-2001-へ戻る
東北紀行                              
        3 津軽・八戸へ      2001.10.17-10.28


10月17日(水)
 朝から雨。東北の天気予報は晴れに向かうと出ているので出発する。雨の中央高速。新しいアスファルト舗装は雨水をあまり溜めない。表面に隙間が多く、おそらく内部も水を通す構造なのだ。この舗装はまだ部分的で追い越し車線を走っていても絶えず従来の舗装に入れ替わるから怖い。タンクローリーやダンプカーは平気で走っているようだから重い車は路面の水に浮くことはないのだ。駒ヶ根を過ぎると霧が出た。やがて霧が晴れると前方の空が明るくなる。諏訪盆地では遠く山の稜線が見え始める。松本Icから19号線へ出る。長野から18号線。野尻湖の辺りから小雨になり新潟県に入ると雨はあがった。このまま下れば日本海、直江津港に出る。今回は信州中野から新潟平野を目指すので、中郷Icから逆に妙高へ向かう。妙高はパーキングエリア(Pa)だった。夜中は1台だけ。布団を用意してきたが横に寄せた荷物がじゃま。横になるときは荷物をどこか上に上げると広くなる。今度でかけるときは足元辺りで何とかしようと考えているうちに、両脇のベニヤ板とそれに乗せた角材で明日にでもできそうな気がしてきた。明日はどこかでホームセンターに寄ることにしよう。


18日(木)
 昼近くから晴れる。佐野遺跡見あたらず。佐野はどこへ行ってもリンゴ畑がいっぱいだ。真っ赤に熟した大きな実が鈴なり。湯田中・渋温泉まで出てしまって、結局、先を急ぎ中野へ戻る。千曲川沿いは素晴らしい。川幅は広がり、深い流れがゆったりと下る。信州はまるで千曲川を惜しむように北へ張り出している。飯山市を過ぎるとやがて道は右岸へ左岸へといれ変わる。昼の陽射しの中、昨日の雨で景色はすべて新鮮。川沿いに点在する集落が次々に目に映る。近頃の、田舎なのに雑多な建物がごみごみしたあの感じは全くない。瓦屋根の中に、青やくすんだ赤のトタン葺き屋根も多い。どの屋根も上の棟が鋭く立っている。瓦屋根は頂上が別に起こされて細い一列に端から端まで乗っている。トタンの場合は上部だけそのまま急な傾斜でとがっている。あれは、きっと雪が屋根の上で滞るのを防ぐ工夫だと思う。県境を過ぎると、そこは中魚沼郡。地図では津南・中里村を挟んで三国街道の越後湯沢も近い。驚いたことに川は途中から信濃川上流となる。確かに山間の所では川幅も狭くなり大きな石や岩に囲まれた急流である。
 十日町市に近づくにつれ信濃川は、又ゆったりした流れとなる。川口町の町中では行き先がわかりにくくなって後戻りをする。魚野川との合流点で関越自動車道のIcもできている。すぐ隣の小千谷市と共に道路が複雑に絡み合った地域だ。17号線に入りたければ川を渡る。長岡市に近づくとバイパスに入り、ついで8号線となる。これは北陸道と平行する自動車専用道で、これなら三条市まで意外に早く行けそうだ。三条市を離れ加茂市を過ぎて山に入る。290号線を北上し阿賀野川を目指す。
 途中の道路端に温泉施設の表示。午後3時という時間もちょうど良さそうなので行ってみる。畑の中の細い道を5分程入るとそれらしい建物がある。町の公共施設という感じ。中ではちょうど中学生の訪問体験授業が行われている。フロントの前に従業員が並び、その前で訪問体験を終えたらしい生徒たちがお礼の言葉を述べている。従業員も周りの客もみんなくすぐったいような笑顔で聞いている。代表がお礼の言葉を終えて生徒たちがお辞儀をすると周りの者が一斉に拍手をする。自動販売機で700円の切符を買い、フロントで靴を預け、袋に入ったバスタオルを借りて浴室へ向かう。泡の出た広い浴槽の中で手足を伸ばしてゆっくりできた。外の庭には露天風呂がある。秋空のもと午後の陽射しの庭のなか、たった一人で風呂に浸かるのも愉快。
 290号線に戻って北上する。前方の山並みが次第に近づいてくる頃、太陽も低くなって近くの山肌を明るいオレンジ色に照らし出す。やがて49号線若松街道にぶつかり、三川Icから磐越自動車道に上がる。ところが、阿賀野川もパーキングエリアだった。それでまた失敗。どうせなら明日のためにと思って新潟Paまで走った。それが、全くのパーキングエリアで店も休憩所の建物もない。もう新潟市街のすぐそばなんだから、これが当然だったのだ。暫時考えてみたが既に夕闇が迫る。結局、新潟駅前ホテルに電話をする。


19日(金)
 8時出発。駅前付近は通勤ラッシュで人や車がいっぱい。ようやく7号線に出て、もうすぐ河口が近い阿賀野川を渡る。渋滞気味。7号線を離れて海岸沿いの113号線を走る。新潟以北の日本海は初めてだ。信号交差点で左に入る道路がある。海岸まで松林が続き、広い駐車場のある海水浴場に出る。砂浜へ降りる階段が浜辺全体につけられている。今日は波が荒い。上から見ていると、かなり沖の方で時々白く波が立って盛り上がる。そのまま浜へ寄せるかと見えてすぐ目立たなくなる。それでも近づくうねりは、また大きく盛り上がると前向きに尖った波頭を陸に向けて走り続け、ついに崩れると巨大な白波が砂浜へのし上がる。左右にどこまでも広がった海岸で何度も寄せては引いていく波を見ていると、こちらが果てのない海に引かれていくような気がする。
 113号線の左手は松林が続く。海は見えない。時々小さい川を越える。走りながら右手のその川岸に、岸から張り出すように川面に浮かんだ藪、茂みから水面に垂れる小枝などが目に映る。あれはデジカメに撮っておいた方がいいかなと思いながら、ついそのまま走り続ける。しばらく走っているとこれまでより大きな川にぶつかる。荒川という。少し遡ってすぐ橋を渡り、やがて村上市に入る。線路を渡ると大きなスーパーの看板が見えて、そこで今日の買い物をする。この町中を通って7号線に出ることにする。小学校の裏の道にはちょっとした屋敷があって茅葺き屋根の門がある。その先のT字路に駐車場も用意されている。この辺りは何か見学場所のようだ。休憩も兼ねて屋敷を訪ねる。
 門を入ると、小屋根の苔むした木製の説明板が設置されている。国指定重要文化財若林家住宅と掲げ、その来歴を墨書きしてある。玄関は二つあって案内図に中央の屋根のあるのが式台、左手が内玄関とある。内玄関の案内窓に女性が現れ料金を払う。土間から居間に上がると囲炉裏がある。滅多に見ないことだが、ちゃんと薪が燃え自在鉤に鍋が下がっている。感心して見ていると先ほどの女性が火の様子を見に来た。「こうして実際に火にかけてあるのを始めて見ました。」「そうですか。もう普通は使いませんからね。」「この高さは上下できるんですね。」「ええ。」片手で鍋の手を持ち上げ、横木を操作して見せてくれる。このことも実物では初めて見た。居間の隅に「置きかまど」という物が置いてある。飯の釜が乗せてある。かまどは土を固めたかなり大きな物で、そう簡単に移動できそうには思えない。説明文が付けてあるので写真を撮る。撮影は、と聞くとどこでも自由に撮っていいという。建物の内部は大小の和室が配置されていて、それぞれ接客用、主人の、家族の、使用人の部屋と使い分けられる。すべてに丁寧な説明文が掲示される。接客部分は式台、次の間、座敷からなり、外部から見て建物の中央にある式台は正式な玄関で、これは特別な場合にしか使われないという。座敷の床の間には家紋らしい図柄を大きくあしらった掛け軸が懸かり、左手の明かり障子に寄せて花瓶に花が生けてある。座敷の奥の間は6畳ほどで、むしろこちらの方がやや東に面していて今は日当たりがいい。屋敷の裏には広い庭園がある。その庭をゆっくり見るためだろうか縁側がある。ここには軒が出ていて、腹を開いた2匹の鮭と干し柿が数本つるしてある。都会の資料館だったりするとこれが精巧なプラスチックだったりするけれども、そうではない本物。これだけでも大したものだ。これは曲がったはす向かい部屋からもよく見える。土間から庭に出て周囲を散策。このように広い手の込んだ庭を当時の中級武士でも持つことができたか。後世、こうありたいと思うこととかつての事実は必ずしも一致しない。庭は明治以後の代の誰かがよそから運んで造成したという。門の内側近くの植え込みでは、ナンテンの葉が日光を受けてそれぞれの先端を赤く染める。
 日本玩具博物館というのを見た。
 7号線は、しばらく山間の道を走ると再び海岸沿いを進む。地図には「羽州浜街道」とある。こちらはJR羽越本線が平行する。海には波間に岩が散在し、それぞれ白い波しぶきが見える。山形県温海町に入る。「温」の字を「あつ」と読むのは人の名前ではあったがちゃんと地名にもあるのだ。
 日没前、寒河江Saに着いた。今日は成功。今ワープロ中。足元の棚も大成功で、床には布団以外に何もない。


20日(土)
 今日は余裕のはずだったが、立石寺の石段で時間を取ってしまった。予定通りの西仙北Saでワープロに向かったのは午後8時。今夜も寒そうなので天童市内のスーパーで毛布を一枚買って来た。
 朝、立石寺に向かう途中、13号線に出る手前で遠くに大きなお寺の屋根が見えてきた。周りに大きな建物がないから、遠目にも畑の中で際立つ。屋根の形の良さに惹かれて門前まで出るが車の置き場所がない。細い脇道をまた戻って裏へ回ると寺の駐車場がある。寺の北側は墓地になっていて多くの石塔が並ぶ。本堂には高い床下があって、それで庫裏から本堂への通路も二階廊下のように高く持ち上がっている。墓地からの細い道はその通路の下を屈んでくぐる。本堂の正面では屋根が中央の階段の上で深い庇となって張り出している。それを階段脇の2本の柱が支えている。屋根はその庇を張り出すために、ほとんど棟のすぐ下から始まって少しずつ盛り上がり、幅広い襞のように正面部分で高く流れ出す。棟は高い中央で狭く絞られ、四辺の峯は棟の両端から四つの軒先へと鋭く流れる。末は、やや反り返って終わる。いま、屋根の表面は鈍い黒の板金で葺いてあるようだけれども、かつては茅葺きだったのだろうか。南の山門を出ると短い参道が表通りへ通じている。山門の屋根も、やはり黒っぽく見える板金で葺かれている。もう一度門を入ると、左手の白壁に花頭窓の木枠だけが塗り込められている。以前は格子でもはまっていたか。本堂も門も材は古びているのでかなり昔からのお寺のよう。昔は武家のお寺か。よく手入れし、みんなで大事にしているというふう。
 立石寺は本当に山の中にある。寺が山にあるのはごく普通のことだが、ここは切り立った崖の各所に寺の建物が張り付いている。初めの石段をあがるといきなり本堂がある。ここには「山寺 立石寺本堂」と新しく表示されているが、正式には「根本中堂」という。一山が立石寺と呼ばれていて、立石寺と称する寺があるわけではないという。今日は土曜日だからか人出が多い。学校の生徒も多い。本堂の前が連絡所とみえ担当の教師が居て、入れ替わり立ち替わり生徒がやってきて先生と話をしている。左手の山門に向かう途中に巨大な銀杏の木があり、高い空いっぱいに枝を広げ葉を茂らせている。根本にはしめ縄がかけてある。石段は、大きな屋根のそびえる山門から始まって杉木立の中をあがっていく。ちょうど大柄な外国人男性を日本の男女が案内して登っていく。あたりを指さして説明している。「シーダ?」「ジャパニーズ・シーダ。」
 崖の岩には自然にできたような空洞が随所にある。人が入って住み着いたのが先か、寺ができたのが先か。あんな上の方に建物をを作るなど、材を運びあげるだけでも大変だ。まず、この階段を作ったのだろうか。860年開山。そんな昔にどれだけ人が集められたか。きっとずいぶん時間をかけたんだ。朝のうち気温が低かったので、薄着の人は少ない。みんな上着を腕にかけたり、腰に巻いたりしている。そして、階段を一つ上りきるごとに仲間と一緒に手すりにもたれて上を見上げる。そんなところでは大抵、「上で灯明をあげてください。いかがですか。」とさかんに声をかけ蝋燭を売っている。
 ようやく上まで来た。もう一つ階段を上がると奥の院と大仏殿がある。その階段前の広場に黒い詰め襟とセーラー服を着た中学生のグループがいる。小さい紙切れを持って、時々隣同士で小声で言葉を交わしている。やがて互いに笑ってうなずき合い、意を決したように広場に向かって並ぶ。中央の男の子がいきなり話し始める。「みなさん。こんにちは。僕たちは、……」と、自分たちが学校の勉強の中で調べてきた立石寺の由来について紹介し、併せて境内の様子について案内の話をする。下からあがってきた者は立ち止まって微笑を浮かべる。次第に人垣ができて、みんなおもしろそうに話を聞き軽くうなずいたりしている。たぶん、担任の先生もこの中にいるのだ。代表の中学生が話し終わってグループ全員がお辞儀をすると大きな拍手が起こる。人垣は崩れて上の階段の方へ流れる。若い男が近づいて代表の男の子の肩をたたき、「おい、仙台育英に来いよ。な。仙台育英だぞ。」という。
 階段を上がる。大仏殿の屋根は、そのまま前面に流れ広がって仏前の部屋を覆う。畳の部屋にあがった人々は正座をして仏を拝む。左右の壁には古い写真や昔の絵の額がたくさん掛けてある。結婚式の場面や、正装をした男女の肖像。若くして亡くなった親族の晴れ姿、幼く世を去った者の将来の姿。これは多分、遠野博物館の企画展にあった「供養絵額」と同じものだ。今でも、身内の誰かがここへ来るのだろうか。
 山の正面にいくつも連なった階段を下り始める。両側にはたくさんの寺の建物があるが、右手の西側に入っていく道がたびたびある。それらは大抵また階段を少し上がったりして建物まで行くことになる。正面階段をいくつか下りたところの、ある脇道を入っていくと奥の方にあまり使われていない広場がある。南は深い木立の谷で、木々の間に昼の陽が差し込む。西と北は急な崖が囲む。崖の岩には石碑の形を浅く彫ったものが並ぶ。古くは階段でもあったか急な登り道の名残がある。「登らないでください。」と札がある。男性が一人、高く登っていて「特に何もないよ。これ以上は行けないみたいだ。」と、下から見上げる女性にいう。彼女は手をかざして見上げながら、「危ないからもう降りて。」と怒る。相当古い昔、ここにもお寺が建っていたのだろう。
 山門を出て出口に向かう途中に資料館がある。円仁についての資料展示の中に石造の菩薩立像がある。彼が入唐したときに持ち帰ったものとかで、台石に刻まれた年号から1432年前の作と説明がある。頭部がやや大きく強調されているが、北魏様式の優しい表情と姿勢の仏さま。装身具など国立博物館の「中国展」で見た龍興寺菩薩立像とよく似ている。このころの中国の仏像には、表情に明るい優しさがある。美しい若者の姿を借りて仏を作っている。
 「山寺芭蕉記念館」というのを見た。
 天童市へ出て買い物の後、13号線を北上。新庄市から秋田県大曲市を目指す。初めて走る道だ。湯沢、横手、仙南と、これはなかなかの道のり。13号線に入ったのがすでに遅かったから、大曲辺りで日没を迎えそうだ。今回も角館と田沢湖周辺は見送りになりそう。途中、山あいを抜けるところで「トンネル貸します」と表示がある。実際に左手がけの上にトンネルの入り口が見える。廃線か廃道になったトンネルにどんな利用法があるのかしばらく考えた。大曲に近づいたかなというところで公営温泉らしい表示があり、そちらの横道に入った。その建物は高台にあって、奥の駐車場に車を入れると、すぐ下に林が広がる。見晴らしのよいところだが辺りはもう薄暗くなって西の空だけがわずかに明るい。この近くには「後三年の役」古戦場があるという。駐車場は車がいっぱいで、家族連れらしい人たちが次々に建物に入っていく。
 大曲Icから高速道に入る。西仙北Sa着。


21日(日)
 秋田自動車道は、いまちょうど工事中のところが多く片側1車線を走る。まだ朝が早いので走っている車は非常に少ない。程なく秋田市に近づいた。秋田港に近い秋田北インターから出る。秋田港には日本海を行くフェリーの発着場がある。
 7号線に入って男鹿半島を目指す。日が高くなるに従って雲が出てきた。天気予報ではそんなに悪くなかったはず。101号線から、さらに県道59号線に入る。民家の並ぶ狭い道から海側の広い道に出る。JR男鹿線の終点男鹿駅がある。線路を越えると広い港に出る。その道は結局行き止まりで、だだっ広い駐車場のような波止場に行き着く。暗い海上には重い雲が広がって、堤防ぎわにつり客のものらしい車が離れて2台止めてあるばかり。元の道路の交差点に戻る。左向きに矢印の着いた標識が立っていて、「20Km男鹿桜島荘、25Km男鹿水族館」とある。ここへ来てわざわざ海水魚を見るのもどうかと思う。とにかく半島を一周するつもりで海岸を走る。左手に防波堤が続いて、絶えず浜辺が見え隠れする。空が急に明るくなって前方の海面がきらきら光る。
 カーブを曲がるとちょっとした集落があって、その前の浜に鳥が群がり舞い降りている。逆光の上に、すぐ防波堤で隠れて見えないままに通り過ぎたが、バックミラーに映る様子もたいしたもの。無数の白い鳥。カモメか。たいぶ走ってから思い直して停車し、戻ることにした。小さい郵便局の入り口に車を寄せて防波堤の上に出た。今は引き潮か、手前に水路のように細長く水たまりを残して、広い砂州が向こうの波打ち際まで広がっている。鳥たちは、手前の水たまりで羽を濯ぐようにふるわせて洗っている。砂州にもいっぱい舞い降りている。大抵のは羽を休めて動かないが、時々水たまりに飛んで来ては羽を洗う。そして、飛び立つつもりもないのに大きく翼を広げ激しく羽ばたく。カモメか、ウミネコか今度もよくわからない。ミノルタの望遠レンズで撮る。これなら後で調べたら分かるかもしれない。少し距離がある。今は知らん顔をしているが、ぼくが防波堤から降りて行ったら一斉に飛び立つだろう。鳥たちが入れ替わり立ち替わり羽を洗いにくるから、なかなかここを離れられない。
 やがて道は海岸を離れ、山際の小高い崖の上を走る。時折見晴台のように駐車できる場所があって、そこから海岸線を見下ろす。もう砂浜ではなく、低い岩が何列にも並んだ岩場が多い。よく晴れてきて空には白い雲がゆっくり流れる。高い空でトビが小さく浮かぶ。山側の道路縁を女の人が3人一列で歩いている。二人は、庇と肩覆いのついた白い作業頭巾をかぶっている。3人とも背に山で採ったものを横に束ねて担いでいる。「山で芝刈りに」かと思ったが、どうやら藤つるのようなものをたくさん採集してきたらしい。海を見下ろす道を走り続けるとやがて男鹿桜島に着いた。
 崖の上に食堂がある。食堂の前の広い駐車場で大勢が何かを取り囲むようにしてミーティングをしている。服装からして、釣りの結果の品評会か。よっぽど近づいて行って中身を見てみようかと思ったけれども、駐車場には他に誰もいないし、長靴の男たちがぎっしり立って取り囲んでいて、これは近寄りがたい雰囲気だと思ってやめた。階段を下に降りていくと雑木林のなかにキャンプ場がある。海に面して南向きの日当たりのよい台地。ここもまだ崖の上だ。広い敷地内に幾つかの小道が縫い、あちこちのバンガローやファイヤー場をつないでいる。男女別の露天風呂小屋もある。すでにオフシーズンで誰もいない。南の崖の上に出ると、下は岩場。ここはまだかなりの高さがある。下の方の岩陰棚に何人かのリュックなど置かれた荷物が小さく見える。その岩の向こうから薄い煙が立ち上る。釣りの小グループが昼食の準備をしているのか。あの煙の位置あたりが海辺になるらしい。松林の中に柵を巡らした見晴台が岩場の上まで突き出ている。その手前の草地は水がたまって足が泥に沈みそう。足場を選んでようやく見晴台に出る。ここも背の高い草が茂る。今年の夏はあまり人が来なかったのだろうか。ここは海の上に張り出しているので、左右に盛り上がった岩場を見ることができる。高い岩の上に黒く太い幹の松の木が根を張っている。途中で枯れてしまったのか切り株だけが白く風化して残るのもある。よく見るとまだ小さい松の木が崖のそこここに育ちかけている。あのうちのどれかが運良く成功して、また大木になるのかもしれない。
 男鹿水族館で5頭の巨大なピラルクを見た。入って行ってしばらくは、少し古くなった普通の水族館だと思った。ここの特色は秋田の名産ハタハタとアマゾンの淡水魚ということだ。確かに小水槽の窓越しに泳ぐハタハタとアロワナを見た。他に干拓後の八郎潟に棲息するようになった淡水魚たち。大きな水槽の北海道のイトウ。1メートルを超すイトウを初めて見た。体が大きくても黒い斑点は小さいまま体表一面にある。背びれは尖って、これも体の割に小さい。最後にいつものようにペンギン舎があって、これで終わりだと思った。ところが、まだアマゾン魚のためのとんでもない大きな水槽があった。海水魚の大きな回遊水槽は各地にあるが、淡水魚の水槽で幅、深さ、奥行き共にこんな大きな水槽は滅多にない。中ではピラルクとアロワナが上の方でゆったりと泳いでいる。ピラルクはいずれも3メートル近いか。また、6ぴきの大きなアロワナ。これも体長2メートル近い。内一匹はアジア産アロワナ。頭はよく似ているけれども、体が短くひれの形が基本的に全部違う。近縁かもしれないが同じ種ではない。深い水槽の中が少し暗いけれども、彼らには必要なことなのだろう。たまには近くに泳いで来るかと待ったがなかなか寄ってこない。大抵は上の方を互いに横目で見合いながらゆっくり泳ぎ回っている。
 出てきたら午後3時半を過ぎていた。すでに日は低く夕方の気配。北国の日没は早い。八郎潟の干拓地に出た。平坦な畑の中の四辻に「青龍さま」の表示が立つ。葉の茂った大きな木の下に祠があって、中に青龍神社と彫られた石碑が立っている。いま神社らしいものは辺りにない。碑の前には、横たえた数本の白い蝋燭とアルミ缶の酒が供えてある。ここで夕日が遠くの山に沈みかけた。干拓地西側のどこまでもまっすぐな道を走っていると暗くなった。能代の町まで来たところで民宿を見つけて入った。


22日(月)
 朝、早めに「風の松原」というところへ出かけた。この辺りの日本海側では昔から松を植林して厳しい冬の風と砂を防いだという。ここでも松林は至る所にあるが、それらしい近いところを走っていてもはっきりした入り口が見つからない。30分ほど走り回って、やっと北側に細い道を見つけた。ゆっくり進みながら、これは歩いて散策するための小道かと気になった。小道の両側には、大小の松の木が密集して限りなく続いている。朝日を浴びた松の木の森。やがて公園のような広場に出て終わる。初めから車を置く場所が分かっていれば、やっぱり車から降りて散策するべき道だ。
 国道101号線は、JR五能線と共に進む。地図を見ると五能線は、能代で奥羽本線と分かれてから海岸線を北上し五所川原を経由、弘前郊外の田舎館で再び奥羽本線に合流する。青森県に入って岩崎村を走っていると踏切で遮断機が下りた。白地にブルーラインのディーゼルカーが走り過ぎる。線路は単線だ。深浦市に入ってしばらくすると千畳敷に着いた。陸側には、海に面して続く低い崖を背に五能線の線路がある。海岸では岩が露出し沖に向かって平たく連なる。海岸に立てられている説明看板には「寛政の大地震(1792年)によって海底の地盤が隆起し、海蝕崖ができました。……」とある。太宰治は昭和19年に津軽に帰り故郷の各地を訪れるうち、なぜだかわざわざ深浦まで出かけた。その途中の千畳敷を次のように説明している。「それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼と称するのださうだ……。」(*注1)浜の説明看板にも「盃乃潤」というのがある。
 岩の上を海の方へ歩いた。よくもまあ、ちょうど波がかぶらない程度に、こんなに広く隆起したものだ。海に近づくと所々に岩の深い裂け目があって中を海水が時に高く激しく行き来する。海の荒れた日に、この辺の大部分の岩は高波に繰り返し襲われるのだろう。岩は、そう硬いものではなく砂岩ほどではなくても、まだまだ次第に削られて少しずつ姿を変えていくに違いない。陸側を振り返ると浜全体に階段が設けられていて、どこからでも岩場に下りられるようになっている。階段の上に見物人が多くなった。ビデオカメラを構える者、岩に降りて海へ向かう者、後ろの仲間に声をかけて呼び寄せる者など。階段まで戻ると、年輩のビデオカメラの男性が近づいて「愛知県の方ですか。」「ええ。そうです。」「ほう。そうですか。私も今は花巻に住んでいますが、ついこの間まで名古屋にいたんですよ。そうですか。」という。遠い距離は、滅多にない出会いという思いで人を無条件に軽い懐かしさに誘う。
 鰺ヶ沢を過ぎて津軽半島竜飛崎を目指す。地図には広域農道というのが七里長浜に沿ってあるが、工事中で通行止めだった。県道12号線を亀ヶ岡に向かう。今日は月曜日なので縄文館は閉館日だろう。念のために寄ってみるとその通り閉館していた。集落の中に茅葺き屋根の農家があった。それも全部茅葺きではなくてっぺんの棟部分だけは青いトタン板で葺いている。両端もきちんと止めて茅葺き屋根に乗っている。いずれは全部覆う予定だったのか。こうして、昔は茅葺きだった家々が青・緑・赤のトタン葺き屋根の建物に変わっていったのだろうか。そのとき、ずいぶんと風景が変わったはず。
 亀ヶ岡遺跡あと地にも行ってみた。コンクリートで大きな遮光器土偶ができている。まだ最近作られたものらしい。もう一度集落に戻って西に抜け、広域農道に出て北上する。車はほとんど通らないが、それでも時々ダンプカーがスピードを上げて通り過ぎる。途中、左手に横道があって日本海の浜へ出る。人影がない。テトラポットが積まれた海岸に波が寄せている。公園様の土地造成中で、砂とがれきの混ざったでこぼこ道を少し南下すると行き止まり。その先は南の方へずっと砂浜だけが続く。
 浜から戻る。十三湖のそばを通るとき、左手の沼に白鳥を見た。戻らなかった。十三湖を抜けると国道339号に合流し小泊村に入った。右手は次第に山がちになる。山は明るい朱に紅葉する。陽を受けた山肌は特に鮮やか。青い標識に「竜泊ライン 竜飛18Km」とある。ついに道は海岸から分かれて紅葉した山に入った。どんどん上り始める。道は山肌を縫い、右に左に赤茶色をした賑やかな斜面を見せる。やがて高い展望台の建物がある広い駐車場に着いた。展望台は螺旋階段のついた塔の上にある。上から見下ろすと駐車場の車が小さく見えるほど高い。木々の紅葉は、ここでも金茶色に輝く。ほどなく雲が多くなった。谷の斜面で下の方から日が陰る。雲が流れて、徐々に頂上まで鮮烈さを失う。北側では、遠くの丘に風力発電の塔と細い羽根が見える。山の起伏の重なる向こうに海が見える。たなびく霞のようにも見えるが、確かに岬の高まりらしいのもどうやら見える。あれが竜飛岬か。
 竜飛崎の駐車場は、岬を見下ろす小高い丘の上にある。「国定公園 竜飛崎」と表示した塔と、最近のものらしい大きな石碑が建っている。石碑には、「津軽海峡冬景色」の歌詞。そこにバスで着いたばかりの観光客が賑やかに集まって写真を撮ろうとしている。その後ろで柵越しに下の岬を見ると、漁港の船着き場や突堤がのびている。海上では雲が低く、遠い沖はかすんで陸影はない。
 三厩の集落に降りる。海辺の細い道には、右の陸側に家々、左の海側に板やトタンの小屋が建ち並ぶ。小屋は住まいではなく漁の道具入れか或いは魚介類を一時保管するものか。なかには、もはや使われないで板壁など口を開けてひどく破れているものもある。道は建物に挟まれて細いまま海沿いに続き、集落の中心部に至る。昔は西の小泊からの道が不便で、東回りに青森から蟹田、平舘、今別、三厩と列車や乗り合いバスを乗り継ぎ、また徒歩で竜飛崎を訪れたという。今別に近づくと次第に海岸を離れ、県道を蟹田に向かう。今回は西回りなので、またいつか別の季節に青森から平舘・今別と東回りに海岸沿いの国道を走ってみよう。
 津軽Saは弘前市より南、もうすぐ奥州山地に入ろうとするところにある。当初の行程からは1日遅れている。夜中になって、トイレへ行ったとき少し離れたところに大きな車が止まっているのを見た。明かりが点いた車内で何かの影が動いている。バスの車内かと思っていると中身は牛だった。繋がれた牛たちは今動けるわずかな隙間でごそごそしているのだ。明日、こんな狭い囲みから解放されて着いたところで何があるのか知らない。すでに明治の初めから牛は肉用に飼われ、頭のどこかを確実に突かれてどうと倒れ処理されてきた。「千曲川のスケッチ」は冷静であるかもしれないが今でさえ残酷。西洋では、農家で飼っていた子豚が解体されて家族みんなで腸詰めを作るとき、きのうまで子豚を可愛がっていた小さな女の子がそれを落ち着いて手伝うという。
*注1 「青空文庫」http://www.aozora.gr.jp/太宰治「津軽」エキスパンドブック版P304〜305より転載。


23日(火)雨天
 黒石市へ戻り、さらに十和田湖を迂回して東へ向かう。時々空が暗くなり雲が低く降りて山々を覆う。394号線で山に入る。周囲の木々は秋の細かい雨の中で赤茶色に見える。この辺は、もみじのように赤くなる木は少ない。八甲田山に近づいて大きな谷があり、高く架かった橋のそばに休憩のための駐車場ができている。ちょうど雨がやんだ。車を降りた人たちが濡れた道路を渡って橋の方へ歩いて行く。橋の上に来た人たちはみんな下の谷を見下ろす。谷底には茂みの間に細い流れが一筋蛇行する。それに交差して今上ってきた道路の二本の白いラインも見える。谷の深みはまだ緑で、所々に黄色い立木が目立つ。上の方の木や草は、茶色の中で深緑やレモン色に装う。それに細かい枝ばかりになった木々が白っぽく重なる。日が照らないのに風景は奇妙に明るく色鮮やかに見える。谷の上に白いもやがかかって、山は霧にかくれている。
 八甲田山の南から七戸町にかけてゆるやかな起伏の多い地形が続き、道は牧場や林の中を進む。たびたび車から降りて景色をながめる。七戸で4号線を南下、十和田市に入りバイパスを経て六戸、下田、百石町を通る。後で地図を見たら、ここはもう3,4キロ先で太平洋の浜辺に出る所だった。昼過ぎに八戸市に入った。工業団地がある。「八戸ハイテクパーク」の表示がある。入っていくと新しく幅広い道路を通した広大な丘陵地に電子機械を開発する企業の建物があちこちにある。食事の後で市役所に電話をし「縄文学習館」の場所を確認する。市の南に是川考古館というのがあって、そこに学習館もあるという。ナビで道順と目的地周辺を調べる。馬淵川という川を渡って市街地の東部を通り過ぎることになる。小高い丘の上にさしかかって、また空も周囲も暗くなり、今にも土砂降りかと思っていると遠い下の方に、そこだけ明るい空の市街が見えてきた。
 是川中居遺跡では縄文時代晩期の土器が多数出土したという。ここは史跡公園のようになっていて門前に駐車場がある。門を入ると建物へ向かう途中の庭に竪穴式住居が3棟復元されている。近づくと、これまでになく背が高い。屋根の棟の両端で三角が広くはっきりと開いていて、屋根としては入母屋造りの原型のように見える。そばに立つ説明版には、「中央の4本の柱のほかに、壁ぎわに柱の跡が並んで見つかったことなどから、地上に壁が立ち上がる、壁立式の竪穴住居であったと推定しました。」とある。屋根の下には外を茅で囲った低い壁がある。考古館で受付の女性に200円の入場料を払うと、「先に縄文学習館を見たら、そのあとでも、こちらをご覧いただけます。」という。別棟の学習館を先にすることにした。中の展示では縄文の風景を復元して人形を配し、一人は住まいのそばで何か作業をし、もう一人は林の中で植物を採っている。映像上映のアナウンスがあって、決まった時間に順次見ることができる。大きなスクリーンで漆のことや土偶の説明を見ることができた。図書室が設けられていて、そこで上映時間を待つことができる。本がいっぱいある。ここは、本来何日もかけないといけない。
 考古館の方は展示室と資料室に分かれている。展示室では、すでにいろいろな写真で見てきた土器の実物が展示されている。代表的な出土土器ということか、それぞれ特徴のある小型の土器が3つまとめて1枚の台板に乗せられている。1つは、壺の胴全体に大きな雲形模様が上から3段繰り返されたもの<図-001>。3段目は半ば押しつぶされている。この模様は、ある部分では意図的に線で分割された面のようにも見える。実際には、多分、何かの意味を託した雲形を横に長く拡大したものだろう。模様には、下に潜り込んだような、上に重なったような表現がある。思い浮かべることのできる何かの様子をこの重なりで表そうとしたに違いない。もう1つは、「注ぎ口のある土器」で下部が平たいほど丸く出っ張って、よくある背の低いお銚子のような形をしている。手捻りなどで何となくできあがる形ではない。黒光りのするなめらかな表面に線で刻んだ雲形。一番手前に置かれたのは、表面に赤い漆を塗った丸い壺。広い口は、立つ襟のようにさらに上に広がる。他に、ここにも側面に流れるような雲形を描いた平鉢がある。曲線をこのようになめらかに引き延ばす表現にどんな意味を込めようとしたのか。限られた場所をうまく使って気持ちよく楽しんでいるのだろうか。受付に戻って、写真を載せた資料集はありませんかと聞くと、それなら考古館にありますという。もう少し本も見たいしと思って考古館へ戻る。きれいな写真集が売られていたが第二集のみで、土器の載った第一集はなかった。
 外に出ると、ずっと降り続いていた雨がやんでいた。4時近くなっている。出発して気がつくと、門から反対方向に走ったらしく来たときとは別の道を走っている。いずれ幹線道路へ出るかと期待して調べるとだめなようで、遠回りをして考古館が見える所まで戻る。ここから見ると、建物は川向こうで台地のように少し高く広く張り出した場所に建っている。現在、この辺は住宅地でもある。
 折爪Sa に入った。夜8時をすぎてトイレから戻ると、雨の降る中でまた大きな車が近くにとまっている。エンジンがかかっていて、ほの暗くなんとか灯りの見える窓の下に「十勝馬引輸送」とある。窓は高くて馬の頭も耳も見えない。


24日(水)晴天
 朝、外が薄明るくなってカメラを持って出る。風は全くなく、少し寒いほど気温は低い。5時45分。まだ空よりも駐車場の照明や建物の明かりの方が明るい。雨上がりの広い駐車場には、遠い隅に大型保冷車が1台とまっている。北と東にはサービスエリアを取り囲むように植え込みが続く。東の角に、遠目にも赤く見える紅葉した木がある。そばへ行ってみると、大きな葉の楓の仲間が3本並んで立つ。薄明かりの空の下で明らかに赤い。東側では植え込みが離れていって、そこに草地が広がっている。向こうの木々の梢が明るくなり始めた空に細かくくっきりと広がる。
 一戸で4号線に出て岩泉町へ向かう。340号線に入ると道は馬淵川の上流沿いに進む。岩手県に入って南下を続けると、山の紅葉は赤さを増す。黄色や茶褐色になるブナの仲間が少なくなるのか。赤みが強いのは何だろう。民家の背後の山では、東半分が明るく紅葉し、西から北は暗い緑のままにはっきりと分かれる。人による植林のせいだと思う。車から出て写真を写していると、家の前で畑仕事をしていた人が手をかざしてこちらを見る。
 岩泉町は、そのホームページによると本州で一番面積の大きな町だという。また、日本の3大鍾乳洞の一つがあるとか。龍泉洞という。町に入ると、午前の陽を受けたなだらかな坂道に新しい店の並んだ商店街が少し続く。やがて高台になって交差点があり、その先で右手の中学校わきの坂道を更にあがって行く。木漏れ日の道を空色のジャージを着た生徒たちが上から走って来る。10時過ぎに竜泉洞の駐車場に着いた。
 鍾乳洞の入り口からは川が勢いよく流れ出ている。入るとすぐに深く青い水たまりがある。やがて中は暗くなって電灯や蛍光灯が点く。通路には所々でビニールの波板が差し掛けてある。最近の雨で滴が多いので注意という意味の札が出ている。見終わって出てくる人たちとすれ違う。後ろの入り口の方から差し込むわずかな明かりで顔や姿が浮かび出る。「よくもまあこんなんが出来た。」とおばあさんが感心してつぶやく。暗い洞窟内の設備のことか、それとも自然の力でできたとんでもない洞穴のことか。頭のうえ間近でなめらかに濡れて光る岩を眺めながら進むと、明るい小部屋のような場所に出る。天井や岩の上で石柱やつらら様の様々な鍾乳石がライトに照らされている。洞内にはこんな場所がたびたび設けてある。その姿が何かに似ているということで、いろいろな名を勝手に付けている。中には賽銭があげてあったりして本当に手を合わせている人もいる。あるところで通路の一部が頑丈な柵で囲ってある。のぞき込むと井戸のように深い淵。地底湖と称している。あまり深いために水底は見えない。淵の深さを示すために小さい明かりを灯したおもりが細いロープで深みの途中まで垂らしてあったりする。その先は蒼く暗くよく見えない。水中に照明があるが、水面で上からの光も踊るように反射して見にくく邪魔をする。
 通路の所々に明るいパネルが設置してあって、鍾乳洞の様子や生息する生物について説明している。パネルの中には蛍光灯が点いていて、黒字に白く浮き出る文字やカラー写真が見やすい。「テングコウモリ」。金や銀色の毛をした美しいコウモリで、珍しい種類です、とある。残念ながら写真は少し年数がたち過ぎたか緑色になっている。「モモジロコウモリ」「キクガシラコウモリ」「コキクガシラコウモリ」「ウサギコウモリ」。こんなに種類が多いのだ。それぞれに特徴がある。「龍泉洞のあらまし」では、全長は2,500m以上あり、調査が進めば10,000mといわれ… エメラルドグリーンの地底湖は、水深120m以上あります、と説明がある。ここの鍾乳洞は長さ広さだけでなく深さが際だっている。通路は奥から流れる川に沿って進む。川の落差が大きいので水流の勢いは激しく洞内にどうどうと音を響かせる。通路には至る所に急な階段が設置され昇ったり降りたりして洞内を巡る。秋芳洞のように広く開けた空洞はない。
 龍泉洞の中を流れる川の水量は多く、現在も石灰岩はどんどん溶け出しているという。帰りがけに町役場に寄ってもらったパンフレット「洞穴ガイドブック」などによると、この地方一帯の石灰岩は、中生代ジュラ紀に太平洋に発達した珊瑚礁によって形成され、白亜紀にアジア大陸東端にぶつかり次いで潜り込み、その後の北上山地の隆起に伴い地表近くに出たものという。14キロほど北の安家(Akka)川上流から南にかけて大地に降る雨は、森林とその堆積物に保たれながら徐々に地下水として流れ下り、太古から石灰岩を溶かし続けてきたという。
 道路を隔てたすぐ東側には、「龍泉新洞科学館」というのがあり、再び鍾乳洞に入る。ここでは、鍾乳洞の成り立ち、生物、考古学などの展示がある。入り口とは別になっている出口付近で縄文時代草創期の土器や石器、骨製の縫い針、貝の装飾品などが出土しているという。また、この洞内からヘラジカの前臼歯の化石が出ているという。現場を科学館にしようという開館当時の意欲は非常に大きなものだったと思う。都会の大きな科学館にある展示物のどうしようもない気持ちの上での距離感は解消できたのかもしれない。ここの展示物が古くなりつつあるのは残念。現場に関連づけるのは少し無理な展示もやり直しができたらいいと思う。
 岩泉町から遠野市に出るには、小本川を下り太平洋岸を釜石まで南下するか、国道340号線に戻るかのどちらかである。340号線の方が近いような気がして山の中を走ったが、これは間違いだったかもしれない。やっぱり山道は時間がかかる。それと、新里村から立石峠にかけては、紅葉に見とれてたびたび車を降りたから。遠野に近づいて午後3時を過ぎた。町へ入る手前で左手奥にに茅葺き屋根の農家を見た。それも半分崩れていて屋根の棟は途中で落ち込んでいる。人が住まなくなって放置されているものか。よほど近寄って見てみようかと思ったが遅くなるのも嫌でそのまま走ってしまった。今回の遠野は、先回見てないところを見るためもあるが、民話集を買いたいこともある。
 駐車場受付の女性(彼女は料金はここを出るとき払えばいいんです、といって少し考え、「いいです。頂いときます。」といった。)に聞くと民話集などは道路を渡った先の土産物店にあるという。店が閉まるのを心配して先に店に向かった。この辺一帯は白と黒を基調とした和風の建物で統一されている。それはそれで落ち着いた心地よいものがあるけれども、どこかよそにもこんな感じで新しくできている気がする。店は、土地の名産品などを置いているが、博物館「昔話村」関係の土産物店でもある。柳田国男に関する本やいろいろな民話集、土地のおばあさんの民話伝承を録音したCD。
 昔話村に戻って一階の展示をもう一度見た。そのあと先回は見なかった「旧柳田国男隠居所」に入った。こぢんまりとした住宅で、障子のはまった明るい書斎には机といす、本の詰まった書棚がある。外へ出ると落ちたぎんなんの強いにおいがした。夕暮れの町の通りでは、遅く学校を出た小学校高学年の男の子たちが互いに大声で口げんかをし、また、はしゃぎながら帰って行く。
 町を出るとき、県道238号線を反対向きに走ったようで、猿ヶ石川には出ない。戻って橋を渡り猿ヶ石川の右岸を走る。このあたりの川幅は広く堤防道路はまっすぐで他に走る車はない。夕日はすでに右手の山に落ちた。先回は北上市の南で鉄道と北上川に遮られてずいぶん迷ったので、北の花巻市を目指す。もっとも、暗くなってしまって何も見えず別の道を走るおもしろさはない。暗い山道を民話のCDを聞きながら走る。姥捨て山か舌切り雀のような話をしている。息子がおばあさんを極楽のようなところへ行けるとだまして夜の山へ連れて行き、崖から落とす。おばあさんは血だらけになって、それでも本当にたくさんの宝を持って何とか帰って来る。それを聞いた息子は自分も崖から落としてもらって死ぬ。4号線に出て、水沢Icから高速にあがり前沢Saに入る。


25日(木)晴天
 ここは平泉に近いので、朝のうちにもう一度中尊寺に寄ることにする。
 午前9時、中尊寺山上の駐車場に入る。まだ車はほとんど入っていない。すぐあとから到着したバスは、大勢の観光客をおろすと車を置きに下へ降りて行く。ここは金色堂のすぐ南側に位置する。料金所の女の人が「左手から上がって行くと金色堂です。帰りは本堂の近くで降りてこられると、また、ここへ戻れます。」と教えてくれる。上に向かう道路は舗装されていて両側から高い樹木に覆われている。そこを観光客が道いっぱいに広がって上がって行く。金色堂を納めた建物は東を向いている。多分ここは、左手に先ほどの駐車場を見下ろす高台なのだが太い杉の木が何本もあって下を見渡すことは出来ない。巨大な杉の木は根元が立派に広がって樹齢何百年というところ。木の根本近くで短いツタが1本這い昇って黄色く紅葉している。建物の正面には幅広く階段をつけた大きな入口扉がある。しかし、そこは閉まっていて観光客は南端の「通用門」から入る。このためかお寺の建物ではなく倉庫みたいな博物館の中に入って行くような気分になる。ガラスケースの前にはすでにたくさんの人が並んで説明を聞いている。今日は、後に続いて待っている団体はないので手前で説明が終わるのを待つ。堂の横の扉も開けてあって須弥壇を斜めに見ることが出来る。床にも金箔が貼られている。柱や壇には、螺鈿、細かい細工の金具、蒔絵などがほとんど隙間なく施され、明るい照明に照らし出される。正面に出て身をかがめると天蓋の装飾も明らかに見える。よく見る写真の場合は、多分、撮影の際、正面の外扉を開け放って自然光を入れているのだと思う。しかし、堂の正面に人がいっぱい集まって立つと、せっかくの外光も遮られて建物の扉を開けてもあまり意味はないのかもしれない。この建物には、扉の両側に広く開けた格子窓が欲しい。
 仏像は華やかな光背とともに金色に輝く。かつて、ほとんどの仏像は金箔が施されてこのように黄金色だったという。今となっては、ひびが入ったり、金箔や極彩色の塗装がはげたり、絶えず灯されてきた灯明の油煙に黒ずんだりしても、それは尊いものが長い時間を経てなおこの世にある証。その姿、笑みや眼差しはうわべの変化で価値を減ずるものではないという頑固な思い。この金色堂だけは少し違う。旧覆堂の中で風雨、日光に曝されることなく700年近くを過ごしてきた。藤原氏四代の墓所として日常的に人目に触れることはさけただろう。それに、40年前の改修工事で堂内外も手を加えられたに違いない。床や軒などはほとんど新しい金箔に見える。堂の正面から見て右側の軒では、材と金箔の痛みがそれほどでなかったか、古くからのままになっている部分がいくつかある。新しい部分と区別が付かないだけで、それは他にもたくさんあるのかもしれない。旧覆堂の中にあったときの堂の姿を見たいと思った。
 旧覆堂へ入った。この建物は、昭和38年にここへ移築されたという。今日は東から差し込む光で思いのほか中が明るい。先回は午後だったから。周囲の壁面上部には幅1メートル余りの棚が内側に張り出している。それはちょうど屋根の傾斜が始まる高さにあり、角材が内側に向けてすのこ状に張ってある。棚を支える4本の梁は、おそらく、この建物の向き合った2つの壁面上部に架けてあるのだろう。それぞれ四隅で水平に三角に渡した材木がその梁を更に補強している。覆堂を建てるとき、まず、四つの壁面を立て、その内側周囲に棚を設け、そこからも屋根を支えるための柱を立てた。内部の金色堂はこの棚の位置よりも高い建物だから、金色堂に触れることなく屋根を掛けるための工夫に違いない。床の中央には、墨で文字を書いた太い角材が立っている。立つというより、てっぺんで周囲から縄でぴんと引っ張って倒れないように直立させている。上の方には何か梵字が書かれていて、「○○建宝塔 藤原秀衡公 源義経 弁慶 八百年云々」とある。年表によると、昭和61年に800年御遠忌特別大祭というのがあったという。他には土間全体に何もない。ここに堂が納まっていたとき、周りにはほとんど余裕がなかっただろう。いま、入り口は下半分が内側に開く柵で、上半分は網を張った木枠を蝶番で垂らし、内側に上げて留めている。入り口の両側は下に柵と、さらに透明な樹脂板が立てられ、上はあいている。これらは、換気をよくし明かりを取り入れるのに役立っている。多分、当初は一時しのぎに施されたものだろう。外は、陽が差してまぶしいほど明るい。
 外から見ると、正面には6本の円柱が立つ。中央の入口は少し広くとってある。右端の柱は基部で部分的に何度も材を取り替えている。そこも含めて、材は尖ったところと柔らかいところを洗い流され、晒したように白く古色を帯びる。側面にも6本の柱がある。向かい合った円柱の内側に縦の溝を設け、そこに丈夫そうな幅広の板材を下から順に落とし込み、柱と柱の間に壁面を作っている。手前の板は比較的新しい。周囲の軒は二重の支え木で広く張り出して建物を守る。
 参道を下って本堂に向かう。まだ下から上がってくる人は少ない。このあたりはたくさんのモミジの木が道を覆って、赤と黄緑と黄が日の光をすかして鮮やか。本堂へは、階段を上がると大きな瓦屋根の表門をくぐる。正面の石畳には大きな香炉を設けて線香が焚かれ、青い煙が漂い、あたりを香りで満たす。本堂の建物はまだ新しい。右手に受付の小屋があって、お札や土産物なども置いている。「中尊寺を歩く」という小冊子がある。上質の紙にきれいなカラー写真がたくさん印刷されている。先回のビデオで見た仏像「仏頂尊坐像」の写真も載っている。いま受付の若いお坊さんは客の応対に忙しい。左手にお札を一枚持ったまま右手を伸ばして屈み込み何かを探している。いつのまにか西洋人の女性がすぐ側に来ていて「小冊子」を手に取る。すでに買い物はそれに決まっていたらしく少し笑ってお坊さんの方を見ている。お坊さんは、やっとこちらを向いて本を受け取る。「ジャパニーズ オンリー」という。栗色の髪の女性はうなずいてお金を払う。
 駐車場に戻るとそこはもう車でいっぱいになっていた。
 4号線から一関市街に入る。川を渡るところが工事中でなかなか進まない。ようやく342号線に入り石巻市を目指す。一関街道という。田や畑の中、遠くになだらかな山々を望むのどかな地方道である。いくつかの町や村を通り過ぎて昼に近づく。陽差しが強まる。やがて川の堤防に出る。北上川の、すでに下流域だろうか。まだ海は先のはずだが、水量豊かな川は丘や茂みを映しながら緩やかに流れる。大きな橋を渡ると今度は右手に川を見て走る。水位が異様に高い。堤防道路も高いので、左手の家や田畑は川の水面よりもずっと下にあるように見える。普通、これは上げ潮で増水時の河口近くの風景だが。昼過ぎ、道路沿いのショッピングセンターに入る。100m四方はあるような広い駐車場を三方から様々な店が取りまいている。スーパー、薬屋、本屋、レストラン、日曜大工店など。一番大きなスーパーは近づいてみると空き家になっていて、「テナント募集中」と貼り紙がある。食事を終わって予定を考えた。午後の目的地は奥松島の縄文遺跡だけになりそうだ。
 奥松島の主要な島は宮戸島である。そこに里浜貝塚がある。縄文時代としては、6000年前の前期から2500年前の晩期に至る遺跡だという。宮戸島には、弥生時代も、また、それ以後歴史時代を通じて現代に至るまで人が住み続けたといわれる。大高森山のふもとに奥松島縄文村歴史資料館というのができている。
 ここは、まだ新しい建物のようで施設内外には「斬新な試み」がたくさん行われている。館内に入ると、まず右手壁面に「里浜の貝層断面」というのがある。これは貝や土器片の層が下から幾重にも重なって掘り出された断面である。表面を樹脂で固めてその部分だけ現場からはぎ取って来たもので、最近よく行われている保存展示方法らしい。ホールの中央には4本柱が立ち、上で横木を渡し立方体の空間を作っている。これは多分竪穴式住居の内部空間の大きさを表していて、その地面中央には炉の位置を示すしるしが置かれている。出土土器の一部は大きなカプセル状のケースの中に入っている。中の上部には照明がある。土器は様々な高さの壇の上に載せられていて互いに重なってしまうことはない。しかし、少し狭い。できれば、一つだけガラスケースに入れて周りからすべてを見てみたいのもいくつかある。台囲地点出土土器はたいへん変化に富んでいて特徴のある文様を見せるものがある。二階では企画展が行われている。タイトルは「縄文の漆−赤と黒の世界−」。各地の博物館などから広い範囲で資料を集め展示している。漆製品以外にも、樹液の採取容器、絞られた漉し布、ベンガラの入った壺などの出土品資料がある。漆の技術が6500年前という古い時代からあったということが注目されている。この複雑な技術は、もしかすると日本列島で独自に開発されたものではないかと。
 縄文時代の人々が巧みで精緻な技術と繊細な感覚を示す表現を持っていたことは1万年余を通じて出土する土器にあらわれている。それが弥生時代に入ると、それまでと異なった生活の中で薄らぎ、特にその表現への意欲は全く別の面に移ってしまった。もう一度よく似たものが我々に伝えられるのは、千年余り後、ごく一部の、生活に余裕を持ち心の動きに敏感な内省的性格の人々の表現においてである。
 「漆(クロメ漆)塗りの土器 戸平川遺跡 縄文晩期」と表示した浅鉢が伏せてある。一部、明るい色で補修されてほぼ完全な形を示す。床に触れる底以外は流れる文様が彫られている。漆はほとんど剥がれていない。この文様は、目の高さよりも高い台にでも置かれていたのなら、見ることができる。また、両掌の中に入れたら、触覚を通して文様を感じ取ることができるだろう。1階へ下りてもう一度台囲地区出土土器を見る。本当に種類が多い。いろいろな時期の特徴のあるものを集めたものだろう。開いた口の部分の凹凸にはなめらかなカーブを描くもの、複数の突起を付けたものなどいろいろな形がある。飾りかもしれないけれども、ごく日常で使われたと思われるものにも明らかにある。細い棒のようなものを架けるには都合がいいかもしれない。弥生時代以後、このように凹凸が普遍的に見られる土器、容器は少ないと思う。
 先ほど、男性が二人入ってきて互いに感想をいいながら見て回っている。「古いものだなぁ。」「だけどね、こんなのそこら辺に転がってたってそんな値打ちのあるものだと思わんよ。」「転がってたんじゃないだろ。これはみんな地下から掘りだした。」「あ、それはさっき見たよ。中で縄文人が踊ってる。」二人は作業服を着ていて、近くの工事現場の世話をするためにやって来て、ついでにここへ寄ったらしい。1時間あまり、他に入場者はなかった。今日も平日だから。それにしても、これだけの施設を毎日開場し、あれほどの企画展も開いているのはたいしたもの。景勝地松島を訪れる人は多いのだけれども、なかなか宣伝が難しいのだろうか。受付に、「歴史を読み直す 縄文物語−海辺のムラから」という冊子を置いている。新聞社が平成6年に出したもので少し古いけれども、この里浜貝塚について特集している。外へでると風が強く少し寒い。隣には縄文村物産館というのがあって、研修室もある。
 奥松島の海岸線を見ながら松島北Icに向かう。海に浮かぶ島々は明るい灰色に見える崖が取り巻いている。崖の上は松林が覆う。崖のやわらかい岩はおそらく今でも少しずつ浸食されているのだ。今日も仙台市を迂回する。岩沼Icを出て4号線を南下、途中で夕日がまぶしい。福島市に近づいて遠くに高い山並み。吾妻山か磐梯山か。安達太良Sa着。


26日(金)晴天
 朝、早く出たつもりだったが郡山市郊外で渋滞、結局、市内に入って時間を費やし、9時過ぎに49号線に入った。いわき市から日立市、土浦市を目指す。郡山を離れると背景に低い丘の連なる農村地帯が続く。田では、すでに稲刈りを終えて三束の稲わらを三角に立てたものが一面に並んでいる。秋の朝、明るい光を浴びた珍しい風景。やがて道は近づいて来たなだらかな山の中へ入って行く。阿武隈高地の中央部で、あまり高い山はない。いわき市に近づいて2本の高速道路をくぐり鉄道を越えると急に車が多くなる。6号線に入ってますます交通量は多く、大型トラックが行き交う。海は見えない。これでは、ただ産業道路を走っているよう、太平洋沿岸を走っている気はしない。日立市で昼を過ぎ、水戸も素通りして土浦へ直行する。
 関東は車が多いし人も忙しく動き回る。道筋の建物も多いから遠くの景色をゆっくり見ることができない。走っていてもつまらないし時間ばかり掛かって疲れる。午後3時過ぎに土浦に着く。市役所に電話をして市立博物館の場所をたずねる。
 上高津貝塚は、4000年前から3000年前の遺跡。貝塚は馬蹄形に並び、千年の間に住み場所を順に移動したようだという。特徴のある土器を見た。一つは、わずかにすぼまった筒形の口がそのまま広く開き、胴はややふくらんでいるが、下は次第にすぼまっていく。口と胴の側面に波の振動のような大きな繰り返し模様が二段に並。これは全く雲形模様ではない。図形の二つを取り出すと外形が遮光器土偶の目に似ているが違う部分も多い。縄文土器には珍しく幾何学的な模様だ。容器の形も他にあまり似たものを見ない。中には何を入れたのだろうか。もう一つは、「注口のある土器」。胴部が丸くふくらむ。その胴の周りに大きな渦巻きが連なる。規則にとらわれない動きの激しい表現。模様の本体から離れて3つに分かれた溝がいくつかある。この三叉路の中心が少し広がって隙間があるものもある。容易に想像できるのだが、これは、渦巻きの外側の描ききれない一部を表していると思う。現実に、くねり回り、巻き重なるものを見知っていなければこの表し方はできない。ここにあるのは無機質な抽象ではない。
 二階のロビーには、霞ヶ浦で使われていた帆掛け船の大きな模型が展示されている。船体は昔からの和船で1本の高い柱に上部の横木から帆布が1枚垂らされる。模型の背後には、壁いっぱいになる大きな写真が掛けてあって、そこでは本物の船が追風を帆いっぱいにはらんで霞ヶ浦に浮かんでいる。出口へ降りて来て、念のために「ここ以外にも、縄文式土器なんかが展示されているところはありますか。」と聞いてみた。ございます。ちょっと待ってください。地図がありますから。彼女は地図の中で直進しないで右折する注意箇所を教えてくれる。お車なら15分もあれば行けるんですが。あ、そうですか。何時までやってるんでしょう。4時半までに行かれたらいいんです。すでに4時だった。
 広々とした場所に、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」というのができていた。駐車場に入ると、そばにオレンジ色の大きな建物がある。これが資料館でまだできたばかりのような建物。時間がないので展示室だけを見る。ここにも「注口のある土器」がある。上部の口は低い円筒状だが胴部の丸いふくらみは同じ。小円を中心とした渦巻きや三叉路も同じ。しかし、雰囲気はまるで違う。ゆがみのないきちんとした円は平板で隣との繋がりにも自然な流れはない。おとなしい表現だ。紋様を非常に単純にまとめたデザインを見た。「浅鉢型土器(とてもていねいにつくられています。まつりにつかう特別な土器なのかもしれません。)」と表示され、三分の一ほど残った浅い円錐形が置かれている <図-002>。紋様は、鉢の内側の縁ぎりぎりに6本の線が帯状に刻まれる。帯の途中で鉢の縁に突起が出て、その下に帯を作る線が紋章風の渦巻きに変化する。突起も紋章もごく小さなもので、これらの他に鉢の内側には何も描かれない。鉢の外側は見ることができない。外側には紋様がたくさんあるのかもしれない。全体を復元したら、この小さい突起は3カ所か4カ所になる。3カ所もいいと思ったが、ありそうなのは4カ所か。
 国道6号線に戻って高速道へ入る。守谷Sa着。


27日(土)晴天
 まだ午前6時だというのに車がどんどん入ってくる。ここはすでに首都圏で、しかも好天に恵まれた週末だから。8時前、トイレには長蛇の列ができた。地図を見ると、国道16号線が柏Icから千葉市に向かって右下斜めにまっすぐのびている。これなら、午前中早めに千葉に着くと思った。それは違った。東京へ向かうわけでも茨城へ向かうわけでもないのに道は渋滞の連続だ。成田への表示がたびたびあるからそちらへ行く車だろうか。千葉市の郊外で16号線を離れたのもよくなかった。狭い町並みの中で手間取って加曽利貝塚に着いたのは11時に近かった。貝塚公園は、今では周りを完全に住宅地で囲まれている。
 駐車場から園内に入るところでは、若い夫婦がよちよち歩きの赤ん坊を遊ばせている。大きな犬を連れたおじいさんが歩いてくる。昼の陽を受けた静かな園内は、樹がよく茂っていて起伏のある地面も下草に覆われる。一面に咲いたイヌタデのピンクの穂がみなわずかに揺れる。遠くで3,4人の子供が走り回るほか、人の姿はない。広いところだ。木立の中に鉄筋の背の低い小屋があって、「北貝塚貝層断面」と表示される。入口は開けることができて、入ると中央を掘り下げた通路の両側に貝層断面を見ることができる。幾重にも重なった層の所々に白い線を引いて説明の表示がされる。下の方の白線では、住居跡の断面らしいという意味の表示がある。通路との境には、丈夫な手すりがつけられ、その内側に透明な樹脂板が人の背の高さまで立ててある。断面の上では地表面(現在ではなく、どこかのある時代の地表面だろうか。)が建物の壁にぶつかるまで取り込まれている。同じように背の低い建物がもう1棟あって、「北貝塚の住居跡群」と赤茶色の御影石板に示される。もっと面積の広い黒っぽい御影石板には説明文が示される。「ドーナツ状に堆積した貝塚の周辺からは 無数の住居址や貯蔵穴が発見される それは長い間に なんどもたてかえられたもので この遺跡が集落であったことを物語っている このたて穴群によって当時の住居形態や その分布状態 あるいは集落全体の構造が観察できるので 当時の文化を研究するためのもっとも基礎的な遺構として ここに固定した … 」中に入ると階段の下に、発掘された住居址たて穴群がそのまま広い面積で残されている。向こう側の壁面には、当時の人々の暮らしの様子を色ペンキで描いた壁画がある。見学に訪れた子ども達に親しみやすく配慮されたようだ。その壁の下には、掘り下げられた住居址の位置まで貝層の断面を露出させている。この様子から見ると、この場所以外にも周辺地下にはこのような住居址が重なり合って広がっていることになる。この中はたいへん黴くさい。終いには息を止めたくなるほど。この状態は、子ども達の最初の考古学上の体験がこの場所だったとしたらあまりよいことではない。
 加曽利貝塚博物館に入る。入口は陰になった北向きになる。この貝塚は、今から7000年前から2500年前まで続いた縄文時代の「むら」のあとだという。館内では、パネルや図表によって貝塚の様子や移り変わり、縄文各時期や弥生、古墳時代の暮らしの比較などをていねいに展示説明している。関東地方に多くの縄文遺跡があること、しかも、4000年以上続いてその間にいろいろ移り変わってきたことが分かる。「にわかに貝塚が消滅する」というパネルがある。「約3,000〜2,500年前(縄文晩期)になると、もっとも発達していた大型貝塚がにわかに姿を消してしまう。それとともに、小型貝塚を伴う集落も伴わない集落も急に減少して、東京湾沿岸にはごくわずかな集落が分散して残されるにすぎなくなる。村人たちは、大挙して関東地方から東北地方や中部地方に分散して行ったと思われる。なぜ、このような人口の大移動が起こったのか、それが大きな問題となる。」一世代の30年か40年で大型貝塚が消えてしまうのだろうか。それとも500年かけて何十世代にもわたって徐々に消えたのだろうか。
 「浅鉢形土器(もりつけ用)約3,500年前(後期・加曽利BT式)」というのがある<図-003>。浅鉢とはいっても深さはかなりあって平たいものではない。口辺部に4つの張り出しがあって、それが外に開いている。きっと、上から見たら四角形のように見えるだろう。外側には、1本の縄が張り付いたような縁取りがある。上部が開いているので、そこにはへこんだくびれがある。下部は茶碗の高台のように立つ。横から見ても独特の形である。両掌に入れて持つにはよい形だ。胴部に刻まれた文様はたいへん大まかなものだ。1つの頂部から傾いて下りてきた幅広の帯がL字形に鋭く向きを変え、右斜め上に伸びて途中で先端を丸く閉じる。この簡単な形が4つの頂部に接して繰り返される。線の引き方も大雑把で幅やふくらみ方も適当な感じがする。この手は、「この形は大体こういうものだ」と慣れていて、これまでに何度もこの線を引いてきたかのようだ。人々がよく見知っているある何かの一部を表したものか。同じように単純な紋様の土器がある。「深鉢形土器(たくわえ用)約4000年前(後期・堀之内T式)」 <図-004>。こちらの図形は地面に投げ出されてくねっている縄そのもの。どこにも重なりはなく、上の端は土器の口辺部から出てZ字状にくねり、下の端は本体中程の水平な帯の中に入る。土器の反対側にも同じ図柄が描かれているようだ。これは、ある幅を持った細長い何ものかを描いている。すぐ思いつくのは、人々が野山でよく見たと思われる蛇だが、頭や尾を表さないのはなぜだろうか。縄文文化では、普通、ものの形を具体的に表現しようとする意欲はあまりない。それにしても、頭を丸く閉じるとか、尾に向かって細めるとかするぐらいはしないだろうか。彼らが実際に相対した蛇の頭部はおおいに関心を持った部分だと思うのだが。これは本当にただの縄なのかもしれない。
 すぐ近くで昼食をとる。都立美術館では「聖徳太子展」というのが開催中で、中宮寺の菩薩半跏像が展示されているという。そのためにも関東を南下したのだが、今日は時間がなくなってしまった。湾岸道路を使って品川区大井に出ると、そこはすでに大森貝塚に近い。品川区役所によると縄文土器は品川歴史館に展示されているという。
 歴史館は商店街の続くごく狭い道路に面している。正面入口の前に石タイルで舗装した前庭があって、仕方なく先ずそこへ車を乗り入れる。中へ入って車の置き場所をたずねると、そのままでいいという。館内の常設展示では、原始・古代から第二次大戦後まで品川の歴史をいろいろ工夫して見せている。宿場まちのミニチュアがある。品川の街道筋と建物の長い連なりが屋根瓦から二階の部屋の中まで、店先で応対する人物、街道を往来する人物まで作ってある。部屋の奥には明かりが点り、人の影は長く伸びて夕刻を表す。縄文土器は少ない。大森貝塚は後期から晩期に当てはまるというが彼らが作った土器はどれほど出土したのだろう。レプリカの展示があるということは、多くは大学その他にあるということか。当初、発掘に当たったのは東京大学の教授たちだった。
 暗くなって玉川を抜け、東名高速に入った。足柄Sa着。


28日(日)雨天
 雨が降る箱根峠を越え、熱海に到着、美術館を見て三島へ。17時50分、自宅着。
 今回の旅行は事前にできるだけ調べたつもりだったが、まだ、不十分だった。帰ってから念のために該当の市や町をそのホームページで調べると、これは事前に見ておくべきだったと度々思い知らされる。記録方法については、その日ごとに当日すぐ大体の内容を書くことができれば一番よいと思った。帰ってから整理していて今、すでに翌年の3月なんだ。記憶も次第に大まかになってしまう。次回は夜、ワ−プロに向かう1、2時間を確保すること。土浦と千葉は出直さないといけない。