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東北紀行                              
       1 下北半島へ    2001.08.27-09.04

8月27日(月曜日)
 朝、45分遅れる。勝川から国道19号線に出る。塩尻からの距離は思ったより長い。鹿沢を通らず国道144号線に入っ た。これは失敗。さらにその後の時間の長いこと。県境だけあって、長野・群馬・埼玉、そして東京の車が多い。中禅寺湖に近づいて雲が厚くなり、霧が濃くなり、ついに雨だ。夕方、日光に入る手前で前が見えないほどの土砂降りになった。日光の街の中を抜け、なんとか霧降高原道路へ入る。雨の降りはいよいよひどい。道路は川のような流れになって、ライトは直前の雨の幕しか照らさない。料金所で聞くと「すぐこの先ですよ。」なかなかすぐではない。目指した建物にたどり着いて「こちらは、いつごろからこんなに降りだしたの。」「ついさっきからですよ。大変でしたね。どちらから。」「愛知県からです。金精峠を過ぎたぐらいから降り出してしまって。」それからサイトまでが試行錯誤で大変だった。急坂で間違って別の道へ降りてしまって、とても戻れそうにないところもなんとかやり直した。サイトは谷川に沿い 階段状に設けてある。ふいに小雨になったと思ったらすぐ雨は上がる。二組の家族連れがこのときとばかりにみんなでテント張っている。もう暗くなりかけている。自分も急いで車内の整理をする。車で寝られるのは素晴らしい。


8月28日(火曜日)晴れ
 確かにキャンプ場は霧降高原道路の入り口に近い。これから、この先の高原道路の大半を楽しむことができる。霧降高原から降りて来ると風景は本当に霧の中から突然現れる。道路わきに牧場がある。黒い牛たちがあちこちにうずくまり、たたずむ。いくつもの丘の重なりを抜けると、今度は鬼怒川沿いに山道を走る。曲がりくねった渓谷沿いにどんどん降りてくると、ダム湖の近くの川路温泉に出る。ここで会津西街道へ入る。県境の山王峠を過ぎると奥州へ入った。田島町に近づくと右手に那須の山が見える。
 国道121号線も、なかなかの距離がある。会津若松で既に昼に近づいた。工業団地で漆塗りの店を見た。喜多方市から山形県境へ向かった。大峠トンネルという長いトンネルがある。山道へ入ってからガソリンが心配になった。スタンドは すでになさそう。この車はメーターの針がレッドゾーンに入ると、燃料をあまり残していないようだ。ようやく長いトンネルを抜けて米沢市に入ったが、地図では国道が緩やかに曲がりくねって山を下り、米沢盆地はまだ先である。道のわずかな上りや下りによってメーターの針が赤と白の境目を行ったり来たりする。ようやくJAのガソリンスタンドがあった。57リッター入れる。
 国道13号線は、長大な奥羽山脈と日本海側の月山・朝日岳・飯豊山に挟まれた南北に細長い盆地を走る。米沢、山形、天童、尾花沢と進んで新庄で午後4時を過ぎた。吹上高原は鳴子からさらに川をさかのぼった山の中だ。


8月29日(水曜日)
 夜遅くに雨が少し降った。今朝は曇り。キャンプ場のために広い草地が開放されている。温泉施設を併設ということだけれども、夕べは5時半を過ぎていて既に終わっていた。道を少し降りていった近くの立ち寄り温泉に入ることができた。
 今日も走行距離は相当あるので急いだが、それでも出発は8時ごろになった。築館に出るつもりが途中道路工事のためにわき道に入り込む。時間をかけて築館の南へ出る。ここから4号線を北上する。地図には陸羽街道とある。平泉ではすでに10時。毛越寺へ寄る。広い池を囲んだ大きな伽藍跡のある庭園。古代の庭園跡というだけで、立派に保存している。 もみじはすでに 葉先が紅葉しかけている。
 平日だが中尊寺はにぎわっていた。駐車場から何十分か参道の坂道をあがっていくとお寺の本堂へ、ついで金色堂へ出た。どこに金色堂がと迷っていると、コンクリートの建物があった。まず資料館かなと思ったが入ってびっくりした。照明に明々と照らされた金色堂がガラスケース(ガラス板越し)に収まっている。藤原3代は巨大なコンクリートの棺を光堂と共に得た。
 資料館を出てすぐのところに、旧覆堂というものがある。これが、鎌倉時代からの建物で長いあいだ金色堂を覆っていた。中に自由に入ることができる。床は土間になっていて、上はむき出しの屋根裏。暗い照明の中で古びて残されてという、ものすごい感じがする。かつて、中に建物がある状態で四面を囲み屋根を葺いたのだから、この作りにも特徴があるに違いない。これも修理復元しなければ。そうして、資料館の中のは、同じ大きさの精巧なレプリカを入れてガラスケースを取り除き、もっと上下左右からよく見えるようにするという方法はどうか。旧覆堂は、金色堂を保存するためには問題があるということなら、高さ大きさを工夫して改め、その材質や姿はできるだけ残してしっかりしたものに復元してはどうかと思う。芭蕉の句碑がある。
    五月雨の降りのこしてや光堂
 本来の資料館でビデオを見たり、近くの野外能楽堂を見たりしているうちに時間がたってしまった。ビデオでは、本尊の東北らしい地域性を強調していたが、本堂を通り過ぎてから気がついた。戻らなかった。午後2時。もう遠野へは行かれない。
 ひたすら、国道4号線を北上する。車が少ないときは、かなり走ることができるが、重いダンプカーや、軽自動車などが、時々ゆっくり走っている。道路はまるでパッチワークのようにそこら中が補修してある。おまけに、大型車の車輪の深い凹みが二本平行していてハンドルを取られる。盛岡市街では、工事もあって渋滞している。途中から、282号線で津軽街道というのを走る。安代町を過ぎる頃から上り坂が多くなり山へ入る。山道も好きだけれども時間がかかる。すでに午後五時を過ぎた。東北道のインターチェンジを見つけて高速に入る。鹿角八幡平。十和田湖インターを出たらここもまだ鹿角市。ここから103号線を走る。よく地図を見ておくべきだった。この先の小坂インターチェンジから「十和田大館樹海ライン」というのがあるという。十和田湖畔まで、ずいぶんと時間がかかった。
 湖畔に出るには急な坂道が多い。ライトをつけた。前を走っている乗用車には、あまり近づかないようにしていたのに脇道で止まってくれた。山を下りると湖畔に沿った道路を走っているらしいが暗くてよくわからない。いろいろ試したが、キャンプ場は見つからず、たまたまちょうどあった国民宿舎に泊まる。明朝早いので先に支払いを済ませる。


8月30日(木曜日)
 朝、5時30分。こんな早いのに、昨夜フロントで受け付けてくれた男の人が、宿舎の扉を開けてくれていた。6時に出発。湖畔へ出る。旅館や土産物店が集まっている。まだ早いのか人影はほとんどない。湖のほとりは静かで、小石混じりの波打ち際は、ゆっくりと波が寄せている。やがて浜は広がって山側に雑木林が控えている。「乙女の像」がある。男女二人連れが近づいてきて、カメラのシャッターを切ってほしいという。二人はきれいに磨いた台座の近くに立つが、よほど離れないと彫刻まで入らない。うれしそうに礼をいうと、二人は彫刻などろくに見ないで、さっさと離れていった。像に近づくと台座が高いので見上げるしかない。この彫刻には魅力を感じない。いつまでも見ていたいと思わない。なぜだろう。たぶん、置き方が悪いのか、場所が悪いのか。まさか台座が立派すぎるせいでもあるまい。青空が広がった。
 とって返して、さらに奥入瀬渓谷へ向かう。ここはいつか来たことがある。混雑していて、後ろからせきたてられながら人と人の隙間で川の流れを見ていた。今日はまるで違う。朝はまだ早くて少し離れて人影はあるが、茂みには霧が立ちこめ、流れは精一杯音を立てている。葉陰から差す陽の光の中で、しぶきに濡れた黒い岩が光り、草木の葉は鮮やかな緑を見せる。少し上流に歩いてすぐ引き返す。今日も先は長い。車をおいた岩陰の道ばたは、そんなに広くはないのに既に大型バスが1台、何とかして入り込んでいる。
 また失敗をした。長時間走るのでガソリンは思ったより早くなくなる。渓谷を上ったままそのまま行けばよいものを三叉路で間違えて反対の道を走った。快適な高原道路を走って気がついたときは遠回りのひどい山道だった。この道だと黒石市へ出るしかない。ガソリンは既にレッドゾーンに入りかけている。この曲がりくねった上り坂はいつ終わるのか。ナビにはガソリンスタンドの印がまだ出ない。下りに入った。アクセルにはできるだけ軽く触れる。湯川温泉で車を止める。いよいよどこかに連絡をするかなどと、いろいろと考えながらナビの地図を見ていると葛川というところにガソリンスタンドのマークがある。ここから10キロくらいはなれている。もうガソリンはほとんど無いけれども、これから下りだし行けるかもしれない。ナビの画面に映った国道のカーブを眺めながら走る長い道のりだった。道から少し外れたところにJAのスタンドがあった。車を乗り入れると、洗濯物を干していた奥さんがガソリンを入れてくれた。「もうこれ、なくなるところだよ。」「ええ。冷や冷やしながら走ってきました。助かりましたよ。」「十和田湖から来たの。」「そう。青森はどういくといい。」「青森のどこ。」「三内丸山遺跡。」奥さんはつぶやきながら、たぶん旦那さんに聞きに行った。「このまま道順通りだって。大丈夫よくわかるよ。」その道順通りかどうか知らないが、当初の予定通り八甲田山のふもとに出て青森市に向かった。
 青森市は、見たところ開発途上の中都市である。ダンプカーが走り回り、至る所で丘が削られている。陸奥湾の奥の浜に沿って細長く市街地がある。さらにその奥で平行して、広い道路を中心に開発工事を進めている。山内丸山遺跡は工事を進めている地帯の西端近くにある。
 正面に、プレハブのような簡単な建物がある。その建物の左手を通って遺跡へ向かう。起伏のある広い草地の中に、所々に復元した茅葺きの建物や高い櫓がある。それぞれ、何人かの人々が、解説をする係りの人に説明を受けている。説明を聞きたい人たちが集まる場所があって、一定の人数に達すると解説をする人が引率をするようだ。最初にごく普通の竪穴式住居に入ってみた。中へ降りるための段の付いた入り口は高さも幅も狭い。いくら身を縮めて入っても肩か頭がぶつかってしまう。中は、慣れないせいだろうけれども長時間入っていることはできない。もし、いつも中に入って暮らしていたとしたらこの造りでは無理なような気もする。遺物として残らないものはいっぱいあるのだから、もっと違った造りがあるかもしれない。もし僕なら夏はもっと風通しがよくなるようになんとかする。
 ちょうど説明をみんなが聞いていて自分も聞いていると、解説者は「縄文時代の人たちは今でいえば核家族でした。死亡する年齢からいっても、お舅さんとお姑さんはいなかったようです。お嫁さんが困るようなことは無かったんですね。」といって、そばで聞いていた女の人たちと一緒に笑った。彼は住まいの大きさの説明をしていたのだけれど、彼らがそんな寿命で死んでしまい老人がいなかった世界とはどんな世の中だろうと、ここにいる誰もが内心思っていただろう。この遺跡敷地内には生活する場所、集会する場所、子供の墓場、大人の墓場、ゴミ捨て場あるいは祭祀上の場が確認されているという。この山内丸山でもっとも有名になったのは、巨大な栗の木の柱の根本が6本分等間隔に発掘されたこと。何千年も経ったのに柱の根本だけはわずかに地中に残っていた。そのかつての地上での形態が論議される。その他、この栗の柱については、この時代における建築技術のこと祭祀上の役割のことが話題になった。復元されたものは、高い位置で水平な丸太で互いに結合されていてシャーマンの舞台とも、物見台とも受け取れる。
 かつては、公開する時期以外は埋め戻していたようだけれども、今では見学者にとって重要な部分は発掘当初の状態を金属の建物で覆いエアコンなども設置して、自由に出入りできるようになっている。これを維持するのはなかなか大変なようだが、よそでは見られない努力がはらわれている。竪穴式住居の向こうに、その復元方法のアレンジが展示されている。 アメリカインディアン式のもの。茅で葺かず土で覆ったものなどの復元の試みがある。これも従来からの形式にとらわれずなかなか意欲的でおもしろい。中へ入って見るが、今では、いずれも五人がいつも生活していられるとは思えない。
 敷地の入り口に近いところに広い展示室が建てられている。まだ暫定的なものか簡単な建物である。内部の展示を見るのに大変時間がかかった。この遺跡の公開のしかたは、大きく話題になった割には地味だ。しかし、まじめで誠実な感じがする。吉野ヶ里遺跡公園は、できたばかりだからどうしても派手に見える。あれほどにしなくても、竪穴式住居の復元などは、廃墟のようにならないようにいつもよく手入れを続けたらよいと思った。
 昼食後すぐ下北へ出発。青森の市街地に入る前に、ナビを見てよく考えておいたので市街地の通過はスムーズにいった。このナビゲーションは、広域・詳細表示ができて、しかもちゃんと追尾してくれる開いたままの道路地図帳といったところだ。このところ道案内機能はほとんど使わない。機能はまだ不完全で、決してよいものではない。だいたい案内されて通った道は記憶に残らず、自分で運転して走ったとは思えない。ナビをこの道路地図帳としての機能だけに絞って開発を進めた製品はきっと役に立つと思う。
 青森の市街地を抜けても依然として走る車は多く、両側に店の並んだ広い道路が続く。野辺地町を過ぎて279号線に入ると、どの車も速く走り始める。片側一車線になって、先頭に遅い車が入ると急に車が長く繋がる。地図には「むつハマナスライン」とある。なだらかな丘陵地が続く。地形に起伏があるにもかかわらず一直線なので、前方にのびる道路は波のように重なって断続して見える。野辺地町からむつ市まで1時間以上はかかった。むつ市は下北半島の細い首、顎のようなところにある。既に午後3時に近い。ここにある海洋科学センターは時間的に無理になった。
 恐山は薬研キャンプ場へ向かう途中にある。空は曇ってきた。しばらくして山道に入る。既に雨が降ったのか道路が濡れている。道が狭いうえに上り下りが激しく曲がりくねっていて、おまけに霧が出てきた。ナビを見ていても、どの方向に恐山があるか分からない。ときどき対向車がある。滅多に車に出会わないので曲がり角でお互いにはっとする。
 湖が見えてきて恐山はそのほとりにあった。広い駐車場があって、遠く周りを灯籠のような石仏のようななどが取り囲んでいる。霧が立ちこめている。お寺は立派な門と壁で隔てられている。門を入ると僧坊らしいものに沿って石畳の参道があり、霧のかかった山を背景に新しい大きな二層の山門がある。その山門を過ぎると風景は急に質素になり索漠となる。参道の奥に、これまでと比べて規模の小さい地蔵堂が両側に花頭窓を見せて建っている。参道の両側には溝とたくさんの灯籠がたち並び、溝からは湯気が立っている。背景はすぐそばまで迫った荒れた山である。左手は、簡単な柵を巡らした向こうに、湯煙と硫黄臭の立ちこめた噴火口の岩山がある。入り口の木戸の向こうにいくつもに分岐した細い道がつけられていて岩山を巡ることができる。この参拝者の列で自然にできたようなある道は、地蔵堂の裏の岩山まで上っている。これに近い風景は、箱根でも雲仙でもお馴染みのものだが、情景としての違いがある。随所にある岩山の上には灯籠がある。説法上の祈念碑が立つ。生まれることのなかった赤子のために参拝者の納めた色鮮やかな風車があちこちに回る。さらにカラスたちがとまり、上を飛び交う。これはおそらく意図しない効果だが特に今日の場合たいした演出といえる。この一種凄惨な風景は明らかにここの宗教上の成り立ちと関係がある。岩山を歩く。風車のそばに参拝者の供え物がある。カラスは一定の距離まで近づくと二本足で飛び跳ねて物陰に隠れ、様子を見ている。さらにそこに近づくと飛び立つ。硫黄の煙がのどを刺激する。
 薬研キャンプ場は、T字路にぶつかって左に曲がり、道を右に離れて森に囲まれた広場にある。自然の段差がついて二つに分かれ、かなり広さがある。テントが二つ張られている。人数は少ないが、バイクで来ている人たちもいる。受付は若い男性一人。「近くに温泉があるんだって。」「この先に露天風呂がありますよ。無料ですからどうぞ。」やはり天気があやしい。すぐ雨になるかもしれない。車が動かせるうちに出かけることにした。露天風呂につくまえに大きなホテルがあって、ここでも温泉に入ることができるという。時間がおそいのでこちらにした。


8月31日(金曜日)雨天
 大間崎を目指す。T字路に戻ってそのまま進み、大畑川沿いに下る。大畑町から279号線に入る。「むつハマナスライン」の続きだ。海岸沿いの道は広く快適。だが雨がかなり降っている。民家の軒先をカモメが飛んでいる。大間町に入って国道を離れ大間崎に出る。小さな漁港のようなのがあって、浜と直角に海へ防波堤がのびている。カモメが群れ飛んでいるので車を止める。車を降りて見ていると、すぐ近くの防波堤の上に1羽が降りた。近づいていってもすぐに逃げようとはしない。頭をあげて片目を真っすぐこちらへ向けている。カメラを向けたところで飛び立った。そのとき広げた翼は非常に大きく見える。海岸のあちこちに大小の岩があって、カモメはそこにも留まったり舞い上がったりしている。大間崎の海岸の岩はすべて黒く見える。雨で濡れているせいもあろうが、重く暗い海面とともに異様な雰囲気。車へ戻る。雨はやんだが、雲は厚く低い。水平線は霞んでいて、雲と見分けがつかない。もちろん、北海道は見えない。しばらくして、防波堤の下の道路端に動くものがある。ふたをした側溝の上に、茶色くて胴の長い小さな動物。イタチか。物音がして、慌ててふたのすき間に潜ろうとして潜られず別の穴へ走る。穴へ入る前に伸びあがって音のした方を確かめるように見ている。これもカメラを向けるとこちらを見てぱっと穴に隠れる。
 岬の先端へ移動する。すぐ目の前に灯台のある弁天島が横たわる。見晴らし台のようにコンクリートで整えたところに、いくつかの記念碑がある。その一つに石川啄木の短歌。「東海の小島の……」は、この大間崎の地に関係があるとある。記念碑のそばの建物に小学生の絵の展示がしてあって、ここで北海道との間に津軽海峡大橋をかけようという夢が描かれている。実際に実現に向けての運動も行われていて、実現すると世界で最も長い橋になるという。また別の掲示には、この地が映画「魚影の群れ」、ドラマ「私の青空」の舞台になっていると紹介している。道路の陸側には土産物店が並んでいる。主に海産物の飾りや乾物である。女の人が道路際まで張り出したテントの下でホタテ貝の身を串に刺して焼いている。「おいしいですよ。いかがですか。」誘いが控えめなので寄って行って見ると、十本ほどの串が焼かれている。「一本いくら。…じゃあ、一本下さい。」「ありがとうございます。ちょっと待ってて下さいね。」そういうと十本ほどのうちの一本だけを取って網の隙間で横向きに置いた。「今日の天気はあまり良くないの。」「今日はねえ、あんまりよくなくて。予報は雨なんですよ。」「そう。」「お客さんは、早いですね。こちらにお泊まりですか。」「いえ。薬研のキャンプ場。」「あ、そうですか。」どうやら、この十本はつい今しがた並べたばかりで、横向きの一本は火の強い比較的早く焼けそうなところへ置き直されたものらしい。しばらくして渡してもらって口にすることができた。食べながら歩きだすと、ホタテ貝の串焼きは隣でも女の人がやっていて大声で「3個で …円ですよ。」と、こちらは個数でも張り合っている。観光客が少ないのは空模様がよくないせいもあるが、まだ時間が早いのだ。車に乗り込んで出発しようとしていると、観光バスが一台到着した。
 まだ早いんだから、と思って半島一周を選んだ。これは間違いだった。
338号線を走り出してまもなく雨が降り出した。同じ海岸沿いでも、この道は起伏が多い。対向車は少ない。ほとんど一車線が続いて、周辺の村への支線が多く、その度に進むべき道にとまどう。「仏ヶ浦」という表示が盛んに出ている。やがて断崖絶壁の上を走る。下を見ると海岸には奇岩が立ち並ぶ。景色は晴天なら素晴らしいところかもしれない。地図に「海峡ライン」とある。海岸線が激しく入り組んでいるので、かなり距離があり時間がかかる。1時間余り走って山に入る。地図をみると、このまま行けばカーブの多い山がちな道が半島南端の脇野沢まで続く。そちらはあきらめて、三叉路で川内町へ出る県道に入る。川内ダムの湖に出る。「道の駅」で休憩。ホタテ貝の宅配の案内があるので受付で聞くと、「申し訳ありません。この季節は中身が痛みやすいので漁協の人が心配して取り扱いをやめているんです。」という。11月からといってパンフレットを入れた袋をくれる。谷川沿いに下ってくると再び海岸線に出る。陸奥湾に面した川内漁港である。また、338号線を海岸沿いに走る。対向車が多くなった。むつ市に入ると午前11時になっていた。
 これから陸奥湾を巡って津軽半島へ出るには相当時間がかかる。津軽半島は明日にするとして、今日はどこに泊まろうか。おととい泊まりそこなった花鳥渓谷キャンプ場は十和田湖を離れるときに立ち寄って確かめてある。良さそうなところだった。しかし、津軽に出るには少し遠回りになる。余り無理をしないで、津軽に近いところで見つけた方がいいか。
 野辺地町で昼食を取る。キャンプ場案内書で調べる。明日予定の縄紋住居資料館の近くに、「つがる地球村」というのがある。ここに泊まることができれば明日は楽だ。電話をすると引き受けてくれた。雨がやんで青空が出た。
 青森の市街地を西に抜けて、道幅の広い国道7号線を進む。101号線に入ると五所川原市。町の中心部に入ってアーケードのある商店街を通る。町を出るとすぐ岩木川が流れていて大きな橋を渡る。午後の日差しが強くなった。この101号線は日本海へ出て八郎潟まで行く道だ。木造町へ入って車を止め、ナビで調べる。「詳細」で見てもキャンプ場はわからない。JRの駅や沼の位置から見てこの近くに違いない。もう少し走ってみると、「地球村」という大きな看板が見えてきた。珍事はこの直前に起こっていた。車の車輪が何かを踏んだようでミラーを見ると後ろで木の切れっ端が飛び上がった。「地球村」の表示に従って左折してから車体に規則的な振動が伝わってくる。その間隔は車速に応じて。とにかく「地球村」に着かなければ。到着してタイヤを見てみると、右後輪に太い木片が刺さっている。径7,8ミリはある。受付へ行って手続きとサイトの確認をしてキャンプ場へ向かった。大変広々として建物や設備も立派なところだ。ところが、どこまで行ってもキャンプ場らしいものはない。敷地は広くて、森を抜けても橋を渡ってもまだ施設内のようだがキャンプ場は見あたらない。仕方なくもう一度受付へ舞い戻る。「ないですか、ええっ」とびっくりしている。「きっと見落としたんです。もう一度ゆっくり教えてください。」聞いてみるとやっぱり同じ。「そういう風に行ってもなかったんですが。」その女性は駆け出すように建物から出てすたすたと道路に向かって歩いて行く。あわててついていくと、道路で腕を伸ばして指さしている。「少し向こうだけど、ほら右側に電柱があるでしょ。二本目の。その道を入ったところに建物が見えるでしょう。」右側だって。ここの施設はずっと左側に続いてたんだ…。「ごめんなさい。わたし、右って言わなかったのね。」「いや、すみません。僕はてっきりここの建物と同じ左側だと思って通り過ぎてしまった。」二人で大笑いをしてごめんごめんと言い合った。「でも、ここはすごく立派な施設ですね。町でやってるんですか。」「ありがとうございます。第三セクターなんですよ。」はあ、そうか。大変だ、こんなに広いとこじゃあ。ついでにパンク修理について聞いて近くのガソリンスタンドを教わった。サイトでも大変なことが分かった。どうやらこの広いキャンプ場の中には自分が一人だけだった。
 タイヤを何とかしなければ。ガソリンスタンドがあるという国道に戻った。ガソリンの満タンと、タイヤ修理について頼んだ。「できますよ、タイヤ修理も。」若い男の子で、給油を終えると車を移動してすぐ見てくれた。「ああ、これは。」といってこちらを見た。驚いている。「これを抜いて空気が抜けたらここではだめです。」「難しいの。」「うーん。これは内側から何か貼ったりしないと。ここではできないんですよ。五所川原まで持って行けば、タイヤセンターでやってくれると思うんですが。でも、この時間じゃあ。」「そう。明日早くそこへ持っていくしかないかなあ。でも、持っていってもすぐはできないんだね、きっと。」「そうですねえ。空気が抜けないようなら、このまましばらく乗ってみたらと思いますが。」「でも、うちまではずいぶんあるし、これじゃあ高速道なんかは走れないでしょう。」「高速はだめですね。そうか…。どうしたらいいかな。じゃ、これをスペアにしたらどうです。スペアタイヤはどんなのですか。」スペアには同じタイヤがあるはず。彼は早速スペアタイヤと入れ替えて全部の空気調整をしてくれた。空気が抜けてしまって使えなくなったスペアタイヤが頭に浮かんだけれども、ま、いろいろ考えてみても仕方がない。
 管理棟で入浴したあと、管理人室に行って、今日のキャンプ場では自分が一人であることを確かめた。炊事棟の前の明るい広場に、車を乗り入れることのOKを取る。明かりは終夜ついているという。


9月1日(土曜日)
 快晴。すばらしい朝になった。夜明け。明るくなりかけた空が、しだいに青色を増したころ、急にキャンプ場の樹木の向こうが輝いた。東の空にかかっていた厚い雲が流れて、光が射した。地平をはなれて高く上がった雲がまだ少し暗い固まりを見せながら、まだらに金色に光る。空をさえぎる高い木の梢に、大きな鳥がやってきて翼を整える。
 誰もいない広いキャンプ場の中でゆっくりと朝の支度をした。
 まだ、早いけれども、竪穴式住居資料館を探すことにする。地図を見ると木造駅に近いのだから見つけやすいと思ったが、なかなか駅に近よれない。道は勝手な方向に曲がったり伸びたりする。やがて町中に入ってきて、「住居資料館カルコ」の表示がある。街並をはなれてすぐに、役場と縄文住居展示資料館の建物がある。まだ朝8時を過ぎたばかりだから、場所だけ確かめたので、金木町へ向かう。道は、少し遠回りでも五所川原市へ戻ることにする。
 金木町への道は津軽平野の広い農地が続くなかを進む。太宰治記念館を見る。明治時代の大きな住居があって傍らの倉が展示室になっている。この作家の父親がどのようにして財を成したかの特に説明はないけれども、そのことは彼の心の重荷になったという。
 ふたたび木造町へ向かう。津軽平野を南へ走る。青森の空は高く、雲は浮かび、地は広がる。このようなゆったりした土地が、本州にもあったのだ。
 資料館の玄関前に車を止める。外に受付があって入り口を入る。建物のなかいっぱいに、竪穴式住居がその入り口を正面に見せて作ってある。右手の壁面に、日本地図があって、来訪者がどこから来たのかを小さな磁石のしるしで示すことができるようになっている。ほとんど日本全国から来ていることになる。その先には、実物大の男女の人形が座っていて、近づくと動き始める。驚いたこといきなり音が出て縄文語の会話が始まる。傍らの文章と照らし合わせてよく聞いていると、既に少し日本語らしいところがある。これはどの程度本当なのだろうか。この竪穴式住居は、これまで見たものよりよほど大きく見える。かたわらの台の上に、遮光器土偶の作り物がある。受付から男の人が出てきていたので、ここの他にも、縄文遺跡についての資料館があるかどうか聞いてみた。「ええ、ありますよ。木造町にはもう一つ縄文館というのがあります。これは亀ヶ岡遺跡の関係の資料館です。ここからもう少し北へ行ったとこです。」「亀ヶ岡遺跡って有名な遺跡ですね。じゃあ、行ってみなければ。」「遺跡の場所そのものは、碑が立っているだけで大したことはないんですよ。どこからみえたんですか。」「愛知県ですよ。」「ほう。尾張小牧は愛知県ですね。」「ええ。地図のついたパンフレットか何かありますか。」
 ここに亀ヶ岡遺跡があったんだ。今まで全く頭になかった。
 木造町の北部へ走る。縄文館はあまり人が入って行かないような、林の奥にあった。遮光器土器はここにもなく、東京へ行っていると断り書きがある。奥の壁面には、土器の様式別に各地の遺跡の表ができている。亀ヶ岡遺跡は縄文晩期で、縄文時代の終わりに位置する。弥生時代を迎える前だ。どうして最後にこんなに精巧になったのか。浅い鉢の側面には、持ち上げなければ見えないような底に近いところまで雲形文様の飾りがある。雲形というより水が流れる模様に近い。丁寧な造りだけではなく形式に固まっていない。既に洗練された文化の産物と思われるほど。この繊細な感覚は、作り手個人の感覚とも無関係ではないようにも思う。これが弥生に伝わらなかった理由は何だろうか。弥生時代には、これ以外にもあまりにも多くのものが変わってしまった。住民が移住者と入れ替わったからか。急激に入れ替われば、その文化も変わるだろう。そうでなければ、生活の仕方がまるで変わったからか。生活の変化で、いろいろなことが変わるだろう。けれども、少しずつかたちづくってきた感覚まで大きく変えてしまうだろうか。
 木造の町中に戻ると人が大勢出てお祭りが始まっていた。向こう側の川端道を赤、白、青などの大きな馬の張り子を引いた行列が通る。街の各所から集まってきて、何本も幟を立て、白や青のはっぴを着た者たちが台車の綱を引いて行く。大太鼓を打ち鳴らす者もいる。台車の幕に「馬市祭り」とある。街では、一風変わった凧あげの凧のような赤い飾り物がつり下げられている。それは通りの店々の軒先に並んで、円筒形の胴体と長いたこ足が風に吹かれて揺らめく。すでに街の中心部ではたくさんの人出で、道の両側の、特に日陰になったところに陣取って行列を待ちかまえている。やがて車は進めなくなった。
 また時間をかけてしまった。11時を過ぎた。午後の予定を考えなければ。これから帰るのに2、3日はかかる。遠野へは何とかして寄りたい。少し残念だけれど津軽半島をまわるのはやめて、さっさと南へ向かうことにしよう。
 五所川原から339号線を南下する。右手に岩木山が見える。なだらかな稜線を見せ頂上付近は雲に隠れる。この大きな丘のような優しい姿の山は、津軽平野の南にあってよく似合っている。弘前の手前で7号線に入る。
 大鰐弘前Icから東北道を安代Icまで走る。盛岡に近づく頃に夕方になった。遠野に出やすいところのキャンプ場は二つほどあるが到着時間が遅くなりそうなので無理。前から考えていたけれども、高速道路のサービスエリアで朝を迎えても別に問題はないではないか。紫波Saというのが、紫波Icと花巻Icの間にある。これなら遅く着いてもかまわないわけだから一度やってみよう。
 紫波Saには7時過ぎに着いた。既に照明灯に明かりがついている。明かりの下で、トイレに近いところに車を止める。売店の女の子に聞くと、店は朝7時から夜7時までだという。いつものとおり少し酒を飲んで食事をしてワープロソフトを使っているうちに眠ってしまったらしい。気がつくと雨が降っている。このあいだも窓の換気扇から雨水が入ったので、車から出てテープで予防をする。このときが問題だった。もう一度寝る前に、車内からロックをしようとしたら車のキーがない。どこか隙間から床に落ちてしまったのか。そこまでは覚えているけれどもそのまままた寝たらしい。


9月2日(日曜日)
 朝、起きて早速、キーを探し始めた。すべてのドアを開けたり、床や、寝具の中や、箱の中の荷物を何度も見直したり整理し直したりしたけれども、キーはどこにも見つからない。昨夜起きた時に行ったかもしれないところも、何度も見に行って確かめたが見あたらない。これはまずいことになったと思った。
 以前は、用心のために予備のキーを財布に持っていたけれども、この車になってからやめてしまった。見つからなければ、自分だけではどうしようもない。こんな場合はどうするのだろうか。車の販売店に電話をして聞いてみた。同じ系列の東北の販売店に連絡をしてみるか、そちらの近くの鍵屋さんというのにたのむか、そのどちらかだという。ただし今日は日曜日だという。あ、日曜日か。
 売店はとうに開いている。店の男の人に事情を話して聞いてみた。キーの落とし物の連絡は無いという。高速の公安隊に聞いてみましょうと言って電話をかけてくれる。こちらも、巡回はしたが特に気づいたことはないと。やはり鍵屋さんに頼むしかないと言う。「その前にもう一度よく探してみるといいでしょう。」その通りだからもう一度はじめから全部さがしてみたが、無い。再び行って鍵屋さんのことを聞く。彼はインフォメーションというところへ連れていって二人の緑の制服の女性に頼んでくれた。彼女たちは、いろいろなところへ電話をしてメモを取り、「ずいぶんお金もかかるようですよ。もう一度よく探しますか。」もう一人も「何人かでさがした方がいいかもしれませんよ。」と真剣に心配してくれた。お礼を言ってメモをもらい車に戻って携帯電話をかけていると、いつの間にか、緑色の制服を着た先ほどの二人が出て来て、車の周囲をいろいろ探してくれている。ようやく一軒の鍵屋さんに電話が通じてこちらの状況を説明しかけたとき、緑の制服の一人が「あ、あった。」と大きな声をあげた。え、見つかったの。見ると彼女は車の屋根に手を伸ばしてキーを指でつまんでいる。「何か車の屋根の部品かと思ったけど、やっぱりキーだったわ。」急いで鍵屋さんに今話していたことは間違いだったことを伝えて、すみませんと電話を切る。
 人ごとなのに彼女たちは二人とも大変喜んでくれた。自分としてはあんなに探したのに車の屋根の上は一度も見なかった。「やっぱり一人で探してたんじゃあだめだねえ。」「ほんとにねえ。」と3人で何度も言って喜んだ。「見つけてくださったおかげで、今日はこれから予定通り遠野へ行くことができます。本当にありがとう。」といって、二人の名前を聞いたりしてていねいにお礼を言う。ところが、売店へ行ってあの男の人にお礼を言うのを忘れてしまった。恥ずかしくてきまりが悪いのとキーが見つかってほっとしたのとで慌ててしまった。再び東北道に出てから気がついた。花巻インターを出てからもう一度戻ろうかと思っているうちに、ようやく携帯電話を持っていることを思い出してお礼の電話をした。
 今日もよく晴れている。遠野へは、396号線へ出て山の中を走る。
 遠野市に入ってまもなく「千葉家曲り屋」というのがある。国道沿いの広い駐車場に車を止めると、左手の小高い上にさらに石垣を組み上げた農家風の建物が見える。左手から坂道をあがって石垣の上に出る。中央に母屋(曲り屋)があり、L字形の一方が南に大きく張り出している。こちらは屋内に設けられた厩と作業室を主とし、他の一方は南に開いた中庭を前にして居住部分となっている。中庭と母屋の東側には別棟で大きな納屋がある。中庭は、西および北の母屋と東の納屋に囲まれている。小高い石垣の上で南向きに並んだこれらの建物と中庭は、晴れた冬の日には暖かい陽射しをいっぱい浴びることになるだろう。
 納屋には、むかし使われていた作業道具や日用品が置かれていて中に入って見ることができる。こうした展示は他でもよく行われていることで珍しくはないが、ここは数も種類も格段に多い。入り口はなく土間として開いたままになったところに縄ない機がある。小説「津軽」にも出ていた。精米所をやっている友人がひどい不作でどうにも困った年、縄ない機や筵を作る機械を入れたが操作が難しくて手に負えなかったという。あれはきっともっと大きな機械なのかもしれない。これも歯車がたくさん組み合わされた複雑な機械だ。奥の壁に蓑と編み笠がいくつか掛けてある。毛糸で編んだ小ぶりのものもある。これは蓑の下に着用したものだろうか。隣のガラス戸を入った部屋には床や棚にいろいろな日用品がぎっしり置かれている。棚に、大きな方形の赤い漆塗りの箱で、中側に順次小さくなる箱を何重にも入れたものがいくつかある。側面に「織」の字が大きく黒書きしてある。竹細工の容器様のものがたくさんある。鉢形の花器。目の細かい杓子。小型の行李。蓋のある籠。また、いろいろな火鉢がある。陶器、鉄、木製の形や大小様々。灰が入れてあり、中には炭や五徳の入ったものもある。棚に鉄製の手あぶり火鉢様のものがあるが、これだけはラベルを留めて「風炉」とあり、両側に丸い輪が取り付けてある。古いタンス類の並んだそばに簡単な木箱があって、本が何冊も立ててある。その中に分厚い「里見八犬伝」が2巻。床には、こうした場所でよく目にするものだが、黒いタイルを細かくいちめんに貼った2口かまどがある。飯釜と鍋が乗せてある。
 ここの充実した展示は町の博物館などでよくある同様の展示に比べて、より自然である。それは、古くから実際に使われてきた家とその納屋納戸で見せることで、かつての生活がそれほど無理なく伝わってきて、何年も隔てられた現実との違和感を少しは和らげているせいだと思う。
 屋敷の裏手にかやぶき屋根の建物がある。外は土壁のままで入り口は閉じられ、そこに何とかの作業場と表示されている。その横手に小粒の赤い実がいまいっぱいになっている木が大きく枝を広げている。名前は知らないが山でよく見る木で、これはきちんと手入れがしてあるようだ。母屋の裏からもう山が始まっている。建物のすぐ上は庭園として道が付けられ樹木を植えてよく刈り込んである。裏手を西に出ると巨大な石があり、そこに長い丸太材をコの字形にえぐって清水を引き水槽に落としている。母家の西側には大きな蔵がある。厚い扉や窓のしっかりした土蔵だが、上はふつうの瓦屋根が乗っている。どうも後から手直しして加えた感じがする。
 遠野市立博物館は猿ヶ石川を渡った市街地にある。
 入るとすぐ、ほの暗い中に曲り屋の部屋のいろりを囲む情景が再現されている。そのまま2階へ上がって、そこに大きなスクリーンがあり昔話の上映時刻が予告してある。別の出口から1階に戻るとそこもお話の押しボタン式映写装置。この1、2階は遠野の昔話コーナーになっている。次の部屋がこの博物館の主要部、常設展示室になる。それほど広くはないけれども、遠野の地勢、四季、暮らし、信仰、歴史がそれぞれ関連させてていねいに展示解説されている。博物館全体に柳田国男民俗学(実際にそのコーナーもある。)資料館の趣もある。このように確かな内容を得た博物館は非常に幸福な例だと思う。今日は日曜日だけれども館内に人は少ない。若いカップルが2、3組と老人が何人か。たまたまかもしれないが、対岸の道の駅の混雑と言っていい程の賑わいとの差は大きい。特別展示室では、「供養絵額−残された家族の願い」というのをやっている。膨大な点数。かつてかなり広い地域でこのようなことが行われていたことを初めて知った。
 いろいろなものを見て館外に出ると、時刻は昼をとうに過ぎている。この近くに「昔話村」というのがある。その前に何か食べなければ。歩いて行くと喫茶軽食の落ち着いた風の店がある。入るとこんな時刻だから客は誰もいなかったが、ちゃんと迎えてくれた。トマトのスパゲティはうまいと思った。
 「昔話村」には、いくつかの建物がある。柳翁宿はむかし柳田国男が泊まったことのある旅館を移築したものとか。2階にはNHKのラジオ番組で彼が思い出を話している録音を聞く装置がある。若い頃の旅の思い出で、母が路銀を出してくれたこと、本物のわらじを履いたがそれは東京を出てからで靴は小包で送り返したこと、しかし、帰るときに困ったことなどを本人が語っている。通路で続いた物語蔵には、いろいろな装置を使って遠野の民話を表現している。子ども達が誰でも親しめるようにということらしく、本当に怖い部分はなるべく避けてきれいで心地よいものに心がけている。これは博物館でも同じようだった。すでに今では遠い過去になったのだろうか、冷え込む冬の曲り屋で、かつての幼い子がいろりを囲んで爺、婆から聞いていた昔話。それは美しさや不思議、とてつもない幸運ばかりではなく、ときには恐怖し、戦慄し、興奮するものではなかっただろうか。いま、そんなふうに子ども達の日常とつながる部分は全く何もないのだろうか。世の中は変わりに変わって、その適切な再現は今ではとても無理な注文であるらしい。
 外へ出るともう太陽がそれほど高くない。キャンプ場は使えない。今晩も東北道のSaになる。


9月3日(月曜日)
 午前8時、国見Saを出る。国見Icを出て国道4号線を走る。今日はもう南下するだけ。昼に宇都宮に着く。東京都内経由東名高速に入る。


9月4日(火曜日)
 午前7時、足柄Sa発。ここは昨夜大型トラックばかりだった。ここには入浴施設があって、ちゃんと風呂に入ることができた。御殿場Icから138号線を富士吉田市へ向かう。まだ早いので、比較的道路はすいていて快適。富士スバルラインに入る。今日は晴れているからきっと素晴らしい5合目と思ったが、だんだんと霧が出てきた。御庭のあたりは全く霧の中。ライトを全部つけてもゆっくり走るしかない。5合目の駐車場に入ると少し霧は晴れたが、遠い景色は何も見えない。車から出ると寒い。何組かの人たちが駐車場のあちこちで登山の準備中。着替えたり、リュックの中を整えたりしている。大きな袋とゴミばさみを持ったおばさんがいて、近くに来ると「キノコ狩りなの。登山なの。」と聞いてくる。「あ、ここまで上がってきただけ。」「あ、そうかね。今日はあんまり良くないねえ。」と、夫の方へ行く。夫婦でゴミ拾いのボランティアをしてくれている。道路を上がって売店の方へ行くと「旦那さん。馬でそこら一周しませんか。」と近づいて誘う。見ると人待ち顔の男があちこちにいる。みんな馬に乗ってくれる客を捜している。「もう、時間がないから。」「30分でも、20分でもいいですよ。」「これからすぐ降りるんです。」と店の中に逃げる。ああ、ここはだいぶ前に中学生と来たことがある。何も変わっていない。
 スバルラインをゆっくり下りて静岡県に入り、浅霧高原を走る。途中、地図を見ると分かれ道があって、469号線に入る。しばらく行くと道幅が狭くなり、山村の寂しい国道になる。きれいな水が勢いよく流れる細い川沿いに上る。少し広場になった道ばたで夫婦が一組、三脚を立てて写真を撮っている。川端に彼岸花が3輪程咲いている。「もう咲いてるんですね。」「ええ。早いですね。まだ珍しいです。」「あの向こうに咲いてるの、何ですか。」「あれは、秋海棠ですかね。あれも今じゃ珍しいんですよ。」「ほう。」と、自分も彼岸花と秋海棠を写真に撮る。道はますます険しくなるが、少し広くなるとたちまちダンプカーが現れる。いつの間にか、また山梨県に入っている。もうすぐ駿河湾だというのに。52号線に入ると再び静岡県で清水市、かなり走ってからようやく1号線に出会う。
 藤枝バイパス、掛川バイパス、磐田バイパス、浜名バイパスと走り継いで豊橋市に入る。途中から豊橋港に向かって23号線に出て蒲郡へ抜け幸田町へ入る。ここでJR東海道本線を渡るのだけれども、その先で妙な具合になる。地図とナビのとおりに国道の赤い線をたどるといきなりT字路にぶつかる。信号はない。見通しはそれほど悪くはないが車は左右からスピードを上げて絶え間なく通る。この中へ入るのはなかなか難しい。だいぶフロントを道の中へせり出してようやく左手からの車を止める。名古屋の都市高速も簡単には入れない。表示は早くからあるからそのつもりで左車線を走っていると、伊勢湾岸道路の入り口がある。大高Icへの出口がある。その直後に都市高速の入り口になる。特に暗くなってからが間違いやすい。自慢にはならないけれども、伊勢湾も大高も経験済み。


 これで最初の東北行は何とか無事に終わったけれども、あまりにも頻繁に予定変更をし、心残りも多いので何とかしてもう一度やり直してみたいと思う。