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 礼文島へ                              
               2003 - 09 - 01(月)〜19(金)
 


9月1日(月)晴れのち曇りのち雨
 昨日の朝、荷物の積み込みのために何度も車と部屋を往復していて、たまたま車の前輪に異物を見つけた。釘かネジの銀色に擦り切れた平たい頭が出ている。これは、どういうことになるんだろうと一瞬考える。このまま遠乗りはできないのではないか。そこで、いつもの大きな修理屋に持って行くと「これはもう修理はできない。」という。接地面の一番端で、ここはもっとも弱いところなのだという。春に全輪を換えたばかりのタイヤのうち、また、1本交換ということになった。ところが、このタイヤはいま店にないという。日曜日なので明日しか注文ができない。「別のメーカーのタイヤでも走れないわけではないが、」という話を店員としていると、そばで聞いていた年長の店員が「そういうことはしない方がいい。特に4WDは。」という。タイヤの溝のパターンが違うと雨の日の走行安定性が悪くなるという。このタイヤメーカー直営の店というのを教わってその店へ行く。そこにもなくて、その店では、同じ系列の店に次々に電話をして聞いてくれる。結局、小牧市の店まで出かけて行って、自宅に戻ったら午後4時だった。今度こそ前日にすべての準備をしておくということはできなくなった。
 いま使っている車内デスクの準備は当日の朝になった。厚さが7ミリのベニヤ板1枚で助手席に安定したワープロ作業台ができた。幅70センチ奥行き50センチの平面にノートパソコンとペンタブレットが載る。その時、出発は遅れたが特に心配はしなかった。
 直接の間違いの元は、地理についての勝手な思いこみだった。仙台市は南北に長い東北地方の中程にある。東京から300キロぐらいか。4時間はかからないだろう。東京まで4時間として計8時間あれば十分と思った。それが、午前11に出て、首都高速に入ると千代田のトンネルの中で止まってしまった。この渋滞を抜け出したのが午後4時半。東北道に入ったのが5時。国見Saまで走って午後7時15分。太平洋フェリーに電話をして相談。キャンセル料を払うことにして取り消しの上、翌日に同内容で予約。電話先の彼はよく努力してくれた。
 外でラウドスピーカーが通行止めのアナウンスを繰り返している。仙台空港付近で事故があったためといっている。もしかすると昨夜、雨の降る中をほとんどの車を追い越して来た僕が今頃事故処理をされていて、同じようにアナウンスされているのかもしれない。


9月2日(火)曇りのち晴れ
 仙台市博物館には市内の遺跡から出た土器が展示されている。縄文前期から後期までのほとんど完全に復元された土器が8点。「この博物館の特徴は何ですか。」とお金を払いながら聞く。「そうですね。伊達政宗に関連した展示がたくさんあることでしょうか。」縄文土器も少しはありますと、あまり期待できないような言葉も聞いて展示室に入った。東北の「少し」は、西日本の「少し」と大分違う。
 展示は後期旧石器時代の遺物から始まる。出土後に洗われてすっかりきれいになった石器が並んでいる。伊達家の展示では、嫁入りしてきた姫の使った駕籠というのがある。全体に金銀の蒔絵を施し、軒先には金箔に描かれた3枚の絵がはめ込まれる。側面は出入りするための引き戸になっていて、簾を垂らした広い窓がある。このように贅沢な装飾を施した乗り物に乗ることは上位の階層に生まれた者の特権だった。本人には、特権と意識することもない当たり前のことだったのだろう。
 出口で念のために写真撮影は可能か聞いてみた。「フラッシュを使われないなら何をお写しになってもよろしいです。」という。おや、そうなのかと、早速もう一度入り口に向かう。ガラスケースの中は十分に明るい。ただ、角度によっては向かい合ったケースの明るい照明がガラス面に映って品物の姿を隠してしまう。
 市内には、この他に「地底ミュージァム」というのがある。表の道路から建物に向かう道はトンネルの入り口を入って地下に降りて行く。中に入って驚いた。巨大に広がる楕円形の中には木の根元だけになったものがいっぱい並んでいる。これが「地底ミュージァム」か。ここで、旧石器人が2万年前に残したキャンプ跡を見つけたという。受付に戻ってほかに展示室があるかどうか聞く。上の階で企画展示をやっているという。「でも、この地下の展示室で映像の上映が行われます。それを見ていただいてから企画展示室へ行っていただきます。」という。ここの終了時間は午後4時45分で、すでに4時を回っている。すぐ上へ行きたいということがなかなか理解してもらえない。
 企画展示は「送りの考古学」。原始時代の葬送の儀式に関する展示だ。北海道の遺跡に関するものがかなりある。名古屋の笠寺のものもある。


3日(水)晴れ
 朝、3階船室の窓から見下ろす海面はかなり下の方だ。この船は相当大きいのだ。海面は静かに凪いでいて船はほとんど揺れない。昨日は車をフェリーに乗り入れるとき、すでに入っていたのはほとんどが大型トラックで、乗用車は入り口近くに付け足しのように並んだ。下船後すぐ江別市に向かう。
 ちょうど12時に道立埋蔵文化財センターに着いた。職員の昼時だし、時間がかかれば自分の昼食も遅くなってしまう。迷いながら左手の木立のほうをみると林の中の方へ入っていく小道がある。平たくて上を向いた白い花(写真)がいっぱい咲いている。近づくとそれは細かい花の集まり。進んでいくと道の地図が示してある。ここはかなり広いところなのだ。地図では、散歩道があちこちにカーブを描いている。右手のベンチで女性が二人昼食をとっている。左手の道を歩いて行く。入り口に咲いていた白い花がどこまでも続いている。赤い実をつけた木がもう紅葉している(写真)。黄色い花が一株だけ咲いている(写真)。これは竜飛崎で見た紫の花(写真)に形が似ている。ミヤコワスレに似た花(写真)。花びらが多いから別のものか。途中で高い木が茂って、あたりは薄暗く下にクマザサ茂っている。まさか熊が出ることもあるまいと思いながら早めに明るいところへ進む。しかし、やっぱり僕も食事にしようと決めて車に戻り街へ出る。
 再び戻る。建物の中に入っていくと出会う職員が皆挨拶をする。役所の施設なのに、まるで気持ちよく整った民間の施設のようだ。ホールでは企画展「北の陶磁器展―中世日本海交易と北海道―」が開かれている。展示室は右手の奥にある。奥行きの深い部屋の壁面は、片側が復元された土器で埋まっている。
 途中でカメラのバッテリー表示が赤くなった。
 充電中に北海道の他の展示館について質問する。本「博物館ガイド」を紹介される。10日から新しい企画展示「西島松5遺跡と青苗砂丘遺跡―南北文化のクロスロード―」が始まる。そのときはオホーツク文化についても展示があるという。


4日(木)晴れ
 午前11時、札幌の街に入る。道は、ずいぶん広いと思っていると急に狭くなったり、いつの間にかいろいろな方向に曲がったりする。やがて昔からの市街地らしいところになって路面電車が走る。道幅が狭いのに駐車中の車が多くて、左側を走っているとすぐ立ち往生する。札幌市埋蔵文化財センターは図書館と一緒になっている。駐車場では、車は1時間経ったら出るようにという。私は埋蔵文化財センターへ行くので1時間では足らないというと、あそこを見るには1時間もかからないと勝手に決めている。看板で交通機関を使うようにと呼びかけている。車を禁止して電車をいっぱい走らせ、市街地の外に駐車場をいっぱい設けないといけない。この街の郊外はまだまだ広い。
 展示室に入ると、パネルにE.S.モースの写真がある。札幌農学校にやってきた彼は、この地でも遺跡の発掘をした。次のパネル「都市の発展と調査」では、市街地の拡大に伴う発掘の様子がたくさんの写真を使って詳しく説明される。この土地では、長期間続いた農耕によって先史時代の埋蔵物が徐々に破壊されるということを幸いにも免れてきた。いま初めて掘り返され、そのほとんどすべてに新しい建造物が作られていく。
 駐車場を12時半に出る。札幌大学は市の南部にある。門衛詰め所はたまたま不在なので自分であちこちの建物を回ってさがす。ようやく総合案内というところを見つけて展示室の場所を聞く。門のそばのアパートのような建物だという。もう一度門に戻ると確かに集合住宅のような1棟が建っている。その入り口の看板では開館日を曜日で限定している。今日は何曜日だったろう。中に入ってうろうろしていると外で車が止まる音がする。男の人が入ってきたので「こちらの方ですか。」「はい。学生ですが。」という。彼が携帯電話で担当者に連絡をしてくれる。「まもなく戻りますから。」彼の語るところによると、自分はいろいろなところに出かけていて、本州でも縄文土器をたくさん見て来たという。去年、火事で燃えてしまった重要な遺跡展示館の話を聞いているとき、担当者が急いで帰ってきた。
 平岡のスーパーストアにある本屋へ行く。本は電話で在庫を確かめてある。札幌駅前の本屋にはなかったが、同じ系列店の平岡店には1冊あることが分かった。携帯電話も便利だが情報端末を備えた大規模書店もこんなときはありがたい。「北海道新博物館ガイド」は233館の紹介に各1ページずつ使っている。それと「日本の古代遺跡 北海道T・U」を買う。


5日(金)晴れ
 滝川Icを出て石狩川振興財団「川の科学館」を訪れる。子どもたちの夏休みはとうに終わっているので誰も来ていない。受付の横に石狩川流域のレリーフ地図が掛けてある。この地図の中で現在地をさがすが分からない。受付の男の人に聞く。彼は早速出て来て現在地を指さし、続いていろいろな話をしてくれる。かつて、川はもっと激しく蛇行していて流域一帯には湿地帯が広がっていた。絶えず洪水が起こり、明治の初めに入植した人々はたびたび田畑を流された。そこで大がかりな河川改修が始まった。堤防を築き、川はつなぎ合わされて蛇行はわずかになり、河川の長さは大幅に短くなった。それから、川水は湿地帯をゆっくり回ることなく大量の水が急な流れとなって海に注ぐようになった。洪水は少なくなったがそれまで石狩川に住んでいた多くの生き物に変化が生じた。その一つの例として、それまでたくさんいたチョウザメがほとんど見られなくなった。
 展示室には石狩川流域の地形、気候、河川改修工事などの資料展示がある。大小の水槽には流域の魚貝類などが飼育されている。これは小さな淡水水族館だ。円柱形の水槽では30センチほどに育ったチョウザメの稚魚がたくさん泳ぎ回る。その向かい側の大水槽には1メートル近い親魚が何匹も泳いでいる。このチョウザメたちはシベリア産のものだという。大水槽では、独特の凹凸のある黒い魚体をすぐ目の前に見ることができる。しかし、親魚たちにはこの水槽でも窮屈そうだ。ひれや鼻先が「もの」にこすれるのか傷がある。この魚には、ガラス面や仲間からやや離れて回遊のできるさらに広大な水槽が必要だ。稚魚たちは滑らかに黒光りする見事な肌を見せて優雅に泳ぐ。その姿は精巧な工芸品のようだ。二階では、治水事業や河川災害について説明している。豪雨が体験できる人工降雨機械がある。残念ながら誰もいない。今日は平日だし。一階の受付で聞いてみる。「子どもたちの夏休みは何時終わったんですか。」「もう、ずっと前ですよ。先月の二十日頃には学校が始まってますね。」今年の夏は例年になく来館者が少なかったという。「親があまり子どもたちを連れ出さなかったんですね。やっぱり、不景気のせいでしょうかね。」
 外に出ると、前庭の広い石畳に縮尺された石狩川が造ってある。本流の川筋と河岸段丘。石造りの模型だから、大量の水を流しても蛇行の様子が見られるわけではない。芝生の斜面でタンポポが一面に咲いている。ここのタンポポは、どの花も背丈を3、40センチほど高く伸ばして咲く(写真)
 車に戻って地図を見る。このあたりの石狩川は滝川市と新十津川町の境界になっている。地図で、新十津川町役場は滝川の街にほとんど接している。奈良県十津川村は大和のくに吉野の南に位置するかつての郷士の村だ。さきほど流域レリーフ地図で見た大小のダム湖、盆地、山脈を確かめてみる。石狩川を北へ遡ると、支流の雨竜川が分かれる。雨竜川の上流は天塩山地の麓まで遡って、そこに大きなダム湖朱鞠内湖ができている。ここはすでに北海道の北部で、天塩山地の北には天塩平野、宗谷丘陵が広がる。一方、本流を東へさらに遡ると深川市、旭川市がある。この2つの市の間には、ちょっとした山脈が横たわっている。それは、北の天塩山地と南の夕張山地の境目に当たる。レリーフ地図を説明してくれた科学館の人の話では、このあたりはかなり険しい山あいで、国鉄函館本線のトンネルができるまでは鉄道沿線にそれはすばらしい渓谷美が見られたという。遠い地質時代にこのあたりでは土地の隆起が始まった。そのころ、すでに川が流れていて、川の浸食と地面の隆起が長い間にわたって相争った。ついに川の浸食が打ち勝って、石狩川の急峻な渓谷ができたという。川の生い立ちのたいへんおもしろい話だった。もし、山脈の隆起の方が速くて川の浸食がそれに間に合わなかったら、大量の水が堰き止められて現在の上川盆地は大きな湖になっていたかもしれない。石狩川の源流は、大雪山系の奥深くにある。
 午後は北上しつつ日本海側の小平町に出る。この町の埋蔵文化財資料館「オピラウシ」には縄文、続縄文、擦文土器があるという。玄関は閉まっていて、隣の海洋センター体育館へ行って受付をする。受付の係の人が一緒に来て玄関を開け、一通り館内を案内してくれる。化石資料室にはクビナガリュウの化石がある。別の部屋には、焼失住居跡の実物が移設展示されている。擦文時代の遺跡から出た「土鈴」が赤い蒲団の上に載せて展示される。入り口に近い北の窓に面した棚に擦文土器がたくさん並んでいる。高台(こうだい)のある椀形のものがいくつもある。深鉢のいくつかは横たえて置かれている。深鉢の外形はどれも同じように見える(図)。擦文は器形を整えるときにできた磨り跡が元になっているといわれるが、すべて十分に意識的に刻まれていると思う。小平町という地名の元になったアイヌ語はオ・ピラ・ウシ・ベツ「河口に崖のある川」という。実際に小平蘂(おびらしべ)川の河口には崖がある。


9月6日(土)晴れ
 小平のキャンプ場は日本海に面した高台にある。キャンプ場の西端から海を見渡すと左手の方に台地が長くせり出している。増毛山地の腰骨のような出っ張りがここから見ると半島のように見える。右手の海岸線はゆるく湾曲して苫前に至る。あの先には稚内があり、礼文、利尻島があるはずだ。今朝は、沖合に手前の小島しか見えない。
 国道232号線を北に向かう。朝の陽に照らされた海岸道路は快適だ。車は少なく、たまに対向車に会うばかり。右手に木造の大きな建物が2棟見えてくる。駐車場に入って近づくと、2棟はよく似た外観だ。1棟は「旧花田家番屋」、もう1棟は道の駅の施設だ。鰊番屋というのは、かつてニシン漁が盛んだったころの元締めが経営する集積所、作業場らしい。今日も先が長いので時間が惜しく番屋の中を見ないで出る。
 午前10時、苫前町郷土資料館に着く。苫前町考古資料館も、渡り廊下の続きでここにある。受付で「ちょうどこれからビデオを見られる方がありますが一緒に見られますか。」と聞かれる。昔、この地方で人が大熊に襲われた実話を映画にしたものだという。一緒に見ることにして応接室のソファーに座る。始まってまもなく、受付の女性が部屋のストーブを点火してくれる。映画の舞台は、この地方の開拓時代の入植者の村だ。冬ごもりをし損なったヒグマが飢えて開拓小屋を次々に襲う。女、子ども何人もの村人が食われる。村は警察に緊急連絡をするため人を送る。また別に、村人は、以前は名漁師で今は酒浸りの男にも熊退治の助けを求める。結局、この男が熊をしとめる。展示室には、襲われた「誰々の小屋」を配置して当時の村が再現されている。
 考古資料室へ向かう通路は屋根とガラス窓で確実に囲われている。展示室では足元の床に曲線を描く低い段を設けて、奥までずらりと土器が並べてある。土器は一つずつ、透明なアクリルの低い箱に丸い穴を開けてその中に立てて支えられる。
 続縄文土器深鉢(図)。口縁部に細かい刻み目が並ぶ。上部の文様は、傾けた細いへら先を順に押しつけていったように見える。点を並べた線は直角に向きを変える縦と横の直線になる。下半分は、何かの回転体による細かい縄文だ。
 擦文土器が並ぶ。多くは口を平たく開いた例の深鉢だ。中に、やや立てた口縁部の外枠に幾筋も溝を見せているのがある(図)。これは胴の線に不思議な豊かさを見せる。これは何故だろう。多分、口の下の絞り込みが他の鉢に比べてほんの少し強めだからだろう。口縁部の控えめな出っ張り方は、その胴のふくらみを強調する。それと、胴のふくらみの位置は上過ぎでも下過ぎでもないこと。この深鉢は、この口と胴のかたちのためにまわりの深鉢とはまるで違った雰囲気を感じさせる。作り手も使い手も、このやわらかい線に包まれた量感をたいそう好んでいたにちがいない。
 「2,300年前  続縄文時代」というパネル。「続縄文時代とは―稲は津軽海峡を越えず― 中国大陸からの移住者が日本で稲作を開始した頃、縄文時代は終わり弥生時代を迎えます。しかし、北海道の厳しい風土は稲作を受けつけず、弥生人のムラは青森県より北へは広がりませんでした。そして北海道では依然縄文時代の伝統が引き継がれる続縄文時代に入ります。この時代は縄文時代に比べ、竪穴住居や食料など基本的な生活はほとんど変化しませんが、弥生人のムラから手に入れた鉄器で精巧な骨細工が作られたり、土器は以前より薄くて丈夫になり弥生土器に似たものも作られます。その一方で、後のアイヌ文化につながる文様が生まれたり、米の代わりに雑穀の栽培がおこなわれました。」鉄器を使ったということは非常に大きな変化かもしれない。この説明文の下に、続縄文土器の図とアイヌの衣アトゥシの図が並べて示される。パネルの下にも2つの続縄文土器がある。この文様はアイヌ文様に似ているとはいえない。僕は、この図のような続縄文土器をまだ見ていない。学者は、大抵の書物で見る限りアイヌの文様を縄文土器の文様と結びつけることに慎重な姿勢のようだ。
 縄文の文様や口縁部の表現にはしばしば自由気ままなところがあって、それは続縄文以後の固い様式ではない。縄文晩期の文様には、後のアイヌの文様によく似た部分がある。それでも同時に自由気ままなところや立体的な口縁部の表現も続いている。縄文晩期の文様と続縄文、続縄文と擦文土器の表現の続き具合を見たいと思う。表現は縄文と擦文の間でずいぶん離れているような気がする。
 「北海道島の変化―海になったり、陸ができたり―」というパネル。パネルはA〜Dの4つの北海道図で示される。Aの16万年前からの図は平野部に海が入っている程度。Bの6万年前からの図は海が後退した時期だ。この旧石器時代の終わりに近い氷河期の北海道は大きく広がっていて今とはずいぶん違った輪郭をしている。北方4島とサハリンは地続き、内浦湾はすべて陸地になっている。しかし、津軽海峡は残っている。この時期、北部日本海と太平洋をつなぐのは少し狭まった津軽海峡だけだったのだ。Cの1万年前からの図は、縄文海進の時期を示していて平野部に海が入り込み、小樽と帯広の間はもう一つの海峡になっている。Dの2500年前からの図はほぼ現状を示す。北海道でも、縄文海進の時の海岸線の位置は現在発掘されている遺跡分布に関連があるのだろう。
 出口に近いガラスケースの中に昔のカメラが並んでいる。僕が子どもの頃に使った「スタートカメラ」がある。あれはその後どうしたか覚えていない。
 午後、天塩町に向かう。助手席のデスクはグローブボックスに貼り付けた支持板がはがれやすくなって、下からの支持棒が必要になった。角材を手に入れる店が沿道になかなか見つからない。遠別町で派出署をさがす。ナビは役に立たなかった。道路脇でセメントをこねている人たちに聞くと、角材のある店は分からないが派出署ならすぐ右手の横道を行くのだと教わる。派出署のおまわりさんは「今度は角材ですか。この間の夜はガソリンが切れそうになったひとが来ましたよ。」という。彼は天塩町にある材木店に電話をしてくれた。その材木店の人は待っていてくれて役に立ちそうな角材をすぐ出してくれる。その人はお金をどうしても受け取らなかった。


9月7日(日)晴れ
 朝5時、海岸に出ると、朱に染まって明るくなってきた沖合に利尻島が見える。その遠い山の中腹に薄い雲がたなびく。
 今日は夕方までに稚内に着けばいいので、まずオホーツク海側の浜頓別町と枝幸町へ向かう。「博物館ガイド」によれば、浜頓別町にはクッチャロ湖畔の縄文遺跡出土品を展示する郷土資料館、枝幸町にはオホーツク文化の目梨泊遺跡出土品を展示する郷土資料館がある。枝幸町を先にする。国道40号線は稚内から南下して名寄、旭川へ向かう道だ。山に入って天塩川沿いに走る。この道は南へ大きく迂回するので枝幸町や浜頓別町に行くには大回りになる。他に、地図には緑色の地方道もあるが山の中をどんな風に走ることができるか分からない。音威子府(おといねっぷ)村で休憩する。ここから275号線に入ってしばらく北へ走ると、枝幸町へ向かう地方道がある。これは走ってみると国道と少しも変わらない立派な舗装道路だった。午前11時、枝幸町に入る。山を下りて行くと町並みが見えてきて、その向こうにきらきら光る海が広がっている。役場へ行ってみるが今日は閉まっている。並木道を隔てて公民館があり、そちらは開いている。受付で尋ねると「ここのことでしょうか。」とパンフレットを差し出す。「オホーツクミュージアムえさし」。郷土資料館は新しく衣替えをして別の場所に移ったのだ。新しい博物館は町の山側を通る国道沿いにあるという。
 車から降りると、煉瓦色の四角い時計塔が夏の青い空を背景にして立っている。それは二階建ての回廊で本館とつながる造りだ。展示室に向かう通路を「流氷とオホーツク」の説明パネルを読みながら進む。
 1「オホーツク海のかたちと海底の姿」…オホーツク海は、カムチャッカ半島、千島列島、サハリン島、北海道に囲まれた海。また、大陸棚が発達して浅い海の部分が多い。ここに、シベリアの雪解け水とアムール川が流れ込み海水の塩分を薄くする。

 2「オホーツク海の塩分二重層」…外海との海水の出入りが少ないオホーツク海に川水が注ぐ。すると水深50メートルほどの比重の軽い塩分の層ができる。海では、表面で冷やされた海水は下に沈み対流が起こるがオホーツク海では表面の塩分の薄い層だけでこの対流が続く。オホーツク海は水深50メートルの冷やされやすい海と同じになっている。
 3「オホーツク海の気象」…冬、気温が低くなると浅い海は塩分の少ない層の間で激しく対流が起こり、急激に冷やされる。冬型の気圧配置になるとシベリアから寒気団が押し寄せ、早い年には11月初旬にアムール川河口付近で凍り始める。オホーツク海はもっとも南で凍る珍しい海だ。
 4「沖で生まれる流氷」…オホーツク海の流氷はアムール川に近い塩分の少ないところで凍り始める。流氷の広がりは、12月下旬には北海道の沖合に達する。オホーツク海の80パーセントは流氷で覆われる。カムチャッカ半島の先端や千島列島北部では太平洋の暖流が近いので流氷は発達しない。流氷群が北海道で一番早く接岸するのは枝幸町だ。
 「オホーツクに生きる動物たち」ここにある剥製など標本はガラスケースの中ではなく、フロアに様々な工夫をして置かれる。
 「オホーツク文化」ここが展示のメインだろう。奥に回り込むとオホーツク人の大きな縦穴住居の中を見ることができる。その周囲に説明のパネルが続き、壁面や柱に掛けた大小様々な土器が続く。
 **「家畜を飼育するオホーツク人」…遺跡からカラフトブタや犬の解体された骨が出土した。オホーツク人は、これら家畜を食用として飼育したらしい。
 **「オホーツク人の主な仕事」…銛を打ち込まれた獲物を確実に捕らえる回転式銛先を使っていた。(銛先に結んだひもが引かれると、銛先は獲物の体内で90度回転し抜けなくなる。)海獣類の他に魚類や貝、ウニも捕らえていた。また、オオムギやアワなどの雑穀や木の実、草の実なども食べたらしい。
 **「オホーツク文化」…本州の古墳時代から平安時代に、サハリンから北海道、千島列島にかけて活動した海洋狩猟民の文化。オホーツク人は、続縄文時代の終わりに宗谷海峡の周辺にいた人々がサハリン北部から来たグループと出会ったことで生まれた民族。出土物には、海獣を捕るための銛、彫刻された骨の釣り針、カラフトブタや犬の骨、オオムギやアワの種子などがある。四角形の竪穴式住居の跡から、熊の頭を重ねた「骨塚」が見つかる。彼らの墓から本州で作られた刀や大陸で作られた貴重な装身具などが見つかる。彼らはオホーツク海を舞台にいろいろな地域の人々と品物のやりとりをしていたらしい。
 **「熊を信仰する人々」…骨塚には、他にエゾシカ、キタキツネ、エゾタヌキ、クロテン、イヌ、ウサギ、ゴマフアザラシ、アシカなどの骨が納められた。しかし、クマの骨だけは特別に扱われていた。ホロベツ砂丘遺跡などから粘土で作ったクマの頭や、クマの指の骨で作ったペンダントが出土した。また、礼文島から根室半島に至る広い地域の遺跡から海獣の牙で作った女の人の像がしばしば発見される。研究者の中には、これはシャーマン(巫女)ではないかという人もいる。
 **「目梨泊のお墓」…死者を埋葬するとき、関節をきつく折り曲げ頭を北西の方角に向けて埋める。そのとき、枝幸から網走、知床半島の地域では、ふだん使っていた土器を頭にかぶせる。目梨泊遺跡では4年間の発掘調査によって46基のお墓が発見された。この遺跡では死者は体を伸ばしたままの姿勢で埋められたようだ。頭の向きも違う。「…。死んだ人の葬り方を変えるのは、とても勇気のいることです。なぜ、目梨泊遺跡の人々だけが葬り方を変えたのか、大きな謎です。他の地域の人々との交流が葬り方を変えるきっかけになったのかもしれません。」
 **「お墓と副葬品」…目梨泊遺跡の第19号土壙墓では被甕の土器1個、石鏃8本、刀の鍔1点、直刀・刀子・鉄鉾の各1点が組み合わさって出土した。「…。石鏃のような狩りの道具を持っていたことから埋葬された人は狩りをする男性だったのではないでしょうか。また鉄製品をたくさん持っていることは、彼が集落の中で高い地位にあったことを示しているのかもしれません。」
 **「目梨泊遺跡」…「目梨泊」とはアイヌ語の「メナシュトマリ(東風を防ぐ船のかがり場)」という意味。
 **「オホーツク式土器」…文様には縄目文、棒の先で土器を突いた突瘤文、爪で刻んだ爪形文、粘土紐を貼り付けた貼付浮文、細い粘土紐を直線と波線に組み合わせたソーメン文などがある。また、土器の形式名や文様名をとってその時期名が付けられる。鈴谷期→十和田期→刻文期→沈線文期・貼付浮文期→厚手土器期・トビニタイ期など。「…。目梨泊遺跡からは、網走に多いソーメン文を貼り付けた土器があったり、道北系の素朴な土器があったりと、いろいろな土器が出土しています。本州や大陸の人々、さらに道内各地のオホーツク人が出会う場所…それが目梨泊遺跡だったのではないでしょうか。」
 柱の下の方、床に近く掛けた土器「素麺文土器」(図)。
 壁面に掛けた土器「貼付文土器」(図)。
 パネル「擦文文化の住居  擦文人の住居は地面をほぼ正方形に掘りくぼめ、柱を立てて上から屋根をかけた「竪穴式住居」です。住居の真ん中に囲炉裏が作られ、壁際には「かまど」がとりつけられていました。かまどは本州から伝わった習慣で、ここでアワやオオムギなどの雑穀を煮炊きして食べていたのでしょう。オホーツク人の住居と比べて擦文人の住居はひとまわりも、ふたまわりも小さくなっています。擦文人は比較的小さな家族を単位に1軒の家に住んでいたようです。」
 パネル「神々の世界  枝幸での日本人とアイヌ民族との初めての出会いは、今から200年前の江戸時代の終わりころにさかのぼります。アイヌ民族は北海道の先住民族で、古くから自然をおそれ、うやまい、ともに暮らしてきました。彼らは自然そのものやふだんの生活で使う道具、そして植物や動物など、すべてのものに「神・霊魂」を感じ、大切に扱いました。そのため、使わなくなった古い道具やばらばらにした動物の骨をゴミとして捨てるのではなく、魂を持ったものとして神の国へと送り返す儀式を行いました。これを「送り」といい、枝幸でもこれを行った遺跡「送り塚」が発見されています。 また、枝幸には「チャシ」と呼ばれる砦の跡が4箇所あり現在でも見ることができます。 枝幸の地名のほとんどはアイヌ語の地名からきています。私たちの日常生活の中にアイヌ語は息づいているのです。」
 ホールに戻ると左手の部屋がパソコンコーナーになっていて、女の子がひとり画面に向かっている。
 午後、クッチャロ湖畔へ向かう。浜頓別市に入って役場の建物を探す。ナビの示すゴールに到着するが、その建物は無人で、すでに使われていないことがはっきりと分かる姿だ。派出署を示すゴールにもそれらしい建物は見あたらない。日曜日だからか、街に人の姿が少ない。広い通りに出てようやく町役場を見つける。やっぱり玄関は閉まっている。端の方の通用門を開けてみる。ここは開いていて、しばらくすると男の人が出てくる。郷土資料館は、「それは…、あれじゃないですかねえ。」と南の方を指さす。ここから見ると赤煉瓦風の建物がある。礼を言ってそちらに向かう。建物の前の道路端に車を止めて入り口を見ると、張り紙がある。ご覧になりたい方はどこどこに連絡するように、とある。念のために扉を確かめると閉まっている。この資料館は、見たい人があったときにだけ、誰かが開けてくれるのだ。少し迷ったが、もう午後3時を過ぎているので、ここを見ることはあきらめる。公営のキャンプ場は時間が来ると受付を閉めてしまうことがあるので、今はその方が心配なのだ。
 近くにクッチャロ湖があるはずだがそのまま国道を走る。地図には「宗谷国道」とある。道路は見通しがよくて、そのうえ車も少ないので誰もがスピードを上げて走っている。いつの間にか速度が80キロくらいになっている。宗谷岬にさしかかるころには太陽はだいぶん低くなった。宗谷湾を見渡すところで西日がまぶしい。低い西日もまぶしいが、さらに海がぎらぎらと光ってそれも同じくらいにまぶしい。今日は、1日分の走行距離としては長すぎたかもしれない。
 夕方の5時前に道立キャンプ場に着いた。ここは大きな公園になっていて、広々とした敷地の所々に施設の建物が点在する。受付では、オートキャンプ場へ車を乗り入れるときの自動検札カードを渡される。「こちらの人は、ずいぶんスピードを上げて車の運転をするんですね。自分でも80キロくらいがふつうになってしまいます。」「そうですか。車が少ないですからね。気をつけて走ってください。」「昨日の夜は天塩では寒いくらいでしたが、こちらは今晩はどうでしょうね。」「これでもいつもよりは暖かい方ですね。でも、雨が降るかもしれないそうです。」厚手の肌着を買う場所を聞くと、車で15分ばかりのところに百貨店があるといって、稚内市内の簡単な地図を渡してくれる。


9月8日(月)雨のち曇り
 朝、出かける前にキャンプ場の受付に寄る。 検札カードはその都度出すので返さなくてもいいのだという。10日、水曜日の利用を予約する。
 礼文島行きのフェリーに乗るには、午後2時半までに港へ行けばいい。今日は月曜日だから博物館のような施設は休みのはずだ。稚内市内で買い物のあと野寒布(ノシャップ)岬に向かう。街を出てまもなく岬に近づく。この半島は思ったより小さい。半島の先では独特の地形が姿を見せる。左手に続いていた台地が突然に終わって、崖のように地面に落ちる。台地の先端は離れたところから見てもかなり高い。あそこには自衛隊の演習地か、そのための施設があるのだ。右手には漁港とそれを囲む集落が続く。道路の所々に「避難場所…」と大きく表示した緑色の看板が立つ。矢印が台地の方を指していて、そちらへ向かう道がある。津波がおそってくるときに、集落の人々はあの台地に向かって逃げるのだ。かなりの距離があるけれども、間に合うのだろうか。岬を回って日本海側に出ると、青少年科学館がある。やっぱり今日は休みなので、来た道を戻って稚内公園に向かう。ここには稚内市北方記念館というのがある。公園は、半島の中央に位置する山の上だ。一帯は霧が降りて漂い、肌寒い。広い花壇に、まだ植えられたばかりの赤い花が少しずつ咲きはじめている。「アルメリア」。北を見晴らす位置に立つと、先ほどの岬の台地も見下ろして、その先に宗谷海峡の海が広がる。サハリン島が間近にあるはずだが、今日の沖合は厚い雲に閉ざされている。柵の外側に小灌木の白い花が咲く。花は、神社の巫女が捧げる細かい鈴のように咲いて立つ。傍らに御影石の大きな記念碑が建っている。豊原師範学校の関係者が建てたものだ。碑に刻まれた言葉によると、豊原師範学校は樺太時代の終わりごろに創立されて、4年間という短い期間に教員を養成した学校だ。本土に引き揚げた後、卒業生が各地で教職に就いた、とある。これは、母校を失った卒業生たちがその一番近い場所に建てた碑なのだ。時刻は、すでに午後2時に近いので、北方記念館を見ないで山を下りる。
 二つの島はすぐ近くに見えるけれども、礼文島の香深港までフェリーで渡るのに2時間かかる。船体は外洋航路のフェリーに比べて格段に小さい。ここでは、車の乗船ハッチにバックで乗り入れる。出港して1時間もすると利尻島が近くに見えてくる。山の中腹に雲が降りている。近づくにつれて、沖に見えていた島の姿が少しずつ変わる。北側から見る利尻山は、屏風の内側のように少しへこんでいるのだ。そのへこんだところに漂う白い雲が島影が変化するにつれて次第に見えてくる。空は曇っているけれども、島の一部が陽に照らされてそこだけきわだって明るい緑色に見える。夕方、港に近い民宿に着く。


9月9日(火)晴れ
 朝、6時。食事の前に外へ出る。民宿のある道路沿いの家々は高い崖を背にして建っている。表通りを歩いて行くとすぐ信号交差点があって、崖の上へ向かう道がある。程なく高く続く階段がある。この階段は崖の上まで上るのだろう。階段の途中から見る利尻島(写真)。途中でまたきのう見た白い花(写真)。ここの花の房は下に垂れている。階段を上りきると、そこは小学校と中学校の敷地だった。もう少しすると、この長い階段を小学生や中学生たちが上がって来るのだ。
 民宿に戻って階段の踊り場の窓から見た花(写真)。これはまた別の種類だろうか。
 少し早めに礼文町郷土資料館に出かけて、前の駐車場で9時の開館を待つ。玄関には、車回しがあって、それを覆ってがっしりと丈夫そうな屋根が正面に伸びている。女の人が出てきて、玄関前に撒水を始めるとやがて9時になる。
 資料館の一階は「礼文島の自然」。鮮明な花の写真が部屋中に展示される。「礼文島の高山植物 …、千島列島・シベリア系統に属する植物が多いのが特徴といえましょう。…分布も海岸から全島に及び、日本アルプスでも珍しいとされているウラジロキンバイ、チョウノスケソウ、ミヤマムラサキ、ウルップソウなども海岸近くで見ることができます。…。このような様々な高山植物を特別な装備なしに誰でも気軽に鑑賞できる島は世界でも珍しいといわれています。」中央が吹き抜きの円形の部屋があって、その真ん中に階段がある。
 二階は「礼文島の歴史、くらしと漁業」。独立した小さめのガラスケースに彫像が3点、大切そうに展示される。オホーツク人が動物の骨か牙を材料に彫ったものだ。当時に、あるいは出土後に磨かれたのか飴色につやがある。一つは四つ脚のけもの、他の二つは人物像で、中央の人物はたいへん写実的につくっている。顔は上下に尖った仮面をかぶって下半身は前割りのスカートを付けているように見える。何も身に付けない上半身、特に肩から腕にかけては正に生身の人間を表現している。こういう彫像は縄文文化ではまず見られない。
 「南方産の貝製装飾品」の展示がある。「イモガイ、マクラガイやタカラガイは南の暖かい海に生息する貝です。特にイモガイは日本では九州や沖縄でしかとれません。はるばる日本の南から北の果てまで交易品として伝わってきたのです。」他に、交易品の例としてあげられたヒスイとアスファルトが示される。
 深緑色の「ヒスイ大珠」。これは、中央にきれいに彫り開けた円筒形の穴がある。
 「石ぞく付き銛先」。アスファルトで付けたという銛先の反対側は反り返って鋭く尖る。これが、例の回転式銛先か。
 「礼文島の先史時代」というパネルが壁面に続いて並ぶ。その中のオホーツクのパネルの説明文ではつぎのように述べている。
「オホーツク文化期
 今からおよそ1,400年前(6世紀ころ)、サハリン南部にいた人たちは、網漁と銛による海獣猟の技術を発達させたオホーツク文化をつくりあげました。まもなく彼らの一部は北海道北部に移り住み、先の続縄文文化をもつ人たちをふくみこみ、やがてオホーツク海岸にそって道東地方、さらに千島列島にまで進出しました。
 この時期の遺跡は、浜中(7・8)・上泊(21)・香深井(28)・元地(39)など島内で19箇所ほど知られており、その数は続縄文期と同じくらい多いといえます。当時のムラの様子は、香深井遺跡(28)の発掘調査による資料をもとに、ジオラマに復元しましたので、ここでは主に家と生業についてながめてみましょう。
 遺物が比較的豊富だった香深井遺跡1号a縦穴住居址は、長さ7.2m・幅6.1mの六角形の平面をしており、床面積は38.9u(約12坪)、深さは80cmほどです。中央には炉が設けられ、これを三方からコの字形に囲むように粘土が敷かれ土間がつくられています。土間の外側はこの竪穴では砂地ですが、木材でベンチを作った例も知られています。南側の壁の直下には壁沿いに浅い溝がみられます。おそらくその中に壁材を立て、並べたのでしょう。屋根そのものは残っていませんでしたが、柱穴と思われる太い穴の配列と北方民族の家を参考にして、ジオラマにこれを復元しました。
 床の上にみられた物では、まず、南側のど間先端と東壁の間あたりに大型の土器が3個まとまってありました。いずれも内部に炭が厚くこびりついているので、これらは煮焚きに使われていたのでしょう。炉を越えてそれと反対側(西側)の砂上にはヒグマの頭蓋骨2個が並べられ、その近くにはクマを表現した骨製の彫刻品と銛がありました。ここはクマ祭りに関連した祭壇のようなものがあり、このあたりは家の中でも神聖なところだったのでしょう。土間の南側では大小の土器と骨製の銛とヘラ(*)そして獣骨がみられましたので、土間の北側とともに人々が日常起居したところと思われます。
 では何故こんなに大勢の人が一つの家で一緒に生活したのでしょう。それを考える手がかりは当時の生業のしくみにありそうです。香深井遺跡にぶ厚く積もっていた魚骨とウニがらの層の分析の結果、当時の人々の食料の80%あまりは魚(他に海獣・ウニ・ブタ・イヌ・鳥など)であったことが明らかになりました。その主な種類はニシン・ホッケ・マダラで、ニシンは春、あとの二種は秋から冬に、産卵のため礼文島の近くに群れをなして来たものがとられたようです。漁法や漁具の詳細はまだよくわかりませんが、2〜3人乗りの船2〜3艘ごとにサシ網などを使ってとったと思われます。一つの竪穴住居に共同生活をする数家族からこのような漁に必要な人員(成人男子)がまかなわれたと考えるのです。そして、いくつかの竪穴住居の住人たちあるいはムラ全体ではもっと大きな生業、たとえば海獣猟やクジラ猟・他地域との交易などを行ったのでしょう。また、夏季には香深井では魚があまりとれないので、住民は島内のあちらこちらに分散してキャンプ生活をいとなんだと考えられます。
 交易によって鉄器その他がもたらされていますが、その量はほぼ同時期の擦文文化にくらべて少なかったらしく、依然として石器が制作・使用されている点もオホーツク文化の特徴のひとつです。」
 文中の括弧内の数字は次の地図(〈図〉…同じ壁面のパネルから。)の遺跡の場所を示している。他のパネルもこの地図で該当する遺跡を示しながら説明する。この説明文は、文章は長いが分かりやすい。勝手に省略したりしないで細かいことまで丁寧に説明している。文中のヘラ*は、「北の島の縄文人―海を越えた文化交流―」(国立民族博物館企画展示、2000.07.04 冊子。これは、旅行中も見るために持ってきた。)によると、アワビを捕るためのヘラではないかという。また、これは日本海南部の弥生人が使っていたものとよく似ていると冊子では述べている。あの企画展示には、この郷土資料館と共通の資料が多く使われたのだ。
 階段を上ったところに縄文期の大きな深鉢がある。表面の細いふくらんだ直線が2本平行したり、折れたりして文様を描く。容器の上部の半分あたりが出土したものらしい。そばには、細い割竹のような半管状の道具をずらしながら順に押しつけていったと思われる文様のものがある。これは上下等間隔に平行して描かれる。これらは規則性の強い文様という感じがする。
 ここの土器たちは、背の低いガラスケースに収められている。土器の上部が上のガラス板にぶつかりそうだ。照明の蛍光灯もその中にあるから、展示物はそのごく一部分しか明るく照らすことができない。ここには、時代ごとに特徴のある文様を見せる土器がいろいろあるようだ。けれども、その全体像がなかなか分かりにくいもどかしさがある。
 昼には少し間がある。午後の目的地は、島の北の高山植物園だけだ。町役場の方へ歩いてみる。大きなカラスがいる。2階建ての軒下に止まっていた1羽が植え込みに舞い降りてきて何かつつき始めた。それとなく近づいてみる。足で押さえてちぎったのはハマナスの赤い実だ(写真)。カラスは果実も食うのだ。ハマナスの実は甘いのだろうか。これはハシブトガラス。ただし、僕はハシボソガラスとこれしか知らないから、ごくふつうのカラスがこの2種類だとしたら、これはハシブトガラスだ。今、香深港に出入りする船はなく、波止場に動く人影も少ない。車に戻って地図を見ると、西海岸に出るには香深の町から山を越えて行く道路がある。今朝歩いた信号交差点から入る道だ。
 崖の上に出ると、そこも街の続きで民宿やホテルがある。それからは、山道というより丘の連なる中の道を走る。ときどき香深港の海が見える。道路標示に桃岩展望台へというのがある。道端の空き地で観光バスが客をみんな降ろしたあと停車している。その後ろに車を付けて丘の階段を上り始める。途中に、カラー写真のように鮮やかな地図を掲げて環境省の看板が立っている。ここは桃岩展望台入り口。「利尻礼文サロベツ国立公園」。礼文島では国立公園区域の境界線が北端から南端まで通って島全体を東西に分けている。公園は西側の半分だ。ここから島の南端まで遊歩道がある。風のない快晴の9月に北の島の丘陵地帯を歩くのもいいかもしれない。ただし、今日は西海岸に出てみたいのだ。展望台まであと500メートル。上るにつれて急な階段になってきた。上から、観光バスの客たちが降りてくる。足元に青い花(写真)。「れぶんつりがねそう」と勝手に決める(実はツリガネニンジンか)。下を見ると道端の観光バスと僕の車が小さく見える。強い日差しの下で曲がりくねった道路が丘の間に見え隠れする。黄色いバスがもう1台のぼってくる。
 展望台では、女性二人が写真を撮りあっている。若い男性がひとりリュックをしょい直して降りる支度をしている。バスの客はみんな降りていったのだ。ここから見ると、前方の丘を挟んで左右に海が広がる。右手に海を見下ろしているのが桃岩。桃岩というのは、頂上がやや尖った岩の大きな塊だ。下の方がふくらんでいるので、桃が置いてあるようにも見える。左手には間近に利尻島が浮かぶ。裾のあたりにもやがかかっているがその山影は頂上までくっきりとした輪郭を見せる。南の丘の方から歩いてくる人たちがいる。島の南から遊歩道を帰って来たのだ。ここにも環境省の看板がある。「礼文島の花ごよみ」の表を掲げる。花が一番多く咲くのは6月。9月はツリガネニンジン、イシリブシ、チシマリンドウの3つしか挙げていない。「桃岩は、礼文島では比較的新しい時代にできたもので、地下のマグマが地表部を押し上げ冷やされながら球状の巨大な岩体に成長したものです。表面にはタマネギの皮のような球状摂理(板状摂理)が取り巻き、表面のはがれ落ちた内部には、表面よりゆっくりと冷えていく速度の違いから柱のような柱状節理が見えます。」地殻変動の時に、かなり冷えかかって粘り気もあるマグマがゆっくり押し出されながら冷えると、こんなかたちになるというのだ。確かに、岩の露出した部分には縦の溝が幾筋も見える。柵の下に咲く花(写真1)。車に戻って西海岸に向かう。
 海岸に出て北に少し走ると小さい集落がある。観光客相手の店が並ぶ手前で駐車する。食事に入った店で聞くと、この先はもう行き止まりだという。駐車したすぐそばの海岸に降りてみる。細かい砂利混じりの砂浜は急な傾斜で、すぐ波打ち際になる。ゆるくおだやかな波が寄せる。来た道を戻る。
 午後1時。島の南端を確かめたくて信号交差点を南に向かう。この道は、きのう港に着いてから間違って反対方向にかなり走ってしまった。右手には海に向かって建つ家々が続く。土地の漁師の家や民宿だ。入口の横に階段を付けて玄関を高くして建つ家が多い。左手に続く海岸では、岩礁の上をカモメが群れ飛んでいる。だんだん道が狭くなって、島の西側へ回り込んだ先で道路は終わった。道路端に建つ標識に「40礼文島線 礼文町知床」とある。ここにも知床という地名がある。駐車場ができていて、その先にときどき人が歩いているらしい小道が草の中に続く。小道の右手、陸側には見上げるように高い崖がそびえている。崖の上の方は土と砂利が層をなしているように見える。あちこちに大きな石や岩の塊が突き出ている。あれは、今にも崖を崩して転がり落ちて来そうに見える。実際、明日か、何十年後か、長い時間のどこかでかならず落ちて来るにちがいない。
 午後2時半、北部の高山植物園に着く。建物の入り口に入っても誰もいない。外では二人、組んだ足場に上がって改装工事か何かしている。北側に出ると育成用のフレームが建っている。また、広く仕切られた苗床がいくつも遠くまで続いている。肥料を車から降ろしている人に聞くと、今は受付をしていないので自由に入っていいのだという。そうか。花の季節の大体が終わってしまったのだ。
 「アサギリソウ」(写真)。朝霧のような、という名だが今でも午後の陽を浴びて明るい灰緑色の茂みは目を引く。花は少ないが咲いているのもいろいろある。「レブンソウ」(写真)。「チシマワレモコウ」(写真)。「ミヤマアキノキリンソウ」(写真)。「ミヤマキンポウゲ」。花壇は岩を配して広い範囲にいくつもある。敷地の周囲にはゆるい起伏の丘が続く。敷地の境界になる堤の上を歩く。斜面の草むらにハイビスカスに似た白い花(写真)。入り口の建物に展示される写真の「チシマフウロ、紫色の花が5月中旬から7月上旬に咲く、とある。」のようだが、これは花芯だけが紫色だ。午後4時、近くの久種湖畔キャンプ場に着く。手続きを済まして、すぐ街(船泊村)に出る。
 久種湖畔。午後5時30分、買い物も入浴も終えて助手席のデスク向かう。
 街の浴場では、土地のおじいさんと一緒になった。浴室に入って湯船を見ると湯が少ないので蛇口をひねって湯を出しておいた。体を洗っているとおじいさんが入ってきた。背後に湯をすくってからだにざあざあかける音がする。何か分からない大声を出して湯につかる。僕も湯に入る。おじいさんは日焼けした顔を手で上から下までなでおろしてはニコニコしている。小柄だが顔も体も真っ赤に日焼けしている。短く刈り込んだ髪は白い。濃い眉や短いひげも白い。髪が短いせいか顔が小さく見える。皺が深い。笑いながら何かしゃべりかけてくるけれども、何を言っているのか気を付けて聞いていても分からない。多分、今日の天気のことだろうと思って適当に相づちを打つ。おじいさんはきっとこの土地の漁師なんだ。湯はだいぶ増えてきたが、いつのまにか湯面に何かがいっぱい浮き出した。それが見る間に一面に広がる。おじいさんはむずかしい顔をして、湯面を押しやるように肘を何度も振る。僕も腕を振って湯を外へ押し出す。ちょうど湯が浴槽いっぱいになったので二人とも中腰になって浮遊物を追い出しにかかる。一段落して両方とも声を出して笑った。おじいさんはしばらく笑っていて、さかんに手で顔をなで下ろした。
 キャンプ場は周りをなだらかな丘に囲まれている。すぐ右手の低い茂みの向こうに湖の水面が光っている。日は沈みかけているが空はまだ明るい。頭上を大きな海鳥が2羽、鳴き交わしながらゆっくり飛んで行く。あと1時間足らずで日が暮れる。


9月10日(水)くもり
 朝、キャンプ場の湖畔で見た花(写真)。これもニガナの一種か。スコトン岬へ向かう。スコトンとはアイヌ語で「シコトントマリ、大きな谷のある入り江」の意味だという。
 岬の先端から北を見る。すぐ前にトド島、晴れていると、そのはるか向こうにサハリンが見えるという。今日はほとんど見えない。北の海の沖はやや明るいが、トド島のすぐ先で、細長い雲が浮かんでいる。その雲の底の下に、うっすらと稜線のようなものが見える。いや、見えるような気がする。風が冷たい。岬の先端までやってきた人は皆、しばらくすると身をちぢめて車の方へ急ぐ。澄海岬へ向かう。
 浜中から西上泊にかけて丘陵地帯が続く。草地だ。ここが森や林にならないのは何故だろう。海岸に出たところの駐車場に着いて、階段を上がる。上がる途中から急斜面に囲まれた入り江を見下ろす。この入り江は二つの小さな岬の間にある。入り江は透明度が高く、海底の様子で微妙な碧色を見せるという。天気がよければ。
 ここから車でこれ以上南下する道はない。天気がよければ、時間をかけて礼文島西海岸のハイキングコースを歩くことになる。12時。香深港に引き返す。午後1時5分出港。午後3時稚内港着。予定より早く道立キャンプ場に戻る。


9月11日(木)晴れ
 早朝、キャンプ場の中を歩く。夜半、雨が激しく降った。アスファルトの道には、まだ、水たまりが残っている。道端の草むらに花(写真)。これほど草丈が伸びる前にはバラが植えてあったのだ。日の出(5時30分 写真)。このキャンプ場には、大きな2階建てのバンガローがたくさん建っている。8時半、名寄市を経由して旭川市に向かう。今日は天気が良さそうなので宗谷岬を回って行くことにする。
 朝の太陽を背にして岬に立つ。空に雲はほとんどなく、頭上に広がる濃い青が水平線に降りるにしたがって明るく霞む。ここでも、沖の島影は見えるようでもあり、見えないようでもある。「日本最北端の地」と書いた碑がある。近づくとすぐ、若い二人連れに写真撮影を頼まれる。稚内公園に植えられていた赤い花(写真)。カラー写真でできたパネルに「アルメリア(和名 ハマカンザシ) ヨーロッパや北アメリカに分布し、千島にも野生する。」とある。この花も咲き終わりだ。海岸の岩にカモメが何羽も降りている(写真)。この岩は溶岩のように黒い。
 先日も通った浜頓別町から音威子府村に出て、国道40号線を南下する。夕方近く、東神楽町オートキャンプ場に着く。


9月12日(金) 晴れのち曇り
 朝、明日までのキャンプ場利用を予約して、旭川市内に向かう。
 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館は洋風二階建ての木造建築で、旧陸軍第7師団の将校社交場として今から百年前に建てられたものという。両側に洋室を控えて中央に通る廊下は暗いが、むかしのいかにも頑丈な建物だ。ただ古いだけではなく、常に何かに活用され、よく手入れされて、人の出入りが絶えなかった建物。珍しく幸福な建物だ。「若きカフカス人」は裏側のない前半分だけの彫刻だった。今まで正面から撮した写真ばかり見ていたのだろう。
 樹木に囲まれた敷地の端に井上靖記念館がある。こちらは平成5年に開館した、まだ新しい建物。旭川は井上靖が生後1年過ごした地だという。父は第7師団の軍医だった。
 川村カ子(ね)ト アイヌ記念館を訪れる。展示室は木造大屋根の建物で、入り口脇にトーテムポールが立っている。パンフレットによると、ここは「…川村カ子(ね)ト アイヌ古老が生前アイヌ民族文化を正しく伝承するため自ら私費を投じ多くの苦難に耐えて大正5年に建設した北海道最古のアイヌ文化の貴重な資料館…」だという。展示室のガラスケースにはたくさんのアイヌ民族の民具や衣服が並ぶ。川村カ子ト氏は、鉄道の測量技師として三河の飯田線建設などでも活動した人だ。展示を見て回っているうちに、大がかりな撮影機材が持ち込まれて展示室内の写真撮影が始まった。博物館を訪れた人を想定したモデルなのだろうか、一緒に入ってきた女性を写真に撮っている。それが一通り終わったあと、その女性が口琴の演奏を始めた。撮影が済むのを待っていた人たちが感心して聞いている。演奏が終わるとみんなが拍手をした。
 広い前庭の奥に土産物店がある。店の品物はほとんどが木の彫り物で、大小の熊やフクロウなどが隙間なく並べてある。幹を輪切りにした台の上にフクロウが載っている。彫ったままの生地で白と茶の肌を見せている。これはよく磨いたら、いい艶が出るかもしれない。小さい方のを選んで買う。先ほど口琴を演奏した女性が店のおばさんと話をしている。「あの先ほどあなたが演奏していらっしゃった、口琴っていうんですか、あれはアイヌ語では何というんでしょう。」と聞いてみる。「あれは、アイヌ語でムックルっていうんですよ。」と女性が答えてくれる。アイヌの人たちは昔から木の彫刻を作っていたんですね。ええ、そうです。こちらに昔のものもあります、といって刀の鞘を見せてくれる。非常に細かい模様が一面に彫られている。熊やフクロウを彫ることは最近のことで、昔はなかったことです。彫刻のできるアイヌの人たちが生活のために動物の彫り物を作るをするようになったんですね、という。「いろいろよくご存じなんですね。どうして昔のアイヌの人たちは熊やフクロウを彫らなかったんでしょうね。」それはよくは分かりませんが、当時のアイヌの人たちは動物のかたちには魂が宿るということで避けたのではないかというふうにもいわれています、という。
 午後は、旭川市博物館へ向かう。博物館は石狩川を渡って、さらにJR旭川駅の南側になる。博物館が見つけられなくて「大雪アリーナ」という建物の駐車場で電話をかけて聞くと、相手はすぐそば、道路を挟んで向こう側に広がる施設が博物館だった。
 ここは総合博物館だけれども、縄文土器からアイヌ民族の民具まで歴史展示が充実している。入ってすぐの壁を背にガラスケースがある。中に、これは続縄文だろうか土器が3つ展示される。深鉢の胴のかたちも独特だが、首に刻まれた線に珍しい特徴がある〈図〉。これには弥生式土器の雰囲気がある。同じように擦文土器が3つ展示されたケースがある。ここに置かれた深鉢は、かたちこそ見慣れたものだが模様の配置が極めてはっきりしている〈図〉。つぎに土器が時代順に展示される。縄文早期の土器。前期。中期。後期。晩期の土器。それぞれ特徴があっておもしろい。どの時期も、本州とのつながりを感じさせる。特に晩期は東北地方のものと同じもののように見える。
 続縄文土器がたくさんある。こんなにいろいろな表情を見せる土器だったのだ。この豊かな変化は、この地方の特徴なのだろうか。パネルの説明文に「続縄文時代の前半は、大きくみて道南に恵山式土器、道東に下田ノ沢式土器が展開し、上川はおもに道東の文化圏にありました。しかし後半になると、道央で成立した江別式土器が全道を覆い、東北北部やクリルまで分布を拡大します。」とある。ほう。マイナーなものではなかった。ここに展示された土器には、縄文土器の口縁部の特徴がまだまだ続いている。これらの土器と擦文土器はどうもつながりにくい。間に空白の時期でもあるのだろうか。
 5年生くらいの小学生たちがやって来て、「土笛」をみんなで覗きこんでいる。説明パネルのボタンを押すと笛の音が流れる。彼らが先に行ってしまうのを待って説明文を読む。「昭和8年、江別市旧町村農場内の墓(続縄文時代)から出土。上部の2本の角に下唇を当て、息を吹き込むと音が出る。吹き口のまわりにある4つの穴を指で開閉するとド・レ・ミ・ファ・ソの5音を鳴らすことができるが、ソの音は穴の位置の関係から音を出しにくい。今は失われているが、吹き口の反対側にひも通しの穴があり、首にかけて使用したと思われる。ベンガラ(赤色塗料)の痕跡があり、祭事に用いたと推察される。」
 オホーツク式土器。これは明らかにこれまでの土器とは別のものだ。クマの頭部とラッコ。この民族の表現には、抽象化はほとんどない。
 幅の広い展示ケースの中に、アイヌの人々の着物がその文様を見せて何着も次々に展示されていく。最初の着物の説明パネル。
 『 アミップ 「毎日毎日,二日も三日も(くる日もくる日も),二つの針の行く後,三つの針の行く後に,眼をこらし見れば,針の先には二つの弧線の象,三つの弧線の文様を我縫い出す。我が刺繍せるものの美しき衣は・・・・・・」アイヌの人々に伝わる神謡・聖伝の中には,アイヌ男性は彫刻に没頭し,女性は刺繍に明け暮れるという場面がしばしば語られています。アイヌ女性は幼い頃から,着物などの刺繍に生かすための文様を,遊びのひとつとして,炉の灰の上や地面に繰り返し描くことにより,伝統的な文様を習得してきました。
 アイヌの人々の着物は,「アミップ」ですとか「チミップ」と称され,どちらも「我らが着る物」という意味です。上川地方のアイヌの人々が着用した衣服には,次の4種が伝えられています。
 「アットゥシ」は「オヒョウ・シナ・ハルニレなどの樹皮を機で織った布で創った着物」
 「チカラカラペ」は「我々が刺繍したもの」
 「ルウンペ」は「ルカウンペ」とも言われ「細いキレを置いた物」
 「カパラミプ」は軽い物,上等な物と言うことから「美しい着物」
 「イヨイミ」は『木綿の着物に刺繍をした着物』で他の所ではチジリと言われています。(カパラミプは,大正時代に上川地方に伝えられました。)
 刺繍を施す曲線や,細いキレを置いていく直線にはどのような意味があるのでしょうか。故 山本多助 氏は,「直線の心は正しさと真心を表すという意味が含まれているもの,丸形の文様は,平和,円満,豊かな内意が含まれていると伝えられています。」といっています。
 アイヌ女性が,気の遠くなるような時間をかけて,美しく丁寧に作り上げたその着物には,その女性の魂が込められています。着る人にふりかかる危険や災難から守ってもらいたいという願望というよりは,深い祈りの象徴であるといえるのかも知れません。 』
 2番目の着物の説明パネル。
 『 3種の着物 「チカラカラペ」は木綿の着物に,黒または紺の細長い布を置いて,その布からはみださないように刺繍を施してあります。木綿の地色が茶系で縦縞模様のチカラカラペはアットゥシに見えます。
 「ルウンペ」はチカラカラペの黒や紺の布とは対照的ともいえる様々な色の端切れで直線と曲線とで彩られ,やはり布の上から刺繍を施してあります。大変,華やかな着物です。
 「カパラミプ」は,日高地方が発祥の地と言われています。木綿の着物を覆うように縫いつけられた切り抜きの文様の白布は,明治になってから,アイヌの人々の手に入りやすくなりさかんに作られるようになりました。 』
 着物の前を見せて展示しているのは最初のアットゥシだけで、後はすべて背中を広げて見せている。どの文様も左右対称に表される。文様を描く際に型紙のようなものを使っていたとしたら、その切り抜き方によるのかもしれない。布そのものは厳密な左右対称で裁断されているわけではない。
 『 アイヌの文様 アイヌの人々は自ら製作する木製品には彫刻,布製品には刺繍や切り伏せ、茣蓙などには編み込みによって文様を施しました。アイヌ文様の基本は渦巻き文(モレウ),かっこ文(アイウシ)などですが,木彫品の地文には鱗状に刻みをいれた鱗文が用いられました。衣服や木彫品に施される文様はその基本をいろいろに変化させ,組み合わせたものです。アイヌの人々にとって,クマやシャチは高位の神ですが,これらの姿をそのまま文様として日用品に施すことはありませんでした。
 衣服,手甲,脚絆などの服装品には,文様を切り抜いた白布や細長い紺,黒,色布を絡み縫いでとめて文様とし,さらにその上に刺繍をします。神謡などでは,女性が一心不乱に刺繍をしている姿が謡われていますが,服装品に美しい文様を施すことができるようになると,女性も一人前といわれました。 』
 最後に展示されている着物は、「カパラミプ (白布切抜文様衣)」と表示される。前の合わせ目と裾の端を広幅の赤い布で縁取り、襟に鮮やかな空色を使っている。文様の白布は衣のほとんど全面に縫いつけられる。白布の隙間でできた太い線が切り抜かれたかたちを縁取るように流れ、合流する。それぞれの白布の中に引かれた線は糸のように細い。その線の強弱が不思議な階調を見せて衣の上に広がる。小さい赤い色が両肩と腰と裾の両脇、計六箇所に置かれる。長い時間をかけてようやく縫い上げられた時、この見事な着物を誰が着たのだろうか。
 アイヌ民族の歴史を説明するコーナーが続く。ペニウンクルとは上川地方で生活する人々の呼称だという。
 「コタンのまつり Kotan Festival ペニウンクルは、アイヌモシリ(この世)の動植物、物品、現象は「かみ(霊的存在)」の仮の姿である、と考えています。「かみ」はその使命を終えると、仮の姿を脱ぎ、「かみ」の世界へ帰ります。
 コタンの大きなまつりは、クマ送りです。肉や毛皮を土産にアイヌモシリを訪れたクマの「かみ」への儀礼と歓待を、近隣のコタンをあげて行い、みやげをもたせてくまの「かみ」を丁重に送り返します。」
 次のパネルでは、江戸時代末の人々の様子が説明される。石狩川河口では鰊漁が盛んになり、周辺の多くのアイヌの人たちが使役された。そこに疱瘡の流行もあったりして鰊漁の労働力が不足した。石狩川上流のペニウンクルは、まだ、自由な鮭漁に従事していたが、やがて石狩川河口まで出かけて過酷な鰊漁に従事するようになる。「…。その労働は苛酷で、松浦武四郎はアイヌの人々を昼夜の別なく働かせたと言っていますし、その処遇は蝦夷地でもっとも悪いと言われます。約150人のペニウンクルが、浜に設けられた雇倉で生活しましたが、ここは狭くかつ湿気があって、病人が多い劣悪な環境でした。このため、別の小屋を建てたいと申し出ても、木材を使うという理由で許可にはなりませんでした。また、上川へ帰るものは、初冬に石狩を発つので、石狩川の結氷、降雪にあい、難儀することがしばしばありました。」
 次のコーナーでは、平成9年に廃止された「北海道旧土人保護法」の全文を掲げるとともに、新しく制定された「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律」に触れている。次ぎに「ペニウンクル略史年表」として文化8年(1810年)から明治32年(1899年)までの具体的な事実をあげている。さらに、給与予定地の返還運動について、共有財産の管理とその後の経過について触れている。これらのコーナーは、見る者に極めて微妙な思いをさせる。それは、間違ったことを口にしないように気を付けなければならないという密かな思いかもしれない。このことは、アイヌの人々の由来や、さらには、それ以前にこの地に住んだ人々の文化の経過にさえ及んでいるのかもしれない。
 三浦綾子記念文学館を訪れる。それは、「見本林」といわれる林の入り口にある。まず少しだけ「見本林」に入ってみる。入り口に立つ看板を見ると、ここには美瑛川が流れている。「林」の中は美瑛川にかけて主に北の樹木が通路で区画分けされている。「ヨーロッパカラマツ」、「ニセアカシア」、「ブルーミントンノーマル」。ここの樹木は間引きということはあまりないようだ。幹の細いまま背を高くした針葉樹がたくさんある。その間に真っ赤に紅葉した、多分カエデの仲間だろう落葉樹も遠慮なく背が高い。キャンプ場の受付時間が気になるので、さっさと建物に入る。
 僕は「氷点」という作品を読んでいないし映画もテレビドラマも見ていない。ここへ来るまでは展示を見ているうちにその気になるかと思っていたがそうでもない。読んでもいいし読まなくてもいい。何故だろう。懸賞小説ということが目立ちすぎるからだろうか。ふつうはありそうにもないあらすじが気に触るのだろうか。窓のそばに立つとすぐ、ボランテアの解説員が「見本林」について話し始める。


13日(土)雨(台風14号)
 きのうと全く同じ場所で目覚める。昨夜から風が強い。ポプラか、プラタナスか、キャンプ場を高く取り巻く樹木たちがやかましく葉を鳴らす。朝からラジオで、今日は台風14号が北海道に近づくだろうといっている。
 美瑛町を通る。この町は、いつか観光バスで来たところだ。こうして国道を自分の車で走っている限り、あのときのような風景ではない。どこかで別の道に入るのだろうか。そんなことを思っていると雨がぽつぽつしだして、たちまち本降りになった。「博物館ガイド」によると富良野市の郷土館では旧石器から縄文、続縄文の遺物を数多く展示している、とある。そこは富良野駅や市役所に近いので安心していたが着いてみるとすでに移転していた。市役所で教わった場所はもう少し南の生涯学習センターで、そこに博物館ができているという。渡された地図を見ると、その新しい博物館は国道が空知川を渡る手前にある。
 激しく降る雨の中を建物の前の駐車場から玄関に駆け込む。こんな日だから、センターの中はひっそりとしている。男の人が出てきて、廊下の先を指さして博物館の入り口を教えてくれる。展示室は2階にもあって、写真展も見たあと階段があるからそれを下りてくるようにという。「富良野のあけぼの」では壁面に広く張った金網いちめんに土器がとりつけてある。
 縄文早期の土器(図)。
 ここには縄文晩期の土器がいっぱいある。
 パネル「富良野の先史文化 …。富良野市で発見された先史時代の遺跡は、現在までに127箇所にのぼります。旧石器時代の遺跡は丘陵地帯に分布し、縄文時代の遺跡は、扇状地、河岸段丘などで確認されています。続縄文時代以降の遺跡は極端に少なく、チャシなどのアイヌ文化期の遺跡も今のところ発見されていません。」
 「アイヌ文化の成立」というパネルの右下に白黒の写真がある。アイヌの若い両親と子どもの写真。半身肌を見せてあぐらをかく父親。正座をして膝に両手をそろえる母親。その間に幼い男の子が父親のようにあぐらをかく。母と子は和風の着物を着ている。3人とも、ごく日常の姿で写っている。「鳥沼湖畔に住んでいたアイヌの一家。富良野市で残されたアイヌ関係の記録はこの写真のみで、当地方のアイヌ文化期は資料が希少でその多くは不明のままです。」
 午前11時半、日高峠を越える。「クマに注意」と表示がある。正午過ぎに二風谷アイヌ文化博物館に着く。
 雨の降る前庭に数棟のチセが建っている。展示室にはアイヌ民族の民具がいろいろな方法で展示されている。展示品は濃い影を見せずに光りを受けて、なお明瞭だ。人の背丈ほどもある縦の引き出しがいくつも並んだ箱が立っている。これを引き出すとアイヌ民族の衣装が次々にあらわれる。裾や背中の模様も、袖も、襟もすべて間近に観ることができる。もっとも、それには重さに耐えられる造りが必要だ。このような引き出し式衣装ケースを全部透明なガラス板で作ったら、さらにおもしろい展示になるだろう。細い枝などを使って小鳥を捕らえるための罠がある。そばのパネルに説明図もあって、若い女性が二人、罠の仕掛けを組み立てにかかる。互いにあれこれ試みるがなかなか仕掛けは落ちない。「あ、そこは途中に引っ掛けたままにしたら。」と僕も脇から注文する。いろいろやっていて、もうあきらめかけたとき突然に罠は完成する。仕掛けのしくみに感心しながら代わる代わる確認をしてみて大いに喜ぶ。
 夕方、苫小牧市に入る。


14日(日)晴れ
 朝、昨夜の強風もおさまって快晴。白老の財団法人アイヌ民族博物館を訪れる。ここは広い敷地内に多くの施設があって、博物館の建物もその一つなのだ。入り口に着く前に土産物店がたくさん入った建物の中の長い通路を通る。まだ少し時間が早いのか、店に立ち寄る客はほとんどいない。ちょっと覗きこむとすぐ店の人に捕まる。
「旦那さんもいいタイをしてる。これもいかがですか。」と僕が覗きこんでいた黒曜石のボータイをひとつ取り出す。「日高の黒曜石というのがあるそうですね。」「ええ、ありますよ。どこだったか。確か前はあったんだけど。ああ、こんな小さいけど。」といって小さなブローチを取り出す。確かに細い茶色い線が片側に入っている。ボータイは今はないという。帰るときにまた、といってはなれる。
 敷地の中に入って、大きな彫像を見て気がついた。ここは以前にも来たことがある。団体旅行の目的地のひとつとして。そのときは博物館の名前なんぞ気にもしていなかったから、覚えていなかった。その同じ場所だと思わないで入ってしまった。
 ともかく、博物館の建物に入る。しばらくすると、敷地内のアナウンスが流れる。もうじきアイヌ民族の踊りの上演があるから、どこどこのチセへ行くようにと呼びかけている。出口の係員に放送のチセの場所を聞いてそちらに向かう。
 そのチセは普通のものより大きな建物で、内部は催し物のために特別な造りになっている。左手奥が一段高く板の間になって、中央に炉が切ってある。観客は右手と入り口側に何列も板を渡したベンチに腰掛ける。部屋に人がいっぱいになって、開始が告げられる。はじめの説明によると、踊りは本来は戸外で行われる儀式などで踊られるものだという。やがて炉のまわりで古式舞踊が始まる。謡いに合わせて、弓や剣を持った男がひとりで炉のまわりを踊る。女が二人で踊る。また、男も入って大勢の女が踊る。大抵の踊りは手や腕、脚の優雅な表現で、激しく足を踏みならすようなものではない。踊りは謡われる物語の内容を表しているらしい。出口で、「アイヌの歴史と文化」という冊子を買う。中のすべてのページに英文が添えられている。
 敷地内を少し見て回って、もう一度博物館に戻る。この展示室にも解説員がいる。この解説員という立場は、来館者のためにどんな風に役に立つことができるかという点で微妙な難しさがあるようだ。アイヌ民族の文様について説明しているパネルを見ていて、ちょうどそばに解説員の男性が来ているので聞いてみる。「このアイヌの人たちの文様は、縄文土器の文様と似ているようにも思うのですがどうなんでしょうね。」「ああ、そうですか。なるほど。しかし、私はそのことについてはあまり詳しくはないんですよ。どんな点が似てるんでしょうね。」「もちろん、何もかも似てるんじゃないんです。この完全に左右対称になったようなところは似てないんです。でも、この丸味を持った曲線がうねるようなところ、隣同士が接してつながっていくところなんかは似ていると思うんですが。」「ああ、そうですか。実は私は文様についてはまだよく知らないんです。参考資料の本がありますが、もうご覧になりましたか。」案内してもらうと、そこはアイヌ民族の文化についての図書をそろえて販売もしている部屋だった。町の普通の書店でこれだけそろえているところは見たことがない。「ユーカラの和文に訳した本がありますか。できるだけ忠実に翻訳したもので。」と彼に聞く。「ああ、それならこれはどうでしょう。」と、台に積まれた文庫本を手のひらで示す。それは、知里幸惠 編「アイヌ神謡集」だ。この女性についてはいろいろな資料館の展示で触れられていた。解説員さんに礼を言ってゆっくり見せてもらうことにする。「神謡集」や他の本をしばらく見ていると、また彼がやってきて、「ちょうど、たまたま館長さんが見えますがお会いになりますか。」という。「え。」と躊躇していると、館長さんは考古学に詳しい方ですから、お聞きになりたいことがあるならいい機会かもしれません、という。そこで、仕事のじゃまにならなければ、といいながら二階の館長室へ案内してもらう。
 館長さんは年配の考古学者だ。「私の専門は主にオホーツク人の文化についてなんですが。」といってアイヌ民族の歴史、文化について話してくださる。彼によると、縄文の文様とアイヌ民族の文様の関係は、現在のところはっきりしたことは何も分かっていない。結果として似ているのであたかもつながりがあるように見えていても、実際には無関係だということはよくあること。それは各民族の文様や言語でもいえることだ、という。また、縄文文化は北海道でも地域差があって、といって紙にペンで四角の北海道を描き斜めの線で仕切って、このあたりを境にしていくつかの違いがあります、という。縄文土器のこと、オホーツク文化や擦文文化のことについていろいろ話を聞いているうちにたちまち一時間を過ぎてしまった。今回は礼文島まで北上して戻ったこと、北海道の東側は来年の夏にまた来て見てみたいというと、「それは惜しいですね。最近の発掘で今さかんに話題になっているのはね、」と新聞記事のコピーを見せてくださる。
 午後は苫小牧市の博物館に向かう。国道から右手に入るとすぐ埋蔵文化財センターの建物がある。一般の入り口は見あたらず、さらに右折すると公園の広い駐車場がある。受付で、ここは埋文センターが併設されているのですか、と聞いてみる。以前は別だったのが今は一緒になったのだという。
 展示室に入ると、いきなり大きなアンモナイトの化石が立っている。「メゾプゾシア」。これは径が1メートル近くあるのにほとんど完全な1体だ。この大きな開口部から身を乗り出した頭足類が海に漂っていたのだ。考古関係では、幅広い壁一面の網に掛けられた出土土器が時代順に並んでいる。壁から身を引いてはなれて見ると、縄文早期の尖底土器から後期、晩期のにぎやかな土器、続縄文土器、かたちや文様が控えめになった擦文土器まで、一望のもとに眺めることができる。この後期や晩期の変化の多いかたちは、ぜひスケッチに残したいと思う。


15日(月)
 函館市まで行ってみる。かなり距離がある。函館港から本州へ向かうフェリーは青森行きだけだ。函館市北洋資料館を見る。


16日(火)
 朝、苫小牧港に寄って明日夜の大洗行きフェリーを予約する。昼前に道立埋蔵文化財センターに着く。
 玄関前に巨大な盆石のように置かれた「黒曜石原石 白滝村」。割れて艶やかな面には白や茶色の線が混じる。ホールではテーマ展「西島松5遺跡と青苗砂丘遺跡」が開かれている。奥尻島のオホーツク土器がある。きのうの館長さんの話にもあったようにように、オホーツク人はここまで南下していたのだ。この文様は「ソーメン文」ではなく、突き刺した穴が並ぶ。ヒグマの頭骨が二つ置かれて、「体験コーナー 遺物の複製品をさわってみよう」とある。どうして複製品なのだろうか。頬骨が左右にずいぶん張り出している。クマの顔が幅広いのは、頭骨からすでにそうなのだ。「クマ形土製品、石製品」。前から見た顔、横から見た顔など特に写実的だ。確かなかたちが作り手の脳裏に焼き付けられている。彼らがたびたびクマに遭遇したとき、その正面や振り向いた頭部がとりわけ印象深かったのだろう。 この展示では、パネルによる説明が非常に丁寧にされる。

 「北からの文化 −5・6世紀−
 北方のサハリン方面から、4・5世紀の鈴谷式土器の文化に続いて、5・6世紀には「オホーツク文化」が南下しました。利尻・礼文両島や稚内周辺には、サハリンの「十和田式」に類似した、外面からの刺突文と沈線文が付いた土器が分布し、稚内市オンコロマナイ貝塚や泊内遺跡では、住居跡もみつかっています。
 この土器を持った人々は、オホーツク海に沿って羅臼・根室へ向かい、また日本海側では、浜益村岡島洞窟や奥尻町青苗砂丘遺跡にまで遺物を残しています。
 北のオホーツク文化、北海道の続縄文文化(北大式土器期)、南の本州から伝わってきた土師器文化の三つの文化が接触する最初の段階です。」

 「奥尻町青苗砂丘遺跡
 青苗砂丘遺跡は、北海道南西部の日本海に浮かぶ奥尻島の南端部にあり、青苗地区のワサビ谷地川右岸の砂丘上に立地しています。島の東北部にある宮津チヤシ跡とともに、北方のオホーツク文化が、奥尻島まで南下したことを示す遺跡として注目されています。…。 
 …出土品の中には、土師器や碧玉製管玉など本州からもたらされたものもみられ、この地域に南北両文化の影響が及んでいたことが明らかになっています。
 特に話題になったのが墓の発見です。40代の成人女性、11才前後の男性子供及び6歳前後の幼児の計3体の人骨が検出されました。成人女性は、オホーツク文化の住居跡のくぼみに埋葬され、鉄製ナイフ(刀子)と円板状骨製品(クックルケシ)を伴っていました。また、2体の子供は、住居跡の床面に並べて安置されたようです。札幌医科大学松村博文氏の鑑定によると、1号と2号の人骨は、オホーツク人的特徴はほとんど認められず、また本州の古墳人とも異なっていて、続縄文人やアイヌに類似することがわかりました。
 オホーツク文化がどこから、またどのような目的でこの遺跡に波及したのか、土師器文化や続縄文文化・擦文文化の人々とはどのような関係にあったのかなど、今後究明していかなければならない問題がたくさんあります。」
 パネルの横に「人骨検出状況」として写真が掲げてある。伸ばした脚は足首が重なり、両腕は腹の上に組むがやや左に逸れ、それとともに上体が左に少し曲がる。右に傾いた頭部では下顎骨が下に下がって、口を大きく開けているように見える。

 「北からの文化(2) −7・8世紀−
 オホーツク人は利尻・礼文両島から稚内周辺、知床・根室両半島にかけてのオホーツク海沿岸に集落を築いて定着します。サハリンの「江の浦B式土器」に類似した「刻文土器」の時期に最も分布範囲が広がりました。その後、地域色が形成されたようで、オホーツク海沿岸の知床・網走・常呂方面には「貼付文(ソーメン文)土器」が普及します。
 住居跡は、五角形または六角形の平面形で、中央に大きな炉があり、その周りに「コ」の字形に粘土貼りの床があります。また、死者の頭に土器の甕を被せた特徴のある葬制がみられます。住居跡の周辺に残る貝塚からは、骨角製の漁労具が出土することから、海獣狩猟や漁労で生活していたと考えられます。
 大陸方面とのつながりが強い時期で、大陸の靺鞨・同仁文化と共通した形態の壷形土器、帯金具、鉾、板状鉄斧、曲手刀子、鐸、ガラス玉などが出土しています。大陸文化と関連する豚の飼育やオオムギなどの農耕も行われていたようです。
 一方、枝幸町目梨泊遺跡や網走市モヨロ貝塚では、蕨手刀や直刀が墓に副葬されており、網走市ニツ岩遺跡や目梨泊遺跡では土師器が出土しています。オホーツク文化の人々は、擦文文化を通じたり、または直接的に本州文化と接触したと考えられます。」
 パネルの横に「礼文町香深井1遺跡遠景」。これはスコトン半島を望む湾を写した写真だ。

 「クマへの思い −
 北海道で現在発見されているクマ意匠のある遺物の中で、もっとも古いものは縄文時代早期、帯広市八千代A遺跡出土のクマ型土製品です。ほかに早期では標茶町二ツ山遺跡石刃鏃文化の住居跡出土の軽石製製品があります。今のところもっとも古いクマの骨が出土する例は、網走市大曲洞窟のものです。縄文時代には、中期、後期、晩期にクマの意匠のある遺物が見られます。
 擦文時代には、今のところクマの意匠の遺物はみられません。クマの骨は現在のところ5例報告されており、羅臼町オタフク岩洞窟出土のクマの骨は、擦文時代終末期のものではないかと推察されています。
 それに対して北海道北部、東部に分布したオホーツク文化期の遺跡からは、骨塚と呼ばれる場所からクマの骨が検出されます。また、木製品、骨角製品など多くのクマ意匠の遺物が出土するようになります。クマ意匠遺物は、クマ全身像、クマ頭部像、器物に彫りつけたクマ像などがあります。クマ全身像には湧別町川西遺跡の牙製像があります。立像または座像のものは、礼文町香深井1遺跡出土ネズミザメの吻端骨を利用したものがあります。
 青苗砂丘遺跡の竪穴住居跡内から、クマの尺骨で枠組みをした骨塚が、そのほかにもクマの下顎骨などが見つかっています。
 奥尻島には、もともとクマはいなかったようで、遺跡に住んだオホーツク文化の人々が運び込んだと推察されます。
 その後のアイヌ文化期に見られるクマ祭りと擦文、オホーツク文化期との間の時期の事例は、まだ発見されていませんが、アイヌ文化期まで、クマに関わる遺物、儀礼などが続いていた可能性はあると考えられます。」
 ここに展示された、椀の縁にクマの頭部が乗る土器は、先回来たときに続縄文土器として奥の展示室にあったものだ。縄文、続縄文の他のクマ像も是非見たいと思う。この地では、縄文時代からそうした表現があったのだ。本州では、動物の「何々を思わせるかたち」程度なのだが。狩猟民の表現が往々にして写実的になるとしたら、本州の縄文人の心は狩猟民としての色合いが比較的に薄かったのかもしれない。もっと別の色合いを示しているということか。

 「北からの文化〈3)−9世紀−
 擦文文化が徐々に北海道全体に広がり、道東方面ではオホーツク文化と擦文文化が融合したトビニタイ文化が形成されます。形は擦文土器で、文様はオホーツク式土器のソーメン文が付く土器、擦文文化の四角い平面形を持ちながら、オホーツク文化のようにカマドがなく、石囲いの炉を持つ住居などが特徴的です。トビニタイ文化の人々は、大陸との関連よりも擦文文化との結びつきを重視したようで、その目的は鉄製品の獲得にあったようです。
 オホーツク文化の海獣狩猟・漁労技術は、擦文文化へと受け継がれた可能性があります。オホーツク文化をになった人々がすべて擦文文化と融合したかどうかははっきりしませんが、アイヌ文化がオホーツク文化の分布していたサハリン南部やクリール諸島へ広がる下地は、この時期にできたと考えられます。」

 「南からの文化(1) −5・6世紀−
 本州では古墳時代の中頃にあたり、各地に大型の前方後円墳が築かれていました。この時期の東北北部から北海道にかけては、古墳が作られず、蝦夷(エミシ)とよばれる人々が住んでおり、近畿地方を中心にした国家の勢力が直接及ばない地域でした。しかし、物質文化の面では、本州と北海道の間には共通する遺物が数多くみられます。
 北海道では、北大式土器をもった文化が広がっており、住居跡は不明ですが、数多くの土壙墓が検出されています。土器に縄文を付ける伝統は残っていますが、石器がだんだん使われなくなり、本州から流入した鉄のナイフ(刀子)や鉄斧などに代わったことがわかります。また、須恵器、土師器、ガラス玉、紡錘車など本州の古墳文化の影響を受けた遺物も出土しています。」

 「恵庭市西島松5遺跡 −
 北海道埋蔵文化財センターでは、石狩川水系の柏木川改修工事に伴い、西島松5遺跡の調査を行いました。遺跡は柏木川とその支流のキトウシュナイ川に挟まれた標高25メートルほどの台地上にあり、平成12年度の調査で、土壙墓84基と周溝のある墓6基がみつかりました。
 土壙墓は、穴に遺体を折り曲げて埋葬した「屈葬」がほとんどで、壁に穴を掘り(袋状ピット)そこに土器を納める、底面に4本の柱を立て四周を木の板で囲う、頭近くに数個の礫を置く、刀をはじめ多くの鉄製品が副葬されるなどの特徴があります。袋状ピットにあった土器は、北大V式期(7世紀後半)のものです。ただし2基だけは、遺体を伸ばして埋葬した「伸展葬」で、他の墓とは蕨手刀が伴うことや袋状ピットに入れられた土器の形などが異なります。少し新しい時期(8世紀初頭)のものと考えられます。
 周溝のある墓とは、伸展葬と考えられる土壌の周囲に直径5・6メートルの溝をめぐるものです。後世のかく乱のため土壙がみつかっていないものもあります。土壙中に割り板を巡らせるもの、溝が途切れるものなど様々ですが、この種の墓にも鉄製品が伴っています。盛土をもつ「北海道式古墳」、ほとんど盛土のない東北北部の「円形周溝墓」や千歳市ユカンボシC15遺跡の「周溝のある墓」と同じく、擦文文化前期(8世紀代から9世紀前半)のものと推定されます。
 土壙墓は、続縄文時代からの伝統ですが、盛土をもつ墓は、東北北部からの影響と考えられます。また多量の鉄製品は、当時拡大しつつあった近畿地方を中心とした国家の勢力が北に伸びてきたことと関連するものでしょう。南からの影響がどのような形で及んできたのか、まだ解明されていない謎がたくさんあります。」

 「南からの文化の波及(2) −7・8世紀−
 本州では飛鳥時代から奈良時代にあたり、近畿地方を中心にして統一国家が形成されました。この勢力は北に進出し、東北南部に城柵と郡がおかれ、日本海側(出羽)では秋田城、太平洋側(陸奥)では多賀城が拠点として築かれました。秋田県雄物川と岩手県馬渕川とを結ぶ線より北に城柵が築かれることはありませんでしたが、それらの地域にも様々な影響が及んだだろうと考えられます。その1例として、小型円形の古墳群が各地に作られますが、これらは蝦夷の集団墓と考えられています。
 このころの北海道は、擦文文化が形成されようとする時期にあたります。7世紀代には、恵庭市西島松5遺跡をはじめ、恵庭市ユカンボシE7遺跡、江別市萩ケ岡遺跡などで、土壙墓に数多くの鉄器が副葬されるようになりました。また、8世紀はじめ頃から由仁町由良遺跡のように道央部にまで土師器をもつ集落が出現し、竪穴住居跡は平面が正方形で道央部にまでカマドをもつ本州と同じ形態になります。同時に墓は東北の末期古墳や円形周溝墓と関連する北海道式古墳や周溝を持つ墓が出現します。 土器に縄文を付ける伝統が消えるとともに、石器から鉄器へと道具の変化が進みます。また、須恵器、土師器、土玉など本州の古墳文化の影響を受けた遺物も数多く出土しています。」

 「ウサクマイ葬法 −
西島松遺跡からみつかった土壙墓は、穴に遺体を折り曲げて埋葬した「屈葬」がほとんどで、壁に穴を掘り(袋状ピット)そこに土器を納める、底面に4本の柱を立て四周を木の板で囲う、頭近くに数個の礫を置く、刀をはじめ多くの鉄製品が副葬されるなどの特徴があります。
 これらの特徴は、千歳市ウサクマイ遺跡からみつかった墓によく現れていたため、「ウサクマイ葬法」と呼ばれています。
 他には恵庭市ユカンボシE7遺跡、余市町天内山遺跡、江別市萩ヶ岡遺跡などからもみつかっています。
 それらの特徴は、続縄文時代の土壙墓にも見られ、北海道の伝統的な墓制をひいていると考えられます。」

 「南からの文化(3) −9世紀−
 本州の平安時代前半にあたり、国家の勢力が東北北部に最も深く入り込んで、現盛岡市南方に志波城が築かれます。
 物質文化の面では、北海道にロクロ成形の土師器や須恵器が流入するなど、本州文化の強い影響が見られます。しかし、9世紀半ばころから地方に対する国家権力の直接的な介入は次第に弱くなり、津軽地方でも須恵器生産や鉄生産が行われるようになり、東北北部の活性化が進みます。
 北海道では、擦文文化が道南部一帯に広がり、道東・道北方面でもオホーツク文化との融合が始まります。擦文文化にみられる、平面形が方形で、かまどを持つ家の形態が全道に広がります。墓は周溝を持つものは残りますが、土壙墓がほとんどなくなります。土器には沈線模様が少しずつ増加し、10世紀以降様々な模様が出現します。
 9世紀前半には、本州文化と共通したロクロ成形の土師器や須恵器、紡錘車などが流入します。9世紀後半からは、津軽で生産された五所川原窯の須恵器が北海道にもたらされ、これに合わせて鍛冶技術も導入されたようです。これまでほとんど墓の副葬品としてしか出土しなかった鉄器類が、このころから住居跡からも出土しはじめます。穀物が住居内から多く検出されるようになるのもこの頃です。」

17日(水)
 北海道の最終日。大学は札幌駅のすぐそばにある。駐車場を見つけるのが難しそうなので大学周辺から離れて先に三岸好太郎美術館に行く。一般の利用も兼ねた美術館の駐車場がある。入った建物は道立近代美術館だった。受付で確かめると建物は続いているという。ロートレックとユトリロと藤田嗣次をごっちゃにしたような見慣れない画家の展覧会を見る。フロアに立つ警備員に聞くと、やっぱりいったん外に出るのだという。見知らぬ土地へやって来た者が現地の人間に場所を聞くと彼らは自分がよく知っていることだから簡単に答える。こっちはそれを自分勝手に解釈するから事実とかみ合わないまま動き回る。結局、知事公舎だかの建物を順々に訪ねることになる。国民的に貴重な建物だとか、個人の私邸だから入るなとかの表示を見ながら汗をかく。やっと三岸好太郎の建物にたどり着いて受付でそういうと、ここで初めて周辺案内図の小さい紙を見せられる。好太郎の絵はこの敷地の雰囲気には合わない。
 北海道大学総合博物館は学問の壮大なショーウインドウ。鮮明な図に詳しい説明を加えたパネルがふんだんに掲示される。解説や検索のための液晶ディスプレイがそこいら中に置かれている。ここには古生物学の展示はあるが考古学関係の展示はほとんどない。ただ一つ、研究報告書らしい冊子の置かれている書棚に発掘された土器に関するものがある。サハリン島の遺跡についてのロシア人の研究報告だ。鈴谷遺跡出土の土器がどうだとか。
 午後、きのうは時間が足らなくて見られなかった北海道開拓記念館へ向かう。広い駐車場を出て森の中へ入ると、改装中の建物がある。工事中のシートですべて覆われているのでどんな姿か分からない。常設展示に択捉島出土と伝えられている縄文土器がある。上層式円筒土器がある。下層式もある。どこが違うのだろう。係の男性を見つけて写真撮影の許可とこの質問をする。写真撮影は、それをもとにスケッチにするということなら問題はない。たまたま担当者が一人いるからとわざわざ呼びに行ってくれる。上層、下層について「そうですね。違いとしたら、時期が早いか遅いかの違いがあります。円筒式土器が出て、さらにその上から別の円筒式土器が出た場合に時期の違いを区別するために上層式とされました。」ああ、出土層の問題だったのだ。てっきり、文様表現の違いと思いこんでいた。それで、いつもいくら眺めていたって違いが見つかるわけはないのだ。こんなことだけれども、今までどんな本にも説明はなかった。択捉島の縄文土器は長く個人が保存していたものを譲り受けたのだという。「これだけ完全な形で出たのは珍しいのです。もっとも、ひびが入っていて、ゆるんだところではカタカタ音もするんです。」という。もともとこのあたりでは縄文土器は少ないようだともいう。
「サハリンでもそうです。縄文文化としての広がりはあったかもしれないけれども、縄文土器に関しては今のところ少ないようです。」そうか。縄文土器が色濃く分布するのは北海道から沖縄までなのだ。日本列島で特に盛んに作られていたというのは大変興味深い。もっとも、南サハリンを日本が領有して日本人が盛んに活動した期間は短いのだ。出土例が少ないのはそのせいかもしれない。旧豊原市に博物館が残っているというから、いつか出かけることができるかもしれない。
 出口に近い書籍のコーナーにユーカラのCDがある。たぶん聞いても分からないと思うが日本語によるところも入っていると書いてあるので買う。午後3時半になっている。「恵庭まで車でどれくらいの時間がかかるの。」と売店の女の人に聞く。「そうですね。千歳の手前ですから高速を使えば30分もかからないかしら。」という。
 恵庭市郷土資料館には4時に着いたが、車を止めた瞬間、「閉館日」の表示が目に入る。念のために入り口まで行ってのぞき込む。中にいた人が気の毒がって、近くの遺跡出土品展示場所を教えてくれる。場所はすぐ見つかった。「カリンバ遺跡 華麗な縄文の美」。展示のメインは漆塗りの装身具らしい。人骨もとうに消えているが、それは墓に埋葬された人の胴回りや腕、首のあたりに残されていたという。そうした墓がいくつも発見されたらしい。腕輪などの本体は木などを彫って作ったものではなく、木の樹皮を加工して成形されているという。だから、輪に厚みはなくぺしゃんとつぶれた状態で出土している。骨や身の回りの様々なものがほとんど消えてしまっているのに、漆と土器だけが残っている。漆は元々植物を作っている一部だけれども、こんなにも長い時間そのまま保存されることがあるのだ。「カリンバというのは何のことでしょう。」と受付の女性に聞く。「カリンバという川があるんです。アイヌ語で桜の木の樹皮という意味らしいです。」「じゃあ、あの腕輪なんかも桜の樹皮でしょうか。」「さあ、それは分からないようです。」後期から晩期にかけての土器が並んでいる。首の長い壺で文様のすっきりとまとまった土器がパネルの写真で展示されている。これはいま仙台の企画展「送りの考古学」に貸し出されているという。あのとき見たのだろうけれども思い出せない。写真は写すことができないので、メモ用紙をもらって鉛筆で土器の外形を写し取る。すぐ5時になった。

18日(木)
 5時に目覚める。窓のカーテンから薄明かりが漏れる。船は左右に揺れている。呼吸を乱さない程度の緩慢な揺れ。楽しむつもりで身を任せていればこれもわるくない。カーテンを開けると外はもやに包まれていて、わずかに海面の流れが見える。今日は曇りか。朝食から戻ると、ときどき窓から日が差すようになった。TVはNHKのBS放送がきれいに映る。画面では外国人の男がヴァイオリンを弾いている。フランクのソナタとサン・サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソ。ノートパソコンを置いたテーブルが低いので、キイをたたいているとすぐ肩が痛くなる。そこですぐ、腰掛けているベッドにそのまま仰向けになる。天井の白い板では、ほとんど境目のない大まかな斑点がゆっくり動いている。明るくなってあちこち行ったり来たりしている。あれは海面の波が光を反射しているのだ。昼が近づくと、放送でレストランのメニューを紹介している。こんな風に食っては寝ころんでいていいのだろうかと思う。昼はお茶とクッキーですまし、晩にしっかり食べよう。昼間から部屋に閉じこめられているとこの程度のことしか考えない。甲板に出る。風がある。空は明るいが雲が多い。穏やかな海。騒いでいるのは船の起こす泡立つ波だけだ。泡は舳先から始まって勢いよく広がり次々に送られてくる。海面下でも明るい緑色が沸き立っている。それも後方では白い泡となって浮かび出る。海面で、泡はかたちのない細かい編み目のように広がる。それは船尾に続く白い航跡としていつまでも残る。後甲板に降りる。広いが最後尾は白い柵で仕切られている。柵の向こうに大きなワイヤー巻き取り機がいろんな方向を向いて設置される。上を見上げると赤い角張った塔から薄い煙が出ている。機関室では重油を焚いているのか。右舷から見ると向こうに陸地が見えるはずだけれども、今日は見えない。午後7時、大洗港着。

19日(金)
 …(東名高速道)…焼津で事故による通行止め、渋滞1時間余…一宮Ic。



………メモ………

1 「日本人とアイヌ民族」という表現には、対立のニュアンスが感じられる。それ
は本州北部から北海道にかけて両者が過去にたどった道のりの必然かもしれない。たぶん、本当は「本州民族とアイヌ民族」とでもいうべきなのだ。また、「縄文文化を共有し、縄文人を共通の祖先とする両民族」というのも、どこかに本州人の身勝手なにおいがする。アイヌ民族を文化の遅れた未開民と見るからだろうか。そこには、結果として差を生じてしまったアイヌ民族として見る視線がある。たとえば、「文字すら持っていなかった。」という言葉や思いがある。そうした思いは、それぞれの民族が生きた状況を理解できない結果に生じたものだ。古墳時代末に人々は「ムラ」の規模を越えた組織の中に生きることになった。大陸との交渉は上部階層の人々による規模の大きいものになった。国という組織として大陸の文化を必要とした。その一つが文字の使用だ。一方、アイヌ民族の祖先が生きた状況は文字を必要としなかった。とくに稲作に適さない北海道では、その後も「ムラ」を越える規模の組織が生じなかった。組織的に大陸と交渉を持つことを必要としなかったので、そのために文字を取り入れる必要もなかった。
けれども、人の精神文化の深まりは人の組織の規模に無関係だ。おそらく、利便性を高める技術の発達も直接に関係しないと思う。技術の発達は、人の精神文化を広げる機会を増やすかもしれない。それだけのことだ。技術の発達することだけが文化が濃密にするわけではない。それに、技術の発達はどのような文化にも伴っているものだ。そのとき、新しい技術を見いだしつつあることが重要で、いかに高度な技術であるかではない。人の精神文化の深まりは、鋭敏な感性とともにある知恵に基づいている。その点では、民族に差を見ることはできない。では、両者のあいだがらをどう表したらいいのだろうか。


2 ある博物館。ずっと手入れはされてきたのだろうけれども、古いことは古い。古道具屋のようでもある。こういうのは、これからどんな保存方法が必要なのだろうか。本当に貴重なものは保存のための化学処理をしたり、写真類は精密に復元してデジタル化をする必要があるのかもしれない。


3 これまでよくある博物館では、物は壁際や部屋の中央に並べたガラスケースの中に規則正しく置かれて、閉じこめられる。外から観る者はガラスに額をくっつけたり光の反射を避けて斜めからのぞいたりする。展示室なのに、まるで収蔵庫のようで「大切な物を保存しているついでに見せてあげよう。」とでもいうような見せ方が多い。