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東北紀行                              
        2 松島へ      2001.09.24-09.27

9月24日(月曜日)晴れ
 まだ午前中なので東名高速は思ったよりすいていた。首都高速は避けて環八通りを和光に向かう。これはやはり時間がかかった。外環道から東北道に入って午後2時を過ぎる。こちらは、しばらく走っているうちに車がずいぶん少なくなった。
 羽生を過ぎて利根川を渡る。この利根川のはるか上流には、先月の東北行で通った沼田市がある。沼田市から中禅寺湖へ向かう途中には利根村という村もあった。あそこは、先日の旅行社の観光バスでも通った。観光バスに乗っていると、さすがに車窓から風景がよく見られる。あのときは、利根村を通って沼田に近づくと広い畑が続き、見たことのない変わった作物ができていた。見ているとたびたびその畑がある。あのときも一緒にいた妻は「あれはこんにゃく」と言った。
 高速道路を走っていると、前方の道路以外に見えるのは、空とせいの高い建物、近くの山や樹木ぐらいしかない。沿道の街々や人々、田畑や小川、遠くの林、木立の中のお寺やお宮の屋根などほとんど見ることがない。高速道路は、ただ、時間が惜しいときや特に景色を見る気にもならないときに走るものだ。それでも、東北道は東名に比べると道路を囲む防音壁が少ない。壁の途切れたところで思いがけないものを見ることもある。宇都宮の近くで濃い黄色の鹿沼土が小山のように高く積み上げられているのを見た。宇都宮市に隣接した鹿沼市を走っているのだという。先ほどから、道路の柵に沿って、また、防音壁に沿ってムクゲの木がずっと植えられている。ちょうど白い花、赤紫の花がいっぱい咲いている。
 先回は国見Icから宇都宮に向かって、この下の国道4号線を南下した。反対方向なのでもう一度4号線を北上してもよいと思ったが、今日は二人旅だから夕方までに予約した目的地に着きたい。いつ福島県に入ったか、日射しがだいぶ傾くころ、さらに宮城県に入った。白石Icから鎌先温泉に向かう。国道4号線から県道に入ると、道は真っ直ぐ西に向かう。前方の山に懸かった夕日で、道も家も田畑もあかく染まる。ようやく夕日から逃れて山に入り谷川を渡ると鎌先温泉がある。土産物店などがあってなんとかそれらしくなった温泉街の入り口に駐車場がある。少し歩いてすぐ数軒の宿がある。細い坂道を上りながらあたりを眺めると、ある宿には窓の外の手摺りに神社風の凝った造作がしてある。いくつかの窓には、すでに明かりがともる。平日だから客の姿は少ない。


9月25日(火曜日)晴れ
 国道4号線に戻って岩沼市に向かう。ここはすでに仙台市の南に当たり、大河原町、柴田町の新しい町並みが続く。岩沼から「仙台東部道路」と「三陸自動車道」で松島海岸に直行する。高架の自動車専用道だから風景は余りよく見えないけれども仙台平野を快適に北上する。もう少し東に出たら太平洋の浜辺があるはず。空は今日もよく晴れている。仙台平野では、すでに黄色みを増した田が広がり、左手には遠く仙台市のビル群が続く。道路は途中から片側1車線になってどの車も連なって走ることになる。松島北Icからしばらく走って緩やかな坂を下りると松島海岸に出る。
 松島湾には大小の島が浮かぶ。今日は風のない晴天なので、穏やかな海面は柔らかく島影を映す。広々とした大きな景観で、和風の庭園に似た端正な美しさもある。湾を巡る遊覧船が帰ってきて、航跡とその波が緩やかに広がる。船を入れないように写真を撮る。嵐の日に、湾に強風が吹き荒れて小島が波に襲われるようなときは、また違った景色になるだろう。
 岸にすぐ近い小島に赤い橋が架けてあって、今観光バスから降りたばかりの人たちが列を作って渡る。島には方形の瓦屋根の建物がある。案内のチラシに五大堂(中に五大明王像)とある。「坂上田村麻呂が東征の折りに…」と古いが、1604年に改築されたものという。400年前の建物。木材は白っぽいほど灰色になっているが形も表面も崩れてはいない。正面の屋根は中央で特に張り出し、軒は深い。扉や窓は開けてあるが、更に、細かい四つ目格子がはめられ暗い中はほとんど見えない。
 戻って道路を渡ると瑞巌寺の山門をくぐり、深い杉木立の中に参道が通る。杉並木の右手に続く岩山は柔らかい砂岩のようで、仏像が彫られ四角い穴が穿ってある。大きく堀り広げられて部屋のようになったところは、中世に僧たちが寝起きして修行をしたところだという。砂岩の岩屋堂の前には、石造の様々な仏がみな光背と共に並んでいる。かつて修行していた僧たちが彫ったものだという。古いものでこけが着いたりしているがどの仏も欠けたところはほとんどなく仕草も表情もよく保たれている。団体が少しずつ移動して行く後ろに続いていた妻があとで話すには、案内の解説者が「僧の中には一生をここで修行して終わった人もいた。今はこんなに日陰のじめじめしたところだけれども、当時はまだ樹木もこんなに茂っていなかったから。」と言っていたという。高い杉の木々は日光を遮り、太陽はその隙間から参道の石畳やこけむした地表で鮮やかにわずかな陽を落とす。
 参道の周辺をゆっくり歩いているうちに時間がたった。このあとの牡鹿半島一周はかなり時間がかかりそう。奥松島からの景色もいいそうだし、遊覧船に乗ってみてもいいし、仙台には万華鏡博物館もあるし、それに今夜の宿まではまだいくらか距離もある。そこで今回の牡鹿半島は見送ることになった。山門を出たところで土産物を売る店先に昔の笠が置いてある。昔お百姓さんが蓑を着るときにもかぶったような三角の笠。一緒に股旅ものの映画に出てくるような笠も並んでいる。三角の方は軽くて風通しが良さそうだ。「この布の帽子よりもあの笠をかぶってたら涼しくていいだろうね。買おうか。」「いやだ。あんなのかぶってどこにでも行くわけにはいかないよ。」別にそんなふうにも思わないから、また通りかかった店でも見つけてかぶってみた。しかし、中の輪っぱが頭に全く合わない。大きさが合わないのではなく、形が頭に合わなくて痛い。元々これは飾りとして売られているものらしい。 
 奥松島は短い橋の架かった細く狭い海で隔てられているから一応島だろうか。道は地形に合わせて勝手に曲がっていく。一車線だが舗装されている。工事中で砂利道になったところを曲がると「縄文遺跡資料館」の表示。ここにも遺跡があったのだ。今日は予定に入っていないし、寄っている暇はない。「縄文遺跡も結構観光資源なんだよ。」先ほどから、幌の横も後ろもたくし上げた小型トラックが前を走っている。ブレーキを掛けた後、左手の山に沿った脇道を上がって行った。中には日用品などの商品がぎっしりと並んでいる。「きっと買い物が不便なんだ。」「ああ、車もみんな持ってるだろうけどね。来てくれれば便利だから買う人があるんだ。」いろんな方向に曲がっていくうちに海岸に出る。白い砂浜になっていてちょうど波打ち際に大きな岩がある。寄せる波は大きく、岩にぶつかっては白いしぶきを激しく高く上げる。ここは太平洋の外海に面しているんだ。デジカメで何枚も撮ってみるが、ちょうどしぶきの上がったところがなかなか映せない。こんな時はいちいち読み込んでいる時間がまどろっこしい。機械式のように連続で何枚も勝手に撮ってくれると必ずどれかに映るだろうに。ナビで見ているとこの辺りをほぼ一周したはずなのに、見晴らしがいいという高森山がなかった。そこへ行く道もなかった。見落としたのだろうか。もう一度逆向きに走ってみる。右手は小高い山、左手は収穫間近い田圃。カーブを曲がったところで赤い花がいっぱい咲いている。車を後退させ前後から来る車を驚かせない位置に停車する。右手山際に曼珠沙華が満開だ。二人ともカメラを持って赤い花の中へ行く。曼珠沙華を手前に写真を撮る。小道を上がったところに墓地がある。小道は赤い花の中にある。緑の茎が何本も真っ直ぐ伸びて、赤い弓なりの糸に包まれたような花が咲く。この花の赤は黄味も青味も灰色も何も混じらず純粋な赤だ。蕾をマクロで写す。蕾はまだ緑を残してとがっている。この花の根は飢饉の時にはあく抜きをして食べられるのだという。
 縄文資料館のところへ戻ると反対側に山への階段がある。さらにカーブを曲がると小さい駐車場とまた階段があって「壮観高森山登口」と表示がされる。さっきは工事中の道路に気をとられて見落としたのだ。階段は鬱蒼とした樹木の中を上っていく。かつて岩を削っただけで出来たものらしい。今は角が大きく取れて、段々はなく滑りやすいでこぼこの坂。これも砂岩。きっと、岩を削って出来たばかりの頃は素晴らしく快適な階段だったのだ。その後、ところどころコンクリートや石で補修してある。木漏れ陽の道は急坂で、やがていたるところに太い木の根が露出したり小石がたまったりして更に登りにくい。先の上の方で声がする。女性と子供の声。角を曲がると木の根や岩を選んでは登っていく二人の姿が見える。若い母親と小さな女の子。親はおだやかな声で上手に子を励ます。「子供は身が軽いから、それほど体力はいらないのよ。こんなにして自分の体重を持ち上げなければならないんだから。ほんとに、もう。」 いつのまにか身の軽い子供の頃をとうに過ぎてしまった大人は、やはり少し妬み、言い訳しながら嘆く。
 二十分ほど登ったか、ようやく頂上に出た。砂岩の盛り上がった岩の上に四阿とベンチ、コンクリートの手摺りで囲った展望台がある。展望台からは、ほぼ松島湾全体を見下ろす。左手はきらきらと海面を光らせた太平洋。右手前方には先ほどの砂浜の海岸が見える。幾重にも白い波が寄せている。手摺りにもたれて写真を撮ったりしていると、「これ、よかったら食べてください。」と先ほどの母親がサランラップに包んだおにぎりを二つ差し出す。ベンチには先に登っていた親子がもう弁当を広げている。「あら、ありがとうございます。いいんですか。」「ええ。たくさん余ってしまって。」菜めしを握った丸い大きなおにぎり。一緒にベンチに座って食べる。塩味の菜めしがうまい。みんなで来るはずだった知り合いの人たちが急に来られなくなって、それでも、こうやって二人で来たのだという。女の子も足をぶらぶらさせ、両手でおにぎりを持って食べる。「ちっちゃいのに一生懸命登ってきたねえ。おいくつ。」「……ちゃん。ほら、いくつって。」濃い眉の女の子は上目遣いに笑いながら左手の指を四本立てて見せる。「まあ。四歳なの。えらいわねえ。」それから母親に言われて鼻紙をもらい上手に鼻をかんで見せる。妻はよく晴れて穏やかな天気のこととか、お互いにどこから来たのかとか母親と話す。やがて我々が先に頂上を離れる。「ごちそうさま。おにぎりは本当においしかった。降りるときは気をつけて降りようね。」
 下りは小石や砂で滑りやすい。途中、ちょうど中程で老人が石段に腰を下ろして休んでいる。背広を着て杖を持ちきちんとした身なり。そばに娘さんかお嫁さんが付き添って立つ。「大変ですね。ここらあたりは急だから。」「はあ。そうですねえ。」と白髪の顔を上げて笑う。
 仙台市の南で、高速道へ入る前に万華鏡博物館に寄る。それほど大きな建物ではないけれども、百年前の西洋の万華鏡がいっぱい展示されている。アールデコふうのデザインが多い。あちらでもてはやされた時期が同じなのか。
 まず入るとブラウン管モニターを被写体にした巨大な万華鏡がある。普通のもののように片目で筒の中をのぞくのではなく、大きな筒の前に座って奥を見る。筒の入り口は人の頭部より遙かに大きくあいている。これがおもしろいのは、大きく広がる映像を両眼で思う存分に見ることができることと、ビデオ映像の動きと変化が眼の前に思いがけない視界を開いて見せるから。用意する映像の選択次第でいろんなことができそうだと思う。小さなモニターに映るあくまで仮の世界をまた少し違った姿に見せている。
 展示されたたくさんの万華鏡の中に、ガラスに密封された流体を被写体にしたものがある。流れる色鮮やかな形がガラスケースの動かし方に応じて変化する。筒の中の3枚の鏡を少し先細りの台形にしたものがある。この映像は球面を見下ろしたようになる。これらを一つ一つをのぞいていくとずいぶん時間がかかる。目もおかしくなる。また、自分で作ってみたくもなる。
 福島飯坂Icを出ると午後4時を過ぎた。明日の行程はかなりの距離なので朝早く出発し、この先の高原道路を走る予定にしている。今日の宿はそこへの途中にあるユースホステル。場所がわからず高湯温泉まで上ってしまったりした。電話を掛けて道順を確かめ、ようやく日没直後に到着。「朝食はどうなさいますか。」「朝6時頃出たいんだけど無理ですね。」「ああ、それは無理ですね。どちらへ。」「この上のスカイラインを通って猪苗代へ抜けるんです。」「そうですか。料金所を6時前に通るとただで抜けられますよ。」
 部屋は和室一部屋を与えられた。最近は客が少ないときはそういう便宜を図ってくれるところが結構あるのだという。木造の建物は新しく、1階は吹き抜けの広めのロビーになっていてよく整頓されている。ロビーの中央に階段があって2階が客室。窓のカーテンを開けると遠くに福島市街の夜景が広がる。風呂は循環式の浴槽で24時間入れるという。浴室へ行くと先客がいて若い男性が出てくるところだ。「出るときに浴槽のふたをしてください。僕が入るときはふたがしてあったんだから。」と注意をしてくれる。食事の時にも、彼と我々二人の3人だったから、泊まり客はその時点では3人だけのようだ。今はちょうどオフシーズンだが、夏の行楽、冬のスキーシーズンには、ここをよく知った人たちが大勢来るのだろう。
 食事は、あんな料金でこんなにして大丈夫だろうかと心配になるほど。食事の終わりに「もしよかったら、このあと8時過ぎに星空を見てみませんか。」とここの主人が誘う。ここでもう何泊もしている男性は、「ここには天体望遠鏡があるんですよ。僕はもう見せてもらったから。」と言う。「そりゃあ、ぜひ。」と頼む。
 明日は5時半にはここを出なければと、二人でせっせとそのための準備をした。荷物をとりに外へ出て車へ行くとき、空を見上げても星は見えない。主人も出てきて、「どうも雲が出ているようだ。少し様子を見て、9時過ぎにもだめだったら止めましょう。」という。結局、星は見ることができなくて夜中には雨が降り出した。


9月26日(水曜日)晴れ
 朝、雨はあがっていた。やや暗い山道をまた高湯温泉にあがっていく。ヘッドライトの光の中を霧が流れる。昨日一度往復しているのでどの辺りを走っているかよくわかる。料金所が近づくと妻が「本当に6時前ならただになるのかしらね。もし、料金所の人がもう来ていても。」料金所には明かりがついていて確かに誰かいるよう。それでも何事もなく通過した。出口はもう関係ないそうだから、これで無料の山岳ドライブができる。すでに空全体が明るく東の空が見える方向になると山の上の雲がくっきりと形を見せる。まもなく日の出だ。
道はどんどん登りが続き、そのうちに最初のドライブインに着いた。「吾妻スキー場案内図」という大きな看板がある。車が一台止まっている。暗い影のように立つレストハウスの中に明かりはない。広い駐車場の端は柵で囲まれていて下界への見晴らしがいい。やわらかくたなびく雲の中に山々が浮かび手前から順に遠く薄くかすんでいく。東はすでに少し青空で流れる雲が明るく輝く。寒い。
 相変わらず道は登りが続く。昨夜の雨で道路は濡れている。紅葉しかけた木々も雨に洗われている。「快適だねえ。だあれもいない道路をこうして走れるなんて。」「ほんとに。あの向こうのはげ山みたいなところにも道ができてるみたいだよ。」てっぺんに朝日が差しかけている遠くの高いはげ山に白いガードレールが続いている。「この道があそこまで行ってるんだよ。きっと。」「そうだろうか。あんなとこまで。」道は急なカーブを次々に曲がってはまだまだ登る。車がカーブの向こうから初めてやってくる。白い小さなライトバンが急いで降りて行った。「ちゃんと仕事で忙しいんだ。我々と違って。」
 はげ山がどんどん近づいて、そのうちに少し平坦に開けた広い駐車場に着いた。看板に「浄土平レストハウス」とある。駐車場はほぼ空っぽで、いくつかある建物も皆まだ鎧戸をおろしている。駐車場の右手にはあのはげ山が朝日を受けてそびえている。その反対側には、高い大きな丘が朝日を背にして間近にある。大きな山の陰の中に階段が方向を変えては高く続く。陽の当たらない階段は寒そうに見えて上着をしっかり着て上がっていく。階段はまだ最近整備されたもののようで足を運びやすくできている。付近に草木はほとんど生えていなく、赤茶けた岩が大小ごろごろしている。階段が向きを変えるところで小休憩。下から見えていたのはここまでだったのに、見上げると階段はまだまだ続いている。下は、もう駐車場全体が朝日を浴びている。左手のくさはらのように見えていたところに木道があちらこちらに敷かれている。湿原があるのだ。湿原の柵の向こうから黒い乗用車が一台走って来て、スピードを緩めたけれども駐車場には入らずそのまま右手に降りて行く。また階段を休み休み上がっていくと、まもなく山の上に出た。驚いたことに噴火口の縁に立っている。ここは吾妻小富士の噴火口だったのだ。スカイラインのこんな道端にあったのだ。特に柵があるわけでもない。火口の規模はかなり大きく見えて、その内側斜面はすぐ足元から深く落ちていく。いま昇ったばかりの朝日を斜めに受けてすり鉢状の縁が周囲に鋭く立ち並ぶ。斜面の右手は暗い陰になり、その影はは火口の底まで覆っている。硫黄のにおいもしないから火山活動はなくて火口に降りて行っても特に危険はないのだろうか。しかし、周りの山にも樹木が育たないのは火山活動が続いていたせいではないか。浄土平というからには古くからの信仰の対象で近くのどこかにお寺でもあるのだろうか。地図では、吾妻山の山々の範囲は広い。ここから西の方角に、東吾妻、中吾妻、西吾妻と並び西吾妻山の西大顛から南の麓はすでに裏磐梯の湖沼地帯となる。
 階段を道路端まで降りると7時を過ぎる。太陽が昇って青空が広がった。道はここから下りの山道が続き、土湯峠に出る。115号線の長いトンネルを通って二本松市に向かう。道の駅「土湯」に着いたがまだ誰もいない。建物は閉まっている。二本松Icから東北道に入り、安達太良Saで朝食をとる。午前11時頃までに羽生へ着く予定になっている。平日の朝の東北道を東京方面に走る車は少ない。車が少ないと自分もあまり急ぐ気にならない。先ほどから前方を観光バスが90キロ前後の速度で走っている。その後をできるだけ距離を置いてついていく。
 予定どおり羽生市について県立水族館を見る。埼玉県水郷公園の中にある。園内にはきれいな芝生が広がっていて、若い夫婦が幼児を遊ばせている。どこか近くから学校の運動会のテンポの早い音楽が聞こえる。この水族館は淡水魚を中心に展示していて、タナゴがたくさんいるとか。館内では、近く「アマゾン川の魚」展示企画を予定していて準備中だ。ゼニタナゴ、ミヤコタナゴがいた。タナゴはどうしてこう急いで逃げ回るのだろう。中から水槽の外が見えるのだろうか。車いすの団体客が大勢来ていた。どの車いすにも付き添う人がついている。
 羽生市を離れて熊谷市に向かう。関東平野の真ん中で山は遠く霞み、晴れた青空の下どこまでも田畑が続く。本当はのんびりした田舎の景色のはずだが、道路を忙しく行き交う車が多い。行田市に入ると妻が言った。「行田は足袋の産地。」「へええ。よく知ってるね。」「昔の社会科にちゃんと出てきたでしょう。」「そう。よく覚えてるね。僕には五女子足袋しか思い出せない。それにしてはこの町の広告に出てこないね。もう作っていないのか。」熊谷バイパスで市街を避け140号線に入る。荒川沿いの山間に入ってキャンプ場に着いたが泊まれるような状態ではない。急遽宿を探す。電話でokを取って毛呂山町に向かう。


9月27日(木曜日)
 日高市、飯能市と南下して青海街道へ出る。青い道路標示板に右「新宿」左「奥多摩」とある。奥多摩には、2年ほど前に八王子から玉堂美術館を見に来たことがある。そのときも御嵩駅に寄って「ああ、ここからは新宿へ出るんだ。」と思った。御嵩を過ぎると山がちになって多摩川は谷底を流れる。右手を走っているはずの鉄道は高い崖の上のようだ。道沿いに温泉宿がある。紅葉にはまだ早いが、小さいリュックを背に女性の観光客が二人歩いている。ここは東京からの日帰りコースなんだ。やがてダムがあって奥多摩湖へ出る。東京都の水源(東京都水道局)と看板にある。奥多摩湖を過ぎると山はいよいよ険しい。以前に来たときもここを通ったが3月初めでもよほど気温が低かったらしく雪が降っていた。さすが大菩薩峠の近くと思った。この街道は昔から甲州と江戸を結ぶ道で、きっと一葉の父母が若い頃二人で通ったのもこの道なのだ。塩山市の表示は早くから出るが深い山はいつまでも続く。ようやく平地に降りたかと思うとそこはもうすぐ塩山市街で町中の細い道になる。川沿いの石和から20号線の広い国道に出て、358号線を南下すると、また思いがけないほどすぐに山に入る。前方に山が近づいたなと思ううちに急坂を登り始める。トンネルを過ぎて上九一色村に入り、もう一つ峠を越えると精進湖、続いて本栖湖がある。甲府から富士山の麓は意外に近い。昼食のために店の駐車場に止まると妻の携帯電話が鳴る。先頃結婚した姪からで、式の折りの写真ができた云々だという。食事後、本栖湖を一周する。キャンプ場があるので次回のために見ておくことにする。そこはバンガローが中心のよう。一周の終わり近くで白い花を見つける。山かげで特別目立っていたのは、真ん中に紫色の蕾が細かく集まったガクアジサイのような花。陰になった緑の中で紫と白が際だって見える。デジカメのマクロでたくさん写真を撮る。
 午後は、国道1号線をこまめに走り、夕刻名古屋高速に上がって暗くなって無事自宅に着く。