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続 縄文の器 |
私の見た縄文土器 |
その1 濃尾平野と関東平野 縄文遺跡は東日本に多く西日本には少ないとされている。当時の人口密度についても、遺跡にみられる住居跡の数などから西日本に住んでいた人々の数は東日本に比べて遙かに少ないのだということになっている。このことには、遺跡の保存状態やその後の人々のくらし方の変化なども大いに関係しているように思われる。 博物館などを訪ね歩いていて縄文土器をたくさん見ることができるのは本州中央部の高地や北陸地方、東北地方の展示館である。それらの土地ではたくさんの縄文遺跡が見つかっている。遺跡から出土する土器の数は、よくととのった目立つ土器だけを選りすぐってさえ展示棚に収まりきらないほど多いらしい。それにくらべて、現在の都会地、それも大きくひろがる平野部にある市街地近くに縄文土器を見ることは少ない。それは、地形の成り立ち、動植物の様子、これまでの人々の住み方などに関係があるらしい。また、たとえみごとな縄文土器が見つかっていても、現在そこに生活している人々の関心の持ち方によっては目立たないものになっていることもあるようだ。ここでは、本州の三つの大きな平野、濃尾平野・関東平野・大阪平野の街の展示館でたまたま見た縄文土器についてふりかえってみたい。 1 濃尾平野 私の住んでいる濃尾平野は三つの河川、木曽川、長良川、揖斐川が流れ出て、愛知、岐阜、三重の三県にまたがってひろがっている。長い地質時代から見ると、この平野では幾重にもかさなっていく沖積層の形成と西にかたむいて進む地盤の沈降が同時に進行しているのだという。 愛知県一宮市博物館の展示に濃尾平野の地形について説明したパネルがある【図-aiti-1】。地形図は陸から海への移り変わりを細かく区分けして地表の成り立ちを示そうとしている。人工物としては名神高速道路だけを重ねてその一部の地層断面図を横に示している。下図ではトレースして彩色した地形図に愛知県のサイトからたどったリンク先でおろした白地図をどうにか合わせて重ねた。港周辺の干拓地のようすから見て地形図はやや古い資料らしい。パネルの説明文から「尾張の地形・地質 ? 尾張平野は木曽川の形成した沖積平野であり、一宮市の地盤は木曽川の扇状地・河川の形成した堤防帯、およびその後の湿地帯からなる。縄文、弥生時代の遺跡は、こうした扇状地・自然堤防等の沖積平野の微高地上に立地することが多い。」 私が子どものころからいつもながめていた名古屋周辺の地図をこうして地形図で見るのはおもしろい。この平野の大部分がむかしは海だったことや、川が上流から土砂を運んできて海を埋めていったことは一応知っていた。博物館を訪ねまわるようになって「縄文海進」という言葉にもたびたび接してもいた。いま、この地形図で自分のよく知っている土地のあちらこちらをあらためて見ると、いままでにない別の見方をいくつも見つけて目新しくたいへんおもしろいのだ。 【図-aiti-2】。 パネルの説明文から「尾張平野の縄文時代 ? 約8000年前にさかのぼる遺跡が平野北東部の扇状地上にあり、約5000年前頃から平野中央部の一宮・稲沢・岩倉・清洲あたりに遺跡が見られる。縄文時代の遺跡数は弥生時代に比べるとはるかに少ない。」 この図の三つの河川流域では、二本の海岸線のあいだがずいぶんはなれている。気候がしだいに寒くなって地表高低差の少ない部分で海が大きく後退したのだ。ここでは地質学上の長期変化に加えて気候変動による短期変化が加わっている。旧名古屋市内の地形表示ができていないが市の中央部では丘陵地がせまっていて平野部との高低差が大きく、二つの海岸線は接近する。接近は熱田区高蔵公園のあたりから始まって、熱田神宮、南区の笠寺観音近くを経て天白川沿いに南下し知多半島に続いている。古墳時代の海岸線は中川区を横断して西に向かう。私が育った以前の住まいのごく近くをこのラインは通っていたらしい。小学生の頃は家に近いお寺の前でよく遊んだ。そこは北どなりの通学団区だった。お寺の門は表の通りから少し奥まっていてその参道の片側に低い石垣がつづいた。石垣の内側は広場になっていて、そこは神社の境内だった。道に面して石の鳥居、奥に拝殿、左手に社務所があった。境内では盆踊りや秋祭りに近所の人たちがおおぜい集まり、表通りに夜店が出た。この海岸線を見てすぐ思い出したのはあの神社の境内の地面にたくさん浮き出た白い貝殻だ。地面に棒で線を引いたりいたずらがきをしたりすると無数の貝殻が出てきた。あのあたりはちょうど古墳時代の浜辺だったのだ。 尾張平野の縄文時代の遺跡は扇状地や自然堤防の上に多い。パネルの説明ではこれを微高地といっている。縄文時代前期から古墳時代にかけておよそ4000年あまりのあいだにこの微高地が形成された。私の住んでいる稲沢市はこの微高地が編み目のように行きわたっている。しかし、実際には目に見えるほどの高低差はまったくと言っていいほどにない。これはまさに微高地なのだ。おそらく、かつてごく細い川が丘陵地から染み出るように平野を幾筋にも分かれて流れていたときに、それはごく低い丘の連なりだったのかもしれない。年によっては河川がひどく氾濫した。たびかさなる氾濫によって微高地はさまざまにかたちを変えながら南にひろがっていった。古墳時代以後、この平野にもおおくの人々が住みつき、わりと浸水しないほとんどの土地は鋤や鍬で耕されたのだろう。縄文時代にここに住んだ人々の痕跡のおおくは後の時代の農作業で掘り返され、河川の氾濫のたびに土砂と共に洗い流されたにちがいない。 その南にさらにひろがっていった湿地帯は江戸時代の中ほどまで耕作には困難な土地だったようだ。三つの河川の堤防が整備され、干拓地が海に張り出していくのは歴史時代にかぎってもかなり最近のことだ。この平野一帯はもともとが低い土地なので、一九五九年の伊勢湾台風上陸のときには中川区の昔の家も床上五〇センチ近く浸水した。このときは干拓地はもちろん、平野南部湿地帯のおおくが浸水したのだろう。 一宮市博物館は一宮の街の南端に位置する。ここは【図-aiti-2】の緑色のラインに近い。ここから北東に直線距離で二キロほどのところに馬見塚遺跡がある。訪れてすぐには分からず市役所に電話で聴き、市役所は博物館に電話をまわしてくれる。電話さきに呼ばれた男性は住宅地図でていねいに教えてくれる。馬見塚交差点の近くに六所社という神社があって、そのすぐ南西の筋をはいったところに遺跡はあった。背の高い石碑のそばに立つ説明パネル。 「愛知県指定文化財 史跡 馬見塚遺跡 馬見塚遺跡保存会 昭和二十九年三月十二日指定 市街地東部、馬見塚村落の南に広がる東西約四百メートル、南北約三百メートルの広い地域で、いまでも畑や水田地帯となっている。 標高七・五メートル程度の平坦地で、河川の流出土砂による自然堤防と、その後背に形成される低湿地帯のため、従来は縄文遺跡の存在など考えられなかったが、大正末年(一九二六)、森徳一郎らによって遺跡の存在が報じられ、一躍学界の注目を集めた。 標柱の付近から大量の土器と石器が出土している。深鉢を二つ合わせて埋葬用に使った合わせ口土器棺や、縄文後期・晩期の土器、また、やや離れた地点から古墳時代の祭祀遺跡が見つかった。縄文後期から弥生・古墳時代に至るまで営まれた複合遺跡である。また、出土遺物については一宮市博物館に収蔵、展示されている。 一宮市教育委員会」 現在、遺跡石碑のまわりに畑や水田は少なくなって、代わりに住宅やマンションといっている集合住宅が増えている。 【図- 399】このあたりの縄文遺跡では土器が出土するときわずかな破片であることが多いらしい。そのかぎられた部分をつかって復元される器のおおいなかでめずらしく完成度の高い器。これは楕円形にひらく浅めの鉢だ。この角度で平面に表すとなかなか楕円形に見えてくれない。添えられたカードに、「鉢 東北地方の亀ヶ岡式土器に見られる文様をもつ。 馬見塚遺跡出土」とある。この出土品は、かつてたくさんあったはずの縄文時代遺物の偶然に運よく残っていて掘り出された数少ない一つなのだろう。口辺に沿う二本の線が左右から合わさって下へ降りるところが四カ所ある。線は底近くをめぐってそれぞれ輪になる。口縁部に盛りあがる部分はない。細かい混じりものの出た白っぽい肌は固い感じで石づくりの器に見える。出土部分が見分けられないほど精巧なつくりだ。ただ、内側には横にならしたらしい様子が見える。これはいつおこなわれた作業だろうかと思う。 弥生土器文化は北九州で始まるとまもなく急速に西日本を東に進み、この濃尾平野まで達したという【図-aiti-3】。この赤いラインは平野に出ると緑いろのラインからはなれていく。この二本線のあいだが縄文時代後期から晩期にかけて海岸線が南下した範囲なのだ。ところが、さきの【図-aiti-2】の縄文遺跡分布図は六〇〇〇年以前にかぎった資料ではないのに、なぜかこの範囲に縄文遺跡はほとんど見られない。弥生時代遺跡の分布は丘陵地や丘陵地に近い自然堤防や後背湿地帯に多い。平野にひろがった微高地はやはり川すじの流れが不安定で稲作に適さなかったのか、あるいはこれも古墳時代以後に破壊されてしまったのか。遺跡の発掘は建物や鉄道、道路建設の際に事前におこなわれることが多いので、結果として建設工事の多い市街地やその近くに多く見られるのかもしれない。しかし、名神高速道路も東海道新幹線も濃尾平野の真ん中、自然堤防や後背湿地のひろがる中を走っている。 朝日貝塚遺跡。三つの自治体の境界線上にある広大な遺跡。遺跡の主要部分は名古屋市西区、旧清洲町、春日町にまたがっている。一帯はもともと農地がひろがっていたところだが現在は住宅や小工場が密集している。遺跡内には幹線道路と高速道路が交差し、さらに都市高速道路が加わって巨大なジャンクションが設けられている。 愛知県清洲貝殻山資料館の敷地入り口に立てられた説明パネル。 「国指定史跡 貝殻山貝塚 昭和四六年十二月一五日指定 貝殻山貝塚は、濃尾平野北部の木曽川の形成した犬山扇状地と南部の名古屋台地にはさまれた、標高五メートル以下の低い沖積地に立地する弥生時代の貝塚を中心とした遺跡である。 この遺跡は、古くから前期弥生文化の東ざん地域の東縁に位置するものとして著名であった。 戦前戦後の数次にわたる発掘調査によると、貝塚は経約一五メートルほどの規模のものが三カ所あり、主に鹹水性のカキ、ハマグリと淡水性のシジミからなり、主として前期と中期の遺物をともなっているが、貝塚周辺一帯には前期から後期におよぶ包含層がひろがっていることが判明している。したがって、遺跡全体としては、出土遺物は前期から後期におよぶが、とくに、いわゆる遠賀川系土器と縄文式土器の系統をひく条痕文土器の共存する状況は、前期弥生文化と在来文化の関係を示す重要な資料であり、骨銛、骨鏃などの比較的多い骨製品にもみるべきのもがある。 このように、貝殻山貝塚は弥生文化が東海地方に定着していった実相を明らかにする遺跡として重要であり貝殻山貝塚を中心とした約一.一ヘクタールの地域を指定する。」 この資料館敷地内には三つの貝塚が地面から盛りあがっている。資料館に置かれたパンフレット「遺跡MAP」によると、ほかに環濠の一部が敷地内に確保されている。敷地以外ではジャンクソン建設のときの調査区域の出土状態が工事の際のままの大きな十文字形で示されている。このほかにも、個人住宅や集合住宅、小工場などの建設された遺跡部分がたくさんあるがその出土状態はほとんど空白だ。 この遺跡については遺跡発掘の情報が詳しく解説された【サイト】がある。これは先頃リニューアルされている。資料館の情報を補うものとしても効果があるが、それにしても、本来の資料館そのものがものさびしい。【ウィキペディア】には清洲貝殻山遺跡の縄文時代について現在つぎのような記述がある。 * 縄文中期末の土器が出土している。 * 縄文後期前葉にドングリ貯蔵穴が設けられる。 * 縄文晩期前半の土器片が出土している。 後日、衣浦湾の奥の縄文遺跡名をたしかめに愛知県埋蔵文化財センターを訪ねた際、ガラスケースの中に清洲遺跡出土の二つの縄文式土器を見た。 これらは清洲貝殻山資料館ではなく県埋蔵文化財センターに保管されていたのだ。これらの縄文式土器について資料館の展示やパンフレット、HPなどではほとんどなにも触れていない。かつて、濃尾平野の奥深くまで湿地のひろがったこの地にも縄文人が住んでいた。その時期は縄文中期末から晩期前半にかけて何度かあったらしい。これらの土器は、木曽川流域あるいは伊那盆地を経て中央高地とつながっているらしい。かれらは濃尾平野の背後の丘陵地帯から出てきて南に広がった湿地帯を前に低い丘を見つけてはそこに住み着いた。この地は北の馬見塚遺跡から直線距離で約九キロはなれている。 【401】 作り手は器の厚みをできるかぎり薄くしたかったらしい。口縁ではすぐ内側に浅い段がめぐり、一カ所だけわずかに高まって浅く丸いへこみを内に見せる。直線で整理された文様はかなり規則的だ。上下をつなぐ部分は直線が交差するのではなく、互いの頂点が向き合って接している。それも注意ぶかく正確に接している。おなじかたむきの直線を交差させたらかんたんによく似た模様になるがそれではいけないなにかがあるのだ。側面のなめらかな輪郭線は中央高地の土器の繊細な感覚を思わせる。 【402】 失われた部分が多いせいか、元のよいかたちが十分に復元されていないのかもしれない。底面積が小さいので、よほど静かな場所でないといつまでもこのまま立っていられるとは思えない。口縁の突起やふくらんだ胴の文様、器の輪郭は北陸地方のあのはでな土器の基本形のようにも思われる。上に立つ二つの突起にはふしぎな中空部分もある。このかたちはすでに実用的ではなく視覚にうったえて人の心をつかもうとする力がある。あの火炎土器のようにごてごてしていないのでかえって純粋にそれを感じさせるのかもしれない。 名古屋市南区笠寺観音の近くに名古屋市見晴台考古資料館がある。ここは6000年前の縄文海進の際の波打ちぎわ近くだったらしい。資料館は北東から降りてきた丘陵地の先端に建てられている。建物の南に出るとそこで台地がおわっていて、そのやや高い位置から西や南に広がる街々を見晴らすことができる。西の方を見下ろすと大きな瓦屋根の寺院が見えて伽藍の前に赤や白ののぼりがたくさんはためく。一帯は弥生遺跡の保存をかねて笠寺公園として整備されつつあるという。 資料館のパンフレット「見晴らし台遺跡のあらまし ー 見晴らし台遺跡には、旧石器時代から現代に至る人々の暮らしの跡が残されています。 この地がもっとも栄えたのは、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけてです。弥生時代にはムラのまわりに壕(幅4m、深さ4m)が掘られており、防御的な役割を果たしていたと考えられています。竪穴住居跡も現在までに約200軒が見つかっており、家を建て替えながら住んでいた状況がわかります。 古墳時代には遺構・遺物が少なくなりますが、古代以降になると家の跡や、遺物が多く見つかっています。近世以降は畑地として利用されていたようですが、太平洋戦争中は高射砲陣地となり、当時の高射砲の台座が現在でも公園内に残されています。」 資料館の人に縄文土器について聞くと、縄文時代の遺物は少ないが、貯蔵穴の跡が見つかり土器も出ているという。 ことし(平成二十一年)の春、資料館の常設展では見晴台遺跡出土土器・石器を中心に紹介している。早速ふたたび訪れてみる。その土器は一つだけ透明なケースの中に置かれていた。小振りの、少しすぼまった底の丸い土器。側面を丹念に見てもとくに文様は見つからない。口縁に意図して盛り上げたような部分もない。 縄文時代晩期の貯蔵穴の跡と土器が見つかったのは高台を降りた下の公園だという。そこでは弥生時代の環濠跡も見つかっている。縄文時代の痕跡は弥生人が環濠を掘り進むときに、ちょうどたまたまわきに逸れていたのだ。このあたりには中世に寺院が多かったというし、畑地として利用されたともいう。この土器は今までに無数の破壊の場面をかいくぐってきて、文字通りようやく日の目を見たのだ。当然、私が見たいと思うような多くの土器がここにも確かに埋まっていたのだ。その器の数々は幾たびか掘り返されては粉みじんに砕かれ姿を消したにちがいない。 【図-aiti-3】の右下にある西中遺跡は知立市にある。すぐ南の衣浦湾は知多半島の東側に裂けるように深く陥入している。ここから愛知県の東半分をしめる三河地方がはじまる。知立市歴史民俗資料館では平成二十一年初めに「遺跡にみる知立」が企画展示された。その解説資料に、「古衣ヶ浦湾 ー …。今から15000年前ころには長く続いた氷河時代も終わり、暖かい気候になってきました。地球の温暖化により氷が溶け、9000年前?5000年前までにかけて急激に海水面が高くなり、境川、逢妻川、猿渡川の中流まで海水が進入しました。 衣ヶ浦湾沿岸は縄文人にとって住みよい環境であったらしく、縄文遺跡が集中しています。」とある。 地形図の緑色のラインに合わせてみると、今から6000年前ころは海岸線が国道1号線のあたりにまで達していたことになる。現在展示されている縄文式土器は「埋甕として使われた深鉢」(間瀬口遺跡B地区出土)と表示された器の上部が一つ。たくさんある弥生土器のうち、一つだけ独立したガラスケースに入れられて「条痕文土器」(荒新切遺跡D地区出土)【図-400】と表示されたのがある。このかたちは煮炊き用の土器としてずいぶん古くからよくあるかたちだ。解説資料に、「猿渡川中流域の西中地区の台地上には遺跡が多く、それらは西中遺跡群と総称されています。このうち、天神遺跡や中長遺跡、荒新切遺跡などでは、条痕文土器という土器が出土しています。表面に貝殻の縁でひきかいた無数のすじの模様があることが特徴です。この土器が使われていたころは、稲作をともなう新たな文化ー弥生文化ーが西から波及してきた時期にあたりますが、この条痕文土器には縄文土器の要素が強く残ります。…。」とある。 弥生文化が濃尾平野に達したとき、そこはあまりに奥深く広がった湿地帯で、幾筋にも分かれた三つの河川が絶えず氾濫をくりかえす土地だったという。そこに毎年安定した水田を保つことはたいへん困難だったらしい。ここまできて弥生文化の伝播の様はやや足踏みをしていたのだ。そのために三河地方への弥生文化の影響はゆっくりと進むことになったのかもしれない。遠い西方の村々では稲作技術が文化をも圧倒する急なはげしい勢いで進んできたのにくらべて、この地では在来の文化が徐々にその姿を変えていくための時間があったのだろう。こうした場合にはこれまでの縄文遺跡が運よくのこされていく可能性もやや高かったのではないかと思われる。 2 関東平野 関東平野の西、多摩川の南に広がるゆるやかな丘陵地帯は今では住宅地が延々とつづく人口密集の地である。この住宅地の中を西へ西へと車を走らせるとそのまま津久井湖に行き着いてしまう。この先はまもなく相模湖畔に出て道はようやく山に入り、山梨県に出る。 多摩丘陵地帯では昭和四〇年代に「多摩ニュータウン」として大規模な住宅建設がおこなわれた。東京都多摩市にある東京都埋蔵文化財センターにはその際の遺跡調査による出土物がたくさん保存されている。 ( 150 ・152 ・153はすでに前に参照したもの。) センターで作成された資料「多摩の遺跡と遺物 多摩のむかしを訪ねて?はじめに」ではつぎのように述べている。「…。多摩ニュータウン地域内における埋蔵文化財調査の成果により、旧石器時代から縄文時代・弥生時代・古墳時代・奈良?平安時代・中世?近世へと、丘陵地に生活した人々が絶えるとなく見られ、地域が古くから多目的に利用されてきたこと等が分かります。また、平成一六年一月現在の総遺跡数は964ヵ所となりました。」 【主要遺跡の分布】、【各時代の遺跡一覧】(「中世・近世」を除く)。 旧石器時代はとてつもなく長い時間だし、縄文時代草創期も数千年もつづいたのだからこれらの遺跡数は決して多くはないのだろう。この地域で人影が濃くなるのは早期・前期・中期のあいだだ。後期には急に遺跡がまばらになり、それは古墳時代まで回復しない。古墳時代からふたたび多くの人々がこの丘陵地に住みはじめるのだ。関東各地の展示館を訪れてそのパネルの解説をたびたびひろい読みすると、この人口の増減は同じころに広い範囲でおこっていたことが分かる。 分布図には多くの沢の跡が克明に描かれている。これを見ていると、開けた川筋や雑木林の中の窪地、森の端の沢を人影もまばらに動き回るかれらの姿を思い浮かべる。現在では、すき間もなく集まった住宅地の中にかくれるように大栗川、乞田川、三沢川がようやくなんとか東へ流れている。当時は三つの川にこの図のように多くの沢が集まっていた。その沢の一つ一つがかれらにとって毎日の大事な生活の場だったのだろう。この分布図は、あたかも関東平野の中のごくかぎられた部分を切り取ってきたもののように見える。これと同じような場がこの広い平野や丘陵地にどこまでも広がっていたにちがいない。 時代ごとの遺跡分布を見ていると境川の北側にはどの時代にも遺跡が多い。この分布図にあらわされた境川の両端を底辺とし、多摩センターのあたりを頂点とするやや倒れた三角形の範囲では各時代を通して遺跡数が多い。当時は境川を望む南斜面として住みやすい場所だったのだろうか。ネットの地図で上空からの写真表示にして見ると、この部分の境川の北側ではまだ住宅などは少なく樹木の多い様子が分かる。標高は100メートル前後で周囲よりはやや高いようだ。ここでおこなわれた遺跡発掘は、開発の際の事前発掘調査ではないのかもしれない。 分布図では境川流域は西端にわずかな部分を示しているにすぎない。この川は相模原台地を東に迂回して南下し相模湾に注いでいる。遺跡分布密度の高い部分はこの川の流域をさらに南へつづいているのかもしれない。いつか流域の街、大和市で縄文時代草創期の土器を見た(つる舞の里歴史資料館)【図 -220】。草創期の土器でありながらこのように網目模様で飾られている。七千年以上前の人々の生活の場にこの網目模様の器があったのだ。大和市は分布図の下の端からさらに一〇キロほど境川下流にある。そこからさらに直線距離で北東に十キロほどはなれて草創期の土器が出土した花見山遺跡(横浜市都筑区見花山町)があるという。実際に行ったことはないが、地図で見るとそこはすでに学校の広い敷地であったり、住宅団地がひろがっている。ここで発掘された土器を横浜市歴史博物館で見た【図 -223?225】。この三つの土器の底が丸いのは【図 -220】と同じだ。これまでに私は、ほかの草創期の土器として底がとがっているものをたくさん見た。ここ関東西部では、これらと同じような土器破片として底の丸い部分も実際に出土したのかもしれない。また、草創期はその期間が幅広いので時期にちがいがあるのかもしれない。それはともかく、底がとがっているものと丸いものとでは容器の使い方、使い道にちがいがあるように思う。 多摩遺跡の分布図では、縄文時代草創期の遺跡はまばらだ。土器が見つかった遺跡はさらにごくわずかだ。それでも、石器の見つかった遺跡の方は各沢すじに広く散らばっている。この時期にも人々はまばらにではあるがすでに平野全体に住み続けていたようだ。 埋蔵文化財センターの外に出て縄文の森を見た。すでにまわりはビルや広い舗装道路、すき間なく埋める家々の屋根、絶えず列車の走り抜ける鉄道線路などに囲まれて小さく取り残された森だ(多摩ニュータウンNo.57遺跡、昭和四十五年から発掘)。遺跡内に復元された住居跡のかたわらに説明パネルがある。「この場所は、北側の乞田川に向かって舌状にのびる台地の上に残された、典型的な縄文時代集落の跡でした。…。」遺跡内の別の場所に竪穴式住居が復元さている。近づくと屋根の破風にあたる部分から青い煙がただよい出ている。ここでは実際に炉に火を入れているのだ。中にはいると内側の茅、柱、縄はすべて炉の煙で赤黒くすすけている。ちょうど炉の火の燃え具合を見ていた係の人の話では、見学者たちが予定されるときにときどきこうして炉に火を入れることで当時の様子がよりよく再現できる。それに火の入った炉の熱や煙は家屋の老朽化を防ぐのだという。そうだ。これはつい最近まで人々がどこでも住んでいた茅葺きの民家と同じなのだ。この当然のあるべき姿をここではきちんと見せている。多くの復元家屋は造られたまま人気もなく放置される。それらは外から見てなんとかかたちを保ってはいるが、一歩なかにはいると内部のすべては無惨にも冷え冷えとしてまさしく廃屋なのだ。この復元家屋の腰板にあたる部分は茅を束ねて同じ長さに切りそろえたものを均一に取り付けている。このあたたかい壁は土間の敷物の上にあぐらをかいた人の背を気持ちよく支えただろう。あるいは低い台をこの壁に寄せてそこに人は横たわったかもしれない。たとえ事実が確かめられなくても、人々の当然もっていた豊かな感性を思えば、かれらが日ごろの生活の中であれこれ試みたり工夫したりしたであろうことはじゅうぶんに想像できる。 この遺跡内に残されて維持されている森の中には、それぞれの場所に向かう小径がめぐっている。この道は今では多くの見学者がふみ歩く道だがかつては落ち葉や小枝におおわれたけものみちのようなものだったのだろう。その少し降りていく途中に水場というのがある。そこは今でも涸れないで少しづつ水がしみ出している。木々の茂る中をまた少しあがっていくと日のあたるひらけたところに出る。木の幹や草の中に「トチノキ」とか「タラノキ」とか示した小さい名札がある。「<ユリ科>アマドコロ 地下茎や春の新芽が食べられる。地下茎は一年中いつでも採取できるが、若芽は5?10cmのときが食べ頃で、採取時期は3?5月。」タラノキの新芽が四月の大気の中でみずみずしい。 遺跡分布図の左端に境川の一部が示される。この対岸の神奈川県相模原市には新しく博物館ができている。 その相模原市立博物館を最近になって訪ねることができた。木立にかこまれた建物は「常設展示解説書」によると、平成七年に開館している。ここは総合博物館で、とくに相模原台地を中心とした地質・地形展示が充実している。展示室にはいるとすぐ、巨大な地質図を見ることができる。その【関東地方の地質】図はあざやかに色分けされ各地質時代の岩石組成ごとに細かく区分されている。相模原台地の部分はくっきりとブルーで彩られて、ピンクや黄色の多摩丘陵のあたりとはあきらかにちがう。「展示解説書」の説明によると「(p16)相模原の段丘が形成された約一〇万?一万年前は、気候変化史のうちの最後の氷期にあたる時代で、さまざまな地形の変化をもたらしました。…。この頃から富士山や箱根山をはじめとする、現在の日本の主な火山が噴火活動を開始し、各地に火山灰を降らせました。」 台地には九万年ほど前に遠く九州阿蘇山の噴火による火山灰がふりつもった。近くでは、台地の西側に位置する富士山はたびたび噴火をくりかえし、今から約一万七〇〇〇、一万四〇〇〇年前には噴火の際に「富士相模川泥流」といわれる泥流が少なくとも三回にわたって発生した。「(p20)…。この頃は、地球規模で気温の低い最終氷期の後期で、富士山頂には大量の雪や、あるいは氷河があったものと考えられます。ちょうどこの時期に富士山で噴火が起こったため、噴出物が雪や氷を溶かして土砂と水とが混ざり、流動化を起こして相模川を流れ下ったものと考えられます。」 そこで、手元の地図上で相模川の上流をたどってみる。川を北西にさかのぼると津久井湖、相模湖を経て現在の甲州街道沿いに西に向かう。やがて山梨県にはいる。大月に至って南西に向きを変え富士吉田市を通って最後は山中湖に至る。相模川の上流は丹沢山地を北へ大きく迂回して富士山麓に行き着くのだ。色分けした例の地質図で見ると、富士山はふもとも含めて全体が紫色(第四紀後期火山岩類)に塗られている。その紫色が河口湖と山中湖のあいだを細い帯のようにのびて大月あたりにまで達している。これは流れ出た溶岩の長い帯だろうか。ほかにも濃い黄色や緑色が相模川沿いに大きく弧を描く。相模川はことなる組成の岩石のあいだをぬうように流れている。そこは周囲よりも少し低いのだ。この弧に沿って現在の鉄道も高速道路も通っている。この巨大な円弧は、もともと太古の富士山噴火の際に関東山地と丹沢山地のあいだを泥流が東方へ流れ出た道だったのだ。また、この道は古くから人々が険しい山地や深い森をさけて往来する道でもあったのだろう。多摩丘陵に姿を見せる後期旧石器時代の人々も、甲府盆地や中央高地、おそらくは野尻湖周辺にまで遊動の範囲を広げてここを行き来していたのかもしれない。 同書「原始の人々ー縄文時代(p28)…。相模原市では、勝坂遺跡で草創期の住居も発見されるなど、古い時代の遺跡も見られますが集落が確認されるのは、今のところ前期.後期にかけての時代だけで集落文化が繁栄するのは中期の中頃.後半にかけての約1000年間です。」出土した石器や土器が展示されて、パネルの図、相模原台地周辺の【縄文時代の遺跡分布】が掲げられる。それを見ると台地そのものに遺跡は意外に少なく、それにくらべて多摩丘陵など境川の北側や東側の方がずっと多い。これは台地が比較的平坦で入り組んだ沢などが少なく、とうぜん植生も丘陵地帯とはちがっていたことと関係があるのだろう。勝坂遺跡の位置は相模川のそばを並行して流れる支流、鳩川の近くだ。人々はおもに相模川の河岸段丘と台地東の境川近くに住んでいたらしい。 【図- 403】勝坂式土器。このなかまの土器は関東平野の西部や甲府 盆地、中央高地で非常にたくさん見る。このはでな文様を器に描いた人々がこれらの地方でたいへん栄えた時期があったのだ。器のりんかくは左右対称を保ちながら、口辺の突起のかたちや胴の文様はそのことをまったく気にしていない。表面は細部にいたるまで非常にていねいに仕上げられている。部分をかこむ区画線はあくまで平行する二本線で、その角はかならず丸みをもつ。それは一種独特のなめらかさだ。そのなめらかさはすべての文様、突起、りんかくに見られる。規則にとらわれない自由な模様の配置が、突起部分の面のゆるやかな隆起と陥没が、きざまれた線のなめらかな行き先が器のデザインをきめ雰囲気をきめている。ある部分のかたちによっては、そのことが見る者になにかの生きもののかたちを連想させたりする。それは確かに生きているらしいもののかたちではあるが、実際にヒトやカエルやヘビを当時の作り手が意識していたとはかぎらないように思う。それはどの生きものにも当てはまる生きものの要素のようなものなのかもしれない。 【図- 404】加曽利式土器。この大きくひらいた上部を両手で支えて持ちあげることがよくあったのだと思う。また、胴部を腕に抱えることもあったにちがいない。表面の突起の少ないしあげ方と、りんかくの見事な曲線がそんなことを思わせる。胴のやや左下がりの細かい斜線は最後にもういちどあらためてきざんだものだろう。右利きの人が器を少しずつまわしながら克明にきざんだ線だ。 このかたちは、食物を出し入れするのに適していたのだろうか。器を炉の中に立てたときには、まわりをとり囲んだそれぞれがスープをすくい出すのに都合がよかったのかもしれない。 【図- 405】曽利式土器。このかたちは、いかにも「いれもの」のすがたそのものだ。開け放された口と細ひもできつく締められたくびれ、その下の中身を思わせるふくらみ。りんかくはきびしく整理され、上下の対比が強調される。このかたちをたくさん見るのは、そんないれものの姿を多くの人々が常日ごろ眼にしていて、また、好んだからなのだろう。 神奈川県寒川町岡田遺跡。相模原市立博物館で「常設展示解説書」といっしょに購入した図録「平成18年度秋期特別展、相模川・桂川流域の縄文時代ー川に結ばれた先人の暮らしー」を見ていると相模川下流の寒川町というところに岡田遺跡というのが出てくる。縄文時代中期のかなり大規模な遺跡とある。図録にはその遺跡から出土した深鉢などが精細なカラー写真で載せられている。そこで寒川町役場に連絡を取り、日取りをきめて出かけた。 道を南に向かう。ナビの地図では右手に相模川が流れているらしい。寒川町に入ってしばらくすると前方に森にかこまれた大きな神社がみえてくる。めざす寒川町文化財学習センターは街の中の小学校の校内にある。校門とは別になった入り口をなんとか見つける。玄関をはいるとすぐ遺跡出土品の展示コーナーがある。 パネル「寒川の縄文時代の遺跡 ・ 町内の主な縄文時代の遺跡には、岡田遺跡や大蔵東原遺跡、小出川改修関連遺跡群などがあります。 岡田遺跡では、縄文時代中期の住居跡が500軒以上も発見されています。遺跡の全体を発掘すれば1000軒近くに上るものとみられますが、これは600年近い年月の中での数ですから、実際のところは数軒?十数軒の住居からなる集落が長い期間にわたって続いた結果といえるでしょう。 縄文時代中期は日本各地に大規模な集落がつくられた時期ですが、その中でも、岡田遺跡は最大級の規模を誇るものと考えられています。 …。」 パネル「弥生時代 ・ …。…。ひとくちに弥生時代といっても、コメ作りや文化の伝わり方は地域によって異なり、日本全国に全く同じ文化が一律に定着したわけではなかったようです。南関東での本格的なコメ作りの開始は、西日本に比べ200?300年ほど遅れますし、土器の装飾に縄文が用いられるなど、前時代からの伝統も受けつぎながら、新しい技術や文化を取り入れていったのだと考えられています。」 昔の寒川町の地形を三通りに表したパネルがある。その図は異なった時代の海岸線などの変化を表している。図には現在の鉄道路線も重ねてある。 パネル「地形の変化 ・ 今から約6000年前ころの縄文時代前期、地球は今よりずっと温かかったといわれています。このことは、南極・北極の氷河が溶けることで海水面の上昇、つまり海水の内陸への進入という結果となってあらわれます(縄文海進)。こののち、少しずつ涼しくなり、およそ五〇〇〇年前ころに現在と同じ気候になったと考えられています。その結果、海水も次第に退いていきます(海退)。 上の一番右側の図は、海水が最も内陸に入ってきたときの様子をえがいたものです。寒川駅などの位置からも分かるように、町の西側と南側の大部分が海であった様子がうかがえます。 …。 中央の図は、縄文時代の中ごろの寒川周辺の地形をあらわしたもので、海岸線がかなり後退している様子が分かります。その後、河川の上流から運ばれた土砂が堆積することによって、平らな土地が広がっていき、左の図のように現在の地形へと移り変わっていきます。」 町内の子ども達がやって来てこのパネルの図を見たら、自分の家が六〇〇〇年前に海だったところに建っているのを知って驚くこともあるだろう。岡田遺跡は町の東部、茅ヶ崎市や藤沢市との境界に近い小出川沿いの高台にある。ネットの地図を拡大してみると、そこは今では大きな住宅団地になっている。つぎにまた大規模に遺跡発掘がおこなわれるのはこの団地とその周辺が広く再開発されるときだろう。しかし、遺跡の地表からの深さによっては、すでにそのほとんどが破壊されているのかもしれない。 玄関ホールに設けられた展示コーナーに出土品の一部が展示されている。ところが図録に載っていた目ざす土器は見あたらない。出迎えてくれた係の人の話では、この土器は町内の寒川神社にたまたま貸し出されているのだという。かれは、「これとよく似たのがまだあるはずです。」と収蔵庫へ案内してくれる。収蔵庫には背の高い棚がたくさんならび、出土品をつめた箱がびっしりならんでいる。いろいろ箱を開けてもらってその一部の写真を撮らせてもらったが、完全な形まで復元された土器でこれはというものはとうとう出てこなかった。 【図- 406】側面の文様は細いねんどひもがはがれ落ちているので、それらの分を頭の中で復元してみる。するとこの文様には一風変わった華やかさがあっておもしろい。開いた口では、あがってきた斜めの線がやや巻きこまれて丸みを出す。これもくびれの部分に二本のひもを締めている。文様の下地には細い線がすき間なく降りる。その線がそれぞれ自然にとぎれて消えたようになって、いっそう器の姿を繊細に見せる。そんなふうに見えるのは、底の部分が出土していないせいかもしれないが判別できない。 関東平野は列島では最も広い原野であった。太古、人々は東の房総半島や、遠く東北の地からもやってきたにちがいない。何代も世代を継ぎながら長い時間をかけて。西は相模川をさかのぼって甲府盆地や中央高地、さらには日本海側の地にもつながりがあったのだろう。定住の度合いを強めてからも、その記憶は世代を越えて伝えられていたにちがいない。そのあいだにも関東平野はたびたび姿を変えている。六〇〇〇年前には相模湾も東京湾も海が深く入り込み、現在の台地や多くの沢がある山あいの地は海に張り出した崖や岬となっていた。かつて海を望む崖や岬に住んだ人々の痕跡は貝塚や集落の遺跡として残された。代を重ねてやがて弥生文化を受け入れた人々にも、それは遠い記憶としてなにかのかたちで残されていたのかもしれない。 現在、関東平野ではすべての土地に多くの人が棲みつき、残されたすき間はほんのわずかしかない。たぶん、これは他の平野にはあまりないことだ。現代の集まりすぎた人々は、かつての奥深い雑木林の続いていた丘陵地や桑畑が広がっていた台地にもあふれ、その土地の大部分を現代の建物で埋め尽くしてしまった。関東平野では、六〇〇〇年前の人々が住んだ多くの土地が今もつぎつぎに掘り返されている。 2019-10-3 |