-2004-へ戻る
 中国・九州-2004                              
               2004.07.01(木) -07.13(火 )
 


7月 1日(木)晴天
 大阪歴史博物館
 やっぱりいろいろやっているうちに午前十時を過ぎた。さらにコリドラスの水槽も水替えしておいた方がいいだろうと思いついて、これに1時間使ってしまった。すでに若狭湾周りの行程は無理なので名阪道を大阪に向かう。この大阪歴史博物館の建っている地面の下には何代にもわたる遺跡が発掘されている。博物館の10階から常設展を見る。考古展示室のいちばんはじめに縄文土器が一つだけ展示される。
 二階では学芸員さんが質問に答えてくれるという。そこで四時半を過ぎて二階に急ぐ。あの縄文土器はこのすぐ近くの森ノ宮遺跡で出たもので、そこでは時間を限って出土品の公開もしている。彼は電話をして森ノ宮遺跡展示館が開館している時間を調べてくれた。月曜日を除く日の正午から午後3時までだという。


7月 2日(金)晴天
 鳥取市博物館、鳥取県立博物館、福部村歴史民俗資料館。
 鳥取市を目指す。国道29号線を走る途中、山崎で「道の駅」に寄る。大きなまな板のような分厚い木材が売られている。鈍い青緑の朴の板を一枚買う。「この朴の木はこのあたりでよくととれるのですか。」「そうですね。最近はちょっと品薄ですけれども。」
 鳥取県に入って最初の町が若桜町だ。ここには歴史民俗資料館がある。その建物は明治時代の銀行を移築したもので鹿色の瓦葺きに白壁の土蔵作り。縄文時代の展示はなかった。手前に鳥取県指定保護文化財三百田氏住宅というのが保存されている。その茅葺きの棟は神社の千木のような押さえが載せられている。軒下で端正にカットされた茅の厚みは7,80センチはある。内部の3分の1は土間や厩で奥の土間を奥庭、手前を口庭と呼んでいる。土間からあがる広い座敷は板の間で長方形の囲炉裏が切ってある。天井の太い梁の下に幅広く大きな神棚が土間に向いてあげてある。8畳の奥の間には座敷に続いて濡れ縁が出ている。よく整えられているが、人の住む気配が全くないので大きな模型の中にいるようだ。裏の崖にちょうどいまアジサイが満開。隣に山村文化保存伝習施設「たくみの館」がある。中では年配の男性が工具の具合をみている。木工ろくろの機械が何台かある。工作台のうえに成形されたこけしや独楽が白木のままおいてある。ここは体験学習室。ほかに研修室や展示室がある。入っていくと男性が木工ろくろを動かして見せてくれた。まず取り付けた独楽の材料を回転させて削る予定の円を記す。刃を付けた腕を調整し削りたいかたちの型板を取り付ける。この型板が刃の進む方向を決めるのだ。集塵機のモーターを動かす。ろくろのスイッチを入れて刃を材料に近づける。小学生でも自分で動かしてつくるという。そのためには材料をある程度のかたちに整えておく。ときには何十人分も用意するんですよ、という。
 鳥取市立博物館は映像を主にした博物館。縄文土器はない。県立博物館は、自然科学から歴史・民俗まで網羅している。考古の展示には早期から晩期までの縄文土器が展示されている。


7月 3日(土)前夜半に雨 晴天
倉吉市博物館、青谷町郷土館、米子市福市考古資料館、米子市立山陰歴史館。
 倉吉市博物館では美術展が開かれている。常設展は幸いにも考古の部屋だけがいつもどおり展示されている。ここには縄文が確実にある。
 青谷町郷土館では写真展が開かれていてほかの展示はない。山陰の風景がたくさんのカラー写真で出品されている。陰影の濃い風景はいっそう鮮やかに見える。遺跡展示館について聞いてみると、今ちょうど展示替えで休館中だという。窓口の女性がたいへん気の毒がって、これから西へ向かうというと弥生の妻木晩田や米子の博物館などいろいろな資料を探してくださる。
 米子市福市考古資料館では制服を着た係の方がいろいろ世話をしてくださる。土器のこともよくご存じで、こちらでは形象埴輪が少ないこと、古墳時代の墓で遺体の下に敷かれた土器片が大きな二つの壺に復元できること、それが発見されたいきさつ、巨大な「こしき」のこと、縄文早期はこれまでよりもさらに深く発掘するのでまだまだ見つかる可能性があることなどなど。特徴のある縄文土器のよい写真が撮れた。
 米子市立山陰歴史館は当地の由緒ある郷土博物館。広い通りに面した建物には「米子市廰」とあり現在も市長室と表示された部屋がある。ここでも縄文土器を数点見た。


7月 4日(日)曇りのち雨 強風
 島根県浜田市郷土資料館、山口県萩市、宇部市。
 浜田市郷土資料館は、たまたま見つかった博物館。入り口からすぐ始まるガラスケースの最初に縄文土器が一つ置かれる。出土部分が少ないが白く補って器の全体像を復元している。写真撮影の許可願いを出す。
 萩市にも郷土資料館があったはずだが、近くの市立図書館で聞くと、二年前から休館していて今年の秋に再開するという。司書さんらしい女性が萩市の考古資料を閲覧するために熱心に助言してくださる。が、縄文時代については急には見つからなかった。当地はどうしても幕末前後の資料が目立っているということだ。山口県内では下関市に資料館があるという。下関市歴史民俗資料館は前回訪れているけれども、器の形にまで復元された縄文土器はほとんどなかった。
 山口県に縄文が少ないのは、まだ見つかっていないだけかもしれない。島根県は帰りがけにもっとよく見てみることにする。


7月 5日(月)晴天
 美祢市歴史民俗資料館、北九州市自然史歴史博物館。
 「歴史民俗資料館」の案内看板を見つけてとにかく行ってみた。玄関を入ると休館とある。やっぱり月曜日だからと一瞬思ったが中では人が動いている。「今日は休館日なんですよ。」とそこにいた年配の男性がいう。今日はTV放送局が取材に来ているのでその人たちがいるのだという。決してじゃまをしないから見せてももらえないかというと、いいでしょう見せてあげます、二階はもう取材が終わっていますからと案内してくれる。どうも彼はここの館長さんらしい。化石がいろいろあるんですね。この土地はよく出るんですよ。どちらから来られたんですか。そうですか。土器もありますよ。こちらが埋蔵文化財の部屋です。ほう、あれは縄文でしょうか。きのう萩市の郷土館へ行きましたが休館中で、図書館の方がいろいろ調べてくださったんですが、山口県には縄文土器が少ないということです。おや、これは土師器ですか。こちらのは弥生土器。やっぱり弥生時代からなんですか。そうですね。おっしゃるように縄文はこちらでは少ないんですよ。これはまた小さな化石がいっぱいですね。小型ほ乳類の歯や細かい骨。こうしてていねいに並べたんですね。浅い箱の中にほとんど数ミリ前後の化石が整然と黒か紺の布地の上にびっしりと列を組んで並ぶ。その箱がいくつもある。これは学校の先生で熱心に集めている方がありましてね。また、大きなものでは、ヤベオオツノジカの全身骨格も立っている。
 今日取材されたTV放送は7月末に放送されるという。ここでは当地方に縄文が少ないことをことさら確認したようなことになった。
 念のために北九州市の博物館に電話をすると、今日も開館しているという。道順を聞いておいて午後の目的地とする。壇ノ浦パーキングで海峡を見る。意外に狭い海峡は、いま、川のように流れている。ここに丸木船を浮かべたら、日本海と瀬戸内海を行き来できるだろう。
 北九州市自然史歴史博物館は広い敷地にたっぷりと空間をとった大きな博物館だ。中生紀の巨大な恐竜の骨格、とうに絶滅した大型ほ乳類の骨格、頭上高くにつり下げられたクジラの巨大な頭骨。その残りの骨格はおまけのようだ。
 歴史の階には縄文草創期、中期、晩期の土器。ガラスケースの中が明るいので非常に見やすい。


7月 6日(火)晴れ
 福岡県福岡市博物館、福岡市埋蔵文化財センター、九州歴史資料館(太宰府)。
 福岡市博物館には、ていねいに復元された縄文土器が数点展示されている。実際に出土した部分と補われた部分の区別がよく注意して見ないとわからないほどだ。この博物館では縄文土器の朝鮮半島からの影響についての展示がある。極東アジアの半島や大陸の縄文土器を見ることはほとんどないのでたいへん興味深い。できることなら列島の縄文の傾向と半島の縄文の傾向については是非見極めたい。写真撮影の許可願いを提出。撮影は後日ということになった。学芸員さんに市内の埋蔵文化財センターを教わり、午後、さっそく出かける。
 福岡市埋蔵文化財センターは板付にあって、たまたま運よく太宰府への途中だ。はじめの展示で、文化財発掘の手順や出土物の必要な処理について解説される。弥生時代に出土した木片(くわ)の何も処理しなかった場合が展示されている。木製の鍬の刃は薄く縮み、なかばねじれて変形している。ここにも押型文土器がある。早い時期の土器文様が広い範囲で共通文様であるのはなぜだろうか。われわれには推し量れないほどの長い時間と緩慢な技術の流れのせいだろうか。次の予定が気になって早めに切り上げ太宰府に向かう。
 ところが、天満宮近くに車をおいて800メートルの道を歩いていくと歴史館は7月9日まで休館中だった。


7月 7日(水)晴れのち曇り
 熊本市立博物館。
 市立博物館はお城の中にある。設定され進入路以外の周辺の道路はたいへん狭い。上がったり、降りたり、あっちへよけたり、こっちで待ったりして小一時間、博物館のすぐそばでうろうろすることになる。唯一の入り口道路を知っている人にはこんなことは起こらないのだ。おまけに土地の車は間に合うと見ると、こちらの直前で急に曲がって見せる。確かに鮮やかな腕前だがその運転手は行く手に予想していないことが起こるなどどとは露ほども思わないのだ。一昨年はここらで漱石ゆかりの建物をとうとう探せなかった。
 常設展には縄文土器がたくさん展示されている。後期のものが多い。写真撮影についてどんな風に頼み込もうかと思案しながらぐずぐずと他の展示を見る。個人の寄贈によると表示された図書コーナーがある。3冊の大きな「縄文土器大全」とか分厚い「縄文土器事典」というのを見る。こういう本は古書店を探せば手にはいるかもしれない。自然科学の展示など写真が少し青みがかったりするけれども広い分野で充実した展示がされている。子ども向けにもいろいろ工夫を試みている。スイゲンゼニタナゴなどが泳ぐ水槽を見た。おっくうだが思い切って教えられた事務室へ入ると、撮影願いは用意されたノートに住所と氏名を書いてあっさりすんでしまった。大喜びで、それから一時間、撮影に専念する。
 午後は、鹿児島に向かってひたすら走る。八代市と水俣市を通る。3号線はもっと海岸近くを通るものと思いこんでいたが海が見えたのは少しだった。海は、いま夕日が陸側にあるからか遠い水平線だけが一直線に輝く。


7月 8日(木)晴れのち曇り、ときどき雨。
 国分市上野原遺跡、「上野原縄文の森」。一昨年に来たときは住居跡の復元と発掘事務所があるだけだったが、今は豪華な設備を持った展示館が建てられている。受付で早速聞いてみると写真撮影は禁止だ。ともかく何があるか見なければと展示室にはいる。まず特別展「レールの下の物語」の部屋。これは鹿児島まで延長される予定の山陽新幹線建設工事地でおこなわれた埋蔵文化財調査の結果報告だ。駅名で表示された各区間ごとに出土品が展示されている。これを見ると南九州は一定の範囲を掘ると縄文から古墳時代までこのように遺物が出てくることがわかる。9千年以上前の縄文土器や住居跡を発掘したこととも併せて、これらの状況は、この上野原の展示館にとって特段に幸いしている。ある時代以後は何も出てこない地域とここの違いは何だろうか。倉吉の縄文は5メートルもの堆積物の厚みに保護されていた。ここでは生活の痕跡を覆い尽くすほどの火山性の堆積物に保護されている。それが何千年も前の人々の様子を今われわれに見せてくれる。山口県のあたりでは何があったのだろうか。
 常設展示も一通り見てから写真撮影の許可を願い出る。こちらの撮影する目的や写真の使い方をよく理解されたようで、許可を示すカードを首から提げてカメラを構え、充実した1時間あまりを過ごすことができた。もっとも、あとでぼくがたいへんな写真の枚数に悩むことになるのは目に見えている。


7月 9日(金)
 久留米市埋蔵文化財センター、小郡市埋蔵文化財調査センター。
 久留米市埋文センターには縄文土器が三つ展示されている。一つは早期の押型文土器。二つ目はほとんど球形の胴をもった小振りの土器。これはていねいな作りで胴とその上に開いた口がよく釣り合っている。三っつめは三つのなだらかな頂点をもつ晩期の土器。一つ目の土器の粒状に並んだ押型文は側面の三分の一ほどが出土していて、その部分は底の方まである。この文様は器の内側にも帯状につけられている。この押型文が早い時期に全国各地に見られるのはなぜでしょうね、と学芸員さんに聞く。すると彼は文様の「粘土と原体」とでもいうコーナーへ案内して原体を見せてくれた。それは、太さが経1センチ強の枝の幹に浅くすくい取った凹面を並べたものだった。それを転がすとあの土器の文様と全く同じ文様がいくらでもできる。この文様を何度も見ていて、それが何かを押しつけたものであることは当然のように分かっているつもりだったが「原体」には少し驚いた。短い小枝の柱状の側面を軽くえぐったものがあの粒状文を粘土のうえに見せているのだった。この文様を各地に広めたのは長い時間とともにこの原体の容易さだったのかも知れない。
 この展示室では、子どもたちがやってきたときに両手で土器を持ってみるなど直に触れさせることも大事にし、いろいろ考えさせるような質問も用意しているという。
 小郡市埋文センターにも縄文土器が少し展示されている。大きめの深鉢と、大きな器の口縁部のみが半円状に残っている。これも押型文の土器。これは早期のあたりのものだから、下のかたちはそのまま細まってとがり底だったのだろうか。たまたま今の展示には新潟県柏崎市から借り受けた縄文土器も1つ展示されている。隣の展示ケースには変化に富んだ弥生土器たちが並ぶ。ビールを飲むジョッキのように立派な取っ手のついたカップがある。さらに興味を引かれたのは、朝鮮半島系の無文土器の展示だ。立ち会ってくださった学芸員さんは、この地はやってきた半島の人々が最初に開けた平野部に入って落ち着いた場所なのでしょうという。
 当地の遺跡からは、まるで登り窯のような窯跡が出ている。現場はすでに開発工事でなくなっているが、ここにはその場の情景が精密な立体模型で再現されている。それを見るとこれはかなり大規模なものだったらしいことがわかる。学芸員さんの話では、この地域は福岡市のベッドタウンとして開発途上にあるのだという。それなら、この地では出土品の時代が縄文の早い時期から始まっているようだから、まだまだこれからいろいろなものが出てくる可能性がある。


7月10日(土)晴れときどきにわか雨
 福岡市立博物館。九州歴史資料館(太宰府)、飯塚市歴史資料館。
 福岡市立博物館では開館前の展示室で写真を撮る。撮りおわったあと、付き添ってくださった方から次のような話を聞いた。九州北部で縄文遺物が少ないのは、そこに縄文人があまり住まなかったからでしょう。少し南の久留米市や小郡市になると縄文土器も多く見られます。九州北部は狩猟採集や簡単な畑作には向いていないのでしょう。
 九州歴史資料館には、草創期の底のとがった押し型文土器が展示されている。これまで見たものよりはるかに大きい。ほかにも興味深い土器がいくつか展示されていたので何とか写真撮影をと期待して受付に戻る。しかし、今日は担当者の方は不在で、窓口の方が責任者への電話連絡を熱心にしてくださったがうまくいかないようだった。来年の秋には、このすぐ近くに国立の歴史博物館が開館予定ということなので、そのとき再度訪問することにして辞す。
 国道201号線を走っていて峠の上の展望駐車場で案内看板を見ていると「飯塚市歴史民俗資料館」とある。ちょうど国道沿いだし、それに駅のすぐそばだから見つけやすいだろう。資料館には甕棺がたくさん展示されているた。40個はあるという。「遠賀川流域の遺跡」という説明パネルが掛けられている。そうか、ここが遠賀川式土器の土地だった。弥生初期の遠賀川式土器は日本海沿岸を東北まで、瀬戸内から太平洋岸を愛知県東部まで伝わっている。近くの町にも飯塚市のように土器を展示している資料館はありませんか、と聞いてみるが今日は学芸員さんもいなくてわからないようだった。


7月11日(日)晴れ
山口県立博物館、山口市歴史民俗資料館。
県立博物館には歴史展示もあるが縄文関係はなかった。大内氏の時代、毛利氏の時代、幕末維新の時代。近くに市の歴史民俗資料館があるというので歩いて出かける。ここには縄文の深鉢が一つあった。なぜかひどく変形している。向かい側に県の埋蔵文化財センターがあるが今日は閉館日だという。


7月12日(月)晴れ
 鳥取県日南町井上靖記念館、淀江町むきばんだ遺跡、淀江町歴史民俗資料館。
 今日は月曜日だが、むきばんだ遺跡は開いている。昼頃には鳥取に着けるかもしれない。国道183号線で鳥取県にはいると日南町で、そこはちょうど島根と広島と岡山の県境でもある。日南町の役場に寄る。役場の庁舎は新しい木造で、高い天井を何本かの太い柱で支えて広い空間をつくっている。この町に歴史資料館はなかったが、ここにも井上靖記念館がある。この建物は大きくて見事ですね。いつできたんですか。ありがとうございます。平成14年にできました。じゃあ、まだやっと2年目ですね。あの柱の中なんか全部木なんでしょうか。いえ、全部じゃなくて少しはほかの材料も使われているそうです。井上靖記念館は県道8号線を岡山県に向かう途中にある。ここは作家の終戦間際の疎開地だったのだ。ようやく探し当てると、その建物は無人で管理されていた。訪問者が展示室の明かりを付けると30分後に自動で消灯するという。展示室には作家の年表とたくさんの写真がある。新聞記事や作品の原稿をコピーしたものもある。映画にもなった「野分」や「あすなろ物語」などに触れている。この雪の深い土地が背景だという。外に出るとわきの方に桃色の花をいっぱい付けた木がある。近づいてみると「ネムの木」(写真)。少し花が小さい。気がつくとこのネムノキはあたりにいくらもはえていて、ちょうどいま花をいっぱい咲かせている。車を走らせていると川の中州の茂みにも大きく広がって咲いている。
 むきばんだ遺跡ではボランティアガイドによる遺跡案内が午後1時半からあるという。所要時間に応じていくつかの選択コースが用意される。Aコースを選ぶと40分を要する案内コースをボランティアの人と回る。今日は依頼人が僕一人なのでたった二人でゆっくりとコースを巡る。大先生と、彼のことをすれ違った小学生たちが呼んだ。今日のようなふつうの日にも学校から教師に引率された1クラスの子どもたちがやってきている。このコースだけでも歩いて回るのはたいへんだ。今日はまだ曇っているから汗ばむ程度ですむ。ここはゴルフ場になるはずだったけれども、過去の大切さを知る多くの人たちが国を動かし、今後も長く調査し保存することになったという。ボランティアを引き受けてくれるこの人は、こうしたことのおもしろさにはまりこんだ人のように、ことのいきさつもからめて豊富な知識を次々に途絶えることなく伝えてくれる。青谷町遺跡展示館は月曜休みだが遺跡が公園にでもなっていれば今日のうちにと思って町へ向かう。役場で聞くと遺跡は埋め戻して特に見るようなものはないという。泊まるところを探していて関金温泉でいいところを見つけた。やすらぎの里せきがね振興公社ゆらり。


7月13(火)晴れ。
 鳥取県青谷町遺跡展示館、大阪府森ノ宮遺跡展示室。
 今朝は早めに出て青谷町遺跡展示館駐車場で9時の開館を待つ。パンフレットによると、この遺跡が発掘された場所はここからすぐ近くの、国道(青谷・羽合線―現在は緑色の道路表示板を使う自動車専用道路として開通し、進入表示には「山陰道」とある。)の建設予定地だった。遺跡は弥生時代の初め頃からその終末までの約500年間続いた。
 展示室には大きな部屋が1つ当てられる。出土品には木製品が多い。木製の高坏と、それによく似たかたちの土器が展示されている。「土器のかたちに似せた木製品」とあるが、土器の方が似せて作られ後々まで残ったのかもしれない。木製高坏は回転ろくろと鉄製工具を使った挽き物らしいという。弥生土器にも回転台のようなものを成形に使っていたとしたら、そのことは、かたちや文様が縄文土器と大きく違った一つの説明になる。
 「木製の琴」というのがある。どう弦を張ったのかよくわからないからただの箱のように見える。この琴の板には、5匹の四つ足の動物が刻まれている。特徴を捉えて簡略に描いた動物の姿は、古墳時代の銅鐸に浮き出るかたちの描き方とすでによく似ている。「ちょうな」で表面を平らにした大きな板(長さ2.6mの杉板)が出たという。まず杭を何本もうちこんでおよその厚みの板材を割り出す。それからちょうなで表面をきれいに削る。近づいてよく見ると、確かに浅く幅広いすくいあとが一面に並んでいる。薄い板を使った「曲げ物」がある。指物の箱がある。細木を何本も並べて通した透かし窓?がある。当時の木工技術は相当に高かったのだと展示は説明している。溝の中から多数の人骨が出た。中には殺傷痕のある骨が見られるという。非常に珍しいことに、頭蓋骨の中に残っていた脳が3点発見された。これは氷温保存をしているという。
 9時45分に展示館を出て大阪に向かう。中国道の院庄Icまでにどれほど時間がかかるか心配だったが11時過ぎには高速道に入り、なんとか森ノ宮遺跡展示室に着いた。街は焼けるように暑い。
 大きなビルの一角に小さな展示室は設けられている。たぶん、このビルや周辺の開発の際に文化財保存のための発掘調査が行われたのだ。後期から晩期にかけての深鉢が三つと晩期の浅鉢一つ、それに「舟状椀」と表示された浅鉢がある。どれも実際に出土した部分はわずかなようだが巧みにかたちを復元している。
 パネル「縄文時代の森ノ宮 森ノ宮に人が住みはじめたのは、縄文中期(約5000年前)でした。縄文後期(約4000年前)に入ると、マガキの貝塚がつくられ、貝層中の動物や魚の骨、貝殻から、当時の食生活をしのぶことができます。出土した土器の型式によって、瀬戸内文化圏にはいることがわかり、広く九州や関東との交流が認められる土器も出ています。縄文晩期(約3000年前)からあとは、前面の海が淡水化し、貝塚もセタシジミを主体としたものへと変わっていきました。土器の中には、全国的な影響をもった、東北地方の土器も入ってきています。貝塚は50m×50mと西日本最大を誇っていますが、第1次から第4次までの調査では、まだ住居跡はみつかっていません。」
 展示室に置かれたチラシの説明によると、大阪平野には河内湾の時代(約5000年から4000年前)と河内潟の時代(約3000年から2000年前)があった。また、16体の屈葬人骨がみつかっているという。近畿地方の中心に大きな縄文遺跡があったのだ。しかし、ここは巨大な都会の真ん中で、かつての地表はそこいら中掘り返され無数の鉄筋コンクリートが地盤に達するまで打ち込まれた。すでに地上のほとんどはコンクリートとアスファルトで固められてしまった。
 パネル「森ノ宮遺跡の地形とその歴史的環境」を見る。これはこの辺りの過去の重層的な絵地図だ。一帯には難波京の条坊が大きく重なって、ここはその左の条にあたる。遺跡の東側には現在の大阪環状線が通り、すぐそばに森の宮駅がある。駅から道路をへだててこちら側に森之宮神社がある。いまは周囲に押されてかなり小さく閉じこめられたのだろうが、これが地名の由来らしい。このお宮はいつ頃からあったのだろうか。
 夕方に帰宅。


 
     ※※※※※※※※※※※※      モ     ※※※※※※※※※※※※




1 縄文遺跡のそばにはよく神社がある。これはたまたまそうなったか、あるいは遠いかすかな記憶の細い糸のような継続か。(h16-07-16)


2 まち(土地)によって縄文土器がたくさん見られたり見られなかったりする。ほんのかけらだけが展示されていたり、弥生時代の直前に初めて縄文時代晩期の土器がわずかに出ていたりする。縄文人が住んでいなかったか、人口密度が極端に低かったか、あるいはまだ発見されていないだけか。それとも、発掘された出土品の整理は進められているが、そのまち(地域)の特色として歴史上の重点が別の時代にあるから結果として訪問者には目立たないのかもしれない。(h16-07-17)


3 7月19日(月)愛知県陶磁資料館へ行く。「土と炎の芸術 - 世界の土器」展を見る。展示室の写真撮影はできなかった。日本の縄文・弥生土器のほか、中国、東南アジア、インド、中近東、南米の土器。土器の側面に粘土を押しつけたり、貼り付けたり、刻んだりして文様などを凹凸により表現したものはほんのわずかだった。口辺を波打たせたり突起で飾るものはない。この展示で見ると、側面などの文様は彩文が一般的なのだ。(h16-07-21)