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 亀ヶ岡・ 御所川原へ                               
               2002.08.28(水)-02-09-11(水)
 



28水
 夕刻、海老名Saは人も車も満員だった。急にだれもかれもここに入ってきたのだろうか。ちょうど5時だから、あと1時間もすれば東北道に入れると思って海老名を出たがとんでもないまちがい。首都高速は渋滞の連続だった。ようやく両国を通ったときはすでに暗く、川口の手前で7時を過ぎた。日没直後のドライブは疲れる。ライトのまぶしさや絶えず視界をよぎる影のせいだけではない。暗くなったばかりは、誰もが余裕がなく急いでいる。


29木
 那珂川で新しい水族館を見た。駐車場に入ると開館のアナウンス。ちょうど9時半に着いた。ほとんどは淡水魚で那珂川の治水関係の役所が関わっているらしい。広い駐車場で誘導を担当している制服の男性に「ここには何があるの。」と聞くと、「アマゾンのピラルクが目玉でしょうか。」という。アクリルのトンネルを通した大きな池に「これは世界中の淡水魚か」と思うほどいろいろな魚が泳ぎ回る。ここでは、日光の入る建物の内部に大きな池を作りその水面下に透明なトンネルや窓を設けて観覧させる。大小のコイ科の魚、ナマズ類、エイの仲間など。見慣れた熱帯魚が群れる。アロワナやピラルクもいる。建物の上部は温室になっていて植物が茂る。上の通路に出て池を見下ろすとアロワナ数匹が互いに弧を描いて泳ぎ回る。この魚を初めて上から見た。茶色っぽい背を見せた体は細く頭の先は鋭く尖っている。 カワムツだけの大きな水槽がある。成長した雄は、追星がひどく出て赤い顔は鬼のよう。タナゴ類にはそれぞれの水槽があって、ミヤコタナゴ、ヤリタナゴ、ゼニタナゴ、トンキンカゼトゲタナゴなどがいる。ここのタナゴ達は思ったよりゆったり泳ぐ。それで、すぐ近くに来た魚をゆっくり見ることができる。ミヤコタナゴの雄のからだは、よく見ると不思議な紫色をしている。


30(金)
 今日もちょうど9時半に岩手県立博物館に着いた。一通り「化石」「考古」を見終わって、部屋の担当者に撮影について聞いてみた。彼女は、「いいえ、何も制限はございません。どうぞ自由に写してください。」という。<土器はこのように制作されたであろう。>と、半製品の土器を展示している。土器文様の制作過程を写す。側に縄文後期・晩期の土器が並ぶ。
 渦巻き模様がリズミカルにほどよく並ぶ土器<図>。これは、まるでロココ風の縄文。文様の渦巻きは華やかに舞い、口辺では3つの峰がしなやかにうねりを見せる。そのうねりに沿って細い溝が刻まれる。溝には1列にびっしりと細かい穴が穿たれて陰影を濃くする。この溝を1本添えることで口辺の特異なかたちを一層きわだたせている。ここから数本の帯が下に垂らされて下に消えていく。植物の蔓のように伸びる渦巻きはこの帯から流れ出たり、あるいは他から近づいて帯に接したり、また、互いにつながったりしている。直線や直線のつくる鋭利な角はどこにもない。容器のすべては軽やかな軟らかい線に包まれる。この完璧な調和を誰が求めたのだろうか。
 隣に置かれたのは、上部の造りがおもしろい不思議な鉢<図>。「注口付鉢」と名付けて展示される。この注ぎ口はいかにも機能的に意味ありげだが、実際には上部をデザインするなかで作り出されたかたちだろう。ふつう、鉢の注ぎ口なら口辺の一部を低めて外へのばすだけでいい。容器の上部は、あたかも何かの通路の内部を見せているかのようだ。口辺にめぐらしたトンネルの壁をわざわざ大きくえぐって切り取ったように見える。ここには内を外から隔てる壁がある。内部をめぐる通路がある。
 結果として、部分的に残された8箇所で大小4つずつのさまざまな形の頂点をつくる。その一つである注ぎ口は、独特の切り口で開いている。内側の縁が頂点をのぼりくだって注ぎ口の縁をつくる。ここでも「線をたどる」意欲が発揮される。注ぎ口は円筒形ではない。上が水平に近いのはなぜか。ここを左右へ通り過ぎる通路と容器から流れる液体の通路とが交叉するためか。口は、ありふれたただの液体を通すには太すぎはしないか。
 思うに、作り手はこの構築物を作ることに熱中しているようだ。だが、それは不意に見せられた者の戸惑いながらの思いこみで、これも多くの人々によって繰り返し行われた型式の一つにすぎないのかもしれない。そうして、さらに見ていて思うに、やはりその型式を求めた者(人々)が確かにいたはずなのだが。
 下の段に置かれた注口土器<図>は実用的ではない。上に支えあげた輪の上に乗せて展示している。底はゆるやかに丸みを帯びる。普通はあり得ないことだが、短い注ぎ口が胴部の下の方に付いていて液体は容器の底の方にしか溜まらないはず。儀式で、ほんのかたちだけ少しずつ注ぎ分けるという使い方か。むしろ、この形なら注ぎ口に灯心を差し込み上から油を入れて灯りとするか。または、香りのよい草木の枯れたのを入れて焚きこみ香りを楽しむか。これらの場合、注ぎ口は消極的なただの穴か通風口でしかないのだが。これは容器本来の使用方法を思うとき、あまりにも常識を欠いたかたちなのだ。液体を溜め注ぎ分ける容器が日常生活の中でどんな場面を繰り返すと、こんなかたちになるのだろうか。これも黒い表面は滑らかによく磨かれていて、まるで金属器のような固い質感がある。この注口土器の形、文様はよく見る。この時期、同じパターンが同じ使いみちで広く行き渡っていたものらしい。
 次のコーナーに諏訪市で見たカップに似たものがある<図>。同じくらいの大きさで、こちらも小さな子供の両手にもちょうど入りそう。ただ、台はこちらの方が華奢にできている。作り手の眼は主に上部の細かい装飾に注がれている。また、全体の優しい輪郭を愛でている。日用品ではなく、何かの目的で決まった場所に置いてながめることが多かったのだ。
 博物館は自然・民俗・歴史・科学と全てを網羅している。巨大な古代生物の化石骨格が復元されている。岩石標本の詳しい展示がある。鉄鉱石、黄銅鉱、金を含む標本。鷲鷹類の見事な生態剥製標本。これもほとんど全ての種類かと思われる数。「夏休み特別展示、これだけは触ってもいいです」と羽を広げてはばたく大きな鷲がいる。艶のある羽根に触れるとすべすべしている。すぐ下は思いがけず堅くぎょっとする。明るい空と谷や断崖を作って見せるドーム。断崖の鷲の巣をのぞき込む。外に出て改めて振り返ると、建物もずいぶん大きい。壁も道も階段も橋も、全部堅固な陶のタイルを貼っている。別に「曲がり家」が移築されている。中は暗く古いにおいがする。これは使われている様子の展示ではなく、保存が主だ。通路にツクバネウツギの生け垣。細かい葉も光って、南の方のは輝いて見える。階段のところにハマナスの植え込みがあって大粒の赤い実がたくさんなっている。階段の下では萩が咲き始める。


31(土)
 きのうは田沢湖で休憩し秋田自動車道に入った。今日は忙しかった。秋田県立博物館は展示室の改装中で大部分閉鎖中だ。県内の資料館の地図をもらって出てから、庭の松の<写真>名前を聞きに戻った。博物館で知った人はなく方々へ問い合わせてくれた。それでも、いろいろ都合が悪く分からなかった。自分で調べることを告げて礼を云い男鹿水族館に向かう。男鹿市に入って半島の北へ出る。さらに西へ向かうと峠を越え戸賀湾の浜に出る。水族館はは今日が最終日で、明日から新しい建物に建て替えるため休館する。以前の駐車場ではすでに工事中で、指示される道はどんどん上がって行って心配になったが上の臨時駐車場には無料送迎バスがあった。大水槽のピラルクは4匹だった。今日、彼らは水槽中をゆっくり回遊している。窓のすぐ近くで向きを変えるので、銀色に光る太い胴から、尾びれに近い赤い大きな鱗まではっきりと見せる。アロワナはいない。大ナマズとピラニアに近縁の大きな魚がたくさん泳いでいた。来た道を戻る。海水浴場のある浜辺に沿ってハマナスの花が咲いている。白い花も咲いている。<写真>
 八郎潟干拓地のほぼ真ん中ををまっすぐ東へ進む道路がある。いま、よく晴れた昼過ぎ、車はほとんど通らない。ときどき、水路や道路が不意に現れては直角に横切るが道の大部分は両脇を藪に囲まれて他に何もない。やがて干拓地の周辺に残された幅広い水路がある。その水路に架けられた橋を渡り八郎潟の堤防を越えると琴丘町に至る。かつての八郎潟のほとりにある町だ。
 ここの歴史民俗資料館は縄文館と三種の館という二つの建物からなる。縄文館には縄文晩期までの土器や土笛などが展示されている。「高石野遺跡」と題されるパネルには以下のように説明される。
 [ 高石野遺跡は山谷地区の南、八郎潟東岸の海浜段丘上に位置します。ここは縄文時代中期〜晩期にかけての遺物が多く発見され、中でも昭和57年には全国的にもめずらしい土笛が発見されました。その後、平成6年からの調査では、ここが主に縄文時代晩期の土器などの廃棄場所「捨て場」であることが分かりました。
 遺跡からは大量の土器や石器のほかに、住居も発見されました。写真のような直径1mほどの炉を持つもので、縄文時代晩期の頃と思われます。また、沢山の催事用の土器や土製品が見つかっていることから、たんなる「捨て場」ではなく、この住居で儀式をするための場所であったのではないかと考えられています。] パネルの横には、住居内に見つかった炉のカラー写真と出土状況が示される。
 縄文後期のかたちのよい注口土器を見た〈図〉。ふつうよくある注口土器よりもやや大きめで、球形の胴は十分に丸い。上の首の部分は球形の上に乗った筒状で少し広がってきちんと立つ。その根元は細くのばした輪の連なりで締められる。注ぎ口の位置からすると液体は丸い胴の3分の2まで溜められるだろう。十分に実用的な容器なのだ。首や胴の側面は、下に向いた放物線というか垂れ下がり円弧とでもいう線で飾られる。ときどき見かける文様だが、たいていの場合それは全く抽象化された半円ではない。この文様の作り手たちは2点で留められて下がる紐のかたちを日頃からよく見慣れていたにちがいない。人々がいつも見ていたのは樹間の蔦かもしれないし、屋内の横木にかけた縄かもしれない。これらのしなやかに弧を描く曲線は容器の外形に無理なく溶け込んでいる。
 この器の側面には奇妙な突起が2種類ある。その1は胴の中程に上から見て十文字の位置(注ぎ口をのぞく3箇所)にもうけられた短い棚状の出っ張り。その2は首の垂れ下がり線を留めているあたりに一つか二つ作っていて、こちらはよほど小さい。その1は、球形からとびだした注口に対してバランスを取っているのだろうか。その2は蔦や縄の留め方に関係があるのだろうか。どちらの突起も全体のかたちを壊すということはなく、むしろ、小さい方などは曲線に付く華やかな飾りにさえ見える。
 別の場所の説明パネルに、この土器のカラー写真がある。そこでは下部のささえは除かれていて、容器の底は丸いのではなく下に狭まる小さな台になって立っている。この小さな台ではいつまでもこうして置いておくことはできないだろう。実際には適当な穴を開けた地面や砂とかじゃりなどの上において安定させただろう。この容器のかたちとデザインは、この資料館に展示された土器のうちではなかなかよくまとまっている一つだと思う。
 晩期の、取っ手のある土器がある〈図〉。なんだか荒々しい造りだ。これは「洗練された晩期」には当てはまらない。取っ手は十分に中を開けていて指が2本でも入りそう。それほどひ弱な造りにも見えないから実際に取っ手として使われたものかもしれない。しかし、中に水や木の実などが入ったら重さに耐えられるか。平底だから、中身を入れても安心して置いていただろう。口辺の凹凸はまわりの土器にくらべても目立って激しい。取っ手の上に続く高い突起はどうもじゃまなようだ。あるいは、持ち上げるときにこの突起も一緒につかむのか。胴部の文様は太い粘土紐を水平に開け閉めしたかたちで付けられ、容器を取り巻く。(これにも何々模様とか名がつけられているのだろう。)ひも状の線はある部分ではっきりしなくなる。使われなくなって長い時間を経るうちにさまざまな災難にあったようだ。土器の表面は、あちこち少しずつ削られたり欠けたり風化したりしてひどく荒れているように見える。
 「香炉形土器」と表示して三つの土器が置かれる。どれも周囲に透かし彫りが施されている。一つは、窓が異様なほど大きい香炉〈図〉。窓の周囲はめくれた唇のようにやや反り返る。二つの窓は互いに少し前側に寄っている。鳥か爬虫類の大きく見開いた眼をつい連想する。身を左側に寄せて手前の窓から中をのぞきこむと、向こうの窓が明るく開いて半分だけ見える。それ以外に中に明かるいところはないようだから窓はこの二つなのだ。てっぺんは小さく円盤状に盛り上げてあるが開いてはいない。この器は3つの部分に分かれる。上に細く絞った台と、すかしのある受け皿と、窓のある蓋。もしかするとこの3つは別々に作ったのかもしれない。そうでないと、生乾きのときの透かし彫りはむずかしい。
 透かし彫りは波型の繰り返し模様だ。このややこしい形の狭い穴を彫りとったのはどんな道具だろう。たとえば、うすくほそく削った竹のへらを持って慎重に力をこめる手ゆびを想像する。
 昼過ぎ、鹿角市大湯ストーンサークルを目指す。琴丘町を東の山間に入り、国道285号線に出る。山がちの道を北上するとやがて米代川を渡って大館市に入る。北に向かえば大館の街は近いが時刻はまもなく午後3時だ。川沿いに東に進むと東北道をくぐる。この道は、はじめて車でやってきたとき、夕暮れの中を十和田湖へ向かった道だ。しばらく走って右手の山に入ると大湯ストーンサークル館がある。この春、広大な敷地に新しくできた豪華な資料館で、今日はちょうど町をあげての縄文祭りのようだ。夕刻、人がいっぱいでパトカーや消防車も用意されている。ここにストーンサークルが見つかったという地図を見て歩いてもよく分からなかった。館内では広い壁面に設けられた展示棚に縄文土器が何段にも並んで向こうまで続いている。展示を一通り見てから写真をいっぱい撮った。
 フロアには何箇所か背の高いガラスケースがおかれ、そこに二つ三つの土器が大事そうに入れてある。少し明かりが弱いけれども、四方から見ることができる。「朱彩台付土器」〈図〉。見事な台の上には小さい鉢が開いている。鉢の口辺には少し波打ちながらせり上がった部分が三箇所ある。鉢をこれだけ高く持ち上げたには大切な理由があったにちがいない。鉢と台の側面にある文様は、向こう側へ回ってみると反対の面にも大体同じように描かれる。文様は単純で明解。中央で丸くとぎれた渦巻きと側面を取り巻く幾本かの線だ。二つの渦巻きは、互いに円弧右手部分から下へ分岐する線としてつながっている。これは、首を回してこちらを見ている蛇のようでもあるが、先端に刻まれた穴は眼のように丸くはない。半分に割った竹筒の切り口を押しつけたかのようで、これは他の部分にもたくさん並べられている。尾が次第に細くなるということもない。ただ、はっきり蛇と主張するわけではないけれども、明らかに何者かではある。全体の姿をかたちづくる線には、細心の注意が払われている。皿の輪郭は巧みに下と呼応する。とりわけ、台の側面を描く曲線は地に接するまでどこまでも広がろうとしている。かくも華麗な裾広がりを彼らは日常の何から想い浮かべたのだろうか。
 下の段に置かれたやや大きめの「深鉢型土器」〈図〉。同じような大きさや形がたくさん並ぶ中で、これはまとまりのよい落ちついたデザインだ。口辺では波打つ峰が連なり少し外へ開く。口辺の突起としては控えめな表し方だ。文様は上半分だけに施される。その粘土紐による形は3種類、上は一つおきに引き延ばされた編み目か、中は巻き込む形で繰り返される波か、下は所々に円を置いて結んだ二本線。三段の連続模様は口辺の十の峰の下でたいていそろえて繰り返されている。たぶん、当時よく行われていたであろうこれら意匠をうまくあしらっているのだ。広い口とほどよくふくらんだ胴、必要なだけ安定した平底、かなりの容積もあってこれはきわめて実用的な容器だ。材質は変えてでも、こんな容器は今でも使いたい。
 ここには「線描を施した土器」がたくさんある。その一つが「朱彩壺」〈図〉。全体が上手に丸くふくらんだ容器になっている。この細く絞られた口から出し入れできるものは液体か、あるいはさらさらした細かい粒状物だ。いや、粒は中で変化して取り出せないこともあるから、やはり水のように流れ出るものだ。線描は二本か三本の線をそろえて平行に刻まれる。斜線や縄文による面の区別はない。線を見る眼は自然にその行き先をたどる。ここでは長いものでも曲がりくねった末に別の線にぶつかって両端を終わる。まれに三差路のように分岐している部分もある。下をくぐるのはないようだ。この線の流れを見ているとどうしても二本並んだ通路のように見えてしまう。ここをたどるのは具体物ではないだろう。それは何かの想念の移り変わりなのかもしれない。
 その左隣にある「鉢形土器」と一段上の「壺形土器」〈図〉。これほどにもしゃれたデザインにここでは出会うのだ。どちらもやや小振りだが眼を留めさせる。「鉢」の特徴は意匠の施し方だ。これは“Bowl”と表示されるとおり浅い半球だ。口辺は反り返る花びらのように外へ開く。中底に線で描かれるのは周囲4つの繰り返し模様で、鉢本体が5角形であることに無頓着である。側面にも、ただ同じ意匠が描かれる。「壺」はバランスのよい曲線による姿を見せる。首の高いところから斜めに降りてきた2本の線が胴のふくらみにS字を描く。その下には器を取り巻く帯がある。曲線の滑らかな流れにはたいそう気を付けながら、帯線の乱れを気にする様子はない。簡潔な線描はこの姿のよさを一層高めている。口に何かを挿してもいいし、見上げる棚に置くだけでもいい。
 容器側面に隙間なく線描を施す「土器棺」〈図〉。ここで線をたどろうとすると必ず接合したときのひび割れにぶつかる。大小のひび割れは表面全体に広がっている。出土したとき、これは粉微塵に割れていたのだ。これだけの大きな球体に復元するのは大変な作業だったにちがいない。いたるところでとぎれる線を何とか行き先をひろってつないでみる。見方によっては、2本線が主になって何か形を表しているようにも見える。たとえば、中央の輪を作る2本線をもとにして全ての線を見ると右下の図のようになる。つながり方が間違っていて逆に隙間をひろっている場合もあるかもしれない。ここで隙間になっている方こそ本来の描かれた形である場合もある。曲線の多くは、ただあいまいに漂い、気ままに膨らんだり流れたりしている。中央で菱形に囲まれた円や左上で二つ並んだ楕円は何か意味ありげにも見える。
 フロアに立つガラスケースの一つに「小牧野遺跡出土品」というのがある。小さい土偶などとともに背の高い深鉢〈図〉が置かれる。ガラスケースのまわりから、この容器の全てをめぐって見ることができる。文様のほとんどは二本の線で明解に描かれる。まるで道を表した地図のようだが、たぶんそんなはずはない。けっして幾何文様でもない。道なりにできたS字を除けばどんな対称図形も見られない。道は坂を下ったり、迂回したり、S字型カーブを作って丸まったりする。分かれ道や上下の水平な線にぶつかって行き止まりになるのはあるが他の線をくぐるのはあまりない。これらは、ただ気ままに楽しんで描かれたのか、それとも何か意味を表わそうとしているのか今となっては分からない。ただ、この曲面の全てを二本線で構成しようとする強い意欲だけははっきりと伝わってくる。
 「取手状装飾付土器」〈図〉。これだけ深いすり鉢形の器はめずらしいと思う。思い切り細くなって立つ平底は、口辺の意匠とともに実用的ではない。側面には円をつぶしたような、それだけで一周する線が描かれる。それはグニャグニャ曲がっていて変化に富むサーキットコースのようだ。一見、2本線のようだが明らかに外側の線の方が深く刻まれている。口辺と三つの突起には平面を折り重ねたような独特の表現がされる。突起では面そのものがねじれ、反り返り、反転する。人の眼はいつの間にか自然に線をたどっているが、面に対してもその傾いて行く先をたどろうとする。面をたどって空間の有り様を確かめようとするのだろうか。あるいは、そこをゆるやかに進むのは自分以外の何者かなのだろうか。それは出ていくのか、入ってくるのか。ここにあるのはきわめて立体的は感覚だ。


9月1日(日)
 亀ヶ岡へ向かう途中、田舎館という地名で最初に思い出したのはJR五能線と東北本線の接続地だ。ここのショッピングセンターのそばに新しい博物館(埋蔵文化財資料館)ができていた。火山灰の下に区画畦の続く水田遺跡が発見され、東北の本格的稲作開始は2000年前にはここまで北上していたことが証明された。それで、この地も弥生文化圏の仲間入りができた。いずれ、北海道南部にも見つかるかもしれない。
 資料館の入り口に「遺構露出展示室概要」として案内パネルが立ててある。それによるとここは高樋(たかひ)遺跡の水田跡を保存したもので、垂柳(たれやなぎ)遺跡と同じ時期のものという。写真撮影も許可している。館内では、周囲のギャラリーからスロープが降りていて、当時の地面の一部を歩くことができる。訪問者のために強固な化学処理がされているのだという。建物は天井の高い広い空間で特別な臭いもなくきれいな空気のようだ。周囲のギャラリーには出土した土器とともに、全国各地の弥生土器のカラー写真が展示される。これを見て、弥生文化の伝播と人の移動の様子について考える。畿内や東海は人が多く入れ替わったにちがいない。四国や山陰・北陸はどうだったのだろうか。
 2つのパネルに時間を使う。「垂柳遺跡関係略年表」と「垂柳遺跡小史」。これを何度も読み直していると、いろいろな人のそれぞれの思いが伝わってくる。ここで出る土器を続縄文土器の類と思った人は、なぜ弥生文化は存在しないと断定してしまったのか。この地が弥生文化圏であったことの意味は。その場面と事実をなんとかして見ようとした熱意。
 稲作は生活の中で徐々に文化を変質させただろう。その進み方や変化の質は地域ごとに違う。そのことは縄文文化の残り方、後世への伝わり方や程度に関係する。ここに展示される土器には、縄文時代の生活の中で育まれてきた感性が色濃く残っていると見る。それを背後に隠された活力と見るか、消え去る間際の残照と見るか。
 縄文と弥生についての価値観には、文明の程度と野蛮の程度という順序が逆転したような心の問題を含んでいる。日本でわずか2千年前に生じた組織的な農業は人の本姓の何を目覚めさせたのか。イネはかくも集約化を可能にする作物だった。この過程でめざとい者は富を得、やさしくぼんやりした人間は不可思議な状況に応ずることができず、これまではそんなはずのない争いごとで消えていった。こんなことは、これまでも旧石器時代や縄文時代にもヒトの本来の性行の兆しとしてときどき起こったかもしれない。しかし、常に大規模に生活の仕組みからそうだったわけではない。縄文時代は1万年以上の間、互いの生と死に関わる暴力でもって人の心をひどく乱すことはあまりなかった。弥生時代への移行は、そのことの規模が史上かつてないほど大きな変化だったということは確かだ。
 三たび、木造町館岡の縄文館を訪れる。二度目のとき、窪地に面した並木はすでに紅葉していた。その日はたまたま休館日で中には入れなかった。今日は訪問者が他にもいる。家族連れで、男の子がメモをしようとえんぴつをかまえて館内を見てまわっている。展示ケースの並ぶ室内はなんだか素っ気なく昔の学校の理科室か資料室のよう。地味な配色のせいかあるいは陽の差す窓が少ないからか。展示物は一つ一つおもしろいけれども意外に少ないと思った。もっとあっただろうに、きっといろいろなところに出ているのだ。
 ガラス棚に乗った「台付鉢形土器」〈図〉。下からも明るいのでかがみ込んで見上げる。側面の文様が比較的よく見える。この高坏の作り手や周りにいてこれを見上げた人々はどんなふうに見たのだろう。この流れるような線が心地よくしばらく見とれる人もいたにちがいない。この器の外形そのものはいろいろなところでくり返し見てきたものだろう。それらの容器の文様は、よく見てみなければならない。とてもいいものもあるし、いい加減なのもある。この容器の文様からは作り手の様子がよく分かる。線の行き先に気を配っている。この線は、はるか遠くからゆるやかに流れてきて前方に何かを認めるとしなやかに向きを変える。また、あの線は、次第に相手に近づいていって彼が不意に旋回するのに間を置かず合わせて向きを変え、いつの間にか合流している。このように、線の流れる経過と行き先をおろそかにしないことこそ縄文の感性なのだ。すでにここに文明がとうに脈打っている。しかも、これは縄文晩期だけではない。その始まりから持っていてその後ますます強まってきた。
 赤い漆を塗った鉢がある「皿形土器」〈図〉。上部の周囲と内側には赤いものがかなり残っている。下の方にも所々赤い点が小さく残っている。赤かったのは上部や内側だけではないのだ。赤い点は、盛り上がった線のすぐそばに多い。全面に塗られていたかどうか分からない。全面だとすると、線と線の間の低いところにもっとたくさん残っていてもよさそうだ。縄文では、よく表面に縄目や刻んだ斜線で面を区別しているから、ここで漆を使う場合にも文様の色分けをしたかもしれない。下全面に隙間なく描かれた線は、やや機械的で固い感じだ。いつもの水平な線を開いたり閉じたりする文様がくり返される。場所によっては、単純な繰り返しではないように見える部分もある。この皿の表面は長い時間が経つ間にいろいろなものでこすられ続けてきたのだろう。線を作るひも状の盛り上がりがどれもすり減ってしまっている。もしかすると、この文様を描く線そのものが鮮やかな朱で彩られていたのかもしれない。手に取って十分な明かりの下に見ることができたら文様の様子はもっとよく分かるにちがいない。
 続く右のガラス棚には、やはり漆を塗った壺形土器が並ぶ。中に一つよく形を整えた壺がある〈図〉。胴のふくらみは、少し持ち上げられて上の方に量感を出す。ほどよい高さに立つ口は先の方でやや開く。口辺に並んだ小さな突起が外側に反っているのだ。文様の配置もよく整理されている。胴の文様は表面の高さが全てそろっていて平らなので、するどく掘り取って描いたように見える。漆は文様の部分に一面に塗られる。胴の下半分と口の部分はほんのかすかに赤い部分が見られる。非常に滑らかに磨かれているので一面に塗られた漆がとれてしまったのかもしれない。首の根元には伸びた鎖状の輪が取り巻く。それ以外に胴の文様に何か規則を見つけるのはむずかしい。たいていの線はわずかに波打って横に流れていく。ときどき、急に線の向きが変わったり輪のようなものがあったりする。
 いくつかの注口土器が並ぶ。全て丸底だ。底を球面にすることがどうしても必要だったらしい。そのなかに茶色く比較的明るい色の注口土器がある〈図〉。この土器の特徴は胴の横に張り出した突起の連続と注ぎ口にある。この張り出しや突起のためだろうか横から見た形には蟹のような印象がある。注ぎ口は男性器に似ている。たぶんそのつもりで作っているのだ。全体に表面に艶はない。しかし、いま、細部は精密だが見たところ崩れはない。長い時間が艶をなくしたのではなくて、はじめからのようだ。胴体の上側下側ともに何か描かれている。おもに横長にのばされた曲線だが彫り方は大変ひかえめだ。それにくらべて注ぎ口のあたりは滑稽なほどにていねいだ。いかにも大切なもののようにその周りを飾っている。筒の基部に置かれた粘土ひもは長く連続したものではなく、左右から出会って先端が互いに絡まるように重なる。いかにも縄文らしい紐の処理だ。多くの場合に、人々はこの注ぎ口のあたりを正面と決めて見たのではないか。それも、水平に近い斜め上からこの大切な容器を見たと想像したりする。
 表面が鈍く黒光りするほどにみがきこんだ注口土器〈図〉。おそらく、目立つ突起があったら磨くこともできないからこんなに落ち着いたデザインになったのだ。細かいところの表現はあくまでひかえめだが構成は華麗。口の大きな広がりと2段構え、なめらかさを徹底した底の球面、下の受け皿の細密な浮き彫り、陰に包まれた側面、光を受けて放つ表面の艶、を見る。これらは人々の細やかな心の動きを伝える。それにしても、容器の底にこうまで丸みを見せるのはなぜか。
 青森県立郷土館へ向かう。五所川原の街に入る前に、真っすぐ東へ向かう道を見つけてこれは調子がいいと思った。しかし、それは岩木川の堤防に出て終わった。津軽平野の道は北や西へどこまでも進むかと思うとそれはふいに止まる。それからは方向にお構いなく曲がりくねってなかなか思った方へ進めなくなる。それでも、今日はよく晴れて風もなく次々にあらわれる景色を眺めるのはおもしろい。先を急ぐ必要がなかったら快適なドライブだ。明日はもう一度この道をゆっくり走ってみよう。県立郷土館は青森市のほぼ中心にある。もう午後4時をすぎてしまったから館内での時間はあと40分ほどだ。
 2階に広い考古展示室がある。壁面いっぱいに縄文時代の狩猟、漁労、土器づくりなどの場面の絵が鮮やかな絵の具で描かれている。また、大きな説明パネルがいろいろ掛けられていて、先史時代から亀が岡文化まで図と文章で詳しく解説される。「突瘤(つきこぶ)文土器」という名がでてきて、どういうものかと部屋にいる女性に聞く。一般的説明なので、どういう文様かと聞くと「少々お待ちください」といって誰かを呼びに行ってくれる。まもなく男性の学芸員さんと戻ってくる。彼は「ああ、このことですか。どちらからいらっしゃったのですか。そうですか。じゃあ、あまり馴染みのない名前でしょうね。どうぞ、こちらのをご覧ください。」と先に立って案内してくれる。「各地との交易」というパネルが掛かっている。パネルには北海道から新潟県までの大きな地図が描かれている。その下に突瘤文土器があった。狭く絞った底から自然に広がって立つ深鉢で、縄文時代早期のもの。特に目立つ突起もないが口辺のすぐ下には小さくとびだしたものが取り巻いて並んでいる。これが突瘤文だった。彼の説明によるとこれはもともと北海道に見られる文様で、裏側から突きだしたものだという。ガラス越しなので残念ながら裏側は見られなかった。
 草創期の土器〈図〉。立てたカードに 「隆線文土器(複製)c.10000 - c.7500 B.C. 」とある。背後の絵の中では、この土器を逆さに置いて女性がかがみ込み、土器の仕上げかなにかをしている。この複製も非常によくできている。きっと、本物と並べてみても目立つような違いはないのだろう。
 側面全体にまんべんなく施された細かい横線は文様ではなく容器の肌のように見える。口辺の細かな凹凸は内側へ少し押さえのばされて波形の浅い段を見せている。こんな表現をどうして思いついたのか。彼(彼女)は作業中、まだ軟らかい小さな突起をつい親指の腹でへこませてしまって、そこにいくつか並んだ浅い段差をじっと見る。彼にはそれがおもしろく、周囲の突起を全部押さえのばして密かに楽しんだ、というのはどうだろう。表現がやや単調でひかえめなせいだろうか、この容器には外形と文様との不思議な調和を感じる。すでに、およそ1万年も前にこの形ができていて使われていたのだ。この容器を両脇に抱えて水などを運んだり、両手に持ってこれから火を焚く炉の中に立てたりする。手のひらでかたちの曲面に触れ、肌の感触を確かめる。容器のこの形は使いみちでの必要があってできているのだろうが、輪郭線の流れや器の肌はかならずこうでなくても用は足せる。しかし、人々にとってはこの輪郭線とこの量感、この肌合いでなければならなかった。
 ここでも壁面にたくさんの縄文土器が取り付けられている。こうした展示の場合、上の方に架けられた土器をただ見上げるように見るのはつらい。そのうえガラス越しだから横からのぞき込むことも思うようにはできない。右端の、ちょうど目の高さのところに変に白っぽい土器がある〈図〉。この下ぶくれのかたちは現在でも粘土を扱い慣れない初心者がよく作るものだ。このかたちの側面は斜め上から眺めるのに適している。作り手もそんなふうに見ながら粘土ひもを押しつけていったのだろう。そこに描かれる文様は、あるかたちの繰り返しだ。その一つの始まりと終わりがどこなのかは分からない。この文様の必要事項は作り手の頭の中に入っているらしいが実際には細部にこだわる様子はない。各部の大きさ、つながり方などはその場その場で適当に処理しているように見える。彼にとって大切なのは、必ずしもここに見えている形ではなく頭の中にあるかたちの方なのだ。そのかたちは確かに何ごとかを意味していたにちがいない。何だったのだろう。
 四つの筒を乗せた「深鉢」〈図〉。ふくらんだ胴は豊かな容積を示しているからきわめて実用的な容器だ。するとこの筒は何に使われたのだろうか。小枝で作った棒を差したかもしれない。あるいは横木を渡し留めて何かを吊すか乗せるかしたのか。とにかく、ただの飾りには思えない。下の方の胴の狭まったところには、食べ物を持ち上げたくて「すのこ」を置いたかもしれない。いろいろな調理法を思い浮かべてみる。側面には垂れた柳の葉のような線条が幾筋かある。線のある程度の規則的な繰り返しを見ると、どこかにあった「粘土面縄文の転がし体験」を思い出す。
 弥生時代中期の「取手付鉢」〈図〉。これはマグカップといったところか。ただし、取っ手様のものが実用的だったらの話だ。脇から見ると取っ手の下の部分はかなり広がっている。他にも文様の刻まれた弥生土器が展示されているが、このカップがもっとも縄文的風貌を残している。文様の線は彫刻刀の丸刀で深く削り進んだように見える。それは気ままに横に流れたり、ゆるやかに登ってまた降りたりする。くずして伸ばして角を丸めた三角形のようにもなる。他の土器の文様が規則的な繰り返しであるのに比べて、きわめて自由に描かれる。取っ手にしても、脇からめくれ上がったり、重なって段差をつくったり、前方にせり出したりして盛んに空間に飛び出そうとする。これは特殊な例なのかもしれない。が、津軽半島の先端には弥生時代にもこのようなかたちを描く心を持つ人々がくらしていた。

9月2日(月)
 月曜日はたいていの博物館が開いていないので、今日はドライブの日。津軽半島を青森側から竜飛崎、十三湖と回った。平舘の灯台を見た。霧笛を発するための巨大な拡声器が沖に向かってにゅっと立っている。昔の手回し蓄音機に付いていた形だ。海岸沿いのほとんど車が通らない松葉の積もった道を通った。漁村には色鮮やかな浮き球。獲物は蟹かイカか。かつて、大皿のゆでた蟹をむしゃむしゃ食べたという。竜飛崎灯台はガラスを蛇腹に組み合わせたレンズが下からでも見える。展望台へ向かう道ばたに青い花を見た<写真>。戻ってきたとき、作業服の人がエンジン付きの草刈り機で道路端の茂みを整理していた。切られて散らばった中から3本拾った。茎は枝のように丈夫で堅い。早速ガラス瓶のジュースを買って、その空き瓶に活けて持ち歩いた。これは、夜、外に置いておくと一週間ほど毎朝二つ三つの花を開いた。(後述メモ*2)


9月3日(火)晴天
 青森市街の南を経て太平洋側に移動する。海岸沿いの道を選んで進む。左手の陸奥湾の海は濃い蒼色。4号線に戻ると行き交う車が多くなる。この道は本州北端で日本海側と太平洋側を結ぶ幹線道路なのだ。やがて野辺地川を越えると野辺地町の中心部にいたる。野辺地町歴史民俗資料館を見る。フロアに独立して立つガラスケースの中に「板状立脚土偶」が一つだけ大切に展示されている。逆三角形に広がる胴体に、これも逆三角形の顔が乗っている。腕は省略され極端に短い足で立つ。下のパネルの説明に、「…この時代のものとしては国内最大級で、…。土偶が完形体で出土することは非常にめずらしく、また精巧な作りと大きさなどからも、…貴重な研究資料といえます。」とある。この土偶も、けっして写実的表現ではないがつくり出そうとする「かたち」には全体構成への認識が十分にある。細部はその範囲内で変形して、しかし確かに表現される。このような土偶からは未開文明の奇怪な印象を持つことはない。
 背の高い「円筒下層式土器」〈図〉。口辺部は荒れているが八つのゆるやかに尖る頂点がどうやら見られる。目を引くのは上部の文様だ。何か旗の模様のようなのが、たぶん8枚並んでいる。こういう機械的な線の模様や配列は中部地方ではあまり見ない。
 それとは全く違った印象を与える「円筒上層式土器」〈図〉。この彫りの深い文様はいかにも太めの縄を結んだというように見える。よく見てみると細かいところでは必ずしもそうとはいえない。それにしても、四つの突起の下で両脇に輪を垂らした部分では、結びの印象が強くあらわれている。ひも状のものをこのようなかたちに結ぶことが日常からよくあったのかもしれない。さらに下に垂れる菱形は紙垂のようにも見えるが、これは考えすぎか。
 つぎは「蓋付甕棺」〈図〉。これは甕棺というより骨壺の大きさだ。これを見てすぐ思い浮かべたのが、岩手県立博物館の「注口付鉢」〈図〉だ。あれと同じようにトンネルの内部を見せている。もっとも、わざわざ切り開いて見せたというようなあんなあからさまな見せ方ではない。ここでは周囲に開いた口がもともと開いているもののようにつくられる。中には小穴が二段にどこまでも並んでいる。甕棺を取り巻くこの通路のようなものは何だろうか。見る者にこの通路を晒すのは何のためか。かめの側面には斜めの縄文を施した面と縦に並ぶ浅い溝、その間に少し巻いたような円形がいくつか浮かび出る。この部分も、岩手県の「深鉢」〈図〉に似る。
 「大木系土器(縄文中期)」と表示される精巧でおもしろい形の土器〈図〉がある。この土器の線の流れには不思議な表情がある。大きく曲がるにもゆるやかに波打つにもけっして無理をしないであくまでなめらかである。かたちにはどのような対称性もないように見える。口辺の片側だけに立つ飾りはもっとも目立つし、たぶん作り手にとって重要な部分なのだ。くねり曲がる立体の中に二つの穴が開いている。開けたのではなくかたちを構成するうちに穴が生じたのだ。このかたちができて以来、人々の眼はこの紐をたどりこの溝をたどりこの曲面の肌をたどって空間に遊ぶ。容器の内側周囲に二本の線がある。信じられないくらいに自然に内壁から隆起したこの線は、どんな道具でつくられたのか。それは、ただていねいに線を刻むへら先ではない。この線のなめらかさは、それをどうしても必要とする気持ちがなければつくり出せない。作り手のその姿勢がこの土器の上半身を不思議な雰囲気にしている。
 外に出ると、午後の強い日差しを受けて階段脇に赤い実を付けた木がある。このごろこちらでよく見かける木だ。時刻はすでに2時をまわった。明日の是川遺跡のために早めに今夜の泊まり場所に行かなければならない。


9月4日(水)
 一年ぶりに是川の縄文学習館へ来た。早く出発したおかげで開館前に着いて車の中で待つ。庭師さんが来ていて、いま、エンジン付きのカッターで作業を始める。排気ガスのにおいを避けて車を移動する。開館してまず、図書室で本を少し読む。今年も新しい本が入っている。「出アフリカ記…人類の起源」これは帰ったら早速買おうと思う。「東北アジアの考古学」極東アジアにも日本の縄文と同じように押し付けられた土器文様があったという。「蛇」これは日本人の信仰対象についての本。初版は何十年か前のもの。「文化の洗練は人類の知的発達の当然の成り行き」とか。進化と文化の混同か、時間尺度の間違いか。考古資料館の展示をゆっくり見る。背広を着た年輩の男性数人が説明を聞きながら足早に巡っていく。一番奥の資料室は、普通の博物館なら収蔵庫なのかもしれない。何列も並んだガラス戸棚の膨大な数の出土品。残念ながらやや暗いのとあまりにも隙間なくぎっしりならんでいる。
 赤いうるしがはっきりと残る「壺形土器」〈図〉。形は大きめの徳利というところ(八戸博物館で購入した図録には高さ20.8pとある)。中身は液体しか考えられない。この華やかな容器の容積は十分にある。どんな使われ形をしたのだろう。胴の文様は、幅広にくねりまわる雲形。いや、雲形というより、肉感的な手足の印象に近い。この線による量感は、いま眼にしている我々が勝手に感じているだけのことだろうか。主となるかたちは、その面に刻まれた縄文によって明らかに余白部分と区別される。上下に重なったように見える部分もある。一種類の図形が周囲に4回くり返されているようだ。例によって巧妙な配列の中で細部は自由に処理される。
 学習館では明るい画面で写真が掲示されている。内部に照明があるのだ。その一つに「皿」〈図〉がある。「皿形土器」の装飾は裏面に多い。そこでよくあるのは、ガラスケースの中で、裏返して置いたり立てかけたりする展示方法だ。しかし、たいていはよく見えない側面がありその文様の全てをはっきりと見ることはできない。その点、この写真は思わず目を見張るほど明瞭だ。ただし、当然立体ではないから斜めに見ても何も変わらない。実物を見たいと思ったが今日は見あたらない。この皿は底の部分が広く、そこにもふつうにはない文様が刻まれている。この皿は、当時でも裏返して見ることがよくあったのだ。底の文様は、大まかに点対称をなす。けれども、その両側の図は少しも似ていなくて、対称図形を完成する気はないようだ。側面では同じ模様が3つ連なって描かれる。皿の縁から出た線が右へ長く伸ばされて底の稜線に降りる。その他の図形はそれに繋がる飾りのように見える。くり返されるかたちは、楽しんで面を埋めているにすぎないのか、あるいは何かの想いを確実に刻みつけようとしているのか。
 注口土器がたくさんある。〈図〉の土器は、容器のかたちも文様も一定の完成されたパターンを見せている。きっと、これと同じものがいっぱいつくられたのだろう。この土器は2つの部分からできているように見える。注ぎ口の付いた浅い皿のような容器と、その広い面を高く覆うもの。かぶせて隠そうとするのか守ろうとするのか分からないけれども、中身を大事にしたいのは分かる。この形になる前は、縁の一部をへこませただけの注ぎ口をした皿だったのかもしれない。これと香炉形土器は同じ仲間のように見える。中身の大切さを示すために香炉の覆いを借りたのかもしれない。いずれにしても、注ぎ口がこのように下に位置する以上、上のようなことを思わずにはいられないのだ。この器を扱うときは底を両手ですくいあげるように取りあげ、捧げ持って運んだだろう。このかたちは胴や口の部分を持つのには適さない。
 形の整ったていねいな作りの注口土器〈図〉。これなら中身は相当入っただろう。このかたちなら上のような想像をする必要はない。注口土器としては目にすることの少ない方だ。注ぎ口は上に付くか下に付くかどちらかのようで、中間はまだ見ていない。この2種類で役割が分かれていたのかもしれない。
 注口土器ではどうやら注ぎ口のある方が構成上の正面であるらしい。たいていの場合に注ぎ口を中心として文様や突起が配置されている。この土器でも正面から見るとほぼ左右対称の配置になっている。容器の口辺で注ぎ口の上だけに飾られる突起。注ぎ口のまわりには短い紐が4本ずつ、先端を交叉させて2重の輪をつくる。側面の文様が少し違う。(帰ってから図録を見て分かった。両側面にも同じ文様が描かれているのだ。正面で両側に見えているのは同じ文様の始まりのかたちと終わりのかたちなのだった。)人々は、ときにはこれを手にとって側面を順に眺めていたような気がする。
 二つの口が両眼のような注口土器〈図〉。これも同じものが香炉形土器にある。仲間としては横から見た形が蟹のような印象の亀ヶ岡の注口土器に似る。胴回りのひさしのような張り出しが同じだ。内部の空間は上に二つの穴を設けて閉じられている。工程のどこで蓋を閉めたのだろうか。注ぎ口の位置のことを別にしても、このかたちには容器としての実用性がほとんどない。しかし、非常に精緻な作りだ。容器の姿ではあるが、この姿かたちを置いておくだけで何かの意味をなしていたというあり方も思ってみる。
 側面の文様が気になる甕形土器〈図〉。気になるというのも変だけれども、それは、この文様についつい植物の姿を思い浮かべてしまうからだ。横に伸びる太い枝があって、途中途中に小枝が出てその先には必ず葉が茂っている。それが、この大きめの容器の装飾なのだ。彼らがそのような具体物を描くはずはないとは思うのだが。
 あとで写真を見て、「これこそ縄文晩期の土器だ」〈図〉と言いそうになってすぐ「それほどたくさん見ているわけでもないけれども」と反省した。これは、かなり大きい壺だが表面は艶々と黒光りして、表現はひかえめだが精密に、たぶん当時の習わし通りにあるべき線を刻みあるべき膨らみを盛りつけている。現場では気にならなかったけれども、写真を見るとかたちがいびつだ。上半身が中心線から右へ寄っている。ガラス越しに斜めに見たせいかと思って作図上はあとから中心線に向けて修正した。だが、もしかすると本当にこれはひどくいびつなのかもしれない。そうだとすると、この精巧さとこの外形のゆがみに対する無頓着はどういうことなのだろうか。
 これも端正な縄文〈図〉。端正な姿の縄文は決して晩期だけではなく、ほとんどその最初からあるようだ。だから、処理の仕方はちがっていても縄文は常にこの方向を持っていた。それがいつも共通してあらわれるのは面の流れと輪郭線だ。それは単純さなのだけれどもただの直線でも鋭角でもない。しなやかに延びる面と線、前後の関係からそれしかありえないように曲がり向きを変える輪郭線だ。この椀のかたちは今でも気持ちのよい優れた工芸品と同じかたちをしている。一人用にしてはやや大きめだがここにすくって入れられた食べものについてあれこれ想像する。
 こうして伏せてあると皿には見えない〈図〉。この皿の写真はいろいろなところで見る。おもてを見たことがない。それにしてもなんという簡潔さだろう。もっと多彩に展開する文様の一部なのだろうか。大まかに区切られた面は上下にも繋がって穏やかに収まっている。何となく線を引いてできるかたちではない。どの線にも乱れはない。線はなんの無理もなく曲がり接し合流し重なる。そこで、面は漂うように流れ、ときにはつぎの面に自然に潜り込むことができる。この面の表情と調和させるために器の縁もこんなになめらかに丸められているのかもしれない。これは気ままな感性が楽しんでいるうちにできた偶然の産物か、あるいは今はもう説明できないけれどもなにごとかの関係を確実に表しているのか。当時の、ある重要な想念に導かれて面を区切り線を刻んだにすぎないのかもしれない。この大胆なデザインのセンスに対する過大評価をおそれる気持ちもどこかにある。
 上部だけに文様を見せる注口土器〈図〉。全体に丸っこい感じにできている。上部以外はただなめらかに磨かれているだけだ。口辺にのった飾りが注ぎ口の反対側にあるのもめずらしい。丸く膨らんだ上部の文様はそれ自身もまた膨らんだり浮き出したりしている。文様の線にはこの時期の他のものに比べると細部にこだわらない気さくな雰囲気がある。
 台の上に浅い皿がのっている〈図〉。皿の面には少しの凹凸も許さないといった気構えを感じさせる。この皿の部分を真横から見ると、側面はまっすぐ広がってするどい角度で限りなく口辺に迫る。台は下の方へゆるやかに広がる。側面の輪郭線では唯一の曲線だ。これほど緊張感のあるかたちにも、口辺には突起がある。たぶん12個の、外を向いて等間隔に置かれたひかえめな突起。
 文様の流れる壺形土器〈図〉。外形はよくある形で、広口に開いた口辺には特に背の高い突起が一つ中心に向かってひねられて立つ。胴に刻まれた文様の表現には規則的な繰り返しがあまりないようだ。比較的変化に富む面があって、そこから左右へ目を移していくと次第に2本の横線が目立ってくる。その上下には中で広がったくぼみや閉じた三角の隙間が所々にある。真後ろは分からないが、見える限りはこのようだ。左の図の変化の多い面は眺めているとおもしろい。上からの逆S字状の流れが変化を作り出している。左右から来た流れがそれぞれ分岐してS字に合流する。左右から流れて来るもう1本は途絶えて隙間ができる。そこをそれぞれ上下から生まれ出た「かたち」が埋める。Sの中心で点対称を構成している。配置は対称だが各部分のかたちには変化があって堅苦しさはない。この「異なった2面」は何を意味しているのだろうか。
 卵形に伸びた皿〈図〉。こうして伏せた写真を何度も見たからこれは有名は土器なのだ。この文様構成は非常に明確だ。底の周囲を4つに区画し、その一つ一つに同じ文様をはめこんでいる。文様の面には細かい縄文が付けられている部分があって他の部分と分けている。文様の線は、V字形に見える溝や巻きひげ状の先端の細まり方などから、するどい三角刀を使ったかのようだ。この繊細な模様は全体に軽い華やかな印象を与えている。
 簡素なかたちの皿形土器〈図〉。文様にはなめらかな曲線が伺われるが惜しいことに陰になってよく見えない。底に台はなく、内側もそのまま平たい。かなり大きなもので30pくらいある。皿というより浅鉢だろうか。口辺はかすかに波打ち、4カ所の突起はほんの申しわけ程度に付いている。土器をつくる人や使う人の中に、こうした全く無駄のないかたちを望む人たちがいたのだ。
 外に出たら12時を回っていた。ここから八戸市博物館が近いのでそちらへ向かう。
 南側に駐車場が設けてあって、階段を上がると博物館の建物がある。風が全くなく、階段脇の高い木も梢さえゆれない。午後の強い日差しで焼けたタイルの上を急いで建物に入る。
 二階に上がって考古室に入るとすぐ右手に、いきなり「甕棺墓」の展示がある。国重要文化財と表示して、「4000 B.C.・ 3000 B.C. 発掘調査の時、土器を取り上げると中から人骨が出てきました。これはおとなの女性のものです。」「―死者をまつる― 縄文時代の人々もまた、死をおそれ、死者に対しては礼をつくし、あつく埋葬しました。三戸郡倉石村薬師前遺跡で発見された3個の土器の中にはそれぞれ人骨がおさめられていました。これは甕棺墓といって、遺体が白骨化してからあらためて土器に遺骨をおさめて埋葬したものです。この遺跡の人骨は保存状態が良く、改葬にあたって頭の骨から順に丁重に土器におさめられた様子が良くわかります。」と説明する。
 迷路のような文様をくっきりと見せる甕棺が伏せてある〈図〉。側面低部は横のラインではっきりと区別し何も表さない。伏せて見せているからだろうか、花びらのように波打って開いた口辺から側面の大部分を装う文様は謎めいて、また、華やかでさえある。埋めてしまうこの棺もこんなにもていねいに心を込めて作られた。
 これは、道のような線の行き先をつい目で追いたくなる文様の深鉢形土器〈図〉。かなり大きなものだから、これも甕棺だろうか。文様の本体は、逆S字状の端がそれぞれ隣に斜めにつながるくりかえし模様だ。その中ですぐ目に付くのは道から外へ飛び出すようにくっついた三角形だ。これも周囲で何度かくり返される。どの三角も、上の辺はほぼ水平で姿勢も同じだが本体につながる位置にはずれがある。他にも、S字の途中で決まった位置でもないのに斜めの道に接してつながったり、文様の上下で隙間を埋める形が適当に処理されたりする。描き手の形作りは気ままなのだ。三角やS字は、たしかに何事かを表しているように見える。しかし、「かたち」そのものは流動的であいまいだ。もし表現する主題のようなものがあったとしても、それは想念ではあるかもしれないが明確な「かたち」ではない。彼らに大切だったのは「かたち」ではない。この文様の中にこめられた想念のようなものを知りたい。
 一見、いかにも構成的な線描を見せる「とんがり底の土器」〈図〉。底は丸い。透明な合成樹脂の台に支えられているので底の形も見ることができる。上部に描かれる二等辺三角形は建築物の破風のようでもある。隣に続くかたちでは、これが逆三角形になるようだから、実際にはS字形連続模様の一部だ。ここでは、描き手は明らかに直線を意識している。下の胴の側面ではゆるやかな弧線をたがいに組み合わせている。右寄りに見ると、中段でこれはS字形の入り組み模様とでもいうかたちになる。文様全体は細い緊張した線で描かれる。文様はすべて、器の4つの頂点に連動した前後二組の連続模様らしい。やはり、これは十分に構成的な文様なのだ。
 これは、まるで伸びやかな蔓性植物のイメージ〈図〉。遠いむかしに、どのような感性がこうしたかたちをさえ浮かび上がらせるのか。たとえば、今となっては理解しがたい神懸かりの異常な感覚で生み出されるのか。しかし、このかたちに乱れはない。この浅鉢は静かに落ち着いた雰囲気で作られている。
 これは、頂点のかたちからいって「とんがり底の土器」と同じなかまだ〈図〉。尖った5つの頂点は精いっぱい大きく広がり空間を受け取ろう、包みこもうとする。この土器は自らを上部のかたちで主張している。胴を締める2段の細い帯は上の花弁のような広がりを強調する。
 惜しいことに、表面が斑点状にはがれてしまった壺形土器〈図〉。ていねいに描かれた文様は、縄文晩期の硬さを巧みに隠して大胆に渦巻き激しく流れて躍動的だ。それとも、この一面に散る斑点が見る者の眼をごまかしているのだろうか。こんなに、表面が部分部分で薄くはがれたのはなぜだろう。よく磨けるように、きめの細かい粘土を表面にだけ別に重ねたとか。
 思い切り胴を平たくした注口土器〈図〉。たぶん、儀式用の注口土器の典型だ。もし液体を入れても、薄い胴の半分も満たさないだろう。この器の主な役割は上部に描かれた文様が担っている。文様は形式的で硬い。それは几帳面な繰り返しと、その模様のつながりに動感が少ないせいだろう。この土器は上からつぶされたような割れ方をしている。
 すぐ近くのインターチェンジから高速道に入る。午後3時過ぎに御所野遺跡に着く。
 ここは新しい施設でいろいろと趣向を凝らして開館された。焼けた(燃やされた)竪穴住居が発掘されて話題を呼んだ。また、この住居の屋根には土が盛られていた。土器は壁の中のカラスケースに大事に収められる。真上の一点から照明が当てられる。これは、陰影を濃くしてことさら異様な雰囲気を醸し出そうとしているのか。縄文人はこのような明かりの下で土器を見ることはなかっただろう。彼らが見たのは明るい戸外に置かれた土器か、あるいは住居の中で低い入り口から差す横方向の明かりか、焚かれた炉の中で炎の明かりに照らされた土器なのだ。とくに照明で工夫するならばそのような展示がいいように思う。間近に見られるけれども影の部分が全く見えない。これでは写真を写しても無駄かと思っていたが、壁に「展示室での写真撮影禁止」と表示がある。ならばこれも仕方がないと思って見ていくと流れるような紋様の浅鉢がある。禁止は原則だからと思って受付で頼んでみると撮影は許可されて腕章を渡される。ところがカメラはちょうどバッテリー切れで使えなかった。朝から170枚も写していたのだ。


9月5日(木)
 北上市へ。駐車場の向かいに昔の町屋を復元した土産物店がある。そこが「民俗村受付」になっていて、入場券を買う。あとはどの施設や建物に入るときでも受付はなく券をあらためる人もいない。市立博物館では、縄文土器が壁面いっぱいに取り付けられている。その中のところどころに小さいパネルが貼ってあり、「前期」「中期」「後期」「晩期」と表示される。展示の下には、壁面土器のすべてを入れて写した写真に各出土地を示した表が添えられる。この写真には各土器に番号がふられていて、74番まである。壁面の展示ではガラス越しではないので光の反射がない。難点は、高いところのものが見にくいことと土器を見る角度が著しく制限される点だ。同じフロアの大きなガラスケースでは出土地点ごとに土器が展示され、左右上下から見ることができる。写真撮影は「どうぞ」ということでずいぶん時間をかけてたくさん撮る。
 壁面の比較的下の方に取り付けられた晩期の浅鉢〈図〉。残念なことに復元時の亀裂が深く、しかも、それが文様の線に重なって走る部分が多い。この文様の特徴はZ形に行き来する線にある。横向きに鋭く大胆に引いた線に見えるが、ずいぶん雑に刻まれたようにも見える。横向きの板の木目のように順に内側に並ぶべきところが上の線にくっついてしまう部分が何箇所かある。あるいは、これも本来こうあるべきものの一つで、木目のようにいつも離れているものと思いこむ方がいけないのかもしれない。ていねいな表現ではないが見かけ上の完璧さを望んでいないようにも見える。これなどは、目の高さで周りから存分に眺めることができたらおもしろいと思う。
 これは鎖だろうか〈図〉。四つの突起のうち、右寄りの一つ以外は後から補われたものらしい。口辺の棚のようなものは、まるで崖の壁に沿って伝い歩きをさせるための通路のようである。通路をまたぐ突起には形の定まらないあいまいさがある。何となくつまみ出されたという風だ。くさりは通路を横切って側面に垂れる。よく見るとそれぞれ少しずつ違いがある。短く開いた筒、丸い輪、鎖編みのように引っ張り出された輪。それらが明らかに連なっている。隣と繋がったり弧を描いて垂れたりする。日頃の生活の中に鎖があったはずはないが、それに代わるものをよく眼にしていたのだろうか。これは見る者に何を示しているのか。仲間内ではよく分かっている何かの印か。
 突起の形のおもしろい深鉢〈図〉。縄文土器の口辺には変わったかたちの突起がいろいろ乗っているが、この突起はこれまでになく不思議な形に組み合わされている。これは、動物の三半規管に近いいくつかの骨とか、複雑な姿に進化した貝類とかを思わせる。そのように意味ありげな形なのだ。面は反り返り湾曲して内側に滑り込み、面に挟まれた溝は回転していつの間にか外へ逃れ出る。まるで、内と外を様々な方法でつなぎたい、溶け合わせたいと願っているかのようだ。
 たった一つの突起が上に伸び出た土器〈図〉。二段に重なった口辺のそれぞれから生え出すようにして屹立する茎。取っ手としてつかむにはやや小さい。容器としてはじゃまになるだけだ。何か意味を含みながらも、口辺での遊びに近いものか。容器の口辺に突起を乗せる傾向は縄文の早い時期から最後まで続いた特徴だ。そして、ほとんどの場合に実用性がなさそうだ。これは、人間に備わった立体に対する鋭敏な感覚を目覚めさせる遊びのようなものかもしれない。日本の縄文以外にこんなことがどこかにあるのだろうか。
 民俗村を一回りしているとき、遠野から移築された曲がり家の近くに「エゴの木」という木があった。たくさん小さな実を付けていて、それがすべて枝から3,4p垂れ下がっている。「これは何という木でしょう。」と、長い角材を一本担いでやって来る年輩の男性に聞いた。「ああ、それはエゴの木だね。」「そう。おもしろい実がいっぱい付いていますね。」「春には白い花が咲く。枝がしなうでこどもの頃はよく弓を作った。」「ほう。弾力があるんですね。」<写真>


9月6日(金)曇りときどき雨
 ふたたび太平洋側に向かう。大船渡湾は三陸沿岸に無数に刻み込まれた湾の一つで、海はここでも陸地の奥まで鋭く食い込んでいる。三陸沿岸の地質は太古の地殻変動によって海底が隆起したものだが、このあたりは比較的新しい地殻変動による沈降海岸なのだ。大船渡市立博物館は、この湾の南に出た半島の先にある。道の案内標識によると、この先に碁石海岸というのがある。地図には「白砂青松100選」ともある。すでに昼に近くなったので時間にはあまり余裕がない。博物館では、リアス式海岸に関連した見事な展示を見る。何度も繰り返された津波の被害について詳細な地形図で説明される。考古・民俗展示室では貝塚から出土した骨角器について詳しく説明している。銛や釣り針の造りは近代のものに近くその機能はなかなかのものであったらしい。縄文土器は中期から晩期にかけて充実した展示がされる。「大洞文化」についての説明パネルがある。
 「大洞文化は、縄文時代の終わりごろ(晩期:約3,000年前〜2,200年前)、東北地方を中心に発達しました。大船渡市赤崎町・大洞貝塚の調査で命名された大洞式土器にちなみ、土器が使われた文化のことをいいます。美しい文様や形の土器、祈りに使われた土偶や石棒、漆のぬられた器など、精巧に作られた、さまざまな出土品は、技術のすばらしさを伝えています。大洞文化の影響は、北海道・渡島半島から近畿地方・琵琶湖周辺にまで及びました。その終わりごろ、西日本では弥生時代にはいり稲作が始まりましたが、東北地方では豊かな自然の中で狩りや採集の暮らしが続けられました。そこに、大洞文化の力強さが感じられます。 縄文時代の最後をかざるにふさわしく、美しく、力強い、もっとも完成された縄文文化といえるでしょう。」
 やわらかい輪郭線で立つ前期の土器〈図〉。胴のふくらみ、口辺に波うつ曲線、側面をやさしく包む線描。全体をこうも見事に調和させたのは何者か。口辺の突起には穴があるが浅くへこませるだけにとどめている。胴の文様は、おそらく4回繰り返される。交差する線条は容器のふくらみを強調する。その交点には円を置き、口辺の下にも3つのボタンをさげる。首の下にW型に吊られるモール。これらはほどよく抑制された華やかさとでもいおうか。この土器の下部は失われていて補っているらしい。形として優れた補い方だと思う。こうした形はほかにも多くの例があるのだろうか。
 これも華麗な線刻の口の広い深鉢〈図〉。今の感覚ではあまりにも台が細い。これはたぶん、平らな場所にいつまでも長く置く必要がなかったからだろう。文様を上半分に限っている。それでもまだ、口辺近くの刻みは余分のような気がする。口辺は部分的に補われているので確かではないが小さい突起が2つ組になって4箇所あるように思う。同心円やその弧でできた波紋のデザインは、その4箇所の突起の下で繰り返される。
 渦巻き模様の皿〈図〉。向こう側が見にくく不確かな部分があるが、どうやらここには二種類の渦巻きがある。一つは皿の底に接するもので二箇所。もう一つは口辺に接するもので二つ並んで二箇所。それらが皿の中心で点対称となっている。模様はかなり形式的になっていて、渦巻きの流れをたどるのは少しむずかしい。それでも、部分は押し付けられた縄文の有無によって区別されている。あいだに置かれた「三つ又」は渦巻きの外側を走る線をかたちづくる名残のようだ。本来の渦巻きはもっと躍動的なものだったのだろう。この容器が制作されたときにも、その躍動感はまだ作り手の脳裏に伝えられていたのだろうか。
 「大洞文化」説明パネルのそばに晩期の土器がたくさん展示されている。その中にほとんど文様の描かれない壺がある〈図〉。大洞式土器の説明よりもこの文様の少ないことの方が気にかかる。首を飾るひもや口辺のわずかなそり、内側にわざわざ刻んだ溝は明らかに縄文のデザインだ。器形の整った単純さとともに、意に添わない凹凸を決して許さない肌や輪郭線には驚く。これも、縄文の行き着く先の一つだったのか。棚には「この仲間」のいくつかが並ぶ〈図〉。なかには浅く付けられた縄文や波線がわずかに浮かぶものもある。その控えめな表現は器の肌や輪郭線の緊張感が崩れることをおそれているようにも見える。おそらくこの激しい表情がやはり文様は少ないが常におだやかな表情の弥生土器との大きな違いなのだ。
 ついで陸前高田市立博物館へ向かう。隣の広田湾へ出るには、もう一つの半島の根本を横切る。ときどき雨が激しく降ってきて見通しが悪く何度か右左折に失敗する。博物館は市の中心部にあった。
 「おどろき昆虫展―擬態昆虫の世界―」というパンフレットをもらう。立派な突起を乗せた大きな縄文土器がガラスケースに入っている。少し窮屈そうだ。ガラス棚には後期や晩期の壺がたくさん並ぶ。受付で写真撮影の許可を依頼する。撮影を認めてくれた学芸員さんの話を聞く。スケッチを掲載する際の事前連絡を約束した。
 たがを締めた桶のような深鉢〈図〉。そのような木製の桶があったはずはない。しかし、大きく割れた深鉢を竹か縄で締めてもう一度使うことはあったかもしれない。それにしてもこの姿は、まだついこの間まで使われていた底の深い桶によく似ている。
 胴の丸くふくらんだ広口の鉢〈図〉。この形は大船渡でも前期や中期のものをいくつか見た。このあたりで長く続けられた形なのだ。下に円筒形の台、ふくらんだ胴の上には大きく広がる口。この土器ではその形式がよく整って示されている。もう一つ目を引くのは口辺にある突起の形だ。この突起はただ乗っているように見える。あるいはただ跨っているように見える。ふつうの縄文の突起のように口辺から巻きあがったり、内から流れ出たり、外からいつの間にかくねり込むということがない。四角を押しつけて重ねた段も珍しい。
 時間が気になって外へ出る。昆虫展は見なかった。宮城県に入り古川へ向かう。


9月7日(土) くもり時々雨
 今日の目的地仙台市方面とは反対方向だが、まず、一迫町の山王考古館を見る。9時半にちょうど着いたが、公園入り口にある売店の女性に建物の場所を聞くと「ああ、山王考古館ですね。ここの公園の中に入ったすぐなんですけど、このごろは閉まっているんです。あやめ祭りの頃は開いてましたけれどね。この先の埋蔵文化財センターの人に開けてもらえばいいんですよ。」「そこはどう行くんでしょう。」彼女はわざわざ表に一緒に出て行って指さして教えてくれる。「あの赤い橋を渡るとすぐ右手です。」
 埋蔵文化財センターはまだ新しい建物で、中の展示室を公開している。山王遺跡では、「あんぎん」と云われる織物とほとんど同じものが出土したという。展示では、縄文人が麻のような布でできた服を着て何人か立っている。「ここはまだ新しいんですね。いつできたんでしょう。」「ええ。平成10年にできたんです。」新しいパネルで山王囲遺跡の紹介文と平面図が示される。縄文時代の終わりから弥生時代のはじめにかけて営まれた集落遺跡。平面図には「体育館跡地」と記された部分がある。ここはもともと学校の敷地であったらしい。余裕たっぷりに広い土地が確保されている。「遺跡は…迫川によって形成された沖積地の自然堤防上に位置している。」「縄文時代晩期には、…人々は微高地と湿地が入り組む環境で生活していた。」「貴重な遺物が多量に出土した泥炭層も、このとき形成されたと考えられる。」
 壁面にはたくさんの小さい棚がそれぞれ必要な高さで取り付けられ、そこに一つか二つの土器が乗せられる。弥生時代前期と表示された土器〈図〉。底の部分には白い小さな物が挟んである。底は、欠けたのかこれが元々の形なのか平らではないらしい。もしこのままなら、平面に置いて使うことはできない。口辺の突起は同じ厚みで切り取られたように立つ。縄文の流動感は消えている。
 ここの展示を見ているうちに、係りの人が考古館を開けに行ってくれた。山王考古感は公園のなかの林に囲まれている。雨が降っているが、ドアの前には何本かの柱を立てて屋根が架けてある。これは昔の学校の入り口によくあったものだ。泥炭層が堆積した様子を図に表した大きなパネル「泥炭層と土器の出土状況」。第3層と第4層は弥生時代。第5層から下が縄文時代だろうか。右に示す土器の写真からするとそうらしい。
 明るく見やすい台の上に台付鉢形土器〈図〉。これはパネルの写真にもあって第7層出土とある。土器には大洞C2式と表示される。これまでもよく見たことのある晩期の土器だ。 少し堅い感じはするがすべてに十分な注意が払われた丁寧な造りだ。各部分の特徴もはっきりしている。側面の波模様は水平と斜めの線が強調されてZ字形の繰り返しのようでもある。しかし、実際にたどってみると正しい繰り返しではない。その上で巻かれている輪はいかにもこのころの縄文らしさがある。この、横に連なる棒の両端を丸くふくらませる形に何を感じていたのだろう。ここから丸みのある斜面で容器の口を内側にすぼめる。上に立つ低い峰の輪はやや外に反る。峰は細かくえぐり取ったように細工される。これらの3つの輪から引き出されるように立ち上がるひときわ高い突起は、他の控えめに押さえられた表現のなかでやはり異様だ。下から見上げると男性器を連想する。だが、横や上から見ると決してそれではない。普段は高いところに置いてあったのかもしれない。この器の底には座りの良さそうな台が付いていて、長期間にわたって平面に置かれたもののようだ。ほかにも姿かたちがこれとほとんど同じものが別のガラスケースの中にある。しかし、そちらは細部も全体も緊張感がまるでちがう。同じかたちというだけのものだ。これは、ある同じ目的をもって広く行われたかたちなのだ。
 斜め下から光を当てられた土器たちの棚がある。蛍光灯は器の間近にあって、まるで舞台俳優がフットライトを浴びているようだ。縦穴住居の入り口から差し込む光は、もっとほの暗くだが棚に置かれた土器をこんな角度で照らしたかもしれない。炉の炎もそこかしこに置かれた容器をわずかに浮かび上がらせただろう。しかし、その感じを表そうとするには明かりが強すぎる。いま、展示物をもっとよく見たいと思うと上や横の面が暗い。おまけに、正面から見ようとすると照明具のカバーに隠されて土器の底の形がわからない。その一つ〈図〉。「壺型土器 大洞C2式」と表示する。ここでも、作り手はかたちの完璧さを徹底して求めている。彼にとって不要な凹凸を残さないことは非常に大事なことだったのだ。そこでいまここに、厳しい輪郭線と均一な表面の肌がある。文様の波線は比較的なめらかに流れる。いつものように同じかたちや組み合わせを探してみるが、よくわからない。似ているようでも違うところもある。この曖昧さは器の完全なかたちから見ても不思議だ。何か理由があるに違いない。もう一つの不思議は口辺にある。口辺には一つだけ出っ張りがある。この突起は全体の大きさから見て極端に控えめだ。こんなにわずかな出っ張りでもどうしてもここに必要であるらしい。同じく痕跡のように見せているのは、口辺の外を取り巻く溝の凹凸。この凹凸は必要なところに必要なだけあるのだ。突起も溝も決してなめらかにしてはならない。
 大洞A式と表示された壺型土器〈図〉。この寸詰まりの花瓶のようなものでも壺と呼ぶ。口辺が少し内側を向いた浅い筒で輪郭線としては素っ気ない。口辺のすぐ下から胴全体に展開する文様は重厚な表情。こんな側面の文様はほかにもあるのだろうか。側面のすべてを文様で覆うということは縄文ではよくあることだ。それが晩期にもあったのだ。だが、これは晩期以前によくある、面を区画したり線を張り巡らせたりしてすべてを埋め尽くすというのとは違う。これは側面に大きく広げられた構築物とでもいおうか。容器の反対側でどうなっているかはわからない。幾重にも重なったひも状の線は順にたどることができるのか。この前面では2本の斜めの道が両側をつないでいる。上の方では道の途中に不規則にへこみがあって、それも構成上の何かを表しているのだろう。この文様の表現に長い時間をかけて取り組んだ人物は、これらの仕組みが何だったのか少しは知っていたにちがいない。
 これは弥生土器〈図〉。山王V層式高坏形土器と表示される。杯の輪郭はおだやかなふくらみを腰のくびれでやわらかく絞って台に続く。口辺の波がそれに調和する。側面で幾層にも刻まれた線はゆるく波うってときにはかさなる。西日本のかたく無表情な弥生土器とはたいそうちがう。小粒の果物などを盛りつけてみたい。
 晩期の浅鉢がたくさんあって、いろいろな展示方法を試みている。丸い輪の台で持ち上げて見せるもの、透明な樹脂の箱に乗せて見せるもの、伏せて奥を高く支え斜めに見せるもの。いずれも肝腎の文様は十分には見えない。棚の隅に伏せられた皿は少し暗いが見下ろすことができる〈図〉。奥の部分以外は文様の線も明瞭に見ることができる。線で囲んだ中には縄文を付けて他と区別している。この部分が主となるかたちで、そこ以外は隙間なのだろうか。縄文の部分を追っていっても似た図形のくりかえしとか特別意味のありそうなかたちが浮かび上がるわけではない。しばらく見ていると、縄文の部分はただだらだらと続いていて、むしろ、隙間の方がまとまった形に見えてくる。描き手は、ここで、ただ線のうねりを楽しんでいたのだろうか。(図を180度回転させて見る〈図〉。当時、皿を手にとって裏の文様を見る場合に自然に見るのはこんなふうではないかと思う。こうして見ていると隙間の方がさらに独立した何かに見えてしまう。実物を手にとって順に回してすべてを見てみたいと思う。)
 外ではあいかわらず雨が降っている。遺跡公園の中を少し歩いてみたいと思ったが時間も気になってやめた。時刻は午前11時。
 (追記---平成15年8月)のちに当資料館へスケッチの掲載許可を申請した折、「山王囲遺跡では史跡の整備事業が開始され、竪穴住居の復元等を行っていて訪問時点とは様子が変わっている。」との連絡を得た。
 泉Icを出て多賀城市に入る。多賀城跡の周辺を走り回ってから、ようやく東北歴史民俗資料館の広い敷地に入った。立派な建物。駐車場から歩く距離も十分にある。縄文時代は展示コーナーが設けてある程度。大きなガラスケースの中はやや暗い。細かいところは見づらい。石巻市沼津貝塚出土の晩期の壺形土器。これは文様が鮮明で特に口縁の細かい凹凸の細工が見られておもしろい。となりには赤い大きな鉢がある。狩猟文土器のそばにはイノシシの姿がある。ここまで写実的な土器もあるのだ。縄文は目で見えるような姿かたちをなかなか描こうとしなかったが。弥生時代のコーナーに置かれた土器〈図〉。「青森県田舎館… 前1世紀」と表示されている。これは縄文ではあまり見られない幾何学的な文様だ。この土器は何に使うものだろうか。この形は、いつか甕棺の蓋で見たことがある。
 雨の中を七ヶ浜町へ向かう。途中、塩竃市の町中に入って駅周辺で行き先がわからなくなる。
 七ヶ浜町は、松島湾を東の奥松島に対して西から囲む半島の町だ。塩竃市や仙台市に近いせいか住宅地が多い。坂が多く、しかも思いがけない方向へ曲がり下り、曲がり上る。役場は休みで、そこから町立歴史資料館へ電話をして位置を聞いたがなかなか分かりにくい。「役場には当直の人がいるから直接聞いてみてください。」と建物の別の入り口を教えてくれる。入って「こんにちは」と声をかけると奥の方から人が「歴史資料館へ行かれる方ですね。」と急いで出てくる。歴史資料館から電話があったという。地図を見せてもらって外へ出た。眼鏡を置き忘れて取りに戻った。歴史資料館は、年数は経っているけれども落ち着いた雰囲気の造りだ。それぞれのコーナーごとに大きなパネルを架けて丁寧に説明している。「大木式土器について」によると、「(これは、)関東地方北部から東北地方一帯の、縄文時代前期より中期遺跡の年代をきめる、重要な編年資料となっています。」という。
 大木8b式と表示された土器の中の一つ〈図〉。これは、まるで投げ入れの花瓶のようだ。彼らはこれを何に使ったのだろう。文様の配置に規則性はほとんどない。ほぼ大きさのそろった渦巻きは右巻き左巻きともにある。それらは垂直に立った茎様のものや弧を描く蔓様のものから伸び出て、明らかに植物を連想させる。観る者は、その線の流れをただ見ているだけではなく指先で触れてたどってみたくなる。彫りの深い表現はあくまで自由で大胆、率直で明快だ。口辺は、そこだけ長いあいだ露出していてさまざまな災難にあったのだろうか細かく欠けている。このデザインの大部分が復元されたのは幸いだ。
 そのとなりに置かれた注口土器〈図〉。なぜかこの容器は粘土の厚みをあまり感じさせない。かたちをつくる面が特に乱れることもなく安定しているためか、あるいは表面に浮き出る細いひものせいか。ひもは、容器の表面や突起のあたりを少し遠慮がちに、しかし、いかにも縄文らしい表情でめぐり這う。やや無様に見える注ぎ口は短いが容器の上まで出ていて、このかたちなら液体を保ち注ぐという本来の用を足すことができる。この仲間としてはまだまともな容器だ。土瓶のように取っ手を付けるとしたらちょうどよい二箇所に穴がある。ほとんどそれ以外には考えられない穴だ。
 大木9式と表示された土器の中の一つ〈図〉。この土器は補修された部分が多いけれども、かたちも装飾も華やかなものだ。ふくらんだ側面にはたくさんの渦巻きが広がり、上に伸びたものは波形にひらいた口辺間際にまで達している。模様の構成にあたっては、この容器のかたちをできる限り利用したのだ。もしかすると、この模様を十分豊かに描くためにこの容器のかたちを選んだのかもしれない。また、線の流れ方や分岐のしかた、幅の変化などには型にはまらない独自の雰囲気がある。これを曖昧な行き当たりばったりの所作と見てはならないと思う。模様の続きが失われたり表面が削り取られたように見えるのがまことに残念だ。
 これは繰り返し文様を刻んだ晩期の深鉢〈図〉。模様は、互いに引っかけ合うかたちで横に続いていく。おそらく、もともと複雑に曲がりくねった雲形だったものが極端に簡単なかたちへと変化したのだ。このためにどんな経過があったのだろうか。単純化も、縄文土器の絶えず見られる特徴のようだ。
 仙台の博物館は残念なことに時間がなくなった。暗くなって山形県に入る。


9月8日(日) 晴れ
 午後は猪苗代へ南下することを考えて順序を県立博物館から、長井市、高畠町へとした。山形市は中心の文化公園に各施設が集まっているようだ。県立博物館へ行こうとしてもナビが示すゴールには近づくことができない。柵があったり、右折ができなかったりして公園内になかなか入れないのだ。多分、一カ所だけ用意された公園入り口を見つけるのにぼく自身が手間取っているのだろう。館内では、ボランテアの解説員さんがいろいろ相手をしてくれる。山形と諏訪の縄文ビーナスのこと、山形のは現在貸し出し中で、会津の福島美術館へ行くと見られること、壊れもしないで出土した漆塗りの美しい土器のこと、これは複製だが本物は高畠町にあること、米の粉で作られる色鮮やかな正月飾りのこと。
 口の縁まわりで細工がおもしろい土器〈図〉。これは何かの模様が圧縮されているのだろうか。この狭い幅の中で、わずかだが確実にうねり、巻き、流れる。どうでもこうでなければならないとでもいうように。互いに重なったり、下から流れ出したりする様子はいかにも縄文の意匠だ。容器の形は十分に実用的なのだが、こんなところに深く細い溝が幾筋も付けられていては煮炊きに使ったあとで洗うのが大変だろう。
 となりにも外形がよく似た容器が並ぶ。こちらは、巻いた筒のようなのを上に4つ乗せている〈図〉。口のまわりを飾る模様は細部までくっきりと浮かび上がって精巧なものだ。だいたい同じかたちが4回繰り返される。筒と筒の間にも渦巻きが一つ描かれ両側から伸びる蔓でつながる。この中間に置かれた渦巻きからもう1本の蔓が出て右側の筒に向かう。これは粘りけのある液体から伸び出るように描かれる。こうして隣り合う図形が連なっていく。構成要素ははっきりしていて曖昧な部分はない。筒の実用性はほとんど考えられない。容器の側面には浅い線条の流れが大きく伸び、曲がる。これには補修の際のひび割れがたくさん重なっていて全体の様子がよくわからない。筒だけが表情として突出しているが容器全体の印象はすっきりしている。
 かつての華麗な装飾を偲ばせる土器〈図〉。この土器もひび割れが無数に走る。出土後の接合作業は大変だっただろう。筒状の上部から胴にかけて描かれる模様は豪華な襟飾りのように見える。首のすぐ下に置かれた帯はわずかに厚みを見せて上下を隔てる。上と下の手の込んだ模様のあいだに無地の面を置く。この思いつきはこころにくいほど効果的だ。弧に囲まれた大きな面にも、いまは無惨にひび割れの溝を刻むが元々は何も描かれていない。このおだやかな曲面はそのために胴のやわらかいふくらみをいっそう感じさせる。胴の下半分は表面が荒れていてわかりにくいが弧の模様が線対称として描かれているのかもしれない。彼らは容器の全面を使って何事かを表している。襟飾りを連想するのは我々の勝手にすぎないのだろう。
 「長井市古代の丘資料館」を見る。ここでもナビは全然別のところをゴールに示した。街道に面してコンビニ風の商店がある。店に入って聞くと、主人が奥から呼ばれて出てきてわかりやすく教えてくれる。資料館は呼称どおり丘の上に上がって行くとあった。館内の観覧は無料で写真撮影も特別な制限はないという。グリーンのスチール棚がたくさん並んだ明るい部屋がある。ここは収蔵庫を兼ねているのだろうか。壁に沿って立つ棚の土器はたいへん見やすい。土器は見上げるような位置に置いてないし、棚の前にはロープが一本ゆるく渡してあるだけなのだ。なによりもガラス越しではないのがいい。口辺の凹凸が荒々しく開く土器〈図〉。この土器は出土した部分がほとんど口辺部のみだったらしい。容器の外形はほとんど石膏で補われる。突部の表面は徐々にすり減ったように見える。人が持ち運ぶことが多くていつも何かにこすられていたか、長く水の流れの中にあったか、いつまでも砂粒の吹き付ける空間に露出していたか。それでも細い溝が至る所うねり回る。巻いた円が穴を見せ、隣へ通るトンネルをつくる。平面らしいものや規則的な繰り返しはどこにもない。立体が自由気ままに行き交うのだ。どんな道具を使うとこんなにも入り組んだ細工ができるのか。
 展示室はやや暗い。ほの暗い住居の中を想定しているのだろうか。これらの容器も、昼間、明るい木陰や陽光の降り注ぐ戸口で目にすることも多かっただろうに。
 側面を見ると「そろばん玉」のように鋭い直線を見せる鉢〈図〉。そろばん玉とちがうところは下が上よりも深いところだ。上の斜面には文様がくっきりと見える。まわりを4区画に仕切ったらしく、その中に記号めいた図が描かれる。どの区画の図も一部失われていて全体を見せていないが、図は区画ごとに違うもののようだ。それぞれ四つの具体的な物とか場面とかを簡略に描いたのだろうか。ここでも、線はどこまでもつながってかたちを描いていく。
 曲がりくねった単純な線が連続する紋様の土器がいくつもある。一つ一つの土器の、この紋様の線を追って角度を変えては何枚も写真を撮る。
 胴の下でゆるく絞った鉢〈図〉。文様は二つのかたちで表される。高く上り下りしながら胴をめぐる線が描くかたちと、その間に置かれたかたち。面は縄文によって区別されるが、すべてが閉じて独立した面というわけでもない。そこは、曲がる線に囲まれたので面がなんとなく浮かび上がったという風だ。外形や文様に鋭さはなく、すべてはゆるやかに流れおだやかに包み込まれる。
 こちらのデザインはもっとはっきりしたものだ〈図〉。波線を境に側面の上下を使い分け、大まかなU字形を波の間に配する。U字形には中に点のあるものや斜めに傾いたものなどの変化がある。ここには二本の同じ幅の線が目に付く。U字形をつくる二本線、U字形と波のつくる二本線。まるで極端に狭い幅をさけているように幅をそろえている。こうした簡潔な文様を見ると、何か複雑な想いを表そうとしているよりも容器を飾る意図の方が勝っているように思われる。
 表現自体は大まかな中に独特の風格を持った土器〈図〉。手首を合わせた両掌を上に開いて受けるような外形、波打つ口辺、向かい合う文様のかたち。すべてがおおらかである。ここではすべての曲線が何の迷いもなく調和する。
 太い線が踊り回るような二つの土器〈図〉。文様の線は同じだが構成はまるで違う。向かって左の土器は補修部分が多くて線の流れは想像を働かせるしかない。線の流れをなんとかたどってみる。これは、容器の側面いっぱいに大きく広がっているものなのかもしれない。それに比べて右の土器の文様は分かりやすい。右下から巻き込んだ太い線が先端を丸くして止められる。似たかたちが枝分かれしたり短いつなぎを介したりして連なっていく。連続模様ならば、裏側にも何個描かれているか見当を付けさえすればよい。左の土器の見えない背後の様子を知りたい。
 高畠町の「うきたむ風土記の丘資料館」は県立資料館だ。ここでも漆塗りの土器は複製に置き換えられている。側に出土時のカラー写真が展示されている。描かれた黒い線も鮮明に見ることができる。その部分をレプリカで探しても見つからない。同じようなのがいくつも出たのだろうか。
 足元へ胴を細めて立つ土器〈図〉。口辺部の突起は、図では一つ隠れているが全部で四つある。突起の間に垂れる弧は胴の側面を描く曲線に調和する。突起を含む上の部分のかたちは、大きく誇張されたものをこれまでもしばしば見てきたが、ここでは小さく控えめにまとめて全体との平衡を得ている。側面の文様はおそらく4回繰り返される。描線はよく整理されて優雅に器を包む。少し前に華奢な美人だったおばさん。
 口辺部を外へ張り出す鉢〈図〉。この口辺部を両手でつかんだのだろうか。文様で飾っているのは口辺部だけらしい。これだけの面積のなかで、四つの穴を開け、線を流し、渦巻きを描いている。
 珍しい形の土器がある〈図〉。縄文には少ない単純化された外形。付け加えた余分な突起も流れる線も渦巻きもない。口辺は胴の上でやや広がって立つ。その周囲にごく浅く描かれた模様をかすかに見ることができる。作り手にとってここは重要な部分であったらしい。全体の姿は頭でっかちだが、下の方をこれ以上ふくらませても あまりよいかたちにはなりそうにない。
 この土器の下の方はどこが出土部分なのかよく分からない。形としては大事なことなので確かめたいと思って受付に戻る。「あいにく今日は学芸員が不在なものですから。」と、この答えは得られない。漆塗りの土器は今月の初めから福井の若狭に貸し出されているという。「こちらの資料館ができたときなどに若狭の博物館からもたくさん借りているんです。」「ずいぶん遠くにも出されるんですね。」「ええ。外国にも貸し出します。」
 県境の長いトンネルを通って福島県に入る。この道を去年の今頃はガソリン切れを心配しながら反対方向の米沢に向かって走っていた。喜多方市に入る。去年、昼食をとったラーメン店はもう店を閉めている。市の南でお祭りの行列を見た。はじめ、大勢の人だかりのように見えて、そばに警察のパトカーもいるのでこれはてっきり大きな事故があったのだと思った。行列では、みんなで大きな山車を二本の綱で引いて行く。パトカーが後尾に付きそう。磐梯山のふもとに来て夕方になった。急に雲が厚くなって暗くなり今にも降り出しそう。山はほとんど隠れている。猪苗代に近づくと起伏の多い曲がりくねった暗い道を車が何台もスピードを上げて走り過ぎる。道をよく知った地元の車が帰宅を急ぐのだ。


9月9日(月) 晴れ
 また月曜日になったので、今日はもっぱら新潟県に移動する日だ。国道252号線に入り北魚沼郡小出町を目指す。地図には沼田街道とある。道は只見川沿いに南下、やがて県境の只見町に至る。街道としては、ここで252号線と別れて東南に進み尾瀬沼の北に出る。尾瀬沼の南にも沼田街道があり群馬県片品村、利根村を経て沼田市に至る。現在、車では尾瀬沼を迂回する近道はないからそのまま沼田まで走ることはできない。只見町には電力会社のダム湖、田子倉湖がある。そこからいきなり山道は険しくなる。登っていくと小屋のような駅がある。只見駅。この山の中を何が走っている駅だろうか。いまさら馬のはずはないからトロッコか。このあたりの国道には、山側に沿ってときどきシェルトとかいった鉄骨やコンクリートで立ち上げた頑丈な覆いの屋根がある。新潟県に入るとますます頻繁にそれがある。トンネルではないので、そこを走る車はライトを点けるべきかスモールにするべきか迷っている。走行中の車はどのみちいつも発電しているのだから余分に点けてもたいして損はないのだけれども、どうしてもそのどちらも点けない車もいる。ハンドルを握りながらこのシェルトだかシェルドについて考える。主に雪降りための覆いであることは確かだ。コンクリートによるトンネルほどにも堅固な造りは、春先の雪崩による被害を想定しているのだろうか。おそらくそれは運がいいのだろうが雪崩でこの中に閉じこめられてしまったら、ただ救出を待つしかない。村に入ると、民家の建物に目がいく。外観は特に違わないけれども、その切り妻の両端三角は3本の支柱が3段の太い横木と共に組まれている。おそらく内部も上からの圧力に耐えようとふんだんに材を使っているだろう。雪を乗せて踏ん張るか、屋根の傾斜を鋭くして早めに雪を滑り落とすか。人通りのある通りに面した家では、表に屋根の急斜面があって背後の緩やかな大部分の屋根に雪は降り積もる。つまり、雪はもっぱら家の裏に落とされて溜める構造になっている。落とすときには人手がいる。その屋根の雪落としもたいへんだが、落とした雪の始末も考えなければならない。左手を1両編成の列車が走って来る。これはJR只見線なのだ。地図を見ると北魚沼郡小出町から会津若松までの区間、時刻表では小出町から只見町までの場合は1時間15分ほどの乗車時間だ。小出Ic近くに湯之谷村の日帰り温泉施設があった。サウナ・露天風呂・打たせ湯などがある。


9月10日(火) 晴れ
 小千谷市に出て長岡の新潟県立歴史博物館を目指す。電話案内で番号を聞いて直接電話をかける。国道8号線を長岡Icから西へ向かうとまもなく表示があるので左折して下さい。分かりやすいところです、という。時間は十分あるので国道404号線を北上する。前方の山、木立、民家は朝の明るい陽を浴びて鮮やかに輝く。小出町で見たのと同じ頑丈な造りの家がある。他の家々も屋根の傾斜を様々な角度に工夫している。街道の左手に川が流れている。川幅はそれほどではなく、集落に入ると向こう岸の川端にも民家が並ぶ。なかには屋根の大部分を片流れに川側に傾けた家がある。冬、あれはきっと雪の始末がいい。途中、8号線に出るために西に向かい、山道に入る。誰にも会わない。8号線に出て教えられた反対側から進むと確かに分かりやすく、まだ新しい標識で右折。地図にもない広い道路を進むとまもなく大きな建物が見えてくる。まだできたての博物館だ。立派な建物が必ずしも、と思いながら長い通路を入口に向かう。
 内容はたいへんよかった。常設展だけの場合は400円、特別展も含めると700円。「特別展は何をやっているんでしょう。」「今回は奥三面遺跡の出土品なんです。」「土器なんかもありますか。」「はい。土器もたくさん展示しています。」「写真は撮ってもいいですか。」「はい。どうぞ。今回は特別展の方も特に制限はございません。」
 本当にたくさんだった。それも縄文早期から晩期まで、広い展示室の片側に奥の方までずらりと並んでいる。それは上の方まで届いた大きなガラス越しだが、内部ははるかに明るく、照明が幅広く設けられているので自然な光だ。それで土器にも特に暗い陰はできない。「ほう。これはまた、ずいぶんたくさんですねえ。いったい、どれくらいの数でしょう。」と、展示室の隅に腰掛けている女性に聞いた。「ええ。今回はここに千点以上展示しています。これは全部、奥三面の方から貸し出されたものです。」「そちらでもどこかで展示しているんでしょうか。」「ええ。資料館があって展示されています。まだ、ここに出されている以外にもいっぱいあるんです。」「ほう。じゃあ、こちらの展示が終わっても、そちらへ行けば見ることができるんですね。」「そうですね。でも、建物の都合で全部展示しているとは限りませんが。」「ああ、そうでしょうね。これだけいっぺんに見られるのはここだけかもしれませんね。奥三面ってどこにあるんですか。」「朝日村というところです。奥三面は朝日村の一部なんですが、そこにダムができることになってその前に遺跡の発掘が行われたんです。」ああ、それはいつか新聞記事で見たことがある。大きく2面にわたる特集で、コピーを撮ったのを持っているはず。ダム建設の経緯と写真、地図も載っていてかなり詳しい記事だった。「写真を撮ってもいいそうですね。一通りゆっくり見てから撮らせて下さい。」「どうぞ。」
 かなり年輩の人たちが団体で入って来た。時々、話し声が聞こえてきて、それによるとどうやら、かつてこの遺跡の近くに住んでいた人達らしい。目の前の石や土器を見て、それがどこだかに転がっていたような話をしている。「そんなもんだとは思いもしなかったな。」と。
 昼近くなって、常設展示の建物の方へ行く。「縄文人の世界」という部屋では、展示された場面と観覧者との境界がない。数千年前に彼らが歩いた道、狩りや生活の場、子等の遊ぶ場が観覧者の通路でもある。復元された江戸や明治の路地を民家や商家の建物をのぞき込みながら訪問者が歩くのと同じだ。展示された人物など展示物のすぐそばに立つことができるという点でもっと徹底している。ここの住居復元は竪穴式ではない。屋根に上って茅葺きを修理している人物まで作ってある。別の展示室に入って「雪とくらし」の二階には、広い空間に雪の町を上から見下ろして「雪下ろしと雪かたづけ」の場面が再現される。あの大量の雪には何を使ったのだろうか。ほぼ等身大の人物、電柱、家屋。ようやく見終わって昼食の後、受付に行って長野へ出る途中に寄れそうな博物館、資料館について聞いてみた。受付の女性二人は少し相談して「係りの者を呼びますので少々お待ちください。どうぞ、あちらで掛けていてください。」といって電話を取る。休憩用のスツールに掛けて待っていると本や地図帳を持った男性がやって来て細かく丁寧にいろいろ教えてくれる。小千谷市に出て、信濃川沿いに117号線を進むと十日町市の博物館と津南町の歴史資料館があります、どちらもなかなかいいものがありますから是非見てくださいという。時間的に二つは無理だと思ったので、十日町市の電話番号を調べてもらった。ついでに、縄文展示室の縦穴式住居について聞いてみた。竪穴式住居も入り口のところに復元展示していること、最近は地面に建てられた住居も考えられていること、今まで少なかったのは住居址として残りにくく確認が困難なこともある、など話を聞く。なるほどと、たいへんおもしろい。
 十日町市は、川に沿った街道の町だ。西に川幅を広げた信濃川が流れ、東にはすでに山が迫っている。街道から左手に入ると民家に挟まれた細い道は曲がりくねって高台へ向かう。また、行き先を間違えているようで、博物館に電話をする。ここは、やはり反対側だ。降りていって国道と鉄道を越えるのだ。目指す建物がありそうなところまで行くと情報データセンターとかいう施設がある。自分で探して時間を無駄にしたくないのでそこへ飛び込む。中を事務室らしいところまで入っていって道を尋ねる。男の職員が「博物館ならここから見えるあの建物です。回っていけば出られます。」と離れた窓越しに指さす。早速そこへと出口に向かうと、後ろから女の人が追いかけてきて、「車でいらっしゃったんですか。それじゃ、外まで行かなくて車で駐車場をそのまま通って回ってください。」とわざわざ教えてくれる。僕はよっぽどあわてているように見えるのだ。十日町市立博物館のパンフレットには「火炎の都・十日町 雪と織物と信濃川」と掲げられる。あの火炎土器と雪とはどこかでつながるのだろうか。展示は個別棚方式。壁面に区画された棚の中に貴重な土器が一つずつ大切に収まっている。比較的近い位置にあるのだから見やすいが、光量不足、視野角不足。明るくして各ボタンで見たいときに回転させたらどうかと思う。出てくると4時半をまわっていた。これから諏訪は無理だろう。今日は長野の近くにしよう。


9月11日(水) 晴れ時々曇り
 松本市に入って、これまでの経験から渋滞を避ける。国道19号線から県道63号線に移動する。ナビの画面を見ていると博物館の表示がある。まだ午前10時だから時間は十分にある。表示に従って右手の道に折れるとすぐ建物が見えてくる。正面玄関に出ると、すぐわきで焚き火をしている。こちらには駐車場がないようだ。奥へまわると公民館のような建物があってそこに車を止める。撮影許可願いを書いて写真を撮る。館内に入ると左手に「縄文時代」と大きく表示された展示ケースがある。縄文中期のいずれも特徴のある土器が並ぶ。<図>は、柔らかい簡素な外形。よくまとまったしゃれたデザインだと思う。別のコーナーに大小の耳飾りがたくさん展示されている。見下ろすことのできる平たく幅広いガラスケースの中に隙間なくぎっしりと並ぶ。その上のパネルに「…この耳飾りはピアスのように耳たぶに穴をあけ、はめこんで使います。人生の節目の儀礼として、はじめは小さいものから次第に大きなものに取り替えていったようです。多様な耳飾りが何を物語るのか、解明はこれからです。」とある。こうして、あらゆる大きさの耳飾りを見渡すように見せられるとパネルの説明にも説得力がある。耳飾りと称する小さな土器はこれまでもたくさん見てきた。中には鎌倉彫もこんなだよ、といいたくなるものもあって、その装飾的立体表現はかくも遠いむかしからすでにあったのだと思ったりする。展示の中にそれほど大きくはないが中央に束ねたようなデザインのものがある<図>。具体物のあまり現れない表現の中に、思わず浮かび上がってしまったという感じだ。物体の重なり表現を多く用いる縄文時代には、おそらく、ごく自然なことだったのだ。定光寺、勝川を経て夕刻自宅に。



             ** メモ **

*1 今回は、これまでになく土器の写真をいっぱい撮ったけれども、いまだに(11月26日)1点もスケッチにできていない。今日ようやく関東の最後の一点を描き上げた。これから「関東へ」の本文の仕上げに取りかかる。そのあと、この分の博物館への依頼が終われば東北の土器のスケッチに入ることができる。


*2 ある原色植物図鑑を開くと、「ききょう目、きく科、アキノノゲシ属、エゾムラサキニガナ」というのが載っている。この植物の姿が一番よく似ている。エゾムラサキニガナは、ユーラシア大陸の温帯北部から亜寒帯に分布し、北海道の草原に生える多年草だという。


*3 「ウツクシマツ」についての新聞記事を見た(11月20日中日新聞朝刊「通風筒」)。滋賀県甲西町では現在もウツクシマツを大切に保存しているらしい。記事では、アカマツとの交配について滋賀県森林センターがまとめた研究結果について紹介している。それによるとウツクシマツの形は劣性遺伝をする。交配を重ねると孫世代で四分の一がウツクシマツの形になる。大型樹木で、メンデルの法則がきれいに成立する劣性遺伝の確認例は少ないという。


*4 かたちに大きな関心を持ちながら縄文の造形は全くの抽象へ向かうことはなかった。これは他の古代の造形に見られない縄文の特徴だ。文化の段階としてどのような位置を占めるのだろうか。または、段階ではなくある状況としてみるべきなのか。02-12-28


*5 縄文の形にはほとんど全てがあるが、弥生にその広大な範囲はない。ろくろ成形は形を限定する。弥生にろくろはないが、ろくろではない何かがその代わりに機能したのだろうか。03-01-30


*6 今日、青森県立郷土館で撮影した土器の写真を調べていて、図録「考古」にある土器がほとんど見あたらないことに気づいた。この図録は風韻堂コレクションというのが大部分だ。それで、郷土館のホームぺページを見てみると、そのコレクションのためには1階に特別室があるのだ。あの日は時間があまりなくて2階の第1展示室だけを見たのだった。東北には仙台の博物館も残っているし各地の資料館もまだまだたくさんあるようだから何とかもう一度行かなくてはならない。03-02-14


*7 文様の対称性。注口土器の正面性。03-03-17


*8 具象的な表現について 03-03-17


*9 大洞式土器とか、大木式土器とか示されてもぼくにはあまり意味がない。これから、物理とか化学の方法で過去の時代は特定されるだろう。その方法はどこまで進むかわからないほど期待できる。これまで研究されてきた器形・文様の編年は、地域的な探求に生かされるだろう。 03-05-12