小さな羽虫も入らないようにということなのだ。中は資料館の3階より広いようだ。室内の展示の並び方は資料館と同じで入り口から左右に分かれた通路を一周できる。これは収蔵庫とされているけれども、実際にはよく整えられた展示室だ。周囲の壁面は、手前に大きなガラスをはめて中を明るくし、かつて農作業などに使われていたいろいろな道具や衣服が展示されている。その中の奥行きは1間近くあるだろうか、床に畳表が敷き詰めてある。
 衣服の展示では、壁に袖の短い半天様の上着がたくさん掛けられ、畳表の上に身につける小物類が並べられている。色が薄く褪せたものもある。ほとんどが紺色か藍色だ。落ち着いた色調の選択は、他の色を禁止された結果かもしれないが、人々の好みも反映しているのだろう。この展示の背中合わせに「あんぎん編み」の展示が端から端まで続く。その一つ一つの展示に「国指定・重要有形民俗文化財」と記された名札が付いている。壁面には「あんぎん編み」の簡単な衣服が並べて掛けられている。一番手前のものは紺色に染められ、同じ幅に編まれていて前開きだ。編み方にもよるのだろうか、これは思ったより編み目が細かく見える。肩の部分の小さなほつれや、裾がわずかにすり切れているなどが見られ、明らかに実際に使われていたものだ。床には大小の編み機が並んでいて手前の編み機では編みかけた状態で見せている。両端を支えられた「けた」には細かく刻み目が付けられ、刻み目の一つ一つに縦糸が下がって、その1本1本に「こもづち」がぶら下がる。畳表の上に「アカソ」の繊維が置かれている。
 民家の中に入る。さっそく、あの屋根の穴を見上げる。屋根の木組みの間にわずかに明かりが見える。もともと下を向いた穴だから中を照らすほどの明かりではない。屋根裏は真っ黒にすすけていて反射光もない。今日は土間の戸口を開け放って光が差しているし、建物の奥には明かりも点いているから明かり取りとして目立たないのかもしれない。排煙口としては位置がおかしいと思う。それとも、あの形だと雪が吹き込まないから煙出しや換気のために開けるにはいいのだろうか。土間は広い。土を固めたものではなく、表面は細かい砂利状だ。簡単な敷居で二つに仕切ってあってある。一方の土間には中央に四角く炉が切ってあって、自在鍵に鉄瓶が下がっている。昔、このまわりにむしろを敷いて家族が火を囲んだのだろう。土間の奥の鴨居の上に小さな神棚が上がっていて、その下の柱に「にわ」と紙に書いて貼ってある。その左手には畳の部屋と板の間が続いている。もう一方の土間は右手に牛を入れる部屋と炊事場が続く。戸口はそれぞれの土間に開く。炊事場には切り出した石を丸く組んで置いた「かまど」があり、地面を掘り下げて焚き口にしている。今、そこには大きな飯釜がぴったりと収まっている。この二つの土間の境には、たぶん、戸を立てるかすだれを垂らすかしたかもしれない。
 四角い炉に近い壁に全紙大の掲示があり、「この家の内壁に貼ってあった文書で、家の歴史を知ることのできる資料の一部です。」とある。毛筆で書かれた和紙はみな茶色くなっている。「寛政10年(1798年)今から[204]年前のものです。」と書き添えたものがもっとも古い。なかには和紙が濃い焦げ茶色になってしまったものもある。戸口の内側には「むしろ」を編む仕掛けが、これも編みかけの状態にして立ててある。仕掛けは「あんぎん編み機」に少し似ているが編み方そのものはまた別のようだ。
 外に出ると、昼時になったらしく作業をしていた人たちが昼食をとっている。若い母親も連れてきた幼児に何かを食べさせている。表の道の水路ではきれいな水が音を立てて流れる。大きなネムノキが淡い色の花をいっぱい付けて資料館の3階近くまで葉を茂らせる(写真)
 十日町市を過ぎて川口町に至る。以前、同じように北上して来たときは17号線に出ようとして町中で手間取った。ここで信濃川を渡ろうとしたからだ。今回は越後川口Icから高速で新潟まで走る。新潟空港Icに近づいて、まだ先があるという表示。今は、村上市まで日本海東北自動車道というのが開通している。しかし、まもなく上下対面通行になる。これでは一般道路と変わらない。今日はまだ時間に余裕があるので、新発田市で国道7号線に移る。ようやく村上市に入ったかと思うとすぐ朝日村に入る。今日の泊まるところは、事前に奥三面歴史館に電話をして村内の宿泊施設を紹介してもらい予約をしている。そこは、以前に来たときに休憩したところらしい。
 それは「道の駅 朝日」の中にある。前回はここに併設されている「日本玩具館」と「シルクフラワー制作工房」というのを見た。ほかにも温泉や物産会館などいろいろある。敷地の奥に「休養・宿泊施設」という建物が何軒か建っていて、その1軒をあてがわれる。鍵を受け取って車を建物の横に止める。建物の中は、たった一人で使うにはもったいないつくりだ。二階建で1階にはふつうの家と同じような器材と設備が整えられている。2階は3方に窓があり、シングルベッドが5台すぐ使えるように整えられている。この施設は家族や小グループの宿泊を想定したものだ。車から荷物を運び入れていると急に雨が降り出した。
 夕方近くなって、温泉につかるために玄関を出る。この建物は2軒つながっていて反対側の端にも玄関がある。同じ造りが背中合わせになっているのだ。少し離れて見上げると、ちょっとした洋風の小住宅というたたずまい。傘を差して、広い施設の中を大回りに歩いてみる。途中に起伏のある公園のようなところに出る。木の茂った中にガクアジサイがこんもりとたくさんの花をつけている。それがあまりにも目立つのでそちらに歩いていく。青紫の花が淡い光を放つように鮮やかに見える。しばらく近くに立って眺めてから、明日の朝、もう一度来て写真に撮ろうと決める。表通りが見えるところまで来ると物産館がある。入り口から見ると、もう片づけ始めている。「いいですよ。どうぞご覧ください。」というから中に入っていくと、すでに商品には布の覆いを掛け始めている。やっぱり外へ出て、表通りからもう一度温泉施設への道を入って行く。この先に立ち寄り温泉場のための駐車場があって、このあたりの人たちだろう、つぎつぎと家族連れの車が入ってくる。


19日(土) 雨天
 朝早く、枕元の上の出窓が明るくなる。まだ5時前。雨が降っている。もう一度ベッドに入って本を読む。窓の明かりだけでは読めない。ベッドサイドの明かりをつける。今回は、出かける前に重く分厚い本の100ぺーじをB4見開きでコピーしてきた。これは、軽いし活字も少し大きくなって寝ころんで読むにはたいへん具合がいい。ところが2、3ページも読むうちにまた眠ってしまったらしい。気が付くと6時を過ぎていた。
 さっそく傘を差してガクアジサイのところへ出かける。建物の裏は田や畑が広がって遠くに山々が連なる。遠い順に山影は霞む。朝日岳もあの向こうにあるはずだ。この方角が東だから天気がよければ眼前の風景すべてが陽を浴びているはず。半ば予想していたことだけれども、ガクアジサイは朝になってごくふつうの花にもどっていた。樹間の薄暗い場所を期待したけれども花の周囲は十分に明るい。花だけでなく黄緑の葉も側の木の幹も雨に濡れて一層鮮明に見える。
 奥三面に向かう。歴史館の電話番号はごく新しいものなのか、このナビに反応しない。まず役場へ向かう。土曜閉庁だった。体育館か農協で分かるかもしれない。見回していると、農協の側に警察の派出所があった。若いお巡りさんがすぐ紙に道順を書いてくれる。「学校の建物だからよく分かりますよ。」という。県道206号線に出て、やがて三面川沿いに進むとそれらしい建物に到着する。フェンスの開いた通用門のところに中型バスが停車している。このままでは駐車場に入ることができない。しばらくすると男がひとり校舎から出てきて、ウインカーを出しているこちらを見つけると片手を揚げてあわててバスに乗り込む。
 校舎の中に入るとまず記名をすることになっている。部屋から男の人が出てきて応対してくれる。県立歴史博物館で見た奥三面展の土器をもう一度見に来たことを告げる。今、老人会の団体がいきなりやってきたんですよという。上の階から大勢の話し声が聞こえてくる。壁に掲示された大きな地図の前でしばらく話を聞く。「朝日村はずいぶん広いんですね。この山を越えると山形県の長井市が近いんですか。」近いのは山形県小国町だという。「そちらへ出る道がありますか。」そちらへ出る道もあることはあるが、朝日スーパーラインというのがあってそれを行くと山形県朝日村に出る。ここからさらに50キロほどある。途中にゴールドパークという、むかし金を採掘していたところもありますよという。この道の先に山形自動車道が走っていて酒田市に出ることができる。少し興味を持ったが、そうすると帰るのが2、3日遅くなりそうだ。
 二階の四つの教室が展示室になっている。老人会の人たちは帰り始めている。ごく最近まで小学校の教室だったところをそのまま使っているので、室内は自然光も入って十分に明るい。掲示物も写真、図版、説明パネルなど充実している。何よりも、ガラス板で保護する展示物を必要なものだけに限っているところがいい。できれば、もう少し各展示物の間に余裕があると左右からも見やすくなる。
 フロアに独立したガラスケースが設けられている。中は元屋敷遺跡出土品数点。環状注口土器<図>。このかたちはごくたまに見るけれども、よほど貴重なものと思われているようで、たいていはわざわざ暗く照度を下げたケースの中に保護されている。眼前の土器は上から比較的明るく照らされて四方から間近に見ることができる。すぐ目を引くのは、やわらかな輪郭線と表面に流れる線刻だ。周囲をめぐりながらかたちを見ていくと、立体はうつりかわる起伏を見せてなめらかな肌につつまれている。これはほとんど官能的なかたちだ。その表面には線の模様がごく自然に配される。かたちにも文様にも機械的なものは少しもない。まるで何かの自然がそこに写し取られているようだ。いま、こうして見ていると当時の作り手がおなじようにじっと立体を見つめている視線を思ったりする。
 人面付き注口土器<図>。この張り切った胴体。なにかの海獣類が仰向けのまま顔をもたげた姿のようだ。この表面の張りを粘土であらわすのは簡単ではないはずだ。作り手には内部の充実した立体が必要であったようだ。顔の反対側の端が欠けている。どんなかたちだろう。
 「縄文時代後期前葉の土器」と表示される<図>。並ぶ中ではやや小振りだ。特徴は口辺の「トンネルのある通路」と側面の粗い押型文。通路状の下には段差があって襞のようになる。通路のように見えるのはこのせいなのだ。突起の根本は襞につながる造りのようだが、その流れにはやや無理がある。それに、凹凸のある襞と胴の押型文が接しているのは煩雑でよくない。
 これも「後期前葉の土器」<図>。この土器の突起や口辺のかたちに見られる特徴は凹部の表現だ。溝のように掘り下げたり穴を押しあけたりする表現。紐を置いたり橋を架けたり筒を付けたりするのとはちがう。何ものかがひそかにとおりすぎる通路。抜け出る脇道もある。
 「縄文時代中期後葉〜末葉の土器」と表示された鉢<図>。これも凹部の表現。表示からすると時代はほぼ続いているがこちらの方が少しだけ古いことになる。おもしろいことに四つの突起のかたちが少しずつちがう。その一つはほとんど復原時に補足されたものだ。すり鉢状の器にそれぞれ斜め上を指す突起が載る。このそろばん玉状の外形は縄文土器の一つのパターンになっている。
 「縄文時代中期中葉の」浅鉢<図>。こうして丈の高い突起が四本立っていると、上の何かを支えていたのかと思う。あるいは、周囲から内側を向いて中のものを見守る意味があるのか。別の時代だったら、このようなものは中のものをかき回したり出し入れしたりするのに邪魔になるだけなのだが。
 「縄文時代前期の土器」<図>。この土器は出土した部分が限られているが大まかに白く補足されたかたちから繊細で優雅な姿を想像させる。口辺は円筒状の細めの胴から思い切り広くみごとに開く。胴の下の方は出土しなかったようだが真横から見ると、円筒はそのまま下に続くように見える。もう少し下に伸びて少しふくらんでから閉じる、というのはどうだろうか。上でひらいた口辺の端はほとんど失われている。たまたま運良く見つかった正面の一部から全体の様子がわかる。容器の上部は勢いよく広がって、さらになかなかしゃれた縁取りを見せていたのだ。この下(外側)にも細い紐を置いたような細かい模様がある。
 これも前期の土器<図>。よく見るかたちだ。この時期に広く行われたかたちなのだろう。側面の文様には線と円がある。この線は円筒を縦に割ってその端を順に押しつけ並べたたものらしい。たいていの線はまっすぐ伸びていて勝手に曲がったりしない。小さい円の方は二本線の上でなんだか意味ありげに配置される。
 晩期末葉の土器<図>。(元屋敷遺跡出土 約2,400〜2,300年前)とある。これも展示用の輪っぱに支えられて床から浮いている。いちばん下の部分は白く補って平底にしてあるが、これだけの底面積で長く立っているはずはない。実際にはどのように置かれていたのか。何かがこの輪っぱの代わりをしていたのかもしれない。こんなのを乗せるための浅鉢とか、浅い砂の中とか。上の3分の2の立派な姿に較べたら、この貧弱な高台付近はことさら見せたい部分ではないだろう。ただ、そうだとするとこの部分はもっと簡略化されてもいいかもしれない、と考え込む。
 これも晩期末葉の土器<図>。「押型文土器」と表示された三つのうちの一つ。三つとも同じ押型文が使われている。押型の繰り返された境目を見つけようとするが分からない。これは晩期の土器だが、早期によくあるかたちとそんなにかわらない。どこがちがうのだろうか。
 棚の上に注口土器が二つ並ぶ<図>。手前のはほとんどオレンジ色だ。突起は、口の上に両脇からさしかけるように出ていたと思われる部分が欠けている。どちらの土器も注ぎ口が上に乗っているので、本体の口はやや後方に押しやられる。器形はちがうが文様の付け方はよく似ている。どちらも液体を注ぎ分ける容器として十分に機能的なかたちだ。
 こんなのもある<図>。「壺」と表示されたこの土器は、球形の側面全体に短い線を刻む。まるで薄い毛皮をまとったように。これをぼくは初めて見るが、これも広く行われた形式の一つなのか。晩期の土器でさえ、こんなふうに様々な文様があるので文様をあまりたくさん見ていない者には作り手があたかも自分の個性で文様を描いているかのように思われる。
 四つ目の教室は、狩りの獲物を捕る道具などかつての山村の民具を展示している。建物を出て振り返ると、玄関の上に「奥三面歴史館」の看板が掛かる。大きな材木をひいたままの厚い板に手作りで文字が刻まれている。車に戻る途中に背の低い朝礼台が残っている。
 帰路、右手を流れる三面川では水かさが増している。対岸に茂る草や藪を川の流れが洗う。コンクリートの護岸ではないのかもしれない。


20日(日)曇りのち晴れのち雨
 小千谷Icから8号線に出て糸魚川を目指す。柏崎市で道端に博物館の表示を見る。今日はまだ先が長いのでそのまま走る。やがて日本海が見えてくる。釣りかダイビングの準備か、道路端に車がたくさん止まっていてみんな忙しそうに何かをやっている。ときどき海水浴場があって大勢の人が浜に出ている。今日は夏休みに入って最初の日曜日なのだ。「道の駅能生」は駐車場がいっぱいでなかなか車を止められない。建物の中は人でごった返している。
 昼近くに糸魚川市に到着。海岸を離れて線路を渡り坂道を上がっていく。長者原考古館は街の高台にあるのだ。やがて起伏のある開けたところに広い公園ができている。グラウンドやテニスコートを過ぎると林に囲まれた駐車場に出る。フォッサマグナ・ミュウジアムと名付けられた大きな建物がある。糸魚川市は本州を縦断する巨大な構造線の一端なのだ。フォッサマグナは、明治政府に招聘されたドイツ人ノウマンが中央高地の地質を調査していて発見したという。
 少し林の中に入って長者ヶ原考古館はあった。一見木造の落ち着いた雰囲気の平屋建てで、いくつか連なった棟からなる。「フォッサマグナ・ミュウジアムと共通券ですと600円です。この上に行ったところにあります。」という。「高いんですね。」「いいえ、そんなに高いところではないんですよ。」「いえ、ここに比べて入場料が高いんですねっていったんです。」「あ、場所のことだと思ってしまって。」と笑う。ここでどのくらい時間を使うか分からないので共通券はやめる。桜町遺跡の場所について聞いてみる。彼女はすぐ冊子を出してきて調べてくれる。桜町遺跡は富山市より先の小矢部市にある。「展示館があるのでしょうか。」ありますよ。私もいつか行ったことがあるんですという。その冊子には展示館の名前や電話番号は書いてなかった。
 展示室の入り口でおもしろい文を読んだ。何かの雑誌の見開き2ページをコピーしたもので、それは、森 浩一氏の「新潟のヒスイと沼河比売(ぬなかわひめ)伝説」の文と編集者による長者ヶ原遺跡の紹介からなる。
 古事記に出てくる高志国(こしのくに)は越国のこと。ヌとかニは光り輝く玉のこと。「一昔前までは、沼河とか万葉集にうたわれた玉のとれる渟名川(ぬなかわ)については架空の地名と見られていた。しかし、…ヒスイを産出するのが確実になってきたので、今日では沼河は実在の川と見られている。」「…日本でのヒスイの使用は、縄文時代から盛んで…弥生時代を経て古墳時代にも好まれたが、奈良時代になると急に流行が途絶えた。このようなヒスイ使用の概略については戦前の学者も知っていたのに、“日本にはヒスイは出ない。ビルマ(今のミャンマー)から運ばれていた。”とする推測がかつての常識だった。かつてのというけれども、僕が若いころ読んでいたたいていの考古学の書物ではそうなっていた。姫川支流の小滝川に、ヒスイの原石があることが分かったのは昭和13年である。…昭和29年に糸魚川市にある長者ヶ原遺跡が調査され、縄文時代中期の集落遺跡において、ヒスイの原石や、その原石を玉に加工するときに生じる剥片、さらに製品の玉などが発掘された。…。」ヒスイは地質学上でも明確な岩石だろうから昭和の初めとしてものんきな話だ。もっとも、この印刷物がいつ頃のものか知らないまま勝手に考えてはいけないけれども、なにしろ半世紀以上前の古い話でもある。「…川の中にあるヒスイの巨塊を古代人が割って原石にしたのではない。大雨などで転石となったものが、長い年月をへて次第に小塊となり、いったん海に流れ込んだ小塊が、台風などで浜に打ち上げられると、時には見事なヒスイの塊が得られる。おそらく古代人も、川の下流や海岸で玉の原料を入手したのであろう。…。」このように具体的な場面を述べる文で、読み手は当時の様子を想い描くことができる。「(ページ編集者のメモの項)…。(長者ヶ原遺跡は)縄文時代の早期から後期にかけての長い期間にわたって営まれた集落遺跡で、特に縄文中期の集落跡は全国屈指の規模を持ち、ヒスイ玉や石斧の生産と交易の拠点として栄えました。…。」
 展示室には、今まで見てきた中央高地や東北の土器とはどこか違う雰囲気の土器が並んでいる。
 正面から見るとかたちのよく整った深鉢<図>。わずかに開いた口辺から下へ穏やかに下りた側面は、やがて徐々に閉じて丸底となる。ただし、底の部分は出土しなかったらしい。右側からのぞき込むと、下半分はややいびつで後ろの側面だけが狭まる。これだと、底はもっと尖っていたかもしれない。側面全体に縦の線が並び、途中に別のかたちがそれとなくはめ込まれる。それは何かを暗示して謎めいているが同じ幅の線でできているので目立ちすぎることはない。器の輪郭線や側面の文様が全体を落ち着いた姿に見せる。
 早期の土器<図>。出土部分が少ない。下の方はそのまますぼまるのだろうか。ここでも同じ幅で並ぶ横線の中に何かのかたちがはめ込まれる。すでに抽象化された自分たちだけに分かる約束事のようなかたち。この表し方はある時期によくおこなわれた方法のようだ。いや、後の時期にもときどき出てくるような気がする。文様の普遍的な表し方の一つなのかもしれない。縄文のひそやかな挿入。
 品のよい浅鉢<図>。補修されたところはあまりないように見える。口縁部と突起の一部が欠けているがそのままにしてある。上部は特徴のあるデザインで外から見ると3段に積まれた輪になっている。その内部は口縁ですぐ斜面を下り内側に落ち込む。細かい模様で統一された側面。思わず両手を出したくなるような流麗な輪郭線。一つだけの突起。
 信州から持ち込まれた土器<図>。にぎやかに飾られて全体のかたちもよく整っている。これも、複雑にくだけた破片をたくみに接合しているが欠損部分はそのままにしている。それでも器のかたちを十分に見せている。一つの見せ方としておもしろい。これは、くだけるという過程を想像させる。くだける前のかつての完全な形を想像させる。
 大きな渦巻きの深鉢<図>。ここまで完全な渦巻きはめずらしい。これは、よくあるように流れる途中で道草をするように巻いたり、模様の一部としてあちこちで巻いたりするのとはちがう。ここではこの何重もの渦巻きこそ文様の主役だ。球面に描かれた円はいっそうその立体を強調する。見る者たちはその魅力を共有する。
 有口鍔付土器<図>。「長者ヶ原遺跡 縄文・中期 お酒などの発酵あるいは皮を張って太鼓として用いられたのではないかとされています。(樽?、太鼓?)」ぼくはこのデザインも初めて見る。二つの円弧が中心に巻き込まれる図形はよくあるが、ここではさらに立体的で、中心が周辺の面とともにゆるやかにせり出している。二本から四本束ねられた円弧は容器の側面で互いに大きく巻きあう。そのあいだにはなだらかな余白。粘土には粒状のものが含まれているようだが表面はなめらかに見える。たしか、こんな肌と形の菓子パンがあった。
 大きな波模様に取り巻かれた深鉢<図>。もっとも、本物の波は関係がなさそうだ。波の背側にはU字型の返しがあって少し飛び出している。この波のようなかたちはこのあいだの火炎土器にも描かれていた。口辺部の下によく見るかたちだ。
 扁形動物のような渦巻きのある深鉢<図>。これは、土器の表面に付けた粘土ひもに細かい横線を並べて平らにした姿がこんなふうに見えるのだ。拡大した図では、渦巻きの両はしの様子がミミズの頭かしっぽのようでもある。中心の先はいつものように起きあがっている。この渦巻きはかなり適当な間隔で容器の側面に配置される。渦巻きと渦巻きのあいだを埋めているのは、細めの粘土ひもを折りたたんだものだ。この時代の文様表現では、巻くことと折りたたむことが絶えずおこなわれている。
 台付鉢と表示される<図>。修理された部分がないか、あるとしてもほとんどわからない。変色したところもあるにはあるが目立たない。口辺の刻み目などはごく最近ヘラを入れたばかりのよう。この時代では初めて見るかたちだ。
 そのとなり、文様が器のかたちそのものになったような鉢<図>。均衡のとれた器形。いきおいよくひらいた口辺をちょうどよいふくらみ方の胴が受けている。開ききるまぎわになった豪華な花。こんなデザインのガラス細工はどうだろうか。弓なりに反った口辺の下に太いV字型が配される。形を整えた先端は返しのついた槍の穂先か、あるいは枝先にふくらむ新芽か。彼らがそういうものを具体的にあらわすはずはないけれども、そのようなもののかたちが、具体物を離れたイメージとして彼らの脳内に記憶されていたかもしれない。この出土品は補修されているようだけれどもその境目が分からない。少なくとも、三つの突起部分とV字型の部分は出土しているようだ。
 ヒスイの加工について示した掲示物がある。どのようにして硬い石にあのようなきちんとした穴を開けたか。「推定される穴の開け方」とは、切り口の丸い竹筒のような錐を媒材(ヒスイの粉)とともに回転させる。竹筒の方がはるかに早くすり減っていくだろうが、石の方も少しは削られる、というわけだ。
 今日のうちに富山市付近まで行っていたいから、フォッサマグナ館はやめる。車に戻って、NTTの104で桜町遺跡の電話番号を聞く。展示館の名前は「桜町縄文パーク」と分かった。


21日(月) 晴れ
 昨日は立山Icを過ぎるころから急に空模様が怪しくなり、たちまち富山市あたりで土砂降りとなった。速度を80キロに下げるが、先がよく見えない。そのうえ、後ろを走っていた車が追い越し車線に出てすぐまた前に入ってくる。そこで、またブレーキを踏まざるを得ない。そんなことが何度も続く。追い越すならば、もっと先の方まで走ってから入るということを彼らは知らない。
 雨上がりの今朝は街の中を走っていても気持ちがいい。
 小矢部Icを出るとき、料金所で桜町遺跡の場所を聞くと地図を渡してくれる。彼は赤いボールペンで手早く道順も記して、「すぐ線路を渡らないで、ここまで行ってから渡ってください」と言葉を添える。(ああ、これなら迷わずにすぐ行くことができる。)と思った。街を抜けて8号線の交差点に出る。聞いていた桜町西交差点は一つ左手にある。来た道が少し手前で分かれていたのだ。そこまで行って右折する。地図の赤い線は少し8号線を越えて伸びているから。ところがそれらしいものがない。川を渡ったりしてかなり走る。これはおかしいと思って交差点まで戻る。目立たない入り口を見落としたと思い、もう一度試みる。派出所があるので車を止める。女の人が出てきて、「あ、それはたしか8号線の向こうに何かありましたよ。」という。急いで引いたボールペンの赤い線は勢い余って交差点を越えていたのだ。車をバックさせようとすると、巡回から帰ってきた巡査が手の甲を見せて誘導してくれる。
 道路端に空き地があって、山小屋風の建物に「桜町JOMONパーク出土品展示室」と表示されている。敷地の奥では数人の男性が太い丸太を囲んで、話をしながら何か作業をしている。建物の中は一部屋だが、広い立派な展示室になっている。まだ、できたばかりのようだ。部屋の隅が少し囲ってあり、女性がひとり仕事をしている。部屋の中央に大きなガラスケースが2本据え付けてあり、中には、長い柱のような建築部材がそれぞれ1本ずつ横たわっている。
 壁面に説明文のパネルがある。『出土した建築部材は100本を数え、…。部材には様々な加工が施されている。その多くは高床建物の部材と考えられるが、一部竪穴住居の部材と思われるものを含んでいる。今回の調査で確認された加工は、昭和63年の調査で発見された「桟穴(エツリアナ)」「欠込(カキコミ)」のほか、「渡腮(ワタリアゴ)→ *メモ1」「相欠(アイカキ)」「柄(ホゾ)」「柄穴(ホゾアナ)」「目途穴(メドアナ)」がある。ほぞ穴は高床建物の床を支える大引材を通す加工、桟穴は壁の横桟を引っかけるための加工、渡腮・相欠は木と木を直角にくむための加工(仕口)であり、目途穴は屋根と桁を結ぶときに使える技法である。…。そのほか、高床建物の壁の「心材」(網代編)や「葺材」、「床材」と見られる板なども出土しており、…縄文時代の建物の地上部分が見えてきたと言っても過言ではない。…。』今回の調査というのは平成9年9月に発表された調査結果のことだ。出土品は縄文中期末のものとされている。
 上空から撮影した発掘現場のカラー写真が大きなパネルになっている。東から西に向かう8号線バイパスで、赤い線で調査区が細長く仕切られている。まだ車が走っているのは上下各1車線だ。その南側に沿って第1調査区から第5調査区まで区画され、第1調査区のみ発掘中だ。車が走っている部分には第6調査区から第10調査区が仕切られている。写真のとなりに絵が2枚かけてあって、丘の斜面の集落と、小川のほとりで作業をしている人々が描かれている。もう1枚、もう少し上空から撮した写真がある。建設工事を始める前の舟岡地区全景。ここから両側に小高い丘が始まって、中央の細い道は西の谷間に消えている。いまバイパスとなったここに4000年前は小川が流れていたらしい。住居跡を見つけるには、道路の下だけではなく、もう少し離れた高台の方も掘ってみなければならない。
 写真の下のガラスケースに木製品が二つ入っている。その一つが「赤漆塗取手椀」だ<図>。低いガラスケースなのでほとんど真上からも見ることができる。取っ手が付いている。底に同心円(楕円)の木目がはっきり見える。切り株を彫り込んでいったのだ。(後に、この見方は間違いであることが分かった→*メモ2)横に穴が一つ開いている。使っているうちに節が抜けたのだろうか。厚さは五ミリ強か。これだけの厚さになるまで外側も削っている。取っ手の造りが分からない。切り株からこの形を掘り出すのは大変な努力が必要だろう。たとえできたとしても壊れやすいだろう。取っ手の上部なら、たまたま、いい具合に枝が出ているのを利用するとか。ここには同心円の木目が全く見えない。しかし、別の木材をつけることができただろうか。椀の縁はかなりすり減っている。とくに取っ手の反対側の縁が外向きにすり減っている。穴が開いてしまったので、砂状の何かをすくい上げるのに使っていたのかもしれない。
 当時、このような木製品は盛んに作られて使われたにちがいない。石器や土器は何千年たっても形を保って残るものがしばしばあるが、木製品はほとんど残らないのだ。土器にいろいろな形や装飾があるように、木製容器や籠、むしろなどにもいろいろなデザインがあっただろう。土器はそうしたかたち作りの一部だったにすぎない。土器は一万三千年前頃から使われ始めたたといわれるけれども、木材や植物の蔓、繊維などは、さらにはるかに遠い昔からかたち作りの材料だったのだろう。この遺跡では、建築材や木器の加工という面で「木によるかたち作り」について、その普遍性を証明している。早い時期での可能性を証明している。それにしても、いまから考えれば気の遠くなるような膨大な作業量が必要だが。

 部屋の奥のガラス棚に土器が並んでいる。部屋の照明が明るいのでガラス面の反射光で中がよく見えない。薄暗い室内は嫌いだがケースの中は部屋よりもさらに明るい方がいいのだ。ケースの中には初めて見るかたちの土器がいろいろある。ここは家から比較的近いから、偏光レンズを用意して出直そうと思う。
 ちょうどよい高さに置かれた小振りの土器<図>。「中屋式。縄文時代晩期中葉。出土、昭和60年。」器形の整った土器。側面の輪郭線にほとんどゆがみはない。胴には二種類の文様が三段の帯状に続く。その上下の余白部分は明確に区別される。口縁部に6箇所、二種類の低い突起が交互に出る。やや大きめの三つの突起の端は口縁部から流れ高まる。このころの数百年間に突起はどんな意味を持っていたのだろう。かつての空間構成の意識がまだ続いていたか、あるいは固定された形式だけが痕跡のように続けられたか。
 部屋の壁に寄せて台に乗ったパソコンと、腰掛け、使い方の説明書が置いてある。土器の検索もできるとある。機種がアップルなのでよく分からない。部屋の隅で仕事をしている女性に声をかけて頼む。彼女はすぐ側に来て画面を出してくれる。「これはなかなか画面が出なくて。動きが遅いんですよ。」それでも、このパソコンは少し前の高級品だ。土器の写真がいっぱい入れてある。マウスの操作で映像を回転させることができる。モノクロームの写真では上下左右にも回転するので真上や底の裏を見ることもできる。あのガラスケース以外に、こんなにたくさんの土器があるのだ。「この、いま写っている土器を見たいときはどうしたらいいんでしょうね。」と彼女に聞いてみたりする。何もかも出して見せるわけにはいかないのだ。他に展示室として「ふるさと歴史館」というのがあって、そこにも縄文土器はあるという。今回は見るところは一日一箇所だけと決めているけれども、まだ昼前だし、すぐ近くのようだから寄っていくことにする。
 「歴史館」は小矢部Icへ戻る途中にある。すぐ男性が出てきて応対してくれる。「これは大きな皿ですね。」ガラスケースの中に大きな浅い鉢と、香炉形土器など数点が展示されている。「いまは奈良時代を中心に展示しているんです」という。
 縁の立った大きな浅鉢<図>。これはたいへんすっきりとしたデザインの大皿だ。縁で一箇所だけ、小さな輪ができて周をわずかに引き広げる。そのほかに大げさな飾りはない。中をのぞき込むと、隙間だらけのたくさんの破片が見える。細かくくだけた部分が失われている。それに対して周囲は比較的よく残っている。
 弥生時代のかたちのよい壺<図>。カードの表示に「この土器は、縄文時代から弥生時代にかかる過渡期のものです。(遠賀川式土器)」とある。丸く広がる胴の上の平らな肩の上に少し開いた口が立つ。口縁部はゆったりと揺れる波のよう。おおきさといいかたちといい、これなども両掌で持ち上げてみたい器だ。

 東海北陸自動車道は五箇山で一般道に出る。夏休みに入ったので、合掌集落では大変な人出だ。白川郷に入る。飛騨の山々は夏の午後の強い日差しを浴びている。国道156号線は郡上八幡から渋滞気味となった。ときどき山あいに東海北陸自動車道が高架の姿を見せる。これもよく見ると車がつながってゆっくり走っている。夕方になって美濃Ic、尾西Icを経て自宅に帰る。




                     ** メモ **


*1 渡腮(ワタリアゴ)について
 帰ってから「桜町JOMONパーク出土品展示室」のホームページを見た。これを出かける前に見ていたらいろいろ迷うこともなかったのだ。ホームページの最後に7月11日と14日付けの「お知らせ」があって、この建築部材の保存処理が終わったので展示公開をすること、「渡腮仕口」と見られていた部分に穴が貫通していたこと、そこで、「貫穴のある材」に名称を変更することになったこと、を知らせている。(7月22日)


*2 「赤漆塗取手椀」の木材の使い方について
 今日(8月2日)、取っ手の付け方を是非知りたいと思って、桜町の展示館に電話をした。取っ手は上下付け根の一部を残して壊れた状態で出土したという。展示されていたのはそれを補修したものだという。取っ手は同じ材料から彫り出されたものでしょうという。また、材の使い方として、「上から見ると同心円の木目が見えるから切り株のような材を彫り込んだのでしょうか」と聞くと、「そうではなくて、板状のものを掘っていったと思います。」という。それでも、底の部分には丸い木目がありますよとがんばる。「それでは、私もよく確かめてみて、その上でお知らせしましょう。」と親切にいう。電話を切ってよく考えてみた。紙に切り口のある丸太を描く。木口の中心を避けて厚めに割った板を考える。この板を彫り進むと、椀形の内側にどんな木目ができるか。次第に狭まった底の部分に丸い木目が出るかもしれない。そう、こうしてあの椀の底に同心円ができたのか。取っ手は、上の接続部分を木目に沿うようにしたら比較的丈夫か。それに、内側側面の目の細かい横線は板から彫ったものの線だ。彼のいうとおり木口から削り込んだのではないのだ。申し訳ないような気持ちで電話を待つ。まもなく電話があって、わざわざ確かめてくれた彼の話は大変よく分かった。(8月2日)


*3 今回もたくさんの土器を見た。これを、写真を利用してスケッチに描き直すという機械的で退屈な作業がある。一日に一つのスケッチと文章を目標とするが、なかなかその通りには進まない。それに、これから秋の途中までに出かけられるだけ出かけておかないといけない。「スケッチはそれからにしょう。」と考えると気持ちも軽くなる。(8月2日)